潜入3
物陰で素早く着替えると、カナンはアジェンゼ邸の裏へ回り込む。使用人が表の門から出入りするはずがないという程度の常識は持ち合わせていた。
(……で、どうすれば良いんだ?)
恐らくこれが出入り口だろう、という扉を前にして、カナンは凍り付く。勝手に入って良いものなのか、それとも何かしらお伺いを立ててから入るものなのか。
取りあえずノックをするべきか、と片手を挙げかけた直後、凄まじい勢いで扉が開かれた。もろに扉にぶつかったカナンは吹っ飛ばされ、扉の脇の花壇にひっくり返る。扉の取っ手を掴んだまま、若い娘が屋敷の中に向かって大声を出した。
「えー!? 何が必要ですってー!?」
「薪が全然足りてないんだよ! そこらにいる男手連れて買い付けに行ってきな!」
「はぁい!」
開け放たれた扉の向こうからは、足音や怒鳴り声、重いものを運ぶ音といった、様々な喧噪が漏れてくる。カナンは呆気に取られて、花壇に尻餅をついたまま固まった。
「……ん?」
勢いよく扉を閉めた少女が、地面に転がったままのカナンを見下ろす。
「君、今暇!?」
「えっ、あ、はい」
「行くよ!」
「ええ……!?」
手で合図され、カナンは慌てて立ち上がると、よたよたと彼女の後を追った。
着ている服からして、この娘も使用人なのだろう。癖のある赤毛を高い位置でくくっているが、忙しさのためか、その毛先はすっかりほつれて顔にかかっている。慌ただしく手押し車を引っ張り出す様子を少し眺めてから、カナンは慌ててそれを手伝った。
他にも数人の使用人が駆けつけて、二輪の大きな手押し車を動かし始める。そのまま屋敷の敷地を出て行こうとするので、カナンはやや躊躇ってから、それについていった。
「そういえば、さっき扉ぶつけちゃったでしょ。ごめんね」
額の汗を拭いながら、使用人の少女がカナンを窺う。一瞬その表情を観察してから、「ううん」とカナンは無難に答えた。
(怪しまれてはいないみたいだな)
見ない顔だ、と詰問されることもなく、当然のように使用人に紛れ込むことが出来ている。カナンはほっと胸をなで下ろした。
手押し車に手を添えながら、カナンは狭い道の両脇にそびえ立つ、背の高い建物を見上げた。アジェンゼの屋敷は大通りに面した大邸宅だが、一本裏に入ってしまえば、案外戸建ては少ないみたいだった。恐らくこれらの建物が集合住宅なのだろう。
石畳に車輪が跳ねる。それを押さえて、カナンはそっとため息をつく。……もしかしたら、今日は思っていた以上に大変な一日になるかも知れない。
「あーあ、薪がいつの間にか減って、急いで買い付けに行くの、これで三度目だよぉ」
使用人の少女が、頭の後ろで手を組みながら唇を尖らせた。それに応じるように、手押し車を引く男がため息をつく。
「いくら薪が高いからって、うちから盗まれちゃあ堪んねぇよなぁ」
「盗まれる?」
その言葉に、カナンは目を見開いた。「うん」と娘は頷いて、頬を掻く。
「薪ってどこかから輸入してるじゃん? 何か分かんないけど輸出されないとかで、ここ最近帝都では薪が不足してるんだよねぇ」
いまいち良く理解していないらしい言葉に、カナンはすいと視線を持ち上げた。少し考えてから「ああ、」と声を漏らす。
「東ユレミア州を巡る紛争のことだね。薪炭材はユレミア王国から輸入しているけれど、先の戦争で勝ち取った領土に関して帝国と対立しているんだ。それで薪の輸出が制限されている」
「ふーん?」
この紛争は、カナンがジェスタにいた頃から続くものである。ジェスタへの影響はほとんどなかったが、帝都ではその余波が確実に来ているらしかった。
「じゃあ次はその国を狙うのかな?」とは、恐らく軍事的に制圧するという意味だろう。おいそれと答えられるような話題ではなく、カナンは曖昧に首を傾げることで答えを濁した。
(ユレミア王国は大きな国だし、距離もある。いくら帝国と言えど、そんな簡単に手に入れられる土地では……)
考えても詮無いことをつらつらと考えながら、カナンは荷車の横について狭い路地を歩いた。
店に着き、薪を手押し車に積むのを手伝う。ここでも代金は後で屋敷の方に請求するらしく、薪の価格が高騰したといってもそれがどの程度なのか分からなかった。
「う……重い」
そして手押し車をえっちらおっちら押して、再び屋敷まで戻る。冬だというのに汗だくである。
(潜入どころか普通に働かされている)
内心で盛大にぼやきながら、カナンは薪を抱え、ついにアジェンゼ邸へ足を踏み入れた。
***
夜会本番が始まる頃には、すっかり疲労困憊だった。何もしないでいて怪しまれるのは避けたい、と、机や椅子の配置の手伝いを買って出たのが間違いだった。
