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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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花香4



 年末年始に休暇を取っていた者たちが徐々に城に戻り始め、普段通りの人気が戻ってきた頃、エウラリカとカナンは温室にいた。年末、カナンが夜会に侵入して密談をぶち壊しにしてから、アジェンゼの動きは特にない。

 エウラリカ自身も「恐らくアジェンゼはここに来れるような状況ではないでしょう」と冷ややかな反応である。とは言いつつも、部屋にうるさい連中が押しかける可能性を加味したのか、やはり温室に行くことを選んだらしい。


 温室にはエウラリカ一人分の椅子しかなく、地面に座る気にもなれなければエウラリカを立たせて自分が座ることも出来ないので、いつだってカナンは手持ち無沙汰だった。

 しかし今回は、これ見よがしに机の上に剪定ばさみが乗っている。無言でエウラリカを見ると、彼女は同じく無言で、『どうぞ』と言わんばかりに手ではさみを指した。


(……働けってことか)

 エウラリカが言わんとしていることを察して、カナンは無言で剪定ばさみを取り上げた。滑らかな金属の感触が指先に触れた瞬間、何の脈絡もなく、暴力的な衝動がこみ上げる。そういえば、エウラリカの前で刃物に触れるのは初めてだ。――今このはさみを逆手に握り、鋭い切っ先をエウラリカの細い首筋に振り下ろしたら、彼女はどんな顔をするだろうか?


「どうしたの?」

 カナンの薄暗い想像を見透かしたみたいに、エウラリカは頬を吊り上げ、挑発するように顎をもたげて喉を反らした。白い首に血管が浮いていた。それを見せつけられた瞬間、かっと頭が熱くなった。たおやかにすらりと伸びた指先、淡く色づいた爪の曲線が、唇に触れ、顎を辿り、喉元を滑り落ちた。誘うような手つきで首を晒し、深い青色をしたエウラリカの双眸は真っ直ぐにカナンを見据えていた。それは明らかな挑発であり、嘲笑であり、侮るような目つきだ。


 カナンは一瞬だけエウラリカの両目を見返したが、それから震える指先で、剪定ばさみを正しい向きに持ち替えた。

(駄目だ、……全然駄目だ)

 エウラリカが血を吹いて倒れる光景が、カナンにはどう頑張っても浮かばなかった。どんな想像をしたって、カナンの手の先でエウラリカは超然と笑っていた。

(――僕にはまだ、この人を殺せない)

 カナンはきつく唇を真一文字に結んだまま、エウラリカに背を向け、植木鉢と向かい合った。


「そういえば、ウォルテールも今日から出勤ね。もしかしたら何かお礼でもあるかも知れないわよ」

 エウラリカがふと呟いた。「だったら部屋にいてあげた方が良かったかしら」と言ってはいるが、どうせ今から戻るつもりは一切ないのだろう。特に悪いとも思っていない様子である。

 カナンは肩を竦めた。

「別に、わざわざそんなの来ませんよ。大したことをした訳でもないのに」

「あら、じゃあもしウォルテールが来たら私の勝ちね」

 勝ち、というのが一体どういうことなのか分からない。いちいち突っついて蛇を出すのも嫌なので、カナンはエウラリカを一瞥してから黙った。



(そもそもが偶然みたいなものだったからな)

 アジェンゼの屋敷に忍び込んだ帰りにたまたま鉢合わせた、それだけのことが思いのほか大きな話になったことに、カナンは一抹の怖気を感じていた。――エウラリカはあの短剣をどうするつもりなのだろう?

 分枝した花の先に指を触れ、カナンは目を伏せる。エウラリカは机に頬杖をついて、いたくご機嫌そうににこにことしていた。


「今頃アジェンゼたちは、誰が内通者なのかと震え上がっている頃でしょうね」

「皆、随分と慌てた様子で逃げていきましたから」

 カナンが静かに応じると、エウラリカは珍しく「あはは」と声を上げた。


「私もアジェンゼの屋敷に行ってみたかったわ」

「それは勘弁して下さい」

 小さくため息をつく。それからカナンは肩越しに振り返って、ぎこちなく微笑んだ。

「でも、まあ……面白い見世物でしたよ」

 そう言うと、エウラリカは満足げに頬を綻ばせた。

「お前もなかなかやるじゃない」とどことなく嬉しそうな口調に、カナンは思わず苦笑する。

「何だってそんなに喜んでいるんですか」

「あら、別に喜んでなんていないわよ。お前、一度くらい眼を診てもらった方が良いんじゃないの?」

 反論が早い。そして強い。過剰で理不尽な報復にカナンは半目になる。



 と、エウラリカが不意に顔を上げ、何気なく呟いた。

「――あら、ウォルテールじゃない」

「!?」

 カナンは弾かれたように、その視線の先を振り返る。果たして、温室のすぐ脇には大柄の軍人が佇んでいた。思わずその場でよろめいてしまう。

(何で予想が当たってんだよ)

