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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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誓い1



 その次の日、エウラリカはカナンの鎖を短いものに付け替え、部屋の外へ散歩に出かけた。そろそろ季節は夏に入ろうとしている。風の中に時折、息も詰まるような熱気が混じり、一歩先を行くエウラリカもときどき手で顔を扇ぐような動きを見せていた。

『どこへ……行く、んだ?』

 カナンの問いに、エウラリカはにこりと肩越しに微笑む。『とても素敵なところよ』と彼女が軽やかに、随分と機嫌よさげに言うので、カナンも思わず足下をもぞもぞとさせた。


 金色の髪が揺れる。まるで本物の金のような糸だと思った。透き通るような明るさをした長い髪は、毛先に至るまで艶を保ち、エウラリカが足を踏み出すたびに僅かに跳ねた。今日のエウラリカは靴を履いていた。こつり、こつりと規則正しい足音を楽しんでいるように、その歩調は軽快だ。

 途中でエウラリカは、普段とは違う方向に足を踏み出した。あれ、とカナンは思ったが、黙ってその背を追う。どちらにせよ、自分は鎖によってエウラリカと繋がれているのである。他に選択肢はなかった。


 普段、散歩に使っている通路よりも、狭い。同じ宮殿の中でも、区画によって雰囲気が違うことに気づいて、カナンは辺りを見回した。表現が正しいのかは分からないが、明らかに――格が下がった。そう思った。

 エウラリカの部屋の近くに続く、明るく広い通路とは空気が違う。列柱によって外と中が区切られたようになった通路は、しかし、実際のところほとんど野外と同じである。中庭に面した通路を歩きながら、エウラリカは終始機嫌よさげだった。


 エウラリカは、迷いのない足取りで、どんどんと人気のない暗く狭い通路へと入ってゆく。それはまるで城の奥まで潜り込むかのような感覚だった。カナンの胸にほのかな不安が灯る。けれど、……エウラリカがゆく先なのだから、きっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて、カナンは歩調を速めた。



 ひとつの扉の前で立ち止まり、エウラリカは『ここよ』と告げた。それは通路の途中、石の壁の中に埋め込まれた木の扉だった。あまり綺麗なものではなく、やたらに古びたものである。

 エウラリカは顔に落ちる髪を止めていた細い髪飾りを外すと、扉の鍵穴にそれを挿した。十数秒の間、エウラリカは鍵穴に入れた髪飾りを細かく動かしていたが、ややあって無言で扉を開ける。

『さ、いらっしゃい』

 扉の向こうには、まるで灯りのない暗い空間が広がっていた。底冷えするような空気が漏れてきて、カナンは思わず怯んだ。汗が縮む。けれどエウラリカは平然とその闇の中に身を滑り込ませ、楽しげに笑ってまでみせるのだ。

『大丈夫。私が一緒よ』と手を差し伸べ、エウラリカは一歩奥へ進む。その体が一段下がったことから、カナンは扉の向こうが下り階段であることを知った。この先は地下である。――一体、エウラリカは、地下に何の用があるんだ?


 カナンは躊躇いがちに、扉の向こうへ足を踏み入れた。エウラリカは手振りでカナンに扉を閉めるように指示し、カナンはそれに従う。通路には完全な闇が落ちた。

『足下に気をつけて。そのうち灯りが見えるから、それまでは慎重に』

『分か、た』

 カナンは頷いてから、エウラリカにそれが見えないことに気がついて声を出した。自分でも、自分の帝国語が拙いのは分かる。これを母語にするエウラリカにしてみれば、なおさらだろう。でもエウラリカは、今まで一度としてカナンの帝国語を笑ったりはしなかった。


 ――帝国の人間だからというだけの理由で、エウラリカを憎み続けることは、難しくなっていた。確かにエウラリカは自分を奴隷にしたけれど、……それは、彼女が王女で、常識が違うから、……もしかしたらそれだけのことなのかも知れないじゃないか。

 だって、エウラリカがジェスタを滅ぼした訳じゃないのだ。

(エウラリカは、ただ、帝都にいただけ。そこに自分がたまたま居合わせただけの、ことで……)