「つ……つかれた……」
壁に寄りかかって、カナンは痺れたようになっている腕をだらんと下げる。気分はすっかりこの屋敷の使用人だった。
招待客が次々入ってくる玄関を見下ろしながら、カナンは息を吐く。その中に、時折、城内でアジェンゼと共にエウラリカを待ち伏せしていた顔が混ざっていた。それらをしっかりと目に焼き付け、一度頷く。
「……よし」
低く呟くと、カナンは襟元を正した。
……密会の場所を突き止め忍び込み、密約を阻止しろ。カナンの肩にはあまりに重すぎる任務のように思えるが、あの横暴な主人が命じるのだから仕方ない。
しゃらり、と鈴が鳴る。カナンは喉元で揺れる鈴を手のひらで握り込んで、きつく目を閉じた。首輪はカナンの首を締め付けないが、常にそこにある。鍵によって留め金を戒められ、緩めることは出来ても外すことは出来ない。
(永遠に奴隷でなんぞあるもんか)
カナンは引き千切らんばかりに首輪を握りしめた。丈夫な革はカナンの力ごときでは軋みもしない。うなじの皮と首輪が擦れ、熱くなる。その痛みすらも、決意を焦がす燃料のような気がした。
給仕に紛れて配膳などを行いながら、カナンは会場の様子を窺った。まだ主催であるアジェンゼは入ってきていない。が、見覚えのある顔はちらほらと混じっている。アジェンゼと共にエウラリカの部屋を訪ねてきたような連中である。しかし誰が誰やら。
(名前を聞いておくんだったな)
エウラリカに訊けば、アジェンゼの取り巻きの名前と身分も分かっただろう。顔だけを覚えている状態だけで彼らの動向を見張るのは存外難しい。
「何ぼうっとしてるんだ、その皿はこっちだぞ」
「あ、はい!」
知らない使用人に背中を小突かれ、カナンは慌てて歩き出した。
このような催し事をいち私人が開くなど、ジェスタでは考えられなかった。数人の客人を招いて小規模な晩餐会を開くならまだしも、大勢に招待状を配って大きな食事会を開く?
(凄まじい財力だ)
両手で持っている皿を見下ろす。金細工の施された白磁の平皿である。こういった物の値打ちが分からないカナンにも、これが相当に高級なものであることは分かる。しかもこの屋敷には、これと同じ皿がいくつも保管されているのだ。
(ふーん……)
広い会場を横切りながら、カナンは居並ぶ招待客を横目で見た。豪奢な衣装を身に纏った人間ばかりである。その首や腕、襟元で輝く宝石から目線を外しながら、カナンは部屋の隅の暖炉を見やった。
(これほどまでに豊かなこの帝都には、薪すら買えない人間が、同時に存在している)
……別に、だから何だという話ではないのだが。
配膳のために厨房へ戻りかけたところで、盛大な拍手が会場を満たした。肩越しに振り返ると、大きな扉から痩せぎすの小男が入ってくるところだった。
「アジェンゼ、」
こっそりとその名を呟くと、カナンは厨房に行こうとするのを一旦やめて、再び会場に戻る。目線を鋭くして、その顔や服を丹念に眺めた。
アジェンゼが身に纏っているのは、どうやら普段エウラリカが着ているものと似たような、大ぶりの巻衣らしい。紫紺に金の差し色が入れられた布は、たっぷりと襞を垂らしてその矮躯を覆い隠している。
小賢しく神経質そうな表情を一瞥して、カナンは怪しまれないよう足早に厨房へ向かった。
***
デルギナ・ユネールは、部屋の隅に寄って、招待状を再度確認した。
(密談の会場はここで良いんだろうな)
デルギナに送られてきた招待状には、夜会の半ば――後西の刻、この部屋にて『仲の良い内輪での憩いの場』が用意されていると記されている。それがまさか本当に仲良し同士の楽しい飲み会などと思うはずもなく、デルギナは人目を忍んで屋敷の奥まで歩いてきた。
デルギナは薄暗い部屋の中をざっと見回す。数年前、予算を司る高位の官僚になってから、アジェンゼから『誘い』の招待状が来るようになった。顔ぶれはいつもと変わりないようだ。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
給仕の少年からグラスを受け取り、デルギナはそれを一口含む。甘い果実酒である。先程まで夜会場で好んで飲んでいたものと似たものだった。
黒髪を後頭で結った少年が離れていくのを見送って、デルギナは息を吐く。
(……本当に、大丈夫なんだろうな)
内心で呟きながら、頭を掻いた。扉が開き、小柄な男が入ってきたのを見て、デルギナは部屋の隅から、中央の円卓へと近づいた。
「ご足労、感謝する」
アジェンゼは濃い紫をしたトーガを手で正しながら、尊大な調子で呼びかけた。応じるように数人が声を上げ、アジェンゼを迎え入れる。デルギナは注意深く周囲を見回しながら、席に着いた。