 愕然としているカナンの脇をすり抜けて、エウラリカが足音もなく温室の扉を開け放った。冬の冷気が滑り込んでくる。


「ようこそ、ウォルテール! 今日はどうしたの?」

 エウラリカは先程までの冷静な調子をかなぐり捨てて、甘えるようにウォルテールを見上げた。この変わり身の早さには何回見ても呆れ果ててしまう。褒めている訳ではないが、本当に見事なものである。

 エウラリカに何やら迫られて、ウォルテールは見るからにたじろいでいた。エウラリカに遊ばれているとも知らずに困った顔をしている男を横目で見て、カナンは剪定ばさみを机の上に置く。


「カナン、」とウォルテールがこちらに手招きした。一体何の用事だ、とカナンは恐る恐る近寄る。エウラリカの予想がまたしても当たっていれば、その……『礼をしに来た』ということなのだろうか?

 しばらくの間、エウラリカはウォルテールの前を頑として動かずに鼻歌を歌っていた。

(さっさとどけよ)

 まさかその肩に手をかけて押しのけるなんて出来るはずもなく、カナンはその後ろでうろうろするしかない。みみっちい嫌がらせである。カナンが苛々しつつあるのを確認して満足したのか、エウラリカは「寒いわね」とわざとらしい独り言とともに温室の奥まで引っ込んでいった。


(そういえば、ウォルテールは何でわざわざ、こんなところまで……)

 カナンが困惑交じりにウォルテールを見上げると、彼は見覚えのある本を取り出してカナンに手渡す。ずしりと重い本を受け取って、カナンはそれを抱える。年末、ウォルテールに届けるようエウラリカから命じられた図鑑である。

 それから、ウォルテールはエウラリカから隠れるように身を屈めた。

「……それと、これはちょっとした礼だ」

 またしても的中したらしいエウラリカの予想に、カナンは思わず舌打ちしそうになった。無論そんな素振りを出せる訳もなく、カナンは殊勝な態度でウォルテールを見上げる。その手には小包がぶら下がっていた。


「それは……?」

「大したものじゃない。小腹が空いたときにでも食ってくれ」

 要するに何か食べ物らしい。カナンは躊躇う。勝手に人から何か貰って、エウラリカに小言を言われないだろうか?

「そんな、受け取る訳には」

 だいいち、自分は特に何もしていないのである。全部エウラリカの差し金だ。躊躇ったカナンに、ウォルテールは「良いから」と怖い顔をした。

「受け取って貰えなかったら捨てるぞ」

 そう脅されてしまっては、受け取るしかない。カナンは背後の気配を必死に探りながら、素早く小包を手のひらに乗せた。


「『今年も良い年でありますように』、だったか」

 不意に、ぎこちなく硬い、下手くそな、しかし耳に馴染んだ祖国語が聞こえ、カナンはがばりと顔を上げる。柔らかく微笑むウォルテールがそこにいた。

「ジェスタでは、そう言ってこれを食べるんだろう?」

 言われてもう一度包みを見下ろす。ああ、と小さな声が漏れた。――『明けの光』。そうした意味を持つ名前の菓子である。カナンは震えるようにして首肯した。


 ジェスタでは、家族で、年明けに、一日一枚ずつ、この小さな焼き菓子を食べるのである。白砂糖の振りかけられた素朴なものだ。それでも、その味はすぐ舌の上、どこか遠くに蘇るようだった。

「……あり、がとう、ございます」

 そんな存在すら忘れていた菓子が、今、手の上に乗っている。決して手に入るはずもないと思っていたのに。

 久しぶりに、柔らかく笑った気がした。知らないうちに、エウラリカの小馬鹿にしたような笑みが移っていたみたいだ。眦を下げ、カナンは相好を崩す。

「大切に食べろよ」

 甘やかすみたいに頭を撫でられ、カナンは小さな声で「はい」と頷いた。



 ウォルテールが立ち去ってから、カナンは菓子の包みを持て余して立ち尽くしていた。上着のポケットに突っ込めなくはないが、確実に気づかれる。隠そうとした努力を見咎められたらまた何か馬鹿にされそうだし、かといって堂々と『貰いました』と発表するのも何か違う。

「――あら、良いものを貰ったじゃない」

「うわっ!」

 悶々と考えこんでいた矢先、背後から肩越しに手元を覗かれ、カナンは思わずその場で跳ね上がった。慌てて距離を取り、温室の壁に背を付けるようにして逃げると、エウラリカは浮かせていた踵を下ろしながら腰に手を当てた。