 そんなことを自分に言い聞かせながら、カナンは目の前にあるであろうエウラリカの背をじっと見つめた。全くの暗闇で何も見えないけれど、そこにはエウラリカがいる、ただそれだけで、カナンは前に足を踏み出すことが出来た。



 どれほど下ったか分からない。ふいに灯りが見えて、カナンは頭をもたげる。壁に点々と燭台がかかっていた。蝋燭の炎が揺れていることからして、どこかに空気穴があるのだろう。

 ――冷え冷えとした雰囲気の漂う、広い空間に、カナンたちは降り立っていた。長い通路は真っ直ぐに伸び、右手には壁に仕切られた暗い小部屋が並んでいる。小部屋と通路を隔てるのは、冷たく錆臭い鉄格子だ。それで、カナンはこれが小部屋ではなく独房であることを悟った。


「ここは……」

『地下牢』

 エウラリカは静かに応える。

『ちか、ろう』

 カナンはその言葉を繰り返し、小さく頷いた。それは知らない単語だったけれど、この様子からするに、『地下牢』という言葉が何を意味するのかは分かった。


 エウラリカは背伸びをして壁の燭台に手を伸ばす。難儀している様子なので手伝ってやろうかとカナンは手を伸ばそうとした。と、そこでエウラリカの方が自分より僅かに背が高いのを思い出す。カナンは出しかけた腕を無言で引っ込めた。

 苦労しながら燭台を壁から取ったエウラリカは、再び歩き出す。彼女が足を運ぶたび、炎が揺らめいて、独房に落ちる影が複雑な形をとった。

 独房の中には誰もおらず、しんと静まりかえった地下牢の通路は、その薄暗さも相まってまるで押しつぶしてくるみたいだ。カナンは息苦しさに顎をもたげた。鈴が鳴る。息をするたび、歩くたび、鈴が鳴るのだ。



 壁で区切られたそれぞれの部屋はいつの間にか大きくなり、独房から雑居房の広さになっていた。奥の方から人の気配がするようになってきているが、エウラリカは歩調を緩めることなく歩いて行く。カナンは首輪に繋がる鎖を引かれ、歩幅を大きくした。


『ここよ』

 ひとつの雑居房の前で立ち止まったエウラリカが、小さく咳払いをした。呼ばれている。はっと気づいて、カナンはエウラリカに歩み寄る。そうして雑居房の中を覗き込んだカナンは、無言のうちに大きく目を見開いた。


 エウラリカは燭台を高く掲げた。雑居房の中が照らされる。その中では、怪訝な顔をした囚人が八人ほど、床に座り込んだままこちらを見上げていた。その顔を見て、カナンは血の気が引くのを自覚した。指先が冷える。唇が抑えようもなく戦慄いた。



「……ゼス=カナン、殿下?」


 囚人が、目を疑うように呟く。カナンはその場に打ち震えたまま、呼びかけに応えることも出来ずに立ち竦んだ。

 ――その顔立ちは、帝国民のそれではない。どれほどの間ここに入れられているのか、べったりと脂ぎった黒髪は、蝋燭の光を鈍く反射させた。わざわざ野暮な確認をしなくたって、母語で話しかけられただけで、彼らがいずこの国の民であるかは知れた。


「僕は、」

 たたらを踏むように後ずさっていた。唇からは、滑り出るようにジェスタ語が零れた。それは夢に見るほどに見たいと思っていた、祖国の人間の顔のはずなのに、どういう訳か、その顔がとてつもなく恐ろしい。目を逸らしたい。けれど目が離せない。逃げられない。囚人たちは一斉に立ち上がり、カナンに少しでも近づこうとするように、固定部が軋むほどに鉄格子へ強くしがみつき、身を乗り出した。


「殿下!」

「カナン殿下、どうしてこんなところに、」

「俺たちはいつ出られるんですか!?」

 口々に話しかけられるも、カナンはそのどれに応えることも出来ずに狼狽した。頭が回らなかった。意味のない声が口から漏れる。汗が噴き出し、背中や脇腹を冷たく伝うのを感じた。


(……この、感情は、何だ)


