総会1
ラダームが帰還して半月ほど経った頃、宮殿では総会に向けての準備が着々と進んでいた。教育係に関する云々は、どうやら話には出ているものの、まだ実現には至らないらしい。恐らく今後もないだろう。
……具体的に言えば、皇帝の了承が得られないのである。その背後にエウラリカの意志が絡んでいることは疑いようもない。エウラリカが嫌だとごねれば、皇帝は決して許可を出すことはないだろうから。
ラダームとの関わりは全くない。数度、エウラリカの下を訪ねてきたことがあったが、毎度エウラリカはそれを無視した。扉の向こうではラダームが苛立ちも露わに舌打ちをしていた。おろおろするのはカナンばかりである。
そうして、総会の日が訪れる。参加すれば、エウラリカは嫌でもラダームと顔を合わせることになるはずである。鏡の前で髪を梳いているエウラリカの背に向かって、カナンは短く問いかけた。
「総会には出られるので?」
「出るわよ」
「……僕も?」
「ええ。目を剥いて何から何まで見ておきなさい」
エウラリカは楽しげな笑みで、「行きましょう」と立ち上がった。
会場は城の奥にある大議場。上から見ると円の形をした議場には、弧を描くように席が並ぶ。部屋自体は緩やかなすり鉢状になっており、どの席からも中央が見えるようになっていた。
エウラリカはわざとらしい不満顔で、まだ人のまばらな大議場に足を踏み入れる。部屋を出るまではあんなにわくわくと目を輝かせていたのに、今はいかにも退屈そうな顔である。時折大きなため息までついてみせる白々しさに、カナンは半目になった。
(ウォルテール、)
左の最前列に見覚えのある顔を見つけて、カナンは僅かに眉を上げる。会釈のひとつでもしようと思ったけれど、今の自分はただの奴隷である。自分が挨拶をすることでウォルテールの評判に支障でもあったらことだ。目を伏せたままエウラリカに従って会場を横切る。しばらくして、ウォルテールはその場で伸びをして立ち上がり、扉から外へ出ていった。
それを見送って、カナンは小さく嘆息する。目の前ではエウラリカが退屈そうに頬杖をついているし、やることもない。迂闊に身動きすることもできない。端的に言えば暇である。エウラリカはのんびりと首を反らして天窓の向こうを眺めている。何を見ているのかと視線を追えば、どうやら天窓の近くに鳥の巣があるらしい。
(小さいな)
二羽の小鳥が巣を離れたり戻ってきたりしている。鳴き声は聞こえてこないが、近くまで行けば高い声が鳴いているのが聞こえるだろうか。
何より驚くべきは、エウラリカがそんな様子を眺めているという事実である。まさかこの女に、鳥を眺めて暇を潰すという発想があるとは思わなかった。
「……鳥がお好きで?」
「いいえ、全然」
小声で問うてみれば、にべもない返事が飛んでくる。なるほど、別に鳥は好きではないらしい。
「――驚いた。ジェスタの王都は、何と綺麗な街並みであることか!」
不意にそんな言葉が耳に入り、カナンは瞼を持ち上げてそちらを向いた。議場の入り口の前で、ウォルテールとラダームが向き合って立っている。
(……ジェスタ?)
言うまでもなく、それはカナンの祖国の名である。ウォルテールによって攻め落とされ、現在は帝国の属国となって支配下に置かれている、北東の小国だ。――どうして、ジェスタの話を、ラダームとウォルテールが?
「城には傷一つなく、図書館も、随分と立派にそびえ立っていた」
ラダームの言葉に、カナンは目を瞬いた。――図書館。それは、知を財とするジェスタの宝、誇りである。そこに言及したことに、カナンは驚きを隠せなかった。……ラダームは、あの図書館の価値を理解しているのか。
「はい。あの街は歴史も古く、」
ウォルテールが頷きかけたところで、ラダームは「は、」と嗤った。
(何故笑う?)
カナンは眉をひそめてラダームを注視した。エウラリカは気づいていない風を装ってはいるが、顔を横に向けたまま、視線だけは入り口へ向いている。聞いている。
淀みなく響く、明朗な男の声が届いた。
「ジェスタの王都は、何とも綺麗な都だった――まるで、戦などなかったかのように。そのことに俺は心底驚いたのだ、ウォルテール」
ラダームは言いつつ一歩踏み出した。議場の入り口前にある小さな丸い広間、その中央に二本の足を突き立てて、彼は強い目でウォルテールを射貫いた。
「聞くところによれば、貴君は王族を全員生かしたまま、この帝都まで連れてきたそうだな」
(……っ!)
