誓い2
エウラリカが戻ってきたのは、空が赤く傾ききった頃の夕方だった。それまでカナンは部屋の中でじっと待っていた。鎖はもうないのに、鎖があった頃のように、定められた位置で大人しく、膝を抱えて待っていた。身体が石のように硬く、重かった。身じろぎすら恐ろしい。
エウラリカが部屋に入ってきても、カナンは振り返らなかった。ぱたん、と背後で扉が閉じる音を聞きながら、カナンは膝の上に額を乗せていた。
部屋の隅の長椅子で丸まっているカナンを見て、エウラリカは僅かに息を吐いたようだった。
咳払い。呼ばれた。カナンは渋々頭を上げた。
『お前に命じることはただひとつ。前に、そう言ったわね』
エウラリカは足音をさせずに部屋の中を闊歩し、カナンに近寄りながら、息混じりの声で語りかける。カナンは膝を抱えたまま、背中でその言葉を聞いていた。
『こちらを向きなさい。これから私はお前に重要な命令をするのよ。一度しか言わないから、よくお聞き』
エウラリカは不意に声を硬くした。その言葉に、カナンは慌てて振り返る。エウラリカは夕陽の射し込むだだっ広い部屋の中央に、まるでひとつの彫像かのように佇立していた。
その頬に、鮮やかな赤が叩きつけられる。滑らかで白々とした肌に、激しい色が吹き付けられているかのようだった。床に長い影を落として、エウラリカは真っ直ぐにカナンを見据えていた。
魅入られたように、動けなかった。息が出来なかった。
エウラリカは美しかった。まるで作り物みたいな美しさだと、いつも思っていた。その表情には、ことさらに幼稚な笑顔が貼り付けられているか、人を小馬鹿にしたような嘲笑が乗っているか、どちらかばかりなのだと思っていた。少なくとも、この一ヶ月の間、カナンが目の当たりにしてきたエウラリカとは、そういう少女だった。
――そのとき、エウラリカは、その瞳に、明らかな哀しみを湛えていた。
それに気づいた瞬間、カナンはぐぅっと喉が締まったのを感じた。エウラリカは眉根を寄せ、痛みを堪えるように唇を引き結んでいた。
(エウラリカ様、)
口から、そんな呼びかけが零れそうになった。結局のところ、カナンの喉はぴくりとも震えなかったけれど、鈴は揺れた。エウラリカはその音で我に返ったように、瞼を素早く閃かせる。王女の唇が開いた。
「カナン」
エウラリカが、名を、呼んだ。その一言に、カナンは呆気に取られて、エウラリカの顔をひたすらに眺める。手招きをされ、ふらふらと立ち上がり、気がつけばその足下に傅いていた。
『お前に命じるのは、とっても簡単で、とっても難しいひとつだけ。それをお前が完遂したのなら、お前を自由の身にしてやるわ。ひとりでジェスタにでもどこにでも行きなさい。――逆に言えば、それが出来なければ、お前は一生、私の奴隷のまま』
カナンはしばらく、その言葉を反芻する。……自由の身になる? 本当に? にわかには信じがたい言葉だ。『どうする?』と、エウラリカが首を傾けた。否やもなく、カナンは頷いた。
『やり、ます』
自由になれると言われて、断るはずもなかった。目をぎらつかせるカナンに、エウラリカが声を漏らして笑う。
『嫌になったらいつでもやめて良いのよ。そうしたらお前を始末するだけのことだから』と笑顔で物騒なことを言って、エウラリカは目を眇める。カナンはごくりと唾を飲んで首を振った。
『やります、どんなことでも。……本当に、自由になれるのなら』
『ええ。お前がやり遂げたのなら、絶対に、お前は自由の身になれるはずよ。まあ、多少はお前自身の立ち回りにかかっているかも知れないけれど』
まるで謎かけのような言い方だった。――それで、その命令とは一体何なのだ。カナンは業を煮やして歯噛みする。でもそんな様子を表に出したらまた、エウラリカに『あら』と嘲笑されそうだ。
エウラリカの足下に跪いたまま、カナンは身じろぎひとつせずに頭を垂れていた。エウラリカの足首に嵌まる装飾品を睨んで気を紛らわせながら、カナンはエウラリカの言葉を待った。
エウラリカが、息を吸った。『お前、』とその声は常のように囁き甘え惑わす、鈴のような声とはまるで違って響く。
それは、狙い澄まして鐘を打ち鳴らしたみたいに凜とした声音であった。
エウラリカはカナンに短く命じた。
『――――私を殺しなさい』
聞き違えることなど出来ようもないほどに簡潔で、はっきりとした言葉だった。
(……何を、言っているんだ)
カナンは呆然とエウラリカを見上げる。その視線を受け止めて、エウラリカは超然と笑った。
『ああ、今じゃないわよ。私の指示通りに様々な段取りを執り行い、私の言う通り、然るべき時、然るべき場所、然るべき方法で「それ」を実行するの』
エウラリカの言うことが咄嗟に理解できないことなんて、今までにも何度もあった。でもこれは最大級だ。……この少女は、本当に、自分を殺せと言ったのか?
既に陽は傾き、もう少しで部屋は宵闇に沈もうという頃だった。エウラリカは挑戦的で不敵な笑顔で、カナンをじっと見つめている。どの角度から何度見たって、一切の隙のない美しさだった。
(化け物だ)
カナンはまた思った。それが彼女のどの部分を指すのかは分からない。恵まれすぎたこの容姿なのか、相手によって別人のように態度を自在に操る様なのか、それとも今みたいな――
『ねえお前、この帝国を私と一緒に傾けて、ひっくり返してみたいとは思わない?』
愁いと侮蔑を滲ませた目で嗤う、底知れぬ心根なのか。