 そうしてついに、カナンが最も気づいて欲しくないところに、視線は向かった。

「殿下、その首輪は……」

 一人がカナンの喉元を指さす。それで、他の囚人たちも、首輪と鎖、その先にいるエウラリカに気づいたようだった。瞬間、これまでちっとも気にならなかった革の感触が、いきなり、――そう本当にいきなり、汚らわしく忌まわしいものに思えて。一気にせり上がる嘔吐感を、カナンはごくりと喉を鳴らして飲み下す。


 囚人たちは、事態が飲み込めないようにカナンとエウラリカを見比べている。その視線に、カナンはここ一ヶ月で忘れかけていた矜持が再び息づくのを感じた。


(ああそうだ、僕は……!)


 かっと、頬に血が上る。言葉にもならない恥ずかしさだった。ジェスタの王子である自分が、まるで犬のように首輪を付けられ、鎖に繋がれ、少女の言いなりになっている。その様を、国民に見られている。彼らは一体どのように思うだろう。自らの仕える君主の子が、このような惨めな姿を晒す姿を、どう見ることか。


(僕はこいつの下僕なんかじゃない。ましてや奴隷でもペットでもない。そのことを何故僕は忘れていた、)


 一ヶ月をかけて、知らず知らずの内に飼い慣らされていた自分に気づき、カナンは吐き気にも似た恐怖に襲われた。囚人の視線は刺さり続ける。何事か問われているのに、どれも耳には入ってこない。カナンは首輪を鈴ごと握りしめ、ぶるぶると体を震わせた。


 囚人たちが口々にかけてくる言葉が、どれも非難や嘲笑、軽蔑のそれに聞こえた。その目が恐ろしかった。

(やめてくれ、そんな目で僕を見ないでくれ。蔑むみたいな、そんな目で……。僕は民を失望させたくない、だって僕は……!)



 見るな、と叫ぼうとしたその瞬間、静かな咳払いが響く。


「おま、え……」

 カナンの背後に立っていたエウラリカの咳だった。低く唸りながら、カナンは振り返る。分かりきっている。彼女の咳払いは、カナンの名である。エウラリカはカナンに呼びかけたのだ。――まるで人に対する態度ではないみたいに!


『そろそろ、祖国の人間に会いたい頃なのではないかと思って』

 エウラリカは鎖を引いた。喉仏に革が食い込み、カナンは抵抗も出来ずに引き寄せられる。少女の片手一つで良いように動かされる自分の境遇に腸が煮えくりかえる。

 優しげな声、口調だったが、その目に浮かんでいるのは明らかな嘲笑である。それに気づいたとき、カナンは歯を剥き出しにして顔を歪めた。

 エウラリカは、ここにジェスタの囚人がいるのを分かっていたのだ。初めから、それと引き合わせてカナンを辱める目的だったのだと、今になれば手に取るように分かる。


 鎖を下に引き、エウラリカは湿った床にカナンを跪かせた。ジェスタの囚人たちの目が、ヒリつくほどに突き刺さる。こんな姿を、臣民に見られたくなどなかった。耳の奥で血が巡る音がごうごうと絶え間なく響く。

 エウラリカはまるで手綱でも引くように鎖を器用に操り、カナンの体を囚人たちのいる雑居房の方に向かせた。もはや視線を避けることも出来ない。顔を伏せ、屈辱に耐えるしかなかった。


 エウラリカは床に膝と手をついたカナンの上に伏せるように、そっと身を屈める。その耳元に口を寄せ、楽しげに囁く。

『――お前にひとつ、良いことを教えてやるわ』

 それが『良いこと』などというものではないことは明らかである。耳を塞ぎたかったが、これ以上の挙動を、囚人たちにも、エウラリカにも見られたくない。床の上できつく拳を握りしめて、カナンは奥歯を食いしばって頭を垂れた。


 カナンのそれを、覚悟を決めた態度とみたらしい。エウラリカは満足げな息を漏らすと、鎖を持つ手を緩めた。音を立てて、鎖が床に落ちる。カナンは目を見張った。新ドルト帝国に来てから一ヶ月、これまで体が拘束されていない時間など、一瞬として存在しなかった。

