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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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第一王子-凱旋2



 エウラリカに言いつけられた用事を終えて通りへ出たカナンは、そこで面食らって立ち尽くした。

 視界いっぱいに広がった群衆が沿道を埋め尽くす。カナンは目を白黒させて人混みをかき分けた。

(何だ、これ……?)

 口々に何かを叫んでいるが、如何せん、ざわめきが大きすぎて何が何だか分からない。カナンは這々の体で宮殿へと戻った。


「――ああ、兄の凱旋よ」

 エウラリカはまるで興味のなさそうな表情で答えた。気だるげな様子で長椅子に腰掛け、足を組んでいる。

「兄……というと、第一王子ですか」

「ええ」

 エウラリカは素っ気なく応じ、頬杖をつく。外は春に入り、うららかな陽気に満ちているというのに、エウラリカは冷えた室内から出ようとしなかった。

「もうじき城に入ると思うから、気になるなら見てきたら? 私は結構だけれど」

 エウラリカは本から視線を一瞬たりとも持ち上げずに呟く。明らかに面倒がっている仕草に、カナンは内心で首を傾げた。……随分と不機嫌だ。いや、元々ご機嫌な性質の女ではないのだけれど……。


「……じゃあ、仰るとおり物見遊山にでも行ってきますよ」

「あらそう、ご自由に」

 脚を組み替えながら、エウラリカがページを繰った。



 カナンはエウラリカの部屋を出て、廊下を歩き出す。エウラリカの部屋は城内でも滅多に人の近づかないような奥にあり、部屋の前はいつだって静謐な空気に満ちていた。幾何学的な意匠の施された列柱が片側に並び、その向こうは花々が咲き誇る庭園になっている。

(例えば、そう……この庭園を抜けることができれば、)

 カナンは頭の中で城内の見取り図を展開する。この庭園は隣の塔の前まで繋がっていたはずだ。

(兵を引き連れてこの庭を抜ける。鍵は僕が持っている)

 かつてエウラリカに渡された腕輪――もとい鍵は、今も持っている。どうやらあれは予備だったらしく、エウラリカも同じものを所持している。この鍵があればエウラリカの居室に入り込むことなど容易だ。


(もう一つの扉はどうする? きっと鍵がかかっている)

 エウラリカの寝室があるであろう、続きの部屋のことである。簡素な木の扉で、一見すれば物置にも見紛いそうなほどだ。しかしそちらはエウラリカの本当の私室であり、カナンは足を踏み入れたことはおろか、中を垣間見したこともない。当然鍵も所持していないが……。蹴破ることが出来る……だろうか?

(僕が成長すれば、あるいは)

 カナンは自らの手を見下ろす。この春で自分は十四になる。祖国でならまだ学徒として師事している頃である。まだ子供だ。あと数年もすれば体も成長するのだろうか。父や兄はそれなり程度の体躯だったが。


(まあ、考えても詮無いことか)

 ありがたいことに、と言うべきか、食事はきちんと摂らせてもらえるし、何もなければ睡眠時間も十分である。カナンは肩を竦めて、早足で城の玄関を目指した。




 城の玄関近くにたどり着いて、カナンは目を丸くした。城門前は熱狂と言っても良いような歓声で埋め尽くされている。あまりの騒ぎに閉口して、カナンは玄関の中に引っ込んだ。壁の陰に隠れ、ひとつ息をついたところで、ふと目を見開く。離れた位置にある柱に寄りかかり、外を窺っている男には見覚えがあった。ウォルテールだ。


 声をかけようかと足を踏み出しかけたカナンは、次の瞬間あっと叫ぶのをすんでのところで堪えた。一人の男が歩み出て、ウォルテールの肩を叩いたのである。

(――あの、男……!)

 一月ほど前、デルギナと話していた男である。すなわち、アジェンゼの横領に加担するデルギナが、同時に内通をしていた相手。アジェンゼやエウラリカの進退に関して、まるでそれが思うがままかのように語っていた男。

(そいつが、何故ウォルテールに話しかけている? ウォルテールもどうしてそんな奴と……何も知らないのか?)

