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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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潜入2



 渡された屋敷の見取り図をざっと頭に入れる。エウラリカが言っていた通り、確かに単純な構造である。ある程度主要な部屋の配置を覚えると、カナンは見取り図を閉じて、もう一枚の紙を手に立ち上がった。

 エウラリカは机の上に数枚の銀貨を積んでいた。カナンは少し躊躇ってから、それを掴んで懐に入れる。


 エウラリカの姿を目で探したが、やはり部屋の中にはいないらしい。この部屋から出ているとき、常に温室に籠もっているという訳でもない。けれどその姿を見かける者は少ない。

(一体、どこをうろついているんだか)

 カナンは内心で呟いた。今更エウラリカがどんなことをしていても、大した驚きはないだろうけれど。



 城外に出た経験は、実はあまりない。エウラリカはこれまであまりカナンにそのような命令を出さずにいた。

(帝都を出歩くのは、初めてだ)

 今までにも、図書館への使いっ走りや荷物の受け渡しといった作業はあったけれど、こうして自分の足で自由に帝都を歩くのは初体験だった。

 整えられた石畳を踏みながら、カナンは緊張気味に帝都の道を歩いた。時刻は昼前、道は市場から帰る市民たちで混み合い、前後左右、全ての方向から喧噪が押し寄せて来る。カナンは今にも目を回しそうだった。祖国、ジェスタにいたときだって、こんな熱気の渦に巻かれることなんてなかった。

(これは祭りじゃないのか? 毎日がこうなのか?)

 もしそうだとしたら、この帝都は、一体どれほど膨大な市民を抱えているというのだ。



 ジェスタは新ドルト帝国より北東の山間地に位置する国で、その中枢は山から川が下りて地形が開ける、まさにその境目に置かれていた。そこから扇央、扇端に至るまでを覆うように広がるのが、ジェスタ王国随一の都市、王都である。

 古くから製紙業が盛んな土地であり、それに呼応するように、数えきれぬ量の書物が記され、保管されてきた。古今東西の知を千年以上の間集め続け、そうして今も成長を続ける結晶こそが、ジェスタが擁する最大の施設、大陸中央書庫だ。その大きさに比べれば、この城に隣接された図書館など、まるで小屋のようだった。


 ――ジェスタの宝がそうした歴史、あるいは知であるのならば、恐らく、新ドルト帝国のそれは、この豊かさなのだろう。カナンはそんなことを思った。

 蜘蛛の巣のように張り巡らされた水路は、その底に敷かれた丸い石までもが鮮明に見えるほどに、はっきりと澄んだ水が流れていた。その上にかけられた無数の小橋を、市民たちが忙しなく行き交う。街路樹の類はあまりない。露店には様々な国籍の人間が立ち、見たこともないような商品の類が並べられていた。活発に交わされる呼びかけの中に、カナンの知らない言葉が混じっている。声の主の顔立ちとその発音からして、西方の言語だろうか。

『すごいな……』

 思わず母語に戻って、カナンは小さく呟いた。



 記されていた住所の番地まで到達し、カナンはその店構えを見上げる。それほど大きくはないが、小綺麗な服屋である。それを見つめながら、カナンは心臓が嫌な感じに早鐘を打つのを感じていた。冬だというのに、汗が背中を伝った。

(……本当に、大丈夫なのか?)

 怪しまれて警邏に突き出される、なんてことになったら大変である。カナンはエウラリカに渡された紙片をぎゅっと掴む。皺が寄る感触がした。

(店の名前……違う気がするし……)

 住所はここで間違いない。でも紙片の下部に記された名前は、店の看板に書かれているそれとは明らかに異なっていた。

(でもこの辺りに服が売っていそうな店は他にない)

 大丈夫だ、と複数回自分に言い聞かせて、カナンはゆっくりと深呼吸をした。


 ついに意を決して扉に手を伸ばそうとした瞬間、扉が大きく開かれて、カナンは思わずたたらを踏む。

「――さっきから店の前で何をしているんだ、坊主」

 ひげ面の店主に低い声で凄まれて、カナンは震え上がった。咄嗟に声が喉でつっかえて、「あ……」と要領を得ない母音しか出てこない。

 店主は訝しむようにカナンを上から下までじろりと眺め回した後、握りしめていた紙をカナンの手から取り上げた。止める間もなく紙片を開かれ、血の気が引く。あれが、迂闊に見せて良いものなのか、カナンには判別できない。


「このサインは……ああ、アジェンゼ様のところの」

 しかし店主は合点がいったようにすぐさま頷くと、カナンに紙を投げ返した。

「一着で良いんだな?」

「は、はい」

 慌てて首を上下させる。店主は「待ってろ」と言い置いて店内に引っ込むと、程なくして戻ってくる。その手には畳まれた服が乗っており、どうやらこれがお仕着せで間違いないらしい。

