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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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調査1



 カナンが新ドルト帝国で王女の奴隷となってから、早半年が過ぎた。夏はエウラリカにこき使われる毎日であっという間に駆け抜け、そして秋も同様の日々で、もう冬の足音が聞こえてくる頃だろうか。

 ある日、エウラリカは珍しくカナンを伴って部屋を出た。これは久しぶりのことだった。何せ、エウラリカがカナンと共に外を出歩くなど、彼の首に鎖が繋がっていた頃以来である。


 最近になって気づいたのだが、エウラリカがカナンをあちこちへ使いに出していた目的には、彼に城内の配置を覚えさせることがあったのだろう。

(この人、こういう回りくどいことするよな)

 エウラリカ本人は決して明言してはいないが、あの夏の日に投げかけられた仮定――もしもこの城を攻め落とすなら――からしても、間違いはないだろう。


(それにしても、どこへ行く気なんだ?)

 カナンはあの日以来、随分と注意深く周囲を観察しながら城内を歩いている。どこに何の部屋があるか、どの通路がよく使われているか、そういった様々な事柄はほとんど把握できていたつもりだったけれど、

(こんなところ、近づいたこともない……)

 エウラリカは迷いのない足取りでカナンを先導する。渡り廊下の地階から中庭に出、ぐるりと回っていくつかの棟を抜け、それから見たことのない庭に足を踏み入れると、不安になるほどに奥まで潜り込んでゆくのである。


 それにしても、不思議な庭園だった。まるで迷路のようだ。身長ほどもある生け垣が視界を阻み、前を向いても後ろを向いても道が分からない。首を巡らせ、辺りを見回しながら進むカナンに、鋭い咳払いの音が届く。慌てて前を見れば、肩越しに振り返ったエウラリカが、曲がり角で静かにカナンを見据えていた。

「はぐれても迎えになんて来てあげないわよ」

 そう言い放って姿を消そうとするエウラリカに、カナンは泡を食って追いすがった。



 見えた建物に、カナンは思わず息を飲んだ。庭園は途切れ、その先にはおよそ人が立ち入るとは思えない暗い森がある。恐らくはここが最も奥なのだ。そして、生け垣の間にぽっかりと空いた空間――そこに、ガラス張りの大きな植物園が佇立している。中では、季節など知らぬように鮮やかな色の花々が咲き誇っていた。

『温室だ、』

 それを表す帝国語が分からず、思わず祖国の言葉に戻って呟いたカナンに、エウラリカがちらと視線を向けた。

「母が遺したものよ」

 そう囁いて、エウラリカは温室の入り口に手をかけ、中へ滑り込んだ。カナンもそれに続き、温室に足を踏み入れる。むっと迫るような熱が来るかと思ったが、頬を包んだのは思いのほか柔らかな温かさだった。


「……植物がお好きなのですか」

「そうでもないわ。詳しくもないし」

 エウラリカはまるで興味なさそうに、咲き誇る花には目もくれず、奥に置いてあった椅子へ腰掛けた。傍らの机に頬杖をつき、顔にかかった髪を鬱陶しそうに払いのける。

「最近、周りがうるさくてね」

 近くにあった可愛らしい白色の花に蔑むような目を突き刺しながら、エウラリカは今にも舌打ちしそうな表情で呟いた。こうも苛立ちを分かりやすく表すエウラリカは珍しかった。


 何やら思案するようにしばらく黙り込んでいたエウラリカは、不意に口を開く。カナンに視線を向けないまま、未だ思考をどこかに飛ばしたままに告げる。

「……もうじき、ちょっと面倒なことを頼むかも知れないわ」

 わざわざそう前置くということは、よほどのことなのだろう。カナンは咄嗟に嫌な顔をしたが、エウラリカは気づかなかったらしい。ぶつぶつと口の中で低く呟いている。カナンにその内容は聞き取れない。


 温室の中に、エウラリカが座っているものの他に椅子はない。仕方なくカナンは立ったまま、エウラリカの斜め後ろで手持ち無沙汰に花を眺めていた。

(僕は、この人を殺すのか)

 伏せられた瞼、その曲線を縁取る長い睫毛を、カナンはじっと眺める。鼻筋から口元、顎にかけての流麗な凹凸を視線で辿り、彼はゆっくりと息を吐いた。



 随分と長い間、ずっと、物思いに耽っているように、エウラリカは目を伏せたまま微動だにせず椅子に座っていた。もしかしたら寝ていたのかも知れなかったが、カナンにはどちらにせよ関係ない。

 遠くの空で日が傾いてきた頃、ふとエウラリカが顔を上げ、僅かな声と共に息を吐いた。

「帰るわよ」

 それだけ言うと、エウラリカは立ち上がる。ちらと振り返ることもなく温室を出て行くので、カナンは慌ててその背中を追った。


 庭園を抜け、複雑な経路を辿って、二人は人通りのまばらな通路にさりげなく入る。カナンが目線だけでエウラリカを窺うと、彼女は開けっぴろげに明るい笑顔で周囲を見回し、楽しげに鼻歌まで歌っていた。先程までの、深慮を瞳の底に隠した静かな表情など、一度としてその顔に浮かんだことはないみたいに。

