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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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花香2



 いつの間にか空は明らみ始め、カナンは白い息を吐きながら小走りに帝都を横切った。人通りが増えた道を歩くのは嫌だった。

 お仕着せと契約書を上着の下に隠し、胸元できつく抱える。これを見咎められる訳にはいかない、と思うと、自然と腕の力は強まった。


 冷たい空気を割りながら、カナンは狭い路地から水路脇の通路へ足を踏み出す。そのとき、視界の隅に、ひとつの人影が映り込む。まさかこんな早朝に出歩いている人間がいるとは。思わずぎゅっと体をすぼめ、逃げるように立ち去ろうとしたカナンの背に、驚いたような声がかけられた。

「カナン?」

 呼ばれて、カナンは弾かれたように振り返る。この帝都で、彼をその名で呼ぶ者はいない――否、いなかった。カナンは水路にかけられた小橋の上に立ち尽くす男を見つめ、数度瞬きをする。

「ウォルテール、将軍」

 舌が凍えたようで、うまく口が回らない。咄嗟にその名を呼んでしまったのはどういう訳なのか、自分でも分からなかった。


 橋を渡り、ウォルテールが歩み寄ってくる。カナンはその様子をじっと見守りながら、腕の下にある契約書の感触を確かめた。今、この男には一際会いたくなかった。先程アジェンゼの屋敷ではたらいてきた、自分の薄暗い行いを見透かされるような気持ちだった。

「こんな早朝から、一体何を……」

 自然と言葉には恨みがましさが混じる。「それはこっちの台詞だな」と当然の言葉を返され、カナンは更に縮こまった。

「また、エウラリカ様の我が儘か?」

 苦笑交じりの言葉に、カナンはすぐさま「いえ」と首を振った。このことがエウラリカと関与していることは、決して感づかれてはならないのだ。

(いや、でもむしろあの人に関わらないことで、僕がこんな時間にうろついている方が怪しくないか?)

 カナンは葛藤する。迷った挙げ句、「いや……」と微妙な返答を付言した。


 ウォルテールはしばらくカナンの表情を眺めていたが、ややあって指を鳴らして話題を変える。

「そういえば、ポネポセアという花は知っているか」

「ポネ……ポ……?」

 聞き慣れない響きに眉をひそめると、ウォルテールはさして落胆した様子も見せずに頷いた。何やら考えている様子の表情に、カナンは首を傾げる。言え、とばかりの視線に気づいたのだろう、ウォルテールはカナンに向き直った。



「昨日、家族みんなで久しぶりに集まった際、妹がポネポセアという花を持ってきたんだ。長兄の妻の懐妊祝いということで花束を持ってきたつもりだったらしいが、当の義姉がそれを堕胎薬だと言う。妹はそんなはずないと言い張るし、義姉も絶対にこれは堕胎薬に使われる植物だと言って、まるで話にならない」

 心底疲れた様子である。ウォルテールは眉間を揉みながら顔をしかめた。

「……なるほど」

 カナンは慎重に頷き、顎に手を当てる。家庭内のトラブルとしてはわりかし大きめである。……カナンにはどのみち縁のない話だが。

「結局、そういった訳で、どっちの言い分をことさらに信じることも出来ず、膠着状態って訳だ。居心地悪いことこの上ないよな」

 ウォルテールがやけに困った様子で語るのが、少々鼻についた。悪意があってのことではないと分かってはいるが。


 昨日の朝からずっと休みなしで働き続け、疲れが溜まっているのもあった。

「……それでも、家族で年を越せるのが、どれほど幸福なことか」

 面倒になって、カナンはちくりとウォルテールに嫌味を投げつけた。言ってから言葉が鋭かったなとは思ったが、今更退くことも出来ない。狼狽えるウォルテールを数秒見据えると、カナンは短く謝罪を述べて素早く話を切り上げる。

「それでは、この辺りで」

 そう告げて頭を下げた直後、ウォルテールは呼び止めるように手を伸ばした。その仕草に立ち止まれば、彼は静かな声で問う。


「――俺のことを、恨んでいるか」

(お前を恨んでいるかだって?)

