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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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第一王子-凱旋3



 カナンは顔を伏せがちにしたまま、大広間に視線を走らせた。誰もがエウラリカに目を奪われ、カナンを見ている者などいない。例の男――デルギナの協力者であり、先日ウォルテールに近づいていた男は、ここにはいないようだった。代わりに、カナンは参加者の中にアジェンゼの姿を見つけた。

 相変わらず小賢しい顔をした小男だ。エウラリカに向けられた、舐めるような視線が何故か癇に障った。


 アジェンゼから目を逸らして顔をしかめかけた、そのとき。

(……びっくりした)

 ウォルテールがこちらを真っ直ぐに見据えていた。どうやら少し前から自分を眺めていたらしい。まさか視線の動きを悟られたか、と思ったが、ウォルテールの表情に訝しむような色はなかった。

 カナンはウォルテールに目礼を送る。ウォルテールは僅かに微笑むことで応えると、ついと視線をラダームに移した。

(あれが第一王子か、)

 盃を握りしめた青年は、忌々しげにエウラリカを睥睨している。その視線に気づいていないはずもないのに、エウラリカは兄を一瞥すらせずに盃を煽った。


 ぺろりと赤い舌が唇の端についた葡萄酒を舐め取る。朱の引かれていない淡い色の唇は葡萄酒に濡れ、照明の光を受けて妖しく歪んだ。そんな様子を眺めていたカナンは、ふと居住まいを正した。

 こほん、と咳払いが耳に届いて、瞼をもたげる。――呼ばれた。

 エウラリカは振り返ることなく、手にしていた盃を後ろに差し出した。それを受け取って、カナンはエウラリカの横顔をじっと見た。

「飲んでも良いわよ」とエウラリカは唇の先で囁き、それから大広間の奥へ顔を向ける。



「わたしの席はどこかしら?」

 のんびりとした足取りで歩き出したエウラリカは、駆け寄ってきた官僚に何気なく問うた。彼は顔を引きつらせて奥の席を見やる。その長机は皇帝や大臣らがいる主賓席である。しかしどこを見ても、空いている椅子はない。

「エウラリカ様、その……」

 官僚が躊躇いがちに言いかけた、直後。エウラリカは大きく目を見開いて息を吸った。


「ひどい……どうしてわたしの席がないの!?」

 王女は顔を歪め、甲高い声で叫んだ。カナンはぎょっとして目を疑う。驚きを示したのはカナンだけではない。会場に抑えられたどよめきが広がった。対する官僚は、両手を出してエウラリカを宥めようとするように言葉を選ぶ。

「エウラリカ様、これは、」

「わたしのところには誰も連絡に来てくれなかったわ! わたしのことを仲間はずれにしようとしてるのね!」

「ええー……」

 エウラリカは恥も外聞もかなぐり捨てて地団駄を踏んだ。小さな拳をぎゅっと握りしめ、癇癪を起こして金切り声を上げる。その真っ赤な顔に、カナンは呆気に取られていた。



「――エウラリカ!」

 その声に、会場中の視線が一斉に動く。

(……今だ、)

 カナンはそろそろとエウラリカから離れ、大広間の隅まで下がった。列柱に支えられた二階は通路である。壁沿いに一周でき、大広間が見渡せるようになっている。そして一階の壁沿いは通路の下。柱の陰に一旦隠れてしまえば、そこは暗がりで人目にはつきにくい。

 壁際まで下がって身を潜めたカナンは、そっと首を伸ばして様子を窺う。見れば、それは駄々をこねるエウラリカに第一王子が歩み寄るところだった。


 大柄な兄に見下ろされ、エウラリカはやかましく叫んでいた口をきゅっとつぐんだ。

「返事をしなかったのはお前だろう。出席に関して何度も訊きに行ったのに、一度も部屋から出てこなかったと聞いている」

「そんなの知らないわ」

 エウラリカは頬を膨らませ、唇を尖らせる。ラダームは聞こえよがしに舌打ちをした。「今朝も、それから昼過ぎにも、俺の側近が訊きに行ったはずだ」との言葉に、エウラリカは肩を竦めた。