(もしこの密約がどこかに漏れたら、俺も無事ではいられないだろう)
この場にいる全員が、果たして本当に信用できるのか。その点が、デルギナの懸念だった。
会話が進む。デルギナはあまり口を挟むことなく、交わされる言葉を慎重に咀嚼していた。それぞれの思惑が交錯しつつも、基本的な構造は変わらない。――すなわち、国家予算を横流しして、別の用途に使う、ということである。
デルギナは、以前の密談ののち、とある話を持ちかけてきた協力者の顔を思い浮かべた。当の本人は直接アジェンゼに近づくつもりはないらしい。年末年始は別の用事があるとかで会うことは出来ないが、年明け、ここで見聞きしたことを伝えるように頼まれていた。
(……あの男も大概恐ろしい)
妻が懐妊した、と少し前に喜んでいた同じ口で、外患誘致を持ちかけるのである。『良いか、これはこの国のためなんだ』と言葉巧みに語る男の目を思い出す。
(さる方と結びつき、新ドルト帝国を明け渡す。流れる血は出来るだけ少ない方が良い)
デルギナは昏い目をして、円卓につく面々を見渡した。他の人間はどのような意志でここに座っているのだろうか。
アジェンゼの都合の良いように動く代わりに、自分の懐へ横流しされる国家予算。それらはほとんど全て、デルギナ達の『主』へと更に流れてゆく。帝都の民たちの血税や、新たに征服した国々から吸い上げた賠償金。それらを司るのは皇帝ではない。それはこの国で暗躍する官僚達であり、自分たちであり、そしてこの国に手を伸ばさんとする『あの方』である。まさに今、帝国はその手に落ちようとしていた。
しかし、それが何だって言うのだ。この国は既に腐りきっていた。官僚達は己の私腹を肥やすために共謀し、帝都では権謀術数が巡らされている。数々の糸が絡み合う帝国は、しかし、それでもなお他国へと侵攻し、その範囲を拡大しようとしていた。その勢いはもはや異常とも言えるような有様で、帝国の内部が瓦解しようとしていることには目もくれない。
そんな国に、未来はない。だからデルギナは寝返ったのだ。――『あの方』にこの国を明け渡す。それがこの国を長らえさせることに繋がると信じている。これは国の未来を憂慮する官僚の本分である。これは正義だ。大義だ。何を疑うことがあろうか。
(全部、この国の、ため)
デルギナは幾度となく繰り返してきた言葉を、胸の内で再度呟いた。
机の上で、契約書が回される。順に署名をして、隣の者へと渡すのだ。デルギナも用心深くその文面を眺めてから、慎重に自分の名を記した。他の人間の名をざっと眺める。よく見かける名、あまり覚えのない名、その顔ぶれはばらばらだった。
契約書が一巡りする。アジェンゼを除く全員が署名を終えた。最後にアジェンゼがペンを取り上げようとした、その瞬間。
「何だ!?」
突如として、机の中央に置かれていた燭台が倒れた。ふっと火がかき消え、部屋は暗闇に包まれる。デルギナはがたりと音をさせて立ち上がりかけた。
「動くな!」
誰かが怒鳴る。その言葉に、デルギナもその場で凍り付いた。ここで下手に行動を起こすのは得策ではない。この場にいる誰もが、自らの保身と利益を天秤にかけた上でここにいるのである。神経質になっているのは当然だった。
アジェンゼの声がざわめきを割り、周囲を威圧するように響く。
「落ち着け、ただの偶然だ。……誰か、代わりの灯りを」
使用人が慌ただしく動く音がし、円卓についていた者たちは息を吐いた。デルギナも思わずその場に座り直し、胸をなで下ろす。そうだ、変に騒いで、この密会を感づかれる方が問題である。
(全く、驚かせてくれる)
暗闇の中で、燭台のあった方向を睨みつけながら、デルギナは肩を竦めた。
――直後、けたたましい音を立てて、窓ガラスの一枚が弾け飛んだ。耳を刺すような破砕音に、今度こそ、燭台が倒れたときとは比にならない悲鳴が上がる。デルギナも咄嗟に頭を抱えて机に伏せた。
「動くなっ!」
アジェンゼが怒鳴る。それに頷くように、暗闇の中からいくつかの相槌が聞こえた。デルギナは一度咳払いをすると、おずおずと口を開く。
「きっと、いたずらでしょう。何者かが外から石でも投げ、それがたまたま、この窓に当たった。そういうことです」
デルギナにしてみれば、この場で疑念が広がり、内部に亀裂が入ることが一番恐ろしかった。もし内通者がいるという話の流れになってしまえば、自分の身の安全すら怪しい。なぜならデルギナ自身が、この会合のことを外部へ筒抜けにしている内通者だからである。……しかし、自分は窓など割っていない。
(まさか、他に内通者が?)
