花香1
アジェンゼについて調べろ、とエウラリカに言われて数人に話しかけてみたが、これと言った収穫はなかった。結局、大した情報も得られないままに、もうじき夕方である。すごすごとエウラリカの部屋まで戻ろうとしたカナンは、その扉の前で見覚えのある一団を発見して、咄嗟に身を隠した。
アジェンゼたちである。エウラリカが嫌そうにしていたとおり、本当に部屋の前で待ち伏せしているらしい。……と、いうことは、エウラリカは今部屋の中にいないのだろう。
(散歩……じゃないだろうな)
エウラリカに、その辺を当てもなく出歩く習慣がないことは知っている。今日司書が言っていた通り、エウラリカはあまり人前に姿を現さないのだ。式典などに出たり出なかったり、と言っていたが、恐らくそれは我が儘を装った、ある種の計算に基づく行動に違いない。……本当に体調不良である可能性は低いだろう。カナンの知る限り、エウラリカ・クウェールという少女はいたって健康体である。
(あそこか?)
温室を思い浮かべながら、カナンは足音を忍ばせてその場を離れる。アジェンゼたち一行は誰一人としてカナンには気づかず、エウラリカの帰りを今か今かと待ち構えているらしかった。
温室へ向かおうと思ったが、そこでカナンは自分がその位置を正確に覚えていないことに思い至った。何せ、巨大な宮殿を擁する広大な敷地である。その奥の奥となれば、半年程度ではとても把握しきれなかった。
仕方なくカナンは近くにいた下働きを掴まえる。
「あの、『温室』ってどこにあるのか……」
その言葉に下働きの女は首を傾げた。そうして、カナンは自分が母語混じりに話していたことに気づく。しかし……『温室』を表す帝国語が、どうにも思い出せない。と言うより、初めから覚えていないのである。一度だけエウラリカが言っていた気がするが、まるでとっかかりがない。
「王女様のところの子だろう?」
女は身を屈めてカナンの顔を覗き込む。カナンが頷くと、彼女は柔らかく微笑む。随分と幼い少年に見られているらしい。
「あの方の『温室』……ええと、その……庭に、行きたくて」
「王女様の、庭?」
「はい。草、……花が、たくさんある、建物の庭」
まさに温室を表す単語が分からないなりに、つっかえながら訴えるも、全く伝わっている気配がない。「建物? 庭?」と首を捻る女に、カナンは思わずため息をついた。
(もしかして、そもそもあの温室のことを知らないんじゃないか?)
あそこは相当に奥まった場所にあるし、大体、あのエウラリカが避難所代わりに使っているくらいである。周知の場所ではない可能性に思い至って、彼は項垂れた。
(あの女が帰ってくるまで、どこかで時間を潰すしかないのか)
外の空気は徐々に冷たくなってきている。当てもなくうろつくには肌寒い風である。カナンは小さくため息をつく。
と、そこで、規則正しい足音が背後から近寄って、カナンはゆっくりと頭を上げた。
「もしかして、エウラリカ様は、温室、と言っておられなかったか?」
その言葉を理解するよりも早く、カナンは背後に立っていた男を振り返り、――総毛立つ。考えるよりも早く、全身が固くなるのを感じた。その名を胸の内で呟く。
(……ウォル、テール)
カナンの祖国、ジェスタを攻め滅ぼした帝国軍を指揮していた将軍である。その顔を焼き尽くさんばかりに睨みつけていた記憶が蘇った。同時に、エウラリカが嘲笑いながら吐き捨てた言葉が耳の底をよぎる。――「ぜーんぶ、私の差し金」。
ウォルテールを任命したのは自分だと、エウラリカはそう言っていた。つまり、自分はこの男を憎むべきではないのだろうか? 否、しかし、実際にジェスタの王都をいとも容易く侵略したのは、まさにこの男である。
突如として吹き上がる諸々の情報と感情に、カナンは身動き出来ないまま、馬鹿みたいにウォルテールの顔を見上げていた。縦も横も大柄なこの男に見下ろされると、どうにも不安な気持ちになった。
「温室、だ」とウォルテールは繰り返した。その言葉に、カナンは我に返り、一度だけ聞いた覚えのある単語に、眉をひそめる。それをどこで聞いたのかはすぐに分かった。エウラリカが言っていた言葉である。温室を意味する帝国語。
カナンがぎこちなく頷くと、ウォルテールは僅かに目元を緩めた。
「王女様の温室?」
「ああ」
下働きに向かって応じると、ウォルテールは短い言葉と手振りで彼女を追い払った。そうして取り残されたのが、カナンとウォルテールの二人きりである。カナンはじっと押し黙ったまま、ウォルテールの目を見ることもなく表情を消していた。
気まずいのはウォルテールも同じらしい。微妙な表情で声を漏らすと、ちらとカナンを窺う。
「温室に、行きたいのか?」
「……はい」
どんな顔で、どんな態度で、この男に接して良いか分からなかった。ウォルテールのことは、本当に憎い。味わわされた屈辱を思うと、今でも手が震えるほどだった。でも……本当にそれで良いのか?
