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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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潜入1



 アジェンゼに関する噂をちまちまと集めているうちに、季節は秋を通り越して冬である。大した情報は今のところ得られていない。エウラリカはカナンを急かすようなことはせず、「焦らずにやりなさい」と言うだけだった。


 そうして、新年が近づいたある日のこと、カナンは一つの噂を耳にした。

 それは昼下がり、人気のない厨房でのことである。今日も料理人見習いの青年は細々とした皿やその他食器を洗っていた。それらを受け取って乾いた布で拭きながら、カナンは隣でグエンがぶつくさと漏らす愚痴を聞く。


「俺たちは年末年始もせっせと働いてるっていうのに、お偉方は優雅に夜会だとよ」

 けっ、とグエンは顔を顰める。「そうだ、お前が気になってるアジェンゼ大臣だっけ? あの人が主催するらしいぜ」

 何の気なしに放たれた言葉に、食器棚の前で背伸びをしようとしていたカナンは息を止めた。年末が近づき、毎日に忙殺されている様子のグエンは、すっかりやさぐれた様子でぶつくさと呟いている。


「料理長がさぁ、食材の価格がじわじわ高くなってきてるから何とか予算を融通してくれって上司のところに行ったのに、忙しいから話なんて聞いてられないってすげなく断られたんだってよ。でもその割に机の上には夜会の招待状が置いてあるし、忙しくて部下の話は聞けないのに夜遊びに行く暇はあるんだなって、めちゃくちゃ文句言ってた」

「……夜会、」

「そ、明日だってさ」

 カナンが繰り返すと、青年はあっさりと日取りまでを吐く。カナンは怪しまれない程度に探りを入れてみるが、それ以上の情報は特に持っていないようだった。だが、それだけでも十分だ。



(そんな催し事があるなんて情報、掴んでいない)

 エウラリカも、夜会のことは何も言っていなかった。カナンは心臓が跳ねるのを感じながら、足早に主人の部屋まで向かう。忙しいのか、数日前からアジェンゼたち一行は姿を見せなくなっていた。

 鍵を開け、カナンはエウラリカの部屋に体を滑り込ませる。だだっ広く白々とした部屋の中に、エウラリカの姿は見当たらない。

(外出しているのか)

 慌てて帰ってきても仕方なかったらしい。思わず肩を落としかけて、カナンはふと、紙が擦れるような音を拾った。肩を上下させながらそちらに顔を向けたカナンは、その場に立ち竦んだまま瞬きを繰り返した。


 ――扉が、半開きになっている。


 それは、カナンが入ったことはおろか、中を垣間見たことすらない、エウラリカの私室である。彼女の寝室があちらにあるのは知っている。他に何があるのかは知らない。

 あちらに、エウラリカがいるのだ。呼ぼうとして、カナンは、これまで一度としてエウラリカに呼びかけたことがないことに気づいた。――何と呼べば良い? 『ご主人様』などと呼んでやるのは業腹だし、迂闊に名前で呼んで嫌な顔をされたら面倒である。咳払いで呼びつけなんてしたら、どんな嫌味を言われるか分かったものではない。

 ……エウラリカが、呼びかけをひとつ間違った程度で壮絶な罰を与えるような主人でないことは、もう何となく察してはいる。その名を呼ばないのはひとえにカナンの意地だった。


 結局何も言えないまま、カナンは一歩踏み出す。扉を叩こうと思ったが、カナンがそちらへたどり着くより早く、エウラリカが部屋から出てきた。ぱたん、と後ろ手に扉を閉じ、首を傾げる。

