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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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花香3



 カナンが仮眠から覚めたのちも、その日のうちにエウラリカがウォルテールの話題を出すことはなかった。ウォルテールのことを意識の内には留めておくものの、どうしてもだんだん他の話題に気が逸れる。

 夜が更ける頃には、ポネポセア云々はそれほど急ぐようなことでもないだろう、とカナンは結論づけていた。

(年末年始の休暇が終わってウォルテールが城に来たら、一言くらい言っておくか)


 そうしてのんびりと眠りに落ちたカナンは、翌朝、何かに頬を叩かれて雑に起こされた。

「いつまで寝ているの、お前」

「な、何が……」

 寝ぼけなまこを瞬かせるカナンに、長椅子の背もたれに腕を突いたエウラリカが鼻で笑った。身を乗り出し、小馬鹿にするような表情で見下ろしてくる。


「ほら、これを持って城の玄関で待ってなさいな」

「うぐふっ!」

 仰向けになっていた腹の上にぽんと重いものを乗せられ、カナンは思わず肺の空気をありったけ吐き出して体を折った。驚いて長椅子から転げ落ちたカナンを見下ろし、エウラリカは扇をぱちんと閉じる。寝ているカナンの頬をぺしぺし叩いてきたのは、どうやらこの扇らしい。


 カナンは体を起こし、長椅子の上に転がっている本を見やった。表紙に書かれた文字は見慣れないものだが、その装丁には見覚えがある。昨日エウラリカがここで読んでいた本である。

 目次を開いてみたが、全く読めない。当然ながらジェスタの言葉ではないし、帝国語でもなさそうだ。カナンは眉をひそめてエウラリカを見上げた。

「これは……?」

「図鑑よ、植物図鑑。ポネポセアについて載っているから、ウォルテールにプレゼントしてあげなさい」

「読めないじゃないですか」

「家族で読めと言えば良いわ」

 全くもって要領を得ない。もっと色々訊きたいことはあるが、エウラリカが「さっさと行きなさいよ」と急かしてくるのだ。取りあえずカナンは手早く身支度をして、図鑑を抱えて部屋を出た。



 城の玄関へ向かったカナンは、人気の少ないはずの城内がいつもよりざわついていることに気がつく。

(何だ?)

 首を傾げつつ、カナンは玄関脇の柱に寄りかかった。両腕で抱えねばならぬような大きさの図鑑を胸元まで引き寄せ、周囲を見回す。アジェンゼに関する噂をかき集めてこいと言われていた頃の影響で、ふとした言葉の端を聞き咎めるのがカナンの癖となっていた。

「あーあ、どっかの馬鹿のせいで俺の休暇が……」

「馬鹿はあいつらだろ、……ったく、何で警備を抜け出して街に降りるかな……」

 そんなことを言いながら、二人の兵が足早に廊下を過ぎ去った。


(何かあったのか、)

 カナンはそちらに首を巡らせ、目を凝らして耳を澄ます。少し行ったところの角を曲がって、兵は姿を消した。

(あちらは……)

 あまり人が立ち入るようなところではない。あちらには何があったか、と心持ち顎をもたげて記憶を辿ると、そちらにある建物にいくつか思い当たるものがあった。


 あちらは兵の訓練場や休憩所、そういった、軍や兵に関わる施設が配置されていたはずだった。――その中でも、警備が立つようなところ。警備がいなくなって『どこかの馬鹿』が『何か』をした際、兵が休暇を潰してまで呼び出されるところ。

 あちらにある施設を全て確認したことがある訳ではないが、カナンに浮かぶのは一つだけである。

「武器庫、か……?」

 カナンは呟いて、顎に手を当てた。



 ほどなくして、ウォルテールが急ぎ足で姿を現した。大股で歩を進めるウォルテールの横で、つんのめるようにして兵が併走し、何事か説明している。それを聞きながらさっさと歩いて行ってしまうので、カナンはわざわざ近づくのをやめた。どのみち待っていればそのうち玄関に戻ってくるのである。

 カナンの姿はまるで目に入らない様子で、ウォルテールは早口で兵に詰問していた。

「侵入者?」

「はい、どうやらそのようで」

 本人は気づいていないのだろうし誰も指摘しないのだろうが、真面目くさった厳格な顔で歩いているウォルテールの後頭部で寝癖が跳ねている。カナンは思わず声を出さずに笑いを噛み殺した。


 ……に、しても。

(侵入者、か)

 カナンは分厚い図鑑を抱え直しながら眉をひそめた。

(一体誰が……?)



