総会3
アジェンゼはエウラリカを視界に収めた瞬間、貼り付けたような笑みを浮かべた。エウラリカも負けじと嘘くさいほのかな笑顔で、「アジェンゼ……!」と弱気に呼びかける。と同時にカナンの表情が死んだ。
アジェンゼはわざとらしく眉根を寄せて、エウラリカに歩み寄る。
「エウラリカ様、何とお労しい……」
その言葉に主人を振り返ったカナンは、いつの間にか頬に手を当てて目を潤ませているエウラリカに目を剥いた。つい数秒前まで不敵な笑みを浮かべて悪態をついていた、いかにも辛辣な少女の面影とは似ても似つかない。
ぎょっとするカナンなどまるでいないかのように、アジェンゼはエウラリカに手を伸ばす。
「一部始終は見ておりました。アジェンゼはエウラリカ様の味方ですよ」
「ほんとう……? アジェンゼはわたしをぶたない?」
「ええ、もちろんです」
アジェンゼの手が、エウラリカの背に触れた。それを見た瞬間、カナンは咄嗟に息を飲んだ。エウラリカが今にもその手を振り払うのではないかと思ったのだ。
彼女が他者と身体的接触をする光景は、今までどうにも想像がつかなかった。いや、精神的なふれあいの方も想像もつかないのだが。
アジェンゼに背を撫でられ、エウラリカはしばらくの間、いかにも切なそうにすんすんと鼻を鳴らして泣いていた。その合間に手で追い払うような仕草をされ、カナンは気配を消して離れる。角を一つ曲がったところで壁により掛かり、ため息をつく。
(誰か来ないか見張ってろってことか?)
頭を掻いて、歩いてきた方向を振り返る。別に誰もいない。こちらには普段使われるような部屋はなく、立ち入る人もほとんどいないのである。カナンは少し眉を上げて、首を伸ばして二人の方を窺った。角の向こうではエウラリカとアジェンゼが並び立っている。
アジェンゼとエウラリカは身の丈がほとんど同じである。アジェンゼは小男で、その上比較的痩せている。向こうを向いていれば、見分けがつかない……は言い過ぎにせよ。
(似ているな、)
カナンは胸の内でそう呟いた。どちらも体型は似ており、しかも二人とも巻衣を身につけているので、頭を隠してしまえば案外分からないかも知れない。
カナンは角の向こうを覗き込んで、二人の後ろ姿を見やる。アジェンゼの手がエウラリカに触れた。エウラリカはその手を避けないが、あとで嫌そうな顔をするのは容易に想像がついた。
(あれだけ鬱陶しがっておきながら、よくまああんなに媚びを売れるというか何というか……)
カナンは呆れ果ててため息をつく。――そんな風に覗き見に興じていたから、背後からの気配に気づくのが遅れた。
「カナン」
「ひっ!」
突如として肩に手を置かれ、カナンはその場で飛び上がり、弾かれたように振り返った。
「こんなところで何を……」
のほほんとした表情で話しかけてきたのは、ウォルテール……将軍の方のウォルテールである。カナンは自らの口の前に人差し指を立てると、慌ててウォルテールを黙らせる。ウォルテールは怪訝そうな顔で口を閉じた。
(これは……どうするかな)
ウォルテールを、エウラリカとアジェンゼの逢瀬……話し合い? と鉢合わせにして良いはずがない。とはいえ、ここでウォルテールに『どっか行け』と言って追い返すのはあまりに不自然である。途方に暮れてカナンは立ち尽くす。
「――お兄さまのことなんて嫌いよ……!」
そんな矢先、エウラリカの嘘泣きが佳境に入ってきた。
(くそっ、あの女、感づいてるな)
よりによってこのタイミングで盛り上げてきた。狙い澄ましたかのようである。
見れば、ウォルテールは明らかに強ばった表情で、大きく目を見開いている。聞こえてくるのがエウラリカの声であることに気づいたのだろう。カナンはあたふたとウォルテールに合図を送るが、男は角の向こうに耳を傾けるのに必死で、まるで気づく様子がない。
エウラリカとアジェンゼは角の向こうで相変わらず会話を続けている。せめて覗き込まれるのは避けよう、とカナンはウォルテールを阻むように角に立つ。首だけを伸ばすと、そっと顔を覗かせて二人の様子を窺った。
「……ねえ、アジェンゼ。お兄さまに言っておいてくれる? エウラリカはとっても傷ついていて、とっても悲しいんだって」
エウラリカは涙に濡れた頬を手の甲で拭いながら、アジェンゼに向き直った。「こんなにひどいことをされたのは生まれて初めてよ。お兄さまにそれを伝えて欲しいの」
ぐずぐずと溶けた口調でエウラリカがアジェンゼに甘える。その右足が音もなく前へ置かれ、エウラリカの小柄な体がアジェンゼへ寄せられた。
「――そうしたら、わたし、きちんとおとうさまに言うわ、あのこと」