「朝? わたし、朝はいつも湯浴みをしているの。昼は分からないわ。お昼寝をしていたのかも」

 息をするように嘘をついて、エウラリカはつんとそっぽを向く。


(よくやるよ)

 内心で呆れながら、カナンは手に持っていた盃に口をつけ、葡萄酒を一口含んだ。と、そこで僅かに眉を持ち上げる。……なるほど、エウラリカが飲めと言っていた訳が分かる。

(……不味い。その上、水で薄めてあるのか)

 カナンは顔を歪めて唇を舐めると、盃を見下ろした。

(王子の凱旋を祝う晩餐会でも、末席ともなればこの程度。食材の価格が徐々に高騰しているという話は聞いていたが、葡萄酒も、か……)

 盃をくるくると回して葡萄酒を眺めてから、カナンは肩を竦める。盃を近くのアルコーブに放置すると、彼はしなやかに歩き出した。

(領土の東を帝国に大部分奪われたユレミア王国は、新ドルトへの薪の輸出を制限しているらしい。それと同じか?)


 視界の隅、大広間の中央では、エウラリカとラダームが派手に言い合いをしている。それを一瞥して、カナンは目を伏せた。



(残った西ユレミア地方……ユレミア王国は農業立国というよりは、むしろ食料を輸入する側のはずだ。葡萄酒も同様だろう。ユレミア王国を支える大陸中央の農業地帯――東ユレミア州はどうだ。あそこは帝国の厳しい管理下にあり、輸出制限などという外交戦略など採れまい。では、帝国の東だろうか? 東部には農業立国であるカルエナがある……しかし、ジェスタを含む東方諸国と、新ドルトとでは食文化が大きく異なる。帝都で食材が高騰しているのとはまた話が違いそうだ)

 帝国に来てから、慣れない食事に苦労したのを思い返す。未だに時折、祖国の食事が恋しくなることがあった。カナンは小さくため息をつくと、鋭い視線で遠くを見据えた。

(やはり、新ドルトの食卓を支えるのは、帝都の南――多くの騎馬民族が集う南方連合との、緩衝地帯だ。そこで何か異変が起こっていると思って間違いない)

 カナンは腕を組み、片手で口元を覆いながら眉根を寄せる。


 帝都の南は、比較的古くから帝国の領土となった土地である。治めるのは元々その地に存在していた小国の主、元王族のハルジェール家。

(……ふむ)

 カナンは口の中に残る不味い葡萄酒の味をかき消すように口蓋を舐め、唾を飲み込んだ。そうして視線を大広間の中央へ移して、そこで彼は仰天して目を見開いた。



「エウラリカ!」

 ラダームの怒声が響く。どうやらエウラリカが、また何か煽るようなことを言ったらしい。ラダームの手が伸び、エウラリカの腕を容赦なく掴み上げた。

「いい加減にしろ、そうやってお前はいつも我が儘ばかり言って……!」

 エウラリカは体を捻ってラダームを見上げる。ラダームの右手が振り上げられた。頬をぶたれようとしているのに、エウラリカは瞬き一つせずに兄の顔を見据えている。その表情に恐れというものは見当たらない。異様なほどの自信に満ちあふれた眼差しだった。


 ――絶対に、殴られるはずがない。そう確信している目である。


 エウラリカがこの期に及んで甘えた子どもの演技を続けていようが、ラダームの手は止まらないだろう。

(まずい、)

 ラダームは明らかに平静を欠いていた。カナンは会場を縁取る列柱の一つに手を当てて、大広間の中央へ飛び出そうとする。考えるより早い反射だった。何故そうしようと思ったのかは自分でも分からなかった。


 ……しかし、その必要はなかった。

「ラダーム!」

 叩きつけるような大声で怒鳴ったその人は皇帝であった。カナンは目を剥いて皇帝を見やる。皇帝をこの目で見るのは二度目である。一度目は、帝都へ連れて来られて皇帝へ忠誠を誓わされたときのこと。

 そのときも、今も、どうにも凡庸な印象の拭えない皇帝であった。それほど多くを語る訳ではなく、官僚に言われるがままに物事を運ぶ様子があった。暗君であるという噂を耳にしたこともある。

(このように声を荒げるような男だったか?)