 カナンが手持ち無沙汰に、読めもしない図鑑に目を落とし始めてしばらくした頃、閑散とした玄関ホールに足音が近づいてきた。ぱたんと音を立てて本を閉じ、顔を上げると、ウォルテールがいかにも疲れたと言わんばかりの顔で歩いてくる。後ろ頭の寝癖は健在だった。


 カナンはその姿を認めて、ごくりと唾を飲んだ。

(……ポネポセアについて、教えるだけ)

 エウラリカが色々言っていたことを考えると、訳が分からなくなりそうだ。恩を売るとか、手駒にするとか……。そういうのはカナンじゃなくてエウラリカの得意分野なのだ、……多分。


 カナンは息を吸うと、ウォルテールの前に歩み出る。

「ウォルテール将軍、」

 声をかけると、ウォルテールはやや驚いたように「カナン」と応じた。カナンは本をきつく抱えていた腕を緩め、エウラリカから預かった図鑑を差し出す。ウォルテールはそれを受け取った。


「これは?」

 問われて、咄嗟にカナンは本の表紙を見る。そういえば読めないんだった。カナンは視線を外し、エウラリカの言葉を思い出す。

「植物、図鑑です」

 実際のところは、これが本当に植物図鑑であるという確証はない。エウラリカがそう言っていただけである。……今のところは信じておくけれど。



 ぼろが出る前に伝えることを言ってしまおうと、カナンは単刀直入に切り出した。

「ポネポセアは、確かに避妊薬、堕胎薬として使われることのある植物ですが、それは花ではありません」

 言うと、ウォルテールは虚を突かれたように聞き返した。

「花じゃない?」

「はい」とカナンは頷いた。ウォルテールはまだよく飲み込めないように目を瞬いている。カナンはエウラリカの言っていたことを反芻するように目線を一瞬浮かせた。エウラリカは何と言っていたっけ? ええと……


「……薬となるのは、ポネポセアの実。実のみが、そうした作用を持つ薬となるのだそうです」

 告げると、ウォルテールはぽかんと口を開けたまま固まった。妹と義姉の言っていたことを思い返しているらしい。やがてその場にしゃがみ込んで、ウォルテールは眦を下げた苦笑を漏らす。その表情には安堵が多く含まれていた。

「何だ……ははは、馬鹿みたいだな」とウォルテールは額を押さえて、カナンを見上げる。


「わざわざ調べてくれたのか? ……俺のために?」

 真っ向から問われて、カナンは応えに窮した。調べてはいない。エウラリカに聞いただけだ。けれどここで否定するのも変な話のように思えて、カナンは躊躇いがちに頷く。

「ありがとう。助かったよ」

 ウォルテールは実に真っ直ぐな言葉で感謝を伝えてきた。少なくとも迷惑ではないことは判明して、カナンは思わずほっと息を吐く。ウォルテールに手渡した本を指さして、そこにポネポセアについて載っているらしいことを告げる。するとウォルテールは真っ当な疑問を投げ返してきた。


「これはどこの言葉だ? 文字の形からして西方みたいだが……俺には読めないぞ」

(僕にも読めないよ)

 カナンは表情には出さずに内心で吐き捨て、エウラリカの言葉を思い返す。――あの女は何と言っていたっけ? 寝起きにぽんぽんと言葉を投げつけられ、ろくに理解もしないままここに来てしまった。カナンは知らず知らずのうちに眉根を寄せていた。

「ぜひ……ご家族、で、ご覧になってください」

 何とか思い出した言伝を絞り出すと、ウォルテールは首を傾げた。疑問に思っているのはカナンも同じである。詳細を問われたらどう誤魔化そうと咄嗟に思考を巡らせたが、どうやらその必要はなかったらしい。


「本当に感謝する。ありがとうな」

 頭に手を乗せられて、カナンは首を縮めて肩を竦めた。感謝されるべきは自分じゃなくて、ポネポセアに関する知識を持ち合わせていたエウラリカの方である。本人は決して有り難がられることを良しとしないだろうけれど。

 カナンの髪をかき混ぜて、ウォルテールが微笑む。

「――良い子だ」

 その言葉に、エウラリカの声が脳裏に蘇った。考えるよりも先に体が強ばった。『良い子ね』と囁いて、艶然と笑う少女の、弧を描く唇が瞼の裏に浮かぶ。



 立ち去ったウォルテールの背中を見送りながら、カナンはそっと首輪に触れた。

 ――そういえばエウラリカは、どうしてウォルテールが朝から城を訪れることを知っていたんだ?