 カナンは表情を険しくし、柱の側で向かい合って話をする二人の男を睨みつけた。



 迂闊に動くことも出来ず、カナンは壁に体を押しつけて身を隠しながら耳を澄ませる。が、

(くそ……周りがうるさすぎて、何も聞こえない)

 会話の内容は分からないが、身振りや表情からして、随分と親しげな様子が窺えた。旧知の友か何かだろうか?


 ややあって、男は片手を挙げて反対側へ歩き去ろうとした。ウォルテールがそれを見送る。カナンは慌てて身を乗り出したが、間にウォルテールがいては男を追うことが出来ない。絶対に呼び止められるだろう。まさかウォルテール自身に先程の男は誰かと聞くことも出来ず、カナンは柱の陰に隠れたまま、その場で歯噛みした。



 その場に一人取り残されたウォルテールは、一歩下がって柱に隠れるようにしながら、静かに腕を組んだ。将軍の視線は城門に向けられたまま動かず、ただ一人で佇む背中は、どういう訳か常よりも小さく、寂しげに見えた。

(…………あんな顔をするのか)

 その横顔を眺めながら、カナンは詰めていた息をそっと緩めた。歩み出てウォルテールに話しかけようとした矢先、高らかな金管楽器の音色が響く。カナンは目を丸くし、顔を上げて城門の方に視線を移した。


 城門から城の玄関へ続く庭園を、軍馬に乗った一群がゆっくりと進んでくる。その先頭にいる青年を見上げて、カナンは思わず息を詰めた。

(あれが、第一王子のラダームか)

 短く切り揃えられた金色の髪は、確かにエウラリカの血縁を窺わせる。が、それ以外は大して似ていない。性差だろうか? 少なくとも、顔立ちが似ているとはおよそ言えなかった。絶世の美しさを持つ妹とは違い、ラダームには整った容貌が与えられなかったらしかった。

 しかしラダームが見栄えのしない男かというとそうでもない。体躯に恵まれたラダームの振る舞いからは、泰然とした自負が見て取れた。些細な振る舞いからは武人特有の鋭さが透け見える。そうした様子は、エウラリカが装う甘い空気、普段纏っている気だるげな雰囲気と、似ても似つかない。

 表情ばかりが随分と似通っていた。尊大な、一分の恐れも抱かぬ傲慢な笑みである。

(なるほど、兄妹だ)


 カナンは小さく嘆息した。ふと蘇るのは祖国にいるであろう兄姉や妹たちのことである。安否は知れないが、自分がここに来てからジェスタで何か事変があったという話も聞いていない。恐らくは皆が息災であるだろう。

『……僕は、見捨てられただろうか』

 不意に母語が唇を滑り落ちた。去年の春、カナンはこの城の地下牢へ連れられ、ジェスタ兵の前でエウラリカに忠誠を誓った。あののちにジェスタへ帰還した彼らはきっと、両親や兄妹にその言葉を伝えたはずだ。