 カナンは眉をひそめて皇帝を見た。……黙ったまま、会場の隅へと再び戻る。


 ラダームは声もなく父を見上げた。大きく見開かれた目と半開きの唇は、彼の驚愕を如実に表していた。皇帝は息子を厳しく睨みつけている。その視線の鋭さたるや、とてもではないが血を分けた息子へ向けるようなものではない。


 皇帝が相好を崩してエウラリカに笑みかけた。

「エウラリカ、こちらへおいで」

「おとうさま!」

 エウラリカは今しがたの光景をまるで気にもしていない様子で、転げるような足取りで皇帝の下へ走って行く。

「席がないならここに来なさい。椅子を持ってこさせよう」

 皇帝の言葉に大きく頷いて、エウラリカはその体に抱きついた。


「おとうさま、怖かった……」

 エウラリカがか細い声で甘えるように囁く。皇帝の胸に頬ずりをし、その姿はまるで子猫か、――あるいは恋人に甘える少女のようである。皇帝は柔らかい笑みでエウラリカの頭を撫で、それから視線を長子であるラダームに向けた。


「余の娘を傷つける者は、たとえ息子であっても許さぬ。――心得ておけ」

「父上っ……!?」

 ラダームは愕然としたように皇帝に歩み寄る。何から言って良いか分からないように口を開閉し、それから声を震わせて問うた。

「……父上は、私よりもエウラリカの方が大切だと仰るのですか」

 そんなことは、わざわざ明文化して答えずとも、エウラリカをその両腕に抱く皇帝を見れば分かることだった。皇帝は無言で顔を背けた。


 ラダームの背中は、やけに小さく見えた。数多の国や地域を打ち砕いてゆく勇壮な青年の姿はそこにはなく、ただ途方に暮れた幼子のような輪郭が残っているばかりである。



 晩餐会が妙な空気のまま始まってしばらくした頃、カナンはアジェンゼが席を立つのを視認した。

(……どこへ行くんだ?)

 カナンは首を巡らせて行く先を眺める。アジェンゼは大広間の隅を通って、足下から天井近くまであるような大きな窓を細く開けると、外へと出ていった。

 頭の中で周辺の構造を思い浮かべる。人目につかずにアジェンゼを追うための道筋を確認すると、カナンは足音を忍ばせて動き出した。


 暗い庭園へ出ると、果たしてアジェンゼはそこにいた。足下まである巻衣を揺らめかせながら歩いている後ろ姿を確認して、カナンはそっと身を伏せる。

「――なるほど、大臣。仰ることは分かりましたわ」

 アジェンゼと相対しているのは、老婦人である。見覚えがある、と目を凝らす。……恐らくは件の密会にいた内の一人だろう。契約書の署名を確認すれば、名前はすぐに知れるはずだ。

 扇でその口元を覆い、彼女が眉根を寄せる。

「皇帝陛下は王女様に骨抜き。王女様を手なずけてしまえば、この新ドルト帝国はわたくしたちのもの。そう仰りたいのね?」


 アジェンゼは「ええ」と大仰な仕草で頷いた。

「ですから、貴女にご協力をお願いしたいのです」

「わたくしに何をしろと?」

「エウラリカ様の教育係を担って頂きたい。かつて帝国一の貴婦人と呼ばれた貴女なら、王女の目付役となることに疑問を抱かれることはあるまい。王女はあの有様、この機に教育係がつけられるのも不思議ではないでしょう」

「ええ、ええ。……わたくし、王女様があのように作法のなっていない幼子であるだなんて、思いも寄りませんでしたわ」

 婦人は大きく頷き、肩を竦めて嘆息する。


「ラダーム様にこの話を持ちかければすぐに了承して頂けることでしょう。ラダーム様はエウラリカ様にいたく手を焼いておられるから」

「そのようでございますわね」


 そんな会話を盗み聞きながら、カナンは思案した。……あの女には、今まで、教育係の類がつけられていなかったのか? 教師や先生も?