 ジェスタからここに来るまでは、常に手を縛られ、エウラリカの奴隷となってからは、首輪とそこに繋がる鎖によってどこかに留められ。そして今、その鎖が、床に落ちた。首輪は依然として嵌まったままだが、今、カナンの四肢は全て自由、どこにでも逃げることの出来る状態だった。



 超然と頭を振り上げ、エウラリカは甘やかな息で囁く。

『ジェスタ王国が侵略されたのは何故だと思う? 新ドルトにとってジェスタは必要な国かしら? それとも脅威? ――いいえ。ジェスタには、新ドルトがわざわざ優先して侵略する価値なんてない。特にこれといった資源もない、歴史があるだけの小国。新ドルトの敵でもないわ』

 何を言い出したのか、咄嗟に理解できなかった。怪訝な顔でカナンが身を起こしかける寸前、それを阻むようにエウラリカは床に落ちた鎖を踏みつけた。否応なしに床すれすれまで顔が近づき、カナンは顔を歪める。濡れた石の匂いがした。


『私がねだったの。私が皇帝に、ジェスタが欲しいとおねだりしたのよ。あの人は馬鹿だから、すんなり言うことを聞いてくれたわ。私はウォルテールを任命して、ジェスタに進軍させて……あとはお前の知っているとおり』

 エウラリカはまるで歌うように告げる。それはもう囁き声ではなかったが、カナンとエウラリカの他に帝国語を解する人間はこの場にいないのだろう。囚人たちは顔を見合わせざわつきながら、床にひれ伏すカナンを見下ろしていた。


 エウラリカの言葉を必死に咀嚼するカナンを見下ろして、彼女は息だけで嘲笑する。

『まだ分からないようね』

 はっきりとした口調で告げ、エウラリカは鎖を踏みにじる。首が絞まって嘔吐くカナンの頭の横にしゃがみこんで、彼女は馬鹿みたいに純真で可愛らしい笑顔を浮かべた。



『ぜーんぶ、私の差し金。ジェスタが侵略されて帝国の属国となったのも、お前が私の奴隷となって、今ここで祖国の兵の前で這いつくばっているのも、全部よ』



 ――化け物だ、と、思った。

 この女は、狂っている。初めてそう思ったときには単なる直感だったものが、紛う方なき確信に変わった瞬間だった。

 くすくす、と軽やかな声でエウラリカが嗤う。その嘲笑は酷く満足げで、それでいて随分と空虚に聞こえた。カナンは鎖を押さえつけられて身動き出来ないまま、声もなく床を眺める。ほとんど放心状態だった。頭が働かず、ただ、荒い呼吸を繰り返すことしか出来ない。


『お前、既に帝国の言葉はある程度分かるのでしょう。――そうよね? 昨日、一緒にお勉強したものね?』

 揶揄するような口調に、かっと顔が燃えるように熱くなる。一ヶ月の間にすっかりエウラリカに魅入られ、従順な犬に成り下がろうとしていた自分を掘り返されて、カナンは呻いた。……昨日、自分はこの女の言葉に涙し、その手から菓子を食うまでしたのである。思い返してみれば、異常な精神状態だったと認めざるを得なかった。

 それと同時に、言いようのない恐ろしさがカナンの足下から忍び寄る。自分は、既にエウラリカの手の上で転がされていたのか。


『さあ、本番の試験よ』とエウラリカは鎖から足をどけ、手振りでカナンの頭を上げさせる。『――これから私が言う文章を、ジェスタ語に翻訳しなさい』



 カナンは呆然としたまま、頭上でエウラリカが楽しげに紡ぐ言葉を、何とか母語に組み替える。

「お前たちは、もうすぐ、釈放される」

 その言葉に、牢の中にいた囚人たちは目を見開き、一瞬後に抱き合って喜びだした。涙を流している者もおり、歓喜の様子にカナンは僅かに正気を取り戻す。

 しかしエウラリカはそんな熱狂などまるで見えもしない様子で、冷然と腕を組んだまま言葉を続けさせた。


「ジェスタに帰ったら、両親や兄たちに伝えて欲しい……何だと?」

 エウラリカに言われた言葉をそのまま訳して、それからカナンは自分の言葉を振り返って眉をひそめた。一体自分は何を言わされるのだろう。カナンはエウラリカの方を向こうとしたが、鋭い咳払いに負けて渋々顔を戻す。