そんなはずない、とデルギナは首を振る。自分で言ったばかりじゃないか。……そう、これはいたずらだ。
窓の外から冬の冷たい風が吹き込んだ。デルギナはぶるりと体を震わせる。
「そうだ、その通りだ!」と誰かが頷いたようだった。
「ここのところ貧民どもは困窮しているからな。鬱憤が溜まったところにこんな立派な屋敷があれば、石を投げたくもなるというものだろう」
はは、と乾いた笑い声が広がる。デルギナも、誰にも見えないのを承知で大きく頷いた。口からは安堵のため息が漏れた。
「……いいえ、それは有り得ません」
――それを裂くように、涼やかな少年の声が告げる。ざわめきが、ぴたりと止まった。
その声は僅かに訛りを残しつつ、明瞭な言葉で淡々と語る。
「ガラスは一欠片として部屋の中に飛んできてはおりません。……全て、外へ落ちております」
デルギナは弾かれたように振り返り、足を伸ばして床を探った。柔らかな絨毯が靴底を受け入れる。……そこに、ガラスの破片の感触は混じっていない。それが意味することは何か。
(――今、この部屋の中に、内通者がいる)
「う、うわぁあああ!」
それが意味することを悟った瞬間、デルギナは思わず叫んだ。続けざまに、別の悲鳴が上がる。
「わ、私はここで帰らせて頂く!」
一人の男が上擦った声で告げ、慌ただしく部屋を出て行った。それが皮切りだった。一斉に廊下へ向かう参加者たちに混じって、デルギナも駆け出す。部屋を出る直前、一度だけ部屋の中を振り返った。――円卓の上には、倒れた燭台のみが転がっているだけだった。
***
(……まさかこんなに上手くいくとは思わなかった)
カナンは使用人の荷物置き場から自分の荷物を引っ張り出しながら、内心で呟いた。まだ宴はたけなわ、他の使用人は忙しく働いている最中なのか、荷物置き場に人の姿はない。それを良いことにカナンは抱えていた紙を一旦置き、手早く着替え始めた。
紙。それは先の密談において署名がされた契約書である。暗闇に乗じてこっそりかすめ取ってきたのだ。今回に限っては、『密談をぶち壊してこい』としか命じられていないが、エウラリカはこの契約書を必要としているだろう、とカナンは確信していた。
ここには、密談で交わされた会話の内容から、参加していた人間の名前に至るまで、全てが記されている。密談の様子を窺わせるものであり、そして密約の確固たる証拠である。
着替え終え、今まで着てきたお仕着せと丸めた契約書とを一緒に胸元に抱えてから、カナンは先程までのことを思い返す。
密談の場へ侵入し、その成り行きをずっと見守った。覚えられるだけ色々なことを頭に詰め込んだつもりだが、何かしら漏れはあるだろうな、とカナンは思う。……それから、部屋が薄暗いのを良いことに、机の上に盆を滑らせて燭台を倒し、続けざま大皿を窓に投げつけたのだ。話が穏便にまとまりそうだったので、危険だとは思いつつも声を発して動揺を煽った。
(動悸が止まらない……)
カナンは胸元で拳を握りながら、深いため息をついた。一つでも間違ったら、自分の行動を見咎められて捕らえられるような行為ばかりである。――ひとまず、成功ということで良いのだろうか。
これ以上ここにいる必要はない。カナンは上着の下にお仕着せと契約書を隠して、それを抱えるように胸元を押さえる。
「……帰るか」
誰に言うでもなくそう呟いてから、カナンは思わず舌打ちした。エウラリカの元に行くことを当然のように『帰る』と表現してしまった自分自身に身震いがする。一度唇を強く噛んでから、カナンは足早にアジェンゼの屋敷を後にした。