『まあ、生きていることを伝えられただけでも、良かった、のか』

 小さく呟いて、カナンはその場をあとにした。



 ***


 例の男がウォルテールと会話をしていたことを伝えると、エウラリカは「ウォルテール?」と眉をひそめた。

「その男は、ウォルテールを協力者に選ぶほどセンスのない奴なの?」

 酷い言いようである。言わんとしていることは分かるが、ウォルテールのことを買っているのやら馬鹿にしているのやら。カナンは返事に困って眦を下げた。


「ウォルテール……ウォルテールね」

 エウラリカは口元に拳を当てたまま数度呟き、それから沈黙する。カナンは黙ってエウラリカの言葉を待つ。



 と、不意に扉が叩かれた。廊下へ続く大扉である。その向こうから、控えめな声が届く。

「――エウラリカ様、お体の具合の方は如何でしょうか」

 カナンがエウラリカを見ると、呼ばれている当人はしれっとした顔のまま首を振り、唇の前に指を立てた。黙れ、と言いたいらしい。居留守だ。

「エウラリカ様、大変過ぎた願いではございますが、この扉を開けてお姿を見せては頂けないでしょうか? 急ぎお伺いしたいことがあるのです」

 困り果てたような声は、若い男のものだろうか。何だか可哀想になって、カナンは扉の方をじっと見やった。


「今宵、ラダーム殿下の凱旋を祝う晩餐会が催されます。ぜひご出席を賜りたく……」

 声はもはや懇願になっていた。眉をひそめるカナンをエウラリカはきつく睨む。『無視よ』とその唇が動いた。それからふいと目を逸らし、手を伸ばして積んであった本の一番上を手に取る。

 もう部屋の外には微塵も興味がないらしい。部屋の外からは必死の呼びかけが続いていたが、エウラリカが応えることはなかった。



 時計を見れば、部屋を訪れた男が言っていた時刻が既に過ぎようとしている。

「晩餐会には行かれないおつもりですか」

 カナンが短く問うと、エウラリカは「さあ?」と答えた。

「私の気分次第ね」

 悪びれる様子もなくそう言って、彼女は足を組んだ。カナンを一瞥し、エウラリカは目を細める。

「――なに? お前は行きたいの? 行ったってお前の席なんてないわよ」

「知ってますよ」

 言われなくたって、まさか奴隷に席があるなどとは思っていない。平然と答えたカナンにエウラリカは少しつまらなそうな顔をした。それから目を逸らし、彼女は数秒の間、思案するように顎に指先を添えて小首を傾げる。


「そうね……良いわよ、行きましょう」

 言って、エウラリカは素早く立ち上がった。数秒前まで全く乗り気ではなかったエウラリカの急変に、カナンはぎょっとする。

 そのまま部屋を出ようとするエウラリカに「着替えなどは」と声をかけると、「あんな男を祝う席におめかしをしていく必要なんてないわ」と素っ気ない返事が飛んできた。本当に身支度一つせず、部屋着のまま扉を開ける。


「僕は、この格好では差し障りがあるのでは、」

「お前を見る人間なんていないわよ、心配しなくて結構。奴隷は『存在しない』のよ」

 エウラリカはまるで嫌味を投げつけるかのようにそう言って、後ろ手に扉を閉めた。そうして、彼女は頬を吊り上げる。楽しげな表情だった。


「――やるべきことは分かるわね?」

 その言葉に、カナンは数秒だけ目を見開き、それから黙って頷いた。……自分は『存在しない』のである。



 ***


 晩餐会は大広間で催されているという。カナンは、公的に使用されている大広間に入るのは初めてのことだった。

(近道をするために横切ったことはあるが)

 宮殿の中央にある最も大きな棟、その中央を大広間に占めているのである。そういう訳で、ここを通ると色々な場所への移動経路が短く済んだ。本当なら立ち入り禁止らしいが、カナンは比較的頻繁にここを抜け道として使っていた。恐らくそういう使用人や官僚は決して少なくないようだ。


 エウラリカは廊下を闊歩しながら、肩越しにカナンを振り返った。

「中の構造は分かる?」

「一応は」

 頷くと、エウラリカは「やるじゃない」と笑った。人目を忍んで通り道にしていることを察したらしい。

「それなら、まごつくこともないわね」


 言いながら、つかつかとエウラリカは歩調を緩めることなく大広間へ近づいてゆく。角を曲がると、大扉の前には兵士が二人立っていた。それまで真面目な顔で職務に望んでいた彼らは、エウラリカの姿を目にした直後、仰天したように目を見開く。彼らが平静に戻るのを待つことなく、エウラリカはぱっと表情を華やがせた。


「何だか楽しそうだから来てみたのよ! この中にみんないるんでしょう? わたしも入って良いわよね?」

 驚愕したまま動けない兵士に、エウラリカは開けっぴろげな笑顔で近づいた。カナンは黙ったままその背後に付き従ったが、兵士の視線が自分に向く気配はない。兵士は顔を見合わせ、それから慌てて扉に手をかけた。王女のご命令に逆らう兵などいない。