 エウラリカは床に膝をついたカナンの後ろに立って、愉悦に満ちた声で告げた。

『――自分は、王女の忠実なる奴隷となり、主人に一生を捧げることを誓った。ジェスタにはもう帰らない。さようなら。……あとは、育ててくれてありがとう、とでも言えば良いかしら?』

 平然とした口調で並べられた言葉に、カナンはしばし思考停止した。言われている内容は、理解できる。嫌になるくらい、既に覚えた単語ばかりだった。……否、それすらもエウラリカの手の上なのか? これを言わせるためだけに、覚えさせる語彙を采配したのだろうか?


『何の、つもりだっ……!』

 カナンは帝国語に戻って、エウラリカに反駁する。エウラリカは『どうぞ、続けて』と手を出し、カナンを促すように首を傾けた。その表情にはまるで悪意というものはない。ただ、当然のことを執り行っているだけだというような、むしろ僅かに退屈ささえ滲ませた微笑である。


 カナンは顔を歪めて、エウラリカを睨みつけた。

『そんなこと、言えるはず……』

『あら、』

 カナンが皆まで言うより早く、エウラリカは頬に手を当て、口の端をつり上げる。その表情にぞっとしたものを感じて、カナンは身を縮めた。触れられてもいないのに、まるで鞭でぶたれたような思いだった。

『お前が試験を放棄するというのなら私は止め立てしないわよ、私の役に立たない愚図は始末するだけ。無能を側に置いていられるほど私は優しくないの』


 ゆるりと目を細めたエウラリカが、酷薄に囁く。その言葉が真実であろうことを、カナンは肌で感じていた。エウラリカは本当にやるだろう。彼女が『不要物』であると判断したのなら、何の躊躇いもなく、自分は処理されるはずだ。カナンはエウラリカの本性――これが本当に彼女の底だとして――を知っている、唯一の人間である。


『さあ、早く。……それとも、祖国もろとも闇に葬り去られたい? お前が望むなら、地図からも歴史からも消し去ってやるわよ。この国ってそういうのがお得意なの』

 エウラリカがにっこりと微笑む。カナンが身じろぎをするたびに、鈴の音が耳にまとわりついた。


 エウラリカが最初に言っていた通りだった。……最初から、自分に、選択肢などないのだ。『それ』がいつから始まっていたのか分からないが、自分は気づかぬうちにこの女の掌中に収められていたのである。


 カナンはゆっくりと口を開く。声は掠れていた。

「――僕は、王女の、忠実なる奴隷だ」

 囚人たちが、愕然としたように言葉を失う。カナンは屈辱に頭を垂れながら、歯ぎしりをする。エウラリカは穏やかな声で『主人に一生を捧げることを誓った、でしょう?』とカナンに語りかけた。

 そんなことは誓っていない。エウラリカの思い違いであるはずもない。これは嫌がらせだ。カナンは唇を噛んだ。わざわざ祖国の兵の前で、これを誓わせるつもりだったに違いない。


「僕は、主人に一生を捧げることを、……ちか、った」

 声は無様に喉につっかえ、震え、戦慄く。ほとんど床の上にうずくまるようにしながら、カナンは荒い呼吸を繰り返した。全身が汗に濡れ、まるで氷のように冷え切っていた。それなのに、頭の中心だけはいやに熱を持っていて、抑えきれぬ激情が渦巻くばかりである。



 兵たちは怒号を上げてカナンに迫る。

「殿下! 嘘ですよね、そんな……っ!」

 ――そうだ、と、言いたかった。この女に一生を捧げるなんてとんでもない。今すぐにでもその喉笛に両手をかけたかった。目の前の牢を開け放ってやり、地上へ出て祖国へ還る自分たちの姿を夢想した。