 自分でも判然とせず、保留にしていた問いをいとも呆気なく投げかけて、ウォルテールは不安げな顔でカナンを見下ろした。どうしてこの男の方が、こんなに心許ない顔をするのだろう。カナンは眉を上げる。

 ウォルテールは目を伏せ、「そうだろうな」と苦笑した。その眼差しに浮かぶものが何なのかであるかを悟った瞬間、カナンは「いえ」と首を振っていた。


 罪悪感。同情。憐憫。そうした感情を込めた視線を向けられていることに気づいて、カナンは思わずウォルテールに親近の念を抱いた。おかしな話ではあるのだが。

(この人も、あの女の被害者なのだ)

 エウラリカの言葉を鵜呑みにするのなら、――ウォルテールはただ、命を受けてジェスタを滅ぼしただけなのである。それを進んで行った訳ではない。むしろこの表情を見るに、他者を征服して喜ぶ趣味はなさそうだと言って良かった。


 カナンは静かに囁いた。白い息がウォルテールとの間に広がる。

「あなたが、自分の意志で、僕の祖国を攻め落とした訳ではないのですから」

 ――ジェスタを滅ぼしたのは、エウラリカだ。恨み憎悪し、復讐すべき仇に据えるべきはやはり、エウラリカをおいて他にいないのである。


 エウラリカがジェスタを地に落とした。エウラリカが全ての糸を引いていた。憎むべき相手を見失うな。――己の気まぐれで一刻を征服させるような女。まるで悪鬼だ。

 カナンは奥歯を噛みしめ、自らに言い聞かせるように胸の内で呟く。


 ……僕は、エウラリカを、憎んでいる。いずれエウラリカをこの手で殺すのだ。


 決意をゆっくりと心の奥底に刻みつけた。カナンは小さく頭を下げ、素早く足を踏み出す。ウォルテールの目から隠れるように路地へ滑り込み、宮殿へと向かった。宮殿の奥ではエウラリカが待っている。

 まだ、機は熟していない。然るべき時、然るべき場所、然るべき方法で――自分はエウラリカを殺すのだ。決意を再び新たにして、カナンは首輪を握りしめた。



 ***


「あら、何かあったの? そんなに良い目をして」

 部屋の扉を叩いたカナンを迎え入れながら、エウラリカはころころと楽しげに笑った。カナンは弾んだ息を落ち着けるように肩を上下させ、エウラリカを睨みつける。エウラリカは艶然と微笑みながら扉を大きく開け、カナンに入るよう促した。


「お前のそうした目つきは他の人間にはなかなか得がたいものだから、大切にしなさい」

 エウラリカは睥睨をまるでものともせず、平然とそんなことを言ってのける。カナンが後ろ手に扉を閉めると、エウラリカは肩越しに彼を振り返り、目を細めて笑った。

「ああ、でも人前で私を直視するのはやめなさいね。――主人をそんな怖い目で睨みつける『奴隷』なんていないわよ」

 はっきりと放たれた単語に、カナンが体を強ばらせるのを確認したらしい。エウラリカは頬を吊り上げる。


「それで? 首尾は?」

 簡潔な問いに、カナンは盗んできた契約書を取り出すことで答えた。丸めた羊皮紙を手渡すと、エウラリカは怪訝な表情でそれを開き、――それからゆっくりと破顔する。目を輝かせ、歯を見せて笑う表情は、なかなかお目にかかれるものではない。

「まあ」とエウラリカは頬に手を添え、表情全体を紅潮させながら声を漏らす。その視線がカナンに向いた。エウラリカからこんなに明るい眼差しを向けられたのは初めてのことである。カナンは思わずその場でたたらを踏んだ。