 大広間のざわめきが濃くなった。扉が開け放たれたのだ。カナンはエウラリカの横顔を斜め後ろから見たが、その表情に躊躇や緊張といった色はまるで見られない。楽しげな色ばかりがその目に浮かんでいた。そのことにカナンは密かに舌を巻いた。……どういう度胸をしているんだろう、この女。


 大広間の中央には、広大とも言っていいような長机が据えられている。突き当たりにはまた別の長机が置かれ、高位の人間と思しき面々が着いていた。その他、周囲に円卓がいくつか並べられている。

 長机の前に、一人の青年が盃を掲げて仁王立ちしていた。それに応じるように、入口まで続く長机では皆が盃を手にしている。

(乾杯の直前か)

 まるで、狙い澄まして扉を開けさせたかのようだった。否、エウラリカならそれくらいのことはやりかねないとカナンは目を眇める。奥にいるのは恐らく第一王子だろう。その視線はこちらを見据え、表情は明らかに強ばっていた。


 そうした様子を一目で見て取って、カナンはすぐさま顔を伏せた。その間際に見えたエウラリカの顔は、愉悦に紅潮している。

 そして、冷徹に眇められていた目が、一瞬のうちに大きく見開かれた。照明の光を受け、その瞳が明るく輝く。瞬く間の豹変だった。カナンは思わず舌を巻く。――この女は、こうしたことばっかり得意なのだ。


 すぅ、と柔らかく息が吸われた。直後、唇が綻ぶ。

「――あら、お兄さま! いつの間に帰ってらしたの?」

 エウラリカはよく響く声でそう告げた。直後、大広間の中の空気はがらりと様変わりした。全員が入口を振り返り、言葉を失う。


 カナンは誰とも目を合わせないよう視線を足元に落としながら、内心で舌打ちをした。

(いけしゃあしゃあと)

 これは嫌がらせだろう。エウラリカが兄のことを悪し様に罵るのは複数回聞いている。帰ってきて嬉しそうに笑顔を浮かべているのは恐らくは演技だし、そもそもエウラリカは兄の動向を数日前から把握していた。



 目を疑うように凍り付いていた人々が、徐々に状況を理解したかのように、顔を見合わせ口々に何かを囁き始める。カナンはその言葉の中にエウラリカの名が混じっているのを耳に留めた。なるほど、エウラリカが出現しただけでこの騒ぎらしい。

 ぎこちなく乾杯が交わされるのを、エウラリカは薄らと微笑んだまま眺めている。長机の末席、扉のすぐ目の前の席では、兵士たちが間抜け面でエウラリカを見つめていた。一人は手の中の盃が傾いていることにも気づかない様子で、机の上に大きな水溜まりを作ってまでいる。


「こんばんは。わたしにも一杯頂いても良い?」

 エウラリカは一歩進み出ると小首を傾げ、はにかむような笑顔を兵士に向けた。慌てた様子で兵士たちが差し出してきた盃を受け取り、エウラリカはさりげなく目を伏せる。その視線が素早く動き、油断なく盃を検分したのをカナンは見た。

 とろみのある葡萄酒が盃を満たす。エウラリカは酒を注いだ兵士に向かって「ありがとう」と微笑んだ。その眼差しを向けられた兵は、一瞬にして首まで赤くなった。


(この女、全部分かった上でやっていやがる)

 カナンは胸の内で悪態をつく。帝都の街中で語られるエウラリカがどのような姿であるのかは知っていた。――美しく謎めいた、神秘の王女。

 自分が微笑めば、無垢な憧れを抱いていた兵が『落ちる』ことも、それを見ていた他の兵が目を奪われることも、全部、承知の上だろう。それは果てしない演技だった。まるで見られることを意識していないような素振りは、どこまでも『見られている』という自意識に基づいている。

 カナンは末恐ろしさにそっと身震いした。




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