 祖国の景色が、瞼の裏に鮮明に蘇る。そこで穏やかに暮らす臣民たちや、それを見守る家族たち。川のせせらぎや風の匂いまでもが手に取れそうだった。


 エウラリカが歌うように言う。

『ジェスタにはもう帰らない』

「ジェスタには、もう……帰れない」

 カナンがそう言った瞬間、鎖がぐいと引き上げられた。無理矢理顔を上げさせられ、呻くカナンに、エウラリカは優しい声音で囁く。

『間違いは一度までよ』

『申し訳……ございません、』

『良い子ね』

 忠実に訳せ、ということらしい。今回は辛うじて目こぼしとするつもりのようで、エウラリカは鎖から手を離し、再び腕を組む。


「さようなら。これまで育てて頂いたことに、心から感謝している。……そう伝えて欲しい」


 エウラリカの言葉を母国の言語に直し、そうして、カナンは深く俯いた。鉄格子の向こうの兵たちは、ついにカナンに詰め寄ることも忘れて、呆然と立ち尽くしている。

『よく頑張ったわね。さあ、帰りましょう』

 エウラリカが甘やかすように告げる。その言葉を聞きながら、カナンはぎゅっと眉根を寄せた。酷い顔をしている自覚はあった。

 ……帰る? どこへ?

 カナンの還る場所を奪っておいて、ぬけぬけと『帰りましょう』と言ってしまえるのは、無神経さではなく、むしろその神経を逆なでするために計算され尽くした、陰湿な言葉遊びだ。



『……はい、ご主人様』

 家族の顔をひとりひとり、強く思い浮かべて、カナンは血を吐くような心地で応えた。

 ――いつか、この女を、殺してやる。そう、深く心に刻みつけながら。



 地下牢から出て、地上の廊下に出たエウラリカは、カナンの首輪から鎖を外した。丸めた鎖をカナンに渡し、優しく微笑む。

 自由の身になった、ことは、分かっていた。首輪にかかっていた鎖の重みが減った。代わりに、手の上に鎖の重みが乗った。自分は今すぐにでもこの場を走り出してしまえる。この王女の首を絞めてしまえる。そうしてしまえば、ほとんど背丈が同じであるこの少女が、自分に抵抗できないであろうことを、カナンは薄々察していた。

 ……それなのに、カナンは、動けなかった。


『私は他に用事があるから、お前、一人で部屋まで戻りなさい。――出来るわね?』

 エウラリカは持ったまま出てきた燭台の火を面白そうに眺めながら、確信に満ちた目でカナンに問う。カナンは唇を噛んで、そうして、小さく頷いた。『良い子ね』とエウラリカが笑う。


 エウラリカは不意に右手の腕輪を外し、カナンに向かって放った。カナンは鎖を片手に持ち替え、慌ててそれを捕らえる。繊細な装飾の施された腕輪は、手の中で静かにきらめいた。

『使い方は分かるでしょう?』

 カナンは一瞬困惑し、それから腕輪とエウラリカを見比べてから、小さく頷く。――これはエウラリカの部屋の鍵である。彼女は腕輪に鍵を隠している。動くたびにしゃらしゃらと音を立てる金属の細長い飾り、その一つが鍵だった。エウラリカはこれまでに複数回、腕輪を使って扉を開ける様子をカナンに見せていた。

(部屋の鍵を、僕に渡すのか)

 カナンが恐る恐る腕輪を眺めている様子を見物してから、エウラリカは満足げに微笑む。



『じゃあね』

 エウラリカがひらりと手を振って、来た方向とは逆に歩き出した。その姿を見送って、カナンは手の中の鎖をきつく握りしめる。

 ……本当に、エウラリカの監視はない。自分はどこにも繋がれていない。逃げてしまえ、と、心の中で何かが囁く。それでもどういう訳か、足は動かなくて、


 ――カナンは自分の意志で、自分の足で、エウラリカの部屋まで戻った。

 鎖を外され、身体は自由になったのに、心は厳しく戒められたみたいだった。それとも、反抗的であったカナンの心を調伏できたと確信したから、鎖を外し、身体ばかりが放たれたのだろうか?


 一歩ずつ、足を運ぶたびに、カナンの喉元でささやかな鈴が鳴いた。



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