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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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総会2



 皇帝を見送り、エウラリカが立ち上がる。ほとんど同時にラダームとその側近も腰を浮かせた。

 ラダームの後ろを歩くエウラリカは、兄と話をするつもりは全くないらしい。素知らぬ顔で壇を降りて行く。エウラリカの後ろにぴったり付き従って歩いていたカナンは、向けられる視線の数々に萎縮して首を竦めた。ここにいるのは帝国でも高位の存在ばかりである。

(悪目立ちするのは良くないな)

 そう思ってエウラリカとの距離を詰めた直後、突如として、体がふわりと浮いた。カナンは大きく目を見開く。


 ――足を引っかけられたのだ。誰の仕業か。そんなの考えるまでもない。


 無様に壇の縁を踏み外し、カナンは床に転げ落ちて倒れ込んだ。

(い……ってぇ)

 しこたま顔を打ち付けて、カナンは思わず呻いた。

(このクソ女、こんなところで嫌がらせをして恥をかかせなくたって……)

 内心で毒づきながら体を起こすと、頭上から「お前は誰だ」と厳しい声が降ってくる。ぎょっとして顔を上げれば、目の前にラダームがいるではないか。ひゅっと息が止まる。


「え、あ……」

 まさかこんな風にいきなり第一王子と対峙させられるだなんて、思ってもみなかった。動揺して声が出ない。

(名乗っちゃ駄目だ、)

 この男は、敗戦国の王族は全て抹消すべきとの意見を持っている将である。自分の出自は決して話してはならない。……だが、

(それでは、僕は自分で名乗るのか? ……この女の、奴隷を?)

 それはカナンの矜持を著しく傷つける振る舞いだった。そんなことは口が裂けても言いたくはない。


「誰だ、貴様」

 ラダームは更に険を含んだ声で詰問する。カナンが答えあぐねて言葉を探していると、不意に体の脇を白い布が通り過ぎた。エウラリカの巻衣、その裾である。襞が優美に垂れ、エウラリカの一挙一動のたびに揺らめいた。そうしてエウラリカは片手をひらりと薙いでカナンを指し示し、小首を傾げてみせた。


「わたしのペットなの。かわいいでしょう?」

 エウラリカがくすくすと笑う。立ち上がるタイミングを見失い、カナンは床に手をついたまま顔を伏せ、鼻に皺を寄せた。

「ペット?」

 ラダームが聞き返すと、エウラリカは「ええ」と機嫌よさげに肯定する。


「わたしのかわいいワンちゃん……あら、間違ったわ」

 エウラリカが自分を見下ろす気配がした。カナンは目を見開いたまま体を強ばらせる。

「動物扱いは嫌なのよね? そう――わたしの、奴隷よ」

 その瞬間、カナンは初めて『エウラリカ』を目の当たりにしたあのときのことを思い出した。


 家族や臣下の前で、顔面を足で蹴られ、無様に床に這いつくばった。王女は低い声で囁いた。……『お前に選択肢があるとでも思っているの?』

(くそ、)

 体が震える。それが、耐えがたい屈辱によるものなのか、それとも……畏怖によるものなのか。分からないまま、カナンは拳を強く握りしめた。



「奴隷? 側仕えではなく?」

 ラダームが苦り切った声で問うた。エウラリカは平然と「そのふたつの何が違うの?」などとしらばっくれている。

(よくやるよ)

 内心でぼやきつつ、カナンは床に手をついてゆっくりと立ち上がった。エウラリカは子どもの仕草のように、腰の後ろで両手の指を絡ませ、顎を上げて兄を見据えている。対するラダームは盛大に顔を顰めていた。

「何もかも違うだろう。王族ともあろう者が傍に奴隷を置くなど……。世話をする者が欲しいのなら他の人間を手配してやるから、その奴隷を連れ回すのはやめなさい。みっともない」

(まあ、そうだよな)

 カナンは遠い目をした。普通、奴隷というのは王族の身の回りに直接仕えるような存在ではない。高位の人間の側で世話をするようなのは、一般的に側仕えや側近、侍女の類である。それなりの出自が求められ、振る舞いにも訓練が必要な職だ。奴隷とは全然違う。