 すっと背筋を伸ばし、それでいて騒々しく浮ついた足取りで、エウラリカは城内を闊歩した。向けられる視線など何のその、憧憬に満ちた声かけに「うふふ」と軽やかに手を振り返し、エウラリカは泳ぐみたいに、踊るみたいに宮殿の奥へ潜ってゆく。


(……僕は、この人を殺すのだ)

 カナンは自分に言い聞かせるように、内心で強く呟いた。エウラリカに抱く感情は、憎悪と言うよりはもはや恐怖――それも、得体の知れないものに対する畏怖である。エウラリカを殺せる気がしなかった。死んだエウラリカの姿はどうにも浮かばなかった。




「エウラリカ様!」

 とりとめのない思考をつらつらとこね回していたカナンは、突如として通路に響いた声に、肩を跳ね上げる。エウラリカが立ち止まったのを感じて、カナンも足を止める。おずおずと目線をもたげると、複数人の男女が行く手を阻むように立っていた。

「あら、ご機嫌よう! どうなさったの?」とエウラリカが顔を輝かせる。しかし、背中に回した両手に目をやると、その指先は苛々とした様子で反対の手を何度も握っていた。恐らく本心ではちっともご機嫌ではなさそうである。


「先程お部屋に窺ったのに、エウラリカ様がおられなかったので……。老いぼれ一同、すごすご帰るところでしたわ」

 一人の老婦人が口元に手をやり、くすくすと苦笑じみた表情で笑う。その言葉に、彼女の背後にいた面々がどっと沸いた。

「そりゃそうだ。エウラリカ様からすれば、我々は干物同然の老人だろうさ」

 先頭にいた男が手を叩く。それを揶揄する声に混じるようにして、「あら」とエウラリカは小さな声で呟いた。


 困ったように口元を隠す。その唇が、音もなく弧を描いた。角度からして、それが見えたのはカナンのみだったろう。さりげなく目を見開いたカナンは、思わずエウラリカに注意を払う。


 ――その瞬間、エウラリカが、咳払いをした。


呼ばれた(・・・・)、)

 カナンは鋭く息を飲む。……咳払い。それはカナンの名である。かつてエウラリカがそう定めたのだ。


「わたし、お散歩に行っていたのよ、アジェンゼ」

 エウラリカが甘えるような声で応えると、先頭の男は「左様でしたか」と目を細める。カナンはエウラリカの影に隠れるようにしながら、男の顔をじっと見つめた。その名を胸の内で反芻する。

(……アジェンゼ、)

 そうエウラリカが呼びかけたのは、壮年の男である。随分と細身の小男で、すっかり白くなった髪を撫でつけている。なめ回すようにエウラリカを見つめる視線が妙に粘着質だった。


「して、エウラリカ様。先日のお話は、皇帝陛下にお伝え頂けましたか」


 その言葉に、エウラリカは「えーっと?」と殊更に幼い声音で首を傾げた。顎に人差し指の先をつけ、不思議そうに唇を尖らせてみせる。

「何だったかしら? 忘れてしまったわ」

「私めが、エウラリカ様の後見人になるという話でございます」

 アジェンゼが当然のように告げた言葉に、カナンはやや俯き加減のまま目を見開いた。……これが、エウラリカの後見人?


「うーん」とエウラリカはよく分からないように首を傾げる。「覚えていたら言っておくわね」

 にこにこと頬を緩めたままそう言って、エウラリカはひょいと肩を竦めた。

「わたし、お腹が空いちゃったの。お散歩でくたくたよ。もう帰っていいかしら?」

 まるで幼子が我が儘をこねるみたいな口調で、王女はアジェンゼに向かって頬を膨らませてみせる。とはいえその表情が本気の睥睨であるとはカナンには到底思えない。分かりやすく可愛い子ぶった睨みである、というのが適切な評価だった。


 アジェンゼの背後にいた、まだ若い男が、ぽうっとしたように頬を染めてエウラリカを見つめている。目玉が転げそうなほどに目を見開き、エウラリカに見とれていた。その様子を無言で眺めながら、カナンは嘲笑を込めて頬を吊り上げる。エウラリカの装った無邪気で幼稚な様に騙されて、胸を高鳴らせているであろう男。……この妙な優越感は、どこから湧くものだろうか。


 アジェンゼは念を押すように告げる。

「よろしくお願い致しますよ、エウラリカ様」

「ええ」

 エウラリカは微笑んで、アジェンゼたち一行を回り込むように、斜め前に足を踏み出す。

「じゃあ、また今度ね」

 ひらりと手を振ると、彼女は長い髪をたなびかせて歩き出した。足首ほどの高さではためく裾の下で、簡素な靴を履いた両の足は、音をさせずに床を踏む。足首で、複雑な形をした装飾が揺れた。



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