「良くやったじゃない、お前!」

 エウラリカは契約書を胸元に抱いて、満面の笑みを浮かべる。初めての手放しの賞賛に、カナンは返答に困った。


 エウラリカの喜びようと言ったら、まるで本当の幼子のようである。どういう訳か、エウラリカの姿に、妹の笑顔が重なった。ありえない、とカナンはすぐにそれをかき消したが。

 誕生日の朝、枕元に贈り物を見つけたときみたいなはしゃぎようだ。が、実際にエウラリカが喜んで抱いているのは、自国の大臣が横領をはたらいていた証拠である。

(何て言ったら良いんだ、これ……)

 カナンは表情に困って、真顔になる。子供のような振る舞いで笑う姿と、国の中枢に関わる事象を手のひらで操る姿が、どうにも重ならない。

(……気味が悪い、)

 そんな感情を抱くのを、カナンは止められなかった。


 美しい少女が、朝日の中で笑い転げている。酷く満足げに猫が喉を鳴らしているみたいだった。

「これであの男を始末できるわ!」

 エウラリカは高笑いを響かせ、唇を歪ませていた。



 ことの顛末をカナンに報告させて、エウラリカは「ふぅん」と足を組んだ。笑いの波は収まったらしい。

「なるほどね、大成功じゃない」

 口角をくいと上げて、エウラリカは頷く。カナンは思わず息を漏らして笑った。泡を食って部屋から逃げていく参加者たちの姿を思い出し、愉悦がこみ上げる。……大成功、という評価は、間違いではないだろう。


「それで、この契約書をどう使われるおつもりで?」

 部屋に運ばれて来た朝食に手を伸ばしながら、カナンは契約書を一瞥した。エウラリカは膝の上に頬杖をつき「そうね」と視線を遠くにやる。

「――それは、あとでのお楽しみ」

 にこりとエウラリカはさも純真そうな笑顔で、遊びに行く計画でも練っているみたいに明るい声で思案する。『お前に知らせる筋合いはない』程度の嫌味は言われると思っていたが、その類はいつまで経っても飛んでこなかった。随分とご機嫌らしい。

「せっかくお前が持ってきてくれたんですもの。素敵な使い方をしなくちゃね」

 うふふ、と楽しげに笑い声を漏らして、王女は契約書の文字列を指先でなぞっていた。



 その日の昼過ぎ、ふと思い出してカナンはエウラリカを振り返った。

「そういえば、ポネポセアという花を知っていますか」

 長椅子の上に寝そべり、肘掛けに寄りかかって本を読んでいたエウラリカは、その言葉にゆっくりと顔を上げた。それはこれまでに見たことのない眼差しだった。とろりと絡みつくような、探るような視線を向けられ、カナンはたじろぐ。

「……その植物が、何か?」

 唇をほとんど動かさず、エウラリカは囁いた。深い青緑の眼差しは、じっと、静かにカナンを見据えている。


 カナンはごくりと唾を飲んでから、口を開いた。

「帰る道すがら、ウォルテール将軍と鉢合わせをして」

 その言葉に、エウラリカはぱちりと大きく瞬きをした。「あら」とその表情が一変する。意外そうに眉を上げ、「ウォルテール?」と体を僅かに起こした。


 ウォルテールの妹がポネポセアの花束を持参し、義姉はそれを堕胎薬であると糾弾した。妹はそれを否定し、お互い言い分を譲らないので膠着状態である。

 そんな風に、カナンが手短に事情を説明すると、エウラリカは「ふぅん」とやや興味を失ったような声で唇を尖らせ、ため息をつく。

「大したことのない話ね」と再び本に目を落とし、エウラリカは耳から落ちた髪を片手で払いのけた。

「……つまり?」

 カナンが首を傾けると、エウラリカは短く鼻を鳴らす。


「ポネポセアの実は、確かに西方では堕胎薬としてよく使われるわよ。でも、花には特に利用法なんて。ときどき香水とかに使われる程度かしら」

「ポネポセアの、実?」

 カナンが目を瞬くと、エウラリカは顔を上げることもなく「ええ」と応じた。

「要するに、その妹とやらは調べもせずに曰く付きの花を持っていった配慮なしの馬鹿だし、懐妊したばかりというその義姉も、うろ覚えの知識で相手が悪いと思い込む大間抜けよ」