 ……そんなことをエウラリカが知らないはずがないのである。それなのに、エウラリカはカナンを初めは『愛玩動物』とし、次策で『奴隷』という肩書きを与えた。

 カナンにその理由は分からない。ただ、きっと……エウラリカにとって、カナンの肩書きはきっと何者であっても大した違いはないのだろうと、そう思った。カナンが人であっても動物であっても。……それが優しさなどというものではないことは、薄々分かっている。



 エウラリカは少しの間、黙って兄を見上げた。そして、突如として頬に涙を伝わせる。カナンは度肝を抜かれた。――馬鹿のふりだけでなく、嘘泣きまで?

(よくやるよ……)

 カナンが呆れ顔でため息をつく横で、エウラリカは目元を真っ赤にして顔を歪めた。

「ひどいわ、お兄さま。……わたしの、大切な子のことを、そんな風に言うなんて」

(また嘘ばっか)

 カナンはエウラリカに白い目を向ける。この女が、何かを大切にするという概念すら持ち合わせているかも怪しいものである。だいいち、カナンにはエウラリカに大切にされた記憶が全くない。

 目元を手の甲で拭ってぐすぐすと鼻を鳴らすエウラリカに、ラダームは嫌そうな顔をした。腰に手を当て、小さく舌打ちをする。


「泣いて済む問題ではないだろう、エウラリカ。そんな身元も知れない奴隷なんぞを側に置いて、恥をかくのはお前だけではないんだぞ」

 そうは言うが、身元が知れたら大問題である。カナンは思わず身を縮めた。

「どうしてそんなことを言うの?」

 エウラリカはラダームと対話する気が全くないらしい。あからさまに論点をずらしては、ひどいひどいと泣き立てる。ラダームが聞こえよがしに舌打ちをした。


「――ともかく、この奴隷は俺が預かっておく」

 ラダームに強く腕を掴み上げられ、カナンは痛みに息を飲んだ。「いやっ!」とエウラリカが叫ぶ。

「やだやだやだやだ! 何でそんなことを言うの!?」

 エウラリカは真っ赤な顔で地団駄を踏み、顔を歪めてラダームを睨みつけた。カナンはラダームに捕まったまま、思わず主人の正気を疑ってしまった。いや、分かっている。人前に出ているときのエウラリカは一から十まで偽りだ。本当の姿など一つもない。これも全部演技なのだ。

 ……そうと分かっていてもなお、エウラリカの振る舞いは周囲の人間をたじろがせるような狂気に満ちていた。


「お兄さまのいじわる……馬鹿っ!」

 そう叫んで、エウラリカは腰布に挟んでいた扇をラダームに投げつける。ラダームはカナンを掴んでいた手を離して扇を叩き落とすと、無言のままエウラリカを睨みつける。

 沈黙は押し潰すように重く、ラダームの威圧を真横でもろに受けたカナンは思わず息を止める。それでもエウラリカは幼稚な子どもの演技を崩すことなく、頬を膨らませて平然とラダームの視線を受け止めている。


 不意に、ラダームの手がカナンの腕を放した。カナンが顔を上げたときには、ラダームは一歩踏み出し、エウラリカに向かって片腕を振り上げていた。

「――いい加減にしろ、エウラリカ」

「きゃ……っ」

 ラダームの平手を受けて、エウラリカがその場に倒れ込む。傍目にも随分と痛そうである。ばちんと響いた音に、カナンは思わず首を竦めた。


「…………おにい、さま、」

 信じられない、と言いたげに、エウラリカが声を震わせる。恐る恐る頬に触れ、はらはらと涙をこぼす。部屋の中は静まりかえっていた。あまりにどうしようもない兄妹喧嘩を目の当たりにした官僚たちは、茫然自失として成り行きを見守っている。


 カナンは床に倒れ込んだエウラリカに手を伸ばす。エウラリカはその手を取らなかった。自分一人で立ち上がると、わっと泣きながら議場を走り去ってしまう。ばたん、と騒々しく扉が鳴った。

(僕だけ置いていくなよ!)