 ***


「あら、私が仕組んだからに決まっているじゃない」


 長椅子の上で優雅に足を組んで寝そべりながら、エウラリカは当然のことのように告げた。

「お前、玄関まで行って何か分かったことは?」

 ちらと視線を向けられて、カナンは視線を遠くに投げる。

「……侵入者が出た、と聞きました。兵が立ち去った方向からして、侵入者が出て問題になるような施設はあまり多くありませんし、多分……武器庫でのことかと。警備の怠慢にも一因がありそうですが」

「そうね」

 エウラリカは頷き、それからひょいと腰の下に敷いていたクッションを引き抜いた。背の下に手を突っ込むと、一振りの短剣を取り出して掲げる。柄も含めて前腕ほどの長さ。とてもではないが、お遊びや料理用の刃渡りではない。


「貰ってきたわ」

 一切悪びれる様子もなく、至極当然のことのようにエウラリカは告げた。カナンは目を剥く。

「し、侵入者って……」

「私」

 エウラリカはしれっと頷くと、短剣を再び背の下に埋め、クッションを上に置いた。顎の先を指で弄びながら、エウラリカがゆったりと目を細める。愕然とした表情を向けてくるカナンを横目で見ながら、「何」と彼女はつっけんどんな声を出した。

「お前のためにウォルテールを呼び出してやったんじゃない」

「いや……別に……そんな急いで伝えようとは、思ってなかったというか……」

 余計なお世話だ、という意思を言外に込めて頬を掻くと、エウラリカは大層冷ややかな目をカナンに向けた。


「愚図ね。新年明けてから伝えて何になるのよ。少しは自分の頭で考えてみたらどうなの」

 突如として放たれた直裁な罵倒に、カナンは仏頂面を隠す気もなく「何の話ですか」と応じた。下手に口答えしたらまたろくでもない口撃が飛んでくる気配がしたのである。


「ウォルテールの話を直接聞いてきたのはお前じゃないの? その妹とやらがわざわざ高い金はたいて義姉のために花束を持ってくるなんて、それほど頻繁に顔を合わせていない証拠よ。そもそもウォルテール家の領地は帝都からそれなりに距離があるし、どうせ年末年始に久しぶりに家族全員が集合するんでしょう。そこでいざこざが起きたもんだからウォルテールも弱り果てて、こんな小僧に内心を吐露したんじゃない」


 後半、流れるように『こんな小僧』呼ばわりされた気がするが、いちいち突っかかるのはやめておく。

「……それがどうかしたんですか」

「少しは自分の頭で考えてみたらどうなの、と言わなかった? こんな察しの悪い手先、使い物になりやしないわ」


 そこまで言って、エウラリカはふと、握りこぶしを頬に当てて頬杖をついた。

「……それとも、そうした馬鹿なところがお前の美徳なのかしら?」とは、恐らく独り言であろう呟きである。前触れもなく双眸に浮き上がってきた憂いに、カナンは思わず唇を引き結ぶ。


 エウラリカは遠くに思いを馳せるように目を眇めた。その唇は何事か、短い言葉を囁いたようだった。

(……『エーレフ』?)

 見間違いかもしれないが、エウラリカの唇は確かにそのような音をなぞったようだった。

(何かの名前か?)

 カナンは密かに眉をひそめた。エウラリカは珍しく表に出してしまった感傷を振り払うように、小さく首を振る。


「何にせよ、お前、この期に及んで『新年明けてからでも良いんじゃないか』なんて言わないでしょうね」

 尊大な態度で足を組むと、エウラリカはじとりとカナンを睨めつけた。圧をかけるような視線に、カナンは慌てて思考を巡らせる。

「えっと……」と視線を足下に落とした。

「要するに、新年休みからウォルテール将軍が復帰したときには……、家族はもう解散した後ってことですか」

 エウラリカは鼻を鳴らすことで肯定の意思を表した。

「ぎくしゃくしたまま別れた後になって『実はこうでした』なんて聞いてもどうしようもないでしょ」

「まあ、『なるほどそういうことだったのか』ってなるだけですけど……」


 いちいち家族に手紙を出してまで教えることでもないし、来年また会ったときに話しては、また蒸し返すようなものである。多少急いででも伝えた方が良い内容だったかもしれない。けど――それにしたってあんなに悪口を言うことはないじゃないか、とカナンは唇を尖らせた。

 エウラリカは眉を持ち上げる。

「間に合わなかったら恩が売れないでしょう?」

「僕はそんなつもりありませんでしたし……」

「あら、そう。せっかくの好機をみすみす逃すのがお好きだなんて、大層なご趣味ですこと」

 これ以上何を言っても仕方ない、とカナンは目を逸らした。考え方が土台から違うのである。エウラリカは好機を逃すだとか言っているけれど、別に、全ての行動が何かに繋がっている必要なんて全然ないじゃないか。


 エウラリカの背に敷かれたクッション。その下に置かれているであろう短剣の方を眺めながら、カナンは膝の上に組んだ指を乗せた。

「ウォルテール将軍を呼び出すため『だけ』に短剣を盗んできたんですか? 夜に抜け出してまで?」

「さあ?」


 はぐらかすように肩を竦め、エウラリカは机の上に積んであった本の山を崩しながら呟く。

「――予定のひとつを早めただけのことよ」

 革の背表紙を指先で撫でながら、彼女は薄らと微笑んだ。




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