見定めるようにウォルテールを眺めていると、大柄な将軍は、その見た目に似合わず、弱々しい動きで頭を抱えた。
それから数度、ウォルテールは果敢に話しかけてきたが、短い返答だけを投げ返していたらじきに黙った。結局、ウォルテールはついてくるように指示すると、カナンを伴って無言で歩き出した。
「エウラリカ様は、どうだ?」
しばらく歩いたところで、ウォルテールは思い出したように問うた。「どう、とは?」とカナンは鋭い視線でウォルテールを窺う。迂闊なことを言ってはいけない、ということは、エウラリカに釘を刺されなくても分かっている。
「エウラリカ様は、……お優しくしてくれるか?」
これはまた何とも答えづらい質問である。正直に言ってしまえば『全然』だが、まさかそんなことを言えるはずもない。かといって変にエウラリカを美化したようなことを言うのも癪に障った。
結局、カナンは広い庭園の遠くに視線を投げかけ、小さな声で囁いた。
「……すべては、あの方のお心ひとつですから」
カナンの進退も、ジェスタの行く末も、あるいはこの帝国で渦巻く様々な事象さえも、すべてが、――あの王女の手のひらの上である。
何はともあれ、道順を覚えることが先決だ。カナンは周囲を見回し、通路をその目に焼き付けようとする。ぶつぶつと道順をそらんじる。
「右に曲がって、そのまま真っ直ぐ……突き当たりで左、」
何やら時折ウォルテールが話しかけてくるが、カナンはその全てに適当な返事をしておく。そんな中、突如として放たれた言葉に、カナンは息が止まる心地がした。
「――ゼス=カナンという名前は、」
その名で呼ばれなくなってから、もう何月経っただろう。当然の如くエウラリカはカナンを生来の名では呼ばないし、こちらに来てから出来た知り合いも、誰もカナンの名を知らない。
恐らくカナンがその名を名乗ることを、エウラリカは嫌がるだろう。主人が、かつての自分の身分を周囲に知らしめたくなさそうなのを、明言されずともカナンは敏感に察していた。少なくともこの時期に名を公にするのは得策ではなかった。ジェスタ侵攻はまだ記憶に新しい。
カナンは大きく目を見開いたまま、ウォルテールを見上げる。その口から出たのは、本当に自分の名前なのか? 今やもう誰も呼ぶことがないと思っていた、自分の、本当の名前。
胸の内にあるのは、純粋な驚きだった。自分の名前がいやに新鮮に感じた。
ウォルテールはカナンの視線を避けるように、すいと顔を上向ける。
「……その、名前がだな」
「はい、」
実を言えば、カナンは既に『カナン』ではなかった。主人たるエウラリカは、彼に別の名を授けた。この話題をエウラリカに知られたら、どんな嫌味を言われるか……分かったものではない。思わず声を潜めると、一緒になってウォルテールまで語気を抑えて囁くのだ。それが少しだけ滑稽だった。
どのように説明しようか、と少し黙ってから、カナンは口を開く。
「……名が、二つあるのは、国内でも高位の人間のみで、一つ目の名前は……王族や、それに連なる一部の家柄の者だけが持つものです。正確には違うけれど、ほとんど敬称のようなもので、……僕の場合は、『ゼス』。これは、長子以外の王子に授けられる冠称です」
端的にジェスタ式の名前を説明すると、ウォルテールは「なるほど」と頷く。
「――それじゃあ、お前の名は『カナン』だという訳だな」
はっきりと呼ばれた自らの名に、言葉にならない歓喜がわき上がった。それなのに何故か、そこに変な罪悪感が混じる。ウォルテールは微笑んでいた。目の前にいるのは仇であるはずなのに、どう足掻いてもそれは優しい声音に聞こえた。カナンは全くもって困惑していた。渦巻く感情は、もはや何が何だか分からなかった。