 内心で悪態をつきながら、カナンはその場に立ち尽くす。

(……とりあえず出るか)

 ちらとラダームを横目で見れば、第一王子は肩で息をして歯を食いしばっている。我を疑うように自らの手を見下ろしている様子からするに、どうやら本当に堪えきれずに叩いてしまったらしい。この行動に、彼自身が一番驚いている様子である。


「失礼致します」

 静かにそう告げると、カナンは足下に落ちた扇を拾い上げる。閉じかけの扉に歩み寄って手で止めると、振り返って一度だけ礼をした。

(ラダーム、か)

 強い視線を向けてくるラダームを、カナンは大した感慨もなく見返した。――祖国を嘲笑し、火を射かけてやりたかったなどと笑う男に払う礼儀は、持ち合わせていない。



 ***


 角を一つ曲がると、不機嫌そうに頬を押さえたエウラリカが、冷然とした眼差しを庭園に投げかけている。声をかけるより早くその視線がカナンを向いた。

「忘れ物ですよ」

「ありがとう」

 受け取った扇を、エウラリカが腰布に戻す。その為に頬から手が離され、頬が晒された。赤く腫れ上がった左頬に否応なしに目が吸い寄せられて、カナンは言葉に詰まって狼狽える。


「……厨房に行って、氷を貰ってきましょうか」

「いらないわ」

 エウラリカは素っ気なく答えると、手の甲を頬に押し当てながらため息をつく。ゆっくりと歩き出しながら、鋭い視線で足下を見据えた。

「そんなことより、問題はさっきの男よ。……あれが、デルギナの協力者なのね?」

 どうやら自分の負傷に関しては『そんなこと』で流してしまうらしい。それはともかく、エウラリカが言わんとしていることを察して、カナンは神妙な表情になる。

「あの男で間違いないはずです。ただ……ウォルテールと呼ばれていたのは、一体……」

 眉をひそめたカナンに、エウラリカは「あら」と小馬鹿にするような笑みを浮かべた。


「そのままよ。あの男は『ウォルテール』。随分と面白いことになってきたわね」

「しかし、それでは、……この城には、同じ名前の人間が二人いるということですか?」

 カナンが呟いた瞬間、エウラリカは「あら」とさもおかしげに笑ってから、心底呆れたように片頬をつり上げる。


「まさかお前、『ウォルテール』が名だとでも思っている? ジェスタでは(あざな)……家名で人を呼ぶ文化があまりないから勘違いしてしまったのかしら」

「名じゃない? 『ウォルテール』というのは家名だったんですか」

「ええ。帝国では血統がとみにものを言うから。社会に出れば、公的な場においては大抵は家名で呼ばれるわね」

 エウラリカは淀みなく答えた。『血統がものを言う』と、この帝国で頂点に立つ一族、その直系の一人娘が、いとも容易く言ってのけるのである。あまりにも平然とした顔なので、嫌味にすらならなかった。


 エウラリカは手を返して、今度は手の平を頬に押し当てた。少しでも冷たい面を当てたいらしい。

「お前の知っているあの将軍は、ロウダン・ウォルテール。ウォルテール家の三男よ」

「それでは、あの男は?」

 問うと、エウラリカは一瞬だけ周囲に目を走らせ、それから低い声で囁く。


「――ルージェン・ウォルテール」

(ルージェン、)

 カナンは胸の内でその名前を反芻した。エウラリカは腕組みをしたまま、視線をつと持ち上げる。


「ウォルテール家の長男で、そこそこ上級の官僚よ。以前は西の方に逗留していたけど、また戻ってきたみたいね」

「いやに詳しいですね」

「まあね」

 エウラリカはさしたる感慨もなく頷くと、するりと手を下ろす。ふと、エウラリカが踊るように床を踏み、体を反転させた。足首の輪飾りが、しゃん、と音を立てる。長い髪が弧を描いてたなびいた。


「とはいえ、ルージェンに関しては、またおいおい。まず片付けるべきはあの男よ――」

 人差し指を音もなく唇に押し当て、エウラリカが密やかに嗤った。

「そろそろ鬱陶しいのよね」

 エウラリカが囁いた直後、角を曲がって一人の男が姿を現す。そこにいたのは大臣――アジェンゼだった。




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