「鈴の音が聞こえた気がすると思ったら、本当にいたのね」

 意外そうな顔でカナンに歩み寄ると、エウラリカはその顔を見上げた。カナンの息が僅かに弾んでいるのに気づいたらしい。「何かあったの」と彼女は視線を鋭くした。

 カナンは一度大きく息を吸い、どこから話そうかと僅かに思案してから口を開く。



「明日、アジェンゼ大臣が主催する夜会が開かれるという情報は、既にお聞きに?」

「……知らないわ」

 エウラリカは素早く首を横に振った。その表情はすっかり厳しく尖り、今にもカナンに詰問せんばかりだった。


「情報源は」

「料理人見習いから。料理長が上司の部屋を訪ねた際、招待状が置いてあったと」

「料理長の上司? 何の用事で料理長はその訪問をしたの」

「食材の価格が高騰していることによる、予算の相談とのことです」

「なるほどね。となればあの男でしょう」

 カナンには分からないが、どうやらエウラリカにはピンとくる顔があったらしい。合点したように短く頷くと、顎に手を当て、物思いに耽るように俯いた。

 それを眺めながら、カナンはひとつの変化に気づく。――目の高さに、エウラリカの額があった。始めて相対した春先にはエウラリカの方が僅かに長身であったくらいである。


「……何よ」

 カナンの視線を鬱陶しがるように、エウラリカは顔を顰めた。とはいえ、その視線はカナンよりも幾分下にある。思わず口角をつり上げて、カナンは鼻で笑った。

「いえ。……少し縮まれたのではと思って」

「――私が甘やかしているからって、調子に乗るのも大概にしなさいよ。お前を祖国もろとも焼き尽くしたって良いのよ」

「でも、僕がいなくなったら不便でしょう。新たな手駒を仕込むのにも時間がかかる。今、自由に動かせる奴隷を始末しては、……困るのはあなたの方では?」

 エウラリカは顔をしかめ、盛大に舌打ちをした。


 ……よくよく振り返ってみれば、エウラリカの言う通り、多少調子に乗っていたのは事実だった。反省も後悔もしないが。

 罰としてその晩、エウラリカはカナンの首輪に鎖を付けた。久しぶりに重い長椅子の脚に鎖で繋がれ、カナンは仏頂面で朝を迎えた。



 ***


「……たっぷり反省した?」

 長椅子の上で丸まっていたカナンから毛布を剥ぎ取りながら、エウラリカは居丈高に告げる。その顔を睨みつけて答えないでいると、鎖を引かれて長椅子から転げ落ちた。背中を硬い石の床に打ち付けて、カナンは思わず呻く。エウラリカは肘掛けに腰掛け、爽やかな朝におよそ似つかわしくない笑みで告げた。

「初めての大仕事よ。せいぜい安全に気をつけて頑張っていらっしゃい」

 床に仰向けになったカナンの顔に、数枚の紙を投げ落として、エウラリカは超然と笑う。カナンは床に手をついて体を起こし、顔に乗っていた紙を引き剥がして目を落とした。


「……地図?」

「アジェンゼの屋敷の見取り図よ。単純な構造だから午前中には覚えてしまいなさい」

 何でそんなものを所持しているのか、ということは訊かないでおく。どうせろくな入手経路ではないに違いない。

 エウラリカはカナンの首輪から鎖を外し、くるくると手に巻き付けて丸めながら足を組んだ。カナンは一旦立ち上がって長椅子に座ってから、怪訝な顔でエウラリカを見やる。――アジェンゼ邸の中の様子を覚えさせて、どうするつもりだ?

「何よ、察しが悪いわね」とエウラリカは片眉を上げた。指先をくいと上げ、見取り図の後ろにあるもう一枚の紙片を見るように指示する。そこには住所らしき一文と、短い名前が綴られている。

「……ここは?」

 聞いたことのない名前である。店の名前だろうか?

「アジェンゼの屋敷の使用人が着ているお仕着せを卸している仕立屋よ。お前、一揃え調達してもらいなさい。駄賃は出してやるから」

 そこまで言われれば、寝起きでぼうっとしているカナンにも、エウラリカが言わんとすることが見えてくる。目を見開いて、カナンは正気を疑うようにエウラリカを睨んだ。



「使用人になりすまして、夜会に紛れ込んでこい、と?」

「そうよ。出来るわよね?」


 一切悪びれることなく無理難題をつけて、エウラリカは心底楽しそうに笑う。対するカナンが顔を顰めたのを見て、彼女は呆れたように肩を竦めた。

「この程度のことで音を上げるようでは、私なんて到底殺せないわね。手駒に見切りを付けるのは早ければ早いほうが良いし、無理ならさっさと自己申告して頂戴」

 エウラリカは、つんと顎を反らして鼻を鳴らす。どうやら昨日の当てつけらしい。カナンは不満をありありと浮かべてその顔を睨みつけるが、尊大な態度のこの主人はまるで気にする様子もなく腕を組んだ。



「恐らくこの夜会で、何らかの密談が交わされるはずよ。お前はアジェンゼの動きを良く注視して、その現場に入り込むの。……簡単よね?」

(できるか、そんなこと)

 カナンは内心で悪態をつくが、否やは許されなさそうな雰囲気である。エウラリカはまるでいつものごとくお使いを命じるような口調で、薄らと微笑む。


「それで――お前、その密談現場をぶち壊して来なさい」


 カナンは思わず頭を抱えてしまった。馬鹿じゃないのか、と思った。何てことを命じるのだ。夜会に紛れ込み、密談現場に潜り込むだけでとんでもないのに、その上更に何か行動を起こせ、と?

「密約を阻止するの。この企みには、何か異変がある。そう思わせるだけで十分よ。勝手に疑心暗鬼を膨らませてくれるでしょう」

 エウラリカはくすくすと笑うと、仏頂面をしているカナンに視線を向けた。カナンは表情を全く和らげないまま、不満を垂れる。


「一日の間に、見たこともない屋敷の構造を覚えて、店まで行って服を調達し、夜会に忍び込みそれを攪乱してこいと? ……一日で?」

「前日になって情報を掴んでくるお前が悪いのよ」

 その言葉にはだいぶ異論があった。元はと言えば、こうして夜会に向けて行動を起こせるのも、カナンの手柄のはずなのである。


 険しい表情で睨みつけると、ふ、と息を漏らして微笑まれた。

「褒めるのは全部終わってからよ」

 そう言って、エウラリカは勢いを付けて立ち上がった。背を丸め、背後からカナンの耳元に口を寄せて、彼女は囁く。

「――ちゃんと出来たら、いっぱい褒めてあげる」

 いるか、そんなもの。そう撥ねのけるより早く、エウラリカはけらけらと笑いながらカナンから離れた。


「じゃあね」と手を振り、エウラリカはカナンを残して部屋を出て行った。




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