「……すごい言いようですね」

 カナンが窘めるように言うが、エウラリカは「違う?」と一切自分の発言を顧みるつもりはないらしい。正直言って否定のしようがないので、カナンは曖昧に唸ることで応えた。


 エウラリカが時折ページをめくる音を聞きながら、カナンは部屋の片付けをする。エウラリカが読み散らかした本に栞を挟んで、机の端、エウラリカの手の届く位置に積み重ねた。

(何の本を読んでいるんだ?)

 ふと気になって、背後を通りかかった際にエウラリカの手元へ目を落としてみたが、全く読めない。花が描かれた挿絵だけを確認して、カナンは顔をしかめた。

(どこの言葉だよ……)

 馴染みのない文字に、カナンは思わず「うへぇ……」と声を漏らす。今は帝国語を頭に叩き込むだけで精一杯である。これ以上変な言語に手を出すつもりはない。



「そういえばお前、ウォルテールのことは嫌い?」

 背後に立っていたカナンの気配を感じ取ったのか、エウラリカが唐突に口火を切った。脈絡のない問いに「え?」と眉をひそめると、エウラリカは肩越しに振り返る。

「ウォルテールに恩を売っておくのも手だと思うわよ。あれは致命的に優しい男だけどそこが美徳だし、案外冷静で流されにくい質の男だから、手駒に入れておけば役に立つわ」

 肩に乗った髪を指先で梳きながら、エウラリカが唇で弧を描いた。

「お前とあの男が繋がっていると便利なのよ。お前にとっても利のある提案だと思うのだけれど」


 カナンはしばらく瞬きを繰り返した。

「……要するに?」

「あら、察しが悪いのね。もしかして寝不足? 疲れているならちゃんと寝た方が良いわよ」

(誰のせいで徹夜したと思っているんだ)

 言ってやりたいが、それをそのまま投げつけてはエウラリカの思うつぼだ。カナンは歯ぎしりをして、口から出かかった言葉を飲み込んだ。


 カナンは数秒黙り込んでから、慎重に言葉を選ぶ。

「ポネポセアについて、ウォルテール将軍に伝えろ、と?」

「伝えろとは言っていないわよ。お前にその意志があるかどうかを訊いているだけじゃない」

 ああ言えばこう言う、とはまさにこのことだ。下手に帝国語が分かってきただけに、苛立ちもひとしおだった。


 ウォルテールの顔を思い浮かべる。ジェスタの王都を瞬く間に征服し降伏を要求した、憎き将軍の冷ややかな眼差しがよぎる。馬鹿みたいに罪悪感を満たした目で自分を見下ろす男の表情が瞼の裏に焼き付いていた。『カナン』と自分を呼ぶ声が耳の奥に蘇る。

「……まあ、伝えるのもやぶさかではないと思っていますが」

 渋々そう答えたが、エウラリカは「ふーん」と呟いただけだった。

(いや、それだけかよ)

 ちょっとした葛藤をしてしまった自分が道化みたいじゃないか。いちいち文句をつけていたらきりがないので黙るが、カナンは二、三度ほど舌打ちをしたい気分だった。


 昨日の朝から一睡もせずに動き続け、体力は限界だった。エウラリカの目の前で寝るのはどうかと思ったが、……本人が『寝た方が良い』と言ったのだ。

(礼儀なんか知るものか)

 内心で吐き捨て、カナンは長椅子の上に転がって毛布を被った。




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