 ***


「あら、そんな訳ないじゃない」

 エウラリカはしれっと答えた。晩餐会を終え、先程までごろにゃんと言わんばかりに皇帝に甘えていたこの主人は、今は平静そのもののふてぶてしい態度で長椅子に寝そべっていた。

「流石の私だって、文字やら人間としての振る舞いやら、何から何まで一人で習得するのは無理よ。そんな化け物じゃないわ」

 唇の端を歪めてエウラリカが嗤う。何やら含みがある表情にカナンが問いを投げようとしたところで、「それにしても」とエウラリカが話題を変えた。


「私に教育係? 勘弁して欲しいわね」

 小馬鹿にするようにエウラリカが鼻を鳴らした。心底厭わしげに顔をしかめ、肘掛けに頬杖をつく。

「まったく……また我が儘娘のふりをしなきゃなの?」

「我が儘という点に偽りはないかと思いますが」

「お黙り。調子に乗るんじゃないわよ」

 ぴしゃりとエウラリカに叱りつけられ、カナンはこれ見よがしに首を竦めた。

「まあ、その件は……皇帝の方から手を回して阻止しておくとするわ。教育係候補の女も、どうせ叩けば何か出るでしょう」

 当然のことのようにそう言って、エウラリカは足を組んで背もたれに体を預けた。



 カナンはしばらくしてから、先程打ち切られた話題を蒸し返すように口火を切った。

「……昔は、教師がおられたのですか」

「ええ。様々な教師がついていたわよ。普通の教師だけじゃなくて、礼儀作法や芸術に関すること、歌や踊り、絵画まで様々」

 淡々とした口調で、エウラリカは掌をひらめかせ肩を竦める。「多いですね」と返せば、エウラリカは「そうね」と素直に認めた。

「あのときは多過ぎると思って嫌がっていたけれど、……のちにこうなることを思えば、あのとき一通り基礎を囓っておいて良かったと言うべきかしら」


 その瞳に、僅かな憂いが含まれた。カナンは息を飲む。しかし、彼女の双眸に浮かんだ色をはっきりと見咎める前に、エウラリカは表情を常のように皮肉気なものに変えてしまった。


 カナンは慎重に言葉を選んだ。空気が張り詰めているのは肌で感じていた。……が、それでも言葉を止めることが出来なかったのだ。

「そうした先生たちが今のお姿を見たら、不思議に思うのでは? ……その、」

 今の口ぶりからして、どうやらかつては真面目に師事していた頃もあったようなのである。現在、エウラリカが周囲に向けて装っている暗愚な王女の姿を見たらどう思うだろう?



 ――それまでカナンの方をろくに見ずに話を続けていたエウラリカが、ふと、驚くほど鋭い視線で彼を見据えた。これは触れてはならない部分だったのだ、とカナンは戦慄する。しかし、エウラリカは特段カナンに対して折檻を加えることもなく、さらりとした態度で「大丈夫よ」と答えたのみだった。


「芸術や作法に関する教師とはそれほど深い繋がりもなかったし、私がどんな性質の子どもであるかを理解するより前に役目を終えて去ったわ」

「……その言い方では、まるで、他に深い繋がりがあった教師がいたかのようですね」

 カナンは一瞬の躊躇いを挟んでから、エウラリカの言葉の隙を突いた。芸事などの教師『とは』繋がりが薄かったのである。指摘すると、エウラリカはほんの少しだけ、自分の失言に驚いたような顔をした。


 エウラリカは頬杖をついた握りこぶしを口元にあて、長いこと目を伏せて沈黙していた。その眼差しがどのような光を湛えているかは計り知れない。カナンは身動きひとつできずに、ただ、エウラリカの言葉を待った。

 ややあって「お前に語るような話はないわ」とエウラリカは素っ気なく答え、顔を背ける。どこか遠くの空を眺めながら、彼女は静かに呟いた。



「……『先生』は、私が初めてこの手で殺した人なの」

 そう言って、エウラリカは目を伏せ、頬を吊り上げた。



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