カナンは体を強ばらせた。話題になっているのはまさに自分たちのことである。ジェスタの王子である、……王子であった自分のことだ。ラダームの言う通り、ウォルテールは自分たちを帝都まで連行した。全員の命は保証されていた。
そのことに対し、ラダームは否定的な調子を隠そうとしなかった。ウォルテールは不快感を表すこともなく穏やかに応じたが、ラダームは腕を組んで「ふむ」と首を傾げるだけだ。不意に腕組みを解いて、ラダームはゆっくりと問うた。
「……もしも王族の一人が反旗を翻し、挙兵したら? よもや帝国軍が負けることなどあろうはずもないが、損害は避けられないだろう。その償いはどうする」
今度こそカナンは息を飲んだ。エウラリカが「あら」と小さな声を漏らし、聞こえよがしに咳払いをする。『聞いた?』とでも言わんばかりの呼びかけである。それは無視して、カナンはラダームを見据えた。
(この男は、自分たちのしていることが、復讐の対象となるような行為だということを、よくご存知なのだ)
ウォルテールは少しだけ苦しそうな顔をした。
「……ラダーム様は、侵略した国を、跡形もなく蹂躙すべきと思われますか。反乱などという考えも起こらぬほどに、完膚なきまでに叩き潰すべきとお考えですか」
「ああ、いかにも」
一顧だにせずラダームは首肯した。カナンは表情を消したまま奥歯を噛みしめる。エウラリカが言っていた言葉の意味が分かった。――『お前は多分あの男、嫌いだと思うわよ』。
(ああ、その通りだ)
カナンは目を伏せた。……僕はきっと、この男とは分かり合えないだろう。分かり合いたくもない。
「未開の地に帝国の恵みを享受させてやる。それが帝国の長――すなわち大陸の覇者となる者の務めだ。禍根を残し、火種を燻らせるなど、怠慢以外の何ものでもない」
「そのために、王族を一族郎党……」
「ああ、その通りだ」
ラダームは泰然と笑みを浮かべ、床を指す。それで、カナンは入り口前の床に地図が描かれていることに気づいた。
「帝都が大陸のどこにあるか、貴君は承知の上だろうな」
ラダームが指すのは地図の中央、新ドルト帝国の紋章が描かれた一点である。すなわち、帝都を表すシンボルだ。
そこでラダームは声を低めたので、カナンには会話が聞き取れなくなった。床の地図を見下ろし、ラダームはウォルテールに向かって何事かを告げ、嘲笑するように頬を歪めた。ウォルテールは僅かに不快を示して眉をひそめたが、ラダームは頓着することなく顔を振り上げ、ウォルテールを強く見据える。
「大陸の中央とは、この帝都をおいて他にあるまい。正しい血統からなり、臣民からの信も厚い、『然るべき』皇帝の君臨する帝都だ。いずれは大陸全土を支配する、光輝あるこの都こそが中央だ」
全くもって疑いのない口調で、ラダームは言い切った。
「俺はじきにこの大陸の覇者となる。――ウォルテール、その意味をよく考えろ」
ウォルテールは答えなかった。口をつぐんだまま、目を伏せる。ラダームは一言二言付言すると、脇に控えていた細身の男に呼ばれてウォルテールから離れた。
つかつかとラダームが大議場へ足を踏み入れる。エウラリカは頬杖をついたまま、ついと目線を正面に戻した。一瞬だけ、兄妹の視線は真っ向から重なった。
先に目を逸らしたのは兄だった。
***
総会が始まってからというもの、エウラリカは顔を伏せたまま動かない。寝ているのかと思ったが、恐らくそれはないだろう。カナンが僅かに首を伸ばして覗き込むと、エウラリカは机の下に目を落とし、手の中に隠した紙片に何やら書き付けている。
(めちゃめちゃ聞いてる……)
居眠りなんて大嘘だ。カナンは呆れ果ててため息をついた。
折しもエウラリカの位置は窓からの光が降り注ぐ地点である。明るい金髪が燦然と輝き、柔らかな頬には淡い影が落ちた。ふと視線を持ち上げれば、エウラリカに向けられた視線をいくつも見つけることができた。
(この女の本性も知らないで)
カナンは内心で悪態をつく。何も知らずに純粋にエウラリカへ思慕の念を抱ける他人に対して、いっそ腹が立つほどだった。
(人を人とも思わないような、ねじくれ曲がった歪な女だ。僕のこともただの手駒として側に置いているだけで、本気で反抗すれば折檻だけでは済まないだろう。こいつはそういう女だ)
まるで天使のような顔をしておきながら、その性質はおよそ、清純とは似ても似つかないのである。
(――どうすればこいつを殺せる?)