 ……一体何が起こったのか、まるで分からなかった。カナンはぽかんとしたままお仕着せを受け取り、立ち尽くす。忙しそうに再び店の中へ戻ろうとする背中を、ぼうっと眺めた。程なくして我に返り、「あの、お金って」と声をかけると、店主は首を傾げた。


「とんだ世間知らずだな。坊主、働くのは初めてか」

「え? あ……はい」

 ぎくしゃくと頷くと、店主は肩を竦める。

「屋敷と契約しているような店舗は、あとでまとめてこっちから請求するのが常識ってもんだろう。使用人に払わせるなんてみみっちいことをしていたら、とんだ恥さらしだ」

「へえ……」

 思わず素で声を漏らしたカナンに、店主は呆れたような目を向けた。カナンは内心でエウラリカに悪態をつく。――そういう知識くらいは教えといて貰いたいものである。


「初めてでアジェンゼ邸か……」と店主は腕を組み、それから脅すようにカナンに顔を寄せた。

「あそこでは、食器一つ、窓ガラス一枚でとんでもない金が飛んでいくんだからな。――絶対に粗相をするんじゃないぞ」

 実を言えば粗相をするために行くようなものだが、カナンは神妙な顔で頷いておいた。



 ***


 では、エウラリカが持たせたこの金は何なのだ。懐で弾む銀貨の感触に、カナンは微妙な顔をする。

 大常識だ、というような店主の口ぶりからして、お仕着せを買うのに即金がいらないことくらい、エウラリカが知らないはずがない。じゃあこれは何の金だ。


 折しも時刻は昼時で、頭上、天高く昇った太陽が、冷えた空気を暖めるべく街を照らしている。カナンは空腹を覚えた。

(そういえば『駄賃』って言っていたな)

 カナンはどこかの露店から漂ってくる香ばしい香りの方向に目をやりながら、エウラリカの言葉を反芻する。……要するにそういうことだと思って構わないのだろうか?

 どうせ金の使い道を後で問いただされることもないだろう。カナンはそう独りごちて、昼食になるものを探しに露店街へ近づいた。



 屋台に近づくと、様々な香りが一気に押し寄せてくる。カナンは思わず唾を飲んで、店を順に眺めた。その中でも一際強い香りを漂わせている店に近寄って、カナンは懐の銀貨に触れる。値札の数字は読めるが、如何せん自分の持っている硬貨の価値が分からないのである。

(他の人はみんな銅貨で払っている)

 ジェスタでの常識がそのまま通用するのなら、銀貨は銅貨より高価な硬貨のはずだ。ここで大量の銀貨をじゃらりと開陳するのが得策とは思えなかった。カナンは懐から銀貨を一枚取り出すと、それを握りしめて店番の前に立つ。恐らく一枚で足りるはずだ。

 見るからに熱い鉄板の上で、厚みのある肉を焼いている。肉の焼ける音と匂いで、腹がきゅっと締まった。カナンが近づいたのに気づいて、店番が顔を上げる。カナンとさして変わらないような少年だった。

 帝国に来て、金を払うのは初めてのことである。ジェスタにいた頃も自分で金を払うなんて経験はほとんどなく、カナンは自分が滑稽なほど緊張していることに気づいて、ゆっくりと息を吐いた。

「ひ、一つください」

「ほいよ」

 少年は頷いて、片手を出す。カナンが恐る恐る銀貨をその手に乗せると、少年が手を引っ込め、数枚の銅貨をカナンの手に戻した。釣り銭らしい。

「待ってな」と少年はぞんざいな口調でカナンに声をかけ、焼いていた肉をひっくり返した。肉をしばらく鉄板に押しつけるようにしてから、鉄串を刺して肉を持ち上げる。すんなりと串が入った様子を見るに、随分と柔らかい肉らしい。カナンは再び唾を飲む。串に刺した肉を傍らの壺に入ったたれにくぐらせ、棚に並べていたパンを手に取る。

「垂れてくるから気をつけろよ」

「あ、ああ」

 パンの切れ込みに肉を押し込み、紙で挟むと串を引き抜く。少年はそれを雑な仕草でカナンに差し出した。カナンは慌てて抱えていたお仕着せを脇に挟み、油の染みてきた紙を押さえるようにして受け取る。

(買ったは良いけど、どこで食べれば良いんだ?)