知らないうちに片手が上がり、指先が鈴に触れていた。金色をした鈴が、その音をカナンの耳に吹き込む。ぞっとした。背後に、いるはずもないエウラリカの気配を感じた。
「違うのか?」とウォルテールが眉をひそめるが、カナンは掠れた声で「いえ」と曖昧に答えることしか出来なかった。
ウォルテールは自身も多少迷うような素振りを見せながらも、きちんと温室までの道を先導してくれた。温室の中には、カナンの予想通り、エウラリカが静かな表情で存在している。入り口に近づきかけたところで、彼女はため息をつくような仕草ののち、立ち上がった。
暖かい空気に満たされた温室の中を、エウラリカは物思いに耽るような顔をして横切る。あんな表情をウォルテールに見せて良いのか、とも思ったけれど、どうやらこの男は花の方に気を取られているようだった。
入り口のところで、三人は鉢合わせする。カナンは、エウラリカが一瞬だけ動揺したようにたじろいだのを確認した。
「……ウォルテール、どうしてここに?」
しかしエウラリカはすぐさま表情を取り繕うと、甘えるように朗らかな声でウォルテールに近寄る。迫られたウォルテールはあからさまに逃げた。
「彼が道に迷っていたから……」
ウォルテールが、当然のようにカナンが道に迷っていたことを明かすので、彼は思わず半眼になった。「何だ、言っちゃ駄目だったのか?」と顔を引きつらせる様子からして、この男に『上手いこと取り繕う』という概念はないらしい。案の定、エウラリカは一瞬だけカナンを見た。カナンは目を逸らす。
「えーと、……エウラリカ様。城内に不慣れな者に、このような奥まで一人で来させるのは、あまりに酷だと思われます」
カナンが不満に思っていることを悟ったらしい。下手くそなフォローらしきものをすると、ウォルテールはそそくさと去ろうとするように足を引いた。エウラリカのことはあまり得意ではないようだ。エウラリカは存外ウォルテールのことを気に入っている様子だが。
見送ってやろうとウォルテールをじっと眺めていたら、不意に彼が片手を挙げた。逃げる間もなく頭の上に手が乗せられ、カナンは咄嗟に首を縮める。
「じゃあな、カナン」
当然のようにその名で呼ばれることに、えもいわれぬ喜びが胸の底を僅かに膨らます。頭を撫でられ、カナンは困惑交じりにその手を受け入れていた。
「――あら」
耳に入った呟きに、カナンは顔を強ばらせる。そうだ、ここにはエウラリカがいたのだ。そのことに気づいて、彼は息を飲んだ。……聞かれた。エウラリカに。心臓がぎゅっと縮む。カナンは体を固くしたまま、浅い息を繰り返した。
「頑張れよ」とウォルテールが告げた言葉も耳に入らない。彼はきびきびとした足取りでその場を離れてしまった。
風が吹き抜ける。ざわりと庭園の草木が揺れ、――エウラリカは小さく乾いた咳払いをした。それはまるで、忘れるな、と囁くみたいな呼びかけだった。
恐る恐る振り返ると、エウラリカは風に髪を揺らしながら、腕を組んで佇んでいる。僅かに面白がるような風情を漂わせて目を細めた。その唇が薄く開かれる。何を言われるか、と身構えたカナンに対して、エウラリカの反応はごくごくあっさりしたものだった。
「良かったじゃない、お前」
少しだけにやりと頬を吊り上げながらそれだけ言って、エウラリカはすたすたと歩き出す。呆然と立ち尽くしていると、「帰るわよ」と素っ気なく言葉を投げられる。慌てて頷いて、カナンは小走りにエウラリカを追った。