言わずもがな、それはアジェンゼが何度もエウラリカに迫っている『あのこと』――アジェンゼがエウラリカの後見人になる、という話だろう。毎度毎度『言って下さいましたか?』『あら、忘れちゃったわ』と馬鹿みたいなやり取りをしていたが、ついに皇帝へ進言してやる、と言いたいらしい。
アジェンゼは見るからに期待に満ちた目をしていた。エウラリカはくすりと笑みを漏らして、アジェンゼに向かって首を伸ばす。その唇が弧を描いた。
「……ね、アジェンゼ。お願い。お兄さまを叱ってあげて?」
アジェンゼが応えるように両腕を持ち上げる。まるでその背を抱こうとするようにアジェンゼは両手を広げた。
「できるでしょ? ねえ、だめ? わたしがお願いしてるのよ」
エウラリカが囁く、それは酷く蠱惑的な眼差しだった。アジェンゼに顔を寄せ、エウラリカが艶然と微笑む。二つの輪郭が触れ合ったように見えた。
アジェンゼの頬にエウラリカが一瞬だけ口づける。ただ一瞬のことである。瞬きをするよりも短い、刹那のこと。それなのに、その光景が、目に焼き付いて離れない。エウラリカはするりと音もなく離れる。男の腕は空を切った。王女が囁く。
「――だいすきよ、アジェンゼ」
その言葉を聞きながら、カナンは自分が酷く剣呑な目をしていることに気づいた。何にそんなに腹を立てているのか分からなかった。エウラリカがどこで誰と何をしようが、自分の知ったことではない。カナンはエウラリカを殺すためだけにここにいる。さしたる情もない。それなら、どうして……。
カナンが懊悩する後ろで、ウォルテールはおののいたような表情で身を退いた。咄嗟に目で追うが、彼は何かを口にすることなく、転げるようにして走り去る。何を見たのだ、と足下に目を下ろせば、そこにはエウラリカとアジェンゼの影がくっきりと伸びていた。
(見られたか)
ウォルテールはこの光景に何を思っただろう。カナンは無言でウォルテールの後ろ姿を見送った。
***
ぺっ、と、エウラリカが庭園の地面に唾を吐き捨てた。随分と行儀の悪い仕草である。
「気色悪い」
手の甲で唇をぐいと拭いながら、エウラリカは低い声で毒づいた。カナンは黙ったまま、その背後に佇む。
(それならあんな爺に口づけなんぞしなければ良いじゃないか)
そうは思うが、恐らくエウラリカにはエウラリカの『お考え』ってやつがあるのだろう。
エウラリカにはいささか潔癖のきらいがあった。というよりは、人間嫌いだろうか。
それが、いきなり祖父ほどに年の離れた男の頬に唇を押し当てたのだから。……カナンは驚きと呆れを禁じ得なかった。
(ほんと、よくやるよな)
そこまでやる必要があるのか、と訊くのは、おそらく愚問だろうが。
カナンは押し殺した声で問うた。
「……どうしてあんなことを?」
「ウォルテールが見ていたでしょう」
エウラリカは要領を得ないような返答を素っ気なく投げてくると、そのままさっさと歩き出す。カナンは緩やかな歩調でそれに応じた。
「どうしてウォルテール将軍が来たと?」
「声がしたもの。来るだろうと思っていたし」
これまたいまいちピンとこない答えだ。ひらりと片手をひらめかせてエウラリカが目線を遠くに投げる。僅かに伏せられた瞼の縁で睫毛が瞬いた。
「……どうしてウォルテール将軍が来たら、あのような行動に繋がるのですか」
「さっきからお前は『どうして』ばかりね。少しは自分で考えたらどうなの? 私はお前のママじゃないのよ」
エウラリカにぴしゃりと嫌味を投げつけられ、カナンは憮然として口をつぐんだ。……筋道立てて話をしないエウラリカが悪いのではないのか?
むすっと唇を引き結んだまま黙っていると、エウラリカは目を眇めた。
「何よ、その目は。私が悪いとでも言いたいわけ?」
「はい」
「……帰ったら折檻ね」
エウラリカは腕を組み、にこりともせずに告げた。その言葉にカナンは眉を上げる。
「……これから何かあるのですか?」
常ならば『お前の代わりはいくらでもいるのよ』くらいの嫌味を平然と言ってくるはずである。祖国の安全をちらつかせるのがエウラリカの常套手段であった。それが、今日は妙にお優しいではないか。
エウラリカは意外そうな顔で数秒カナンをじっと見つめてから、「ええ」と口角を上げる。
「準備は整ったわ。――今夜は寝かせないから覚悟しておきなさい」
随分と楽しそうな顔で、エウラリカはゆるりと目を細めた。カナンは一瞬首を傾げたが、それから「そうですか」と落ち着いた声音で応じる。平然とした反応に、エウラリカはつまらなそうに唇を尖らせ、それから「ええ」と頬にかかった髪を払って鼻を鳴らした。
「一緒に、楽しいお散歩に行きましょうか」