「アクォアーネ? 良かったわね」

 包みを見ただけで菓子の名前を言い当てられ、カナンは思わず背中に小包を回す。エウラリカは不満げに眉をしかめた。

「そんな顔しなくたって別に、お前のものを取り上げやしないわよ」

「あ、……はあ……」

 祖国の自治権を取り上げられた身としては、何とも返答のしようがない。カナンはおずおずと背中に回していた手を前に出した。鳩尾の辺りで小さな包みを抱えていると、エウラリカはふいと顔を逸らして歩き出す。


「あーあ、せっかく用意しておいたのに」

 そう言って、エウラリカは椅子に腰掛け、近くの棚に置いてあった白い小箱をつまみ上げた。

「!?」

 カナンは思わず目を疑って身を乗り出した。

(毎年食べてたアクォアーネ……!?)

 ジェスタ王家御用達の老舗菓子店の箱である。アクォアーネの箱の形は特徴的で、中身は疑いようもない。が、エウラリカの手にあるものはその中でも一番高価な代物だ。カナンが幼い頃から毎年欠かさずに食べていたものと寸分違わず同じだった。

 エウラリカは箱を見せつけるように掲げながら、大変良い笑顔でカナンに告げる。

「ウォルテールから別のを……まあ、一般に流通している廉価版だけど、それをもう貰ったからいらないわね? これは私が食べておくわ」

「そ、れは……」

 何事か反駁しようとして口を開きかけたが、ごそごそと粗雑に箱上部の飾りをまさぐるエウラリカの手つきの方が気になった。「ちょっと、」と呟いて、カナンはエウラリカに歩み寄る。


「そんな風に無理矢理開けるものじゃないんですよ」

 叱るように言って箱の上の飾りに手をかけるが、いまいち上手く動かし方が分からない。なるほど普段と逆向きなのである。目の前でエウラリカに箱を破壊されては堪ったものではない。カナンは仕方なくその背後に移動して、左右から腕を回した。エウラリカは自分で箱を開けることをすっぱり諦めたように、箱の底を支えるだけである。


 カナンはエウラリカの肩の上から顔を出し、慣れた手つきで飾りを動かした。

「ここを引いて……、次にここを開けないと、破れてしまうんです」

「随分と上手じゃない」

「ええ、まあ」

「ふーん……あら、面白い開き方」

 ジェスタに昔から伝わる細工である。似たような方法で開けられるものは沢山ある。はたりとほどけるように口を開けた箱を確認してから、カナンは身を起こした。エウラリカは感謝を見せる様子もなく、至って平然と箱の中身を覗き込んでいる。


「ほら、ひとつ交換してやるから、お前のも開けなさい」

 全くもって高圧的な物言いだが、いつの間にかこの話し方にも慣れた。……腹が立つことに変わりはないが。カナンは急いで包みを開けると、一つずつ丁寧に薄紙で覆われている焼き菓子を取り出す。


「よく頑張ったわね」とエウラリカは甘やかすように手を差し伸べ、カナンの口元まで焼き菓子を持ち上げた。とろりとその眼差しが緩む。

「ご褒美よ」

 その言葉に誘われるようにして、カナンは座ったままのエウラリカと目線を合わせて跪いた。


 エウラリカが微笑む。その唇が薄く開き、彼女はゆっくりと息を吸ったようだった。

『お前が良き流れに巡り会えるよう。お前が新たな智を見いだせるよう。お前に麗しき風が吹かんことを。お前に輝かしい栄光が降り注がんことを』

 やや古めかしい口語の祝詞だった。格式張った祝福の言葉ではない、耳に馴染んだジェスタ語だった。流れるような発音で囁いて、エウラリカはカナンに顔を寄せる。近づけられた指先からは甘い花の香りがした。



 エウラリカは目を細めて笑った。

『――お前の一年が、今年も最悪な年でありますように』



 おずおずと、唇を開いた。エウラリカが笑みを深めた。遠くの空のごとく深い青色の底では、仄暗い緑が沈んでいた。その指が香る。下唇に僅かなざらつきが触れた。焼き菓子の肌だった。甘い白砂糖が舌に落ちた。一口で収めることが出来るような小さな菓子だった。


 その甘さが舌の上から消えてもなお、彼は馬鹿みたいに、その顔を見上げていた。

『……ええ、きっと最悪だ。間違いない』

 誰に言うでもなく呟くと、彼女は花開くように破顔した。








花香編終了、次話から第一王子編に入ります。

推敲と校正が追いつかないので数日お休みを頂きます。いつもお読み頂きありがとうございます。

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