 店の前でまごつくカナンに、店番の少年は「あっちの噴水の方にでも行けば?」と迷惑そうな顔で告げ、道の先を指した。

「えっと、ありがとう」

「落とさないようにしろよ」

 片手を挙げると、少年はカナンから目を逸らして作業に戻った。



 お仕着せを片腕に抱えたまま、広場の中央に作られた噴水の縁に腰掛ける。噴水とは言うが、この寒さである。凍結を防ぐためなのか、噴水の出口は止められているようだった。水がゆっくり循環しているだけのただの池である。

 カナンは大きく息を吸うと、肉を挟んであるパンを頬張った。じゅわ、と油が溢れると同時に、口の脇から甘辛いたれが零れる。それを慌てて指先で受け止めてから、カナンはあたふたとした。脇にお仕着せを挟んだまま食べ始めたのは大失敗だった。指先を何とかしたいが、両手が塞がった状態である。せっかく入手した服に染みをつける訳にもいかない。そうこうしている内に茶色い液体は手首の方まで伝ってきていた。


 にっちもさっちもいかずに狼狽えるカナンの手元に、不意に影が落ちた。分厚いブーツが視界に入る。

「持っててあげようか?」

 突如としてかけられた声に、カナンは弾かれたように顔を上げた。そこには、人の良い笑みを浮かべた少年が、背中に手を回して楽しげに立っている。

(…………は!?)

 カナンは大きく目を見開いて絶句した。うまく声が出ない。


「エっ……う」

「荷物いっぱいで大変そうだね、持っててあげるよ」

 ひょいとカナンの腕からお仕着せを取り上げると、少年はすとんと隣に腰を下ろした。七分丈の吊りズボンと麻のシャツを着て、その姿は街を行く少年と大差ない。つばのついた丸い帽子を深く被り、目元は影になっていて表情が窺いづらかった。が、その口元と顎の形を見るだけでも、随分と整った顔立ちをしていることくらいは分かる。


 ……と、いうか、

「ど、どうしてこんなところに……!」

 カナンは盛大に動揺しながら、カナンのお仕着せを膝の上に置いて機嫌よさげにしている『少女』を見やった。

「ん?」と彼女は微笑んで、ついと指先でつばを僅かに持ち上げた。


「――偶然お前を見かけたから、わざわざ話しかけてやったんじゃない」


 現れた顔も、口角をつり上げて放たれた言葉も、紛う方なきエウラリカのそれである。しかし、供も連れずに街中で男装なんぞをして、一体何をしているのか。カナンは唖然としたまま、隣に座っている少年姿のエウラリカを眺めた。

「お前が不安がって震えているかと思って見に来てやったのに、随分と呑気そうね」

 噴水の縁に腰掛けて昼食を摂っていたことを言っているのだろう。いちいち言葉にして見咎められるとばつが悪くなって、カナンは思わず俯いた。


「余裕そうなお前には必要なさそうな情報だけど、一応伝えておきましょうか」

 カナンが貰ってきたお仕着せを指先でつつきながら、エウラリカは帽子を深く被り直した。髪はまとめて帽子の中に詰め込んでいるらしい。こうして見ると本当に少年みたいだ。

 そうしてエウラリカの口元がにかりと笑った。

「何か催し事があるときは、他の邸宅から臨時で使用人が雇われるから、見ない顔があっても怪しまれないはずだよ。だから大丈夫」

 普段の声より、やや息が多めの発声だった。それがちょうど変声期前の少年の声のようで、カナンはため息をつく。そんな小技まで習得して、何に役立てる気なのか。……絶対、ろくな用途ではない。

「初仕事、頑張ってね!」

 白々しくそんなことを言うと、エウラリカはカナンの傍らにお仕着せを置いて素早く立ち上がった。「じゃあね」と、影になった目元が笑う。


 ぱたぱたと足音をさせて走り去った後ろ姿を見送ってから、カナンはげっそりと疲労感に襲われて項垂れた。

「馬鹿じゃないのか、あの人……」

 額を押さえて、カナンは深々とため息をついた。小さな背中が角を曲がって消える。

(……ああいう格好をしているのは初めて見た)


 普段、エウラリカはああいった、しっかりと縫製された服を着ない。良く言えば古式ゆかしき伝統衣装、悪く言えば時代錯誤にも思えるような、白い布で出来た長い巻衣である。普通に垂らせば裳裾を引きずるようなそれを、エウラリカは幅広の腰布で持ち上げることで長さを調節している。形は最近の流行に多少整えてはあるが、あまり実用的でない伝統衣装であることは否めなかった。


 カナンはしばらくぼうっとしてから、慌てて昼食を終えて立ち上がった。池に湛えられている水で指先を軽くゆすいで、お仕着せを抱え直す。アジェンゼの屋敷の場所は覚えていた。




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