その為には、まずエウラリカを皇位に就けねばならない。それを達成しなければ、恐らく、エウラリカは大人しく殺されたりなどすまい。
カナンはその後ろ姿をじっと睨み据えながら、奥歯を噛みしめた。
「……次いで、決算に関わる報告へ移らせて頂きます」
総会が一段階進んだのを感じて、カナンは目を上げて発言者を見た。そして、大きく目を見開く。
(あれは……!)
カナンは心臓が急速に早鐘を打つのを感じていた。
デルギナと会話を交わしていた姿が脳裏に蘇った。……『流れる血は出来るだけ少ない方が良い。傀儡は愚鈍であれば愚鈍であるほど良い』。デルギナの協力者であり、彼を通じてアジェンゼの目論見を把握していた内通者。
ウォルテールと親しげに話をしていた姿を思い返す。
(官僚だったのか、)
カナンは部屋の右の机、その最前列に立って話をする男を凝視した。今まで正体が分からず、エウラリカに何と伝えたら良いものか考えあぐねていた男が、目の前にいる。エウラリカに伝えねば、と思ったが、まさか呼びかける訳にもいかず、肩を叩く訳にもいくまい。
(咳払い……で呼びつけたら後で怒られそうだな)
エウラリカの手先となって一年近くも経てば、この主人がカナンを咳払いで呼びつけることの目的もおおよそ分かってきた。――人に悟られず、背後で控えるカナンに合図をする為の手段だ。
(普段から名を決して呼ばないのは、恐らくただ単に身の程を弁えさせる為の嫌がらせだろうが)
別にエウラリカの口から名前で呼んで貰いたい訳ではないが、こうも散々言外に指図され顎で使われると腹も立つというものである。部屋にいるときも、咳払いでカナンを呼び寄せてはあれをしろこれをしろと横暴極まりない。
(同じことをしたら意趣返しみたいだしな……)
迷った末に、カナンは首元に手を伸ばした。――そこには、エウラリカにつけられた、忌々しい小さな鈴がある。
そっと、鈴を揺らす。しゃら、と鈴は涼やかな音を立てた。エウラリカがぴくりと指先を跳ね上げる。机の下の手元に落としていた目線が、音もなく持ち上がった。わざとらしく周囲を見回し、今起きた風を装うと、エウラリカは発言者へと視線を据えた。
(……そうだ、この目だよ)
エウラリカは寝ぼけ眼の下に鋭い光を隠して、男をじっと睨みつけた。その唇が、僅かに弧を描く。『あら』と息だけで囁いた気配を感じた。
(何か分かったのか)
カナンは目を伏せたままエウラリカを眺め、それから少しだけ視線を持ち上げる。エウラリカの横顔の輪郭はどこまでも澄み切っていた。底知れぬ青緑色の瞳が瞬く。エウラリカはゆっくりと目を細めた。
男が訥々と語る。必死に耳を傾けるものの、如何せん言葉が上滑りしてきた頃、不意にエウラリカが咳払いをした。カナンははっとエウラリカの後ろ姿を見下ろし、それから目を上げる。男が話を終えるところだった。
「――以上で報告を終わります」
「ありがとう、ウォルテール」
席についた男に対し、議長が短く声をかける。その呼びかけに、カナンは無言で息を飲んだ。自然と背筋が伸びた。
(……『ウォルテール』?)
カナンは耳を疑った。見れば、エウラリカはどこか楽しげに笑みを湛えている。カナンは混乱のまっただ中で狼狽えた。
――だって、ウォルテールというのは、議場の左に座っている、あの将軍の名じゃないか。




