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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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誇り



 夜が更け、部屋の中はとっぷりと闇に落ちた。エウラリカが閉めたはずのカーテンは、じつはきちんと閉まりきっていなくて、細く開いた隙間から、月明かりが漏れていた。

(……僕は、このまま、あの女の奴隷になるのか?)

 床に筋を作って、青白い月光が照り映える。それがやけに目障りに思えた。立って歩いてカーテンを閉じに行きたいのに、鎖によって行動を制限された自分には叶わない。カナンはうなじに指を這わせ、そこから伸びる鎖の感触に、重いため息をついた。


 広い部屋の隅、長椅子の上に丸まったまま、カナンは鎖を片手で握りしめる。首元で鈴が鳴る。鎖を握って軽く引くと、目の前にある大きな机が軋んだ。とてもではないが、これを引きずって歩く気にはなれない。

 エウラリカはカナンの首輪に、およそ腕を広げた程度の長さの鎖を取り付けた。それを重い机に固定し、そうして本人は自分だけ、続きの部屋へと引っ込んだのだ。

「くそ……っ!」

 カナンは拳を握りしめ、感情のままに長椅子を殴りつける。柔らかな素材をした長椅子は、さしたる音も立てずにカナンの握りこぶしを受け止めた。それがまた腹立たしくて、カナンは長椅子の上で頭を抱えてうずくまった。そうしたカナンの一挙手一投足のすべてに、エウラリカが嵌めた鈴の音がついてくる。――頭がおかしくなりそうだった。


「……僕は、王子だぞ」

 自分に言い聞かせるようにそう呟いた直後、エウラリカの言葉が脳裏をよぎる。『ジェスタは今度こそ跡形もなく消し潰す』。あの言葉が、ただのはったりだと言い切れないような凄みが、あの少女にはあった。……もし、エウラリカが、他の人間に見せていたようなあの姿で、皇帝にそれを願ったら? もし、エウラリカが、それをウォルテールに命じたら? ジェスタは更なる蹂躙に晒され、民は今とは比べものにはならない苦境に立たされまいか。


 カナンは声にならない叫びと共に、もう一度長椅子に拳を叩きつけた。

「くそ、……くそっ! どうして、僕が……」

 つまるところ、エウラリカは、ジェスタ王国を質に取れば、カナンが身動き出来ないことを承知なのである。カナンが王族としての誇りを捨てられないこと、祖国を蔑ろにしてまで自らだけ逃げることは出来ないことを、エウラリカはお見通しなのだった。


 ほんの一ヶ月ほど前まで、生まれ育った城で王子として尊ばれ、平凡ながらも穏やかな生活を送っていたのだ。だのに、今はさも家畜のようにひとところに縫い止められ、長椅子の上で薄い布を一枚だけ被って丸まっている。春の夜の冷たさが忍び寄り、体が震えるまでに至っても、そこにはまるで現実味がなかった。夢のようだ。……もちろん、悪い方の。

 目をつぶれば、手の届きそうな距離で倒れた兵の顔が蘇る。赤く濡れた城内の光景が、いやに鮮明に瞼の裏へ浮かび上がった。助けて、と誰かが叫んでいた。遠くで火の手が上がったのが見えていた。父のように慕っていた将軍は、砦を守って死んだ。他にも、沢山の人間が、カナンの目の前で散っていった。


「僕は……」

 これ以上の犠牲を増やさないために。その言い訳はもはや逃げ道に近かった。祖国を守るために、――祖国を滅ぼした帝国の人間に下る。

 息が詰まるような屈辱だった。冷たく硬い鎖を握りしめて、カナンは無理矢理に眠りに落ちた。



 翌朝、カナンが目覚めると、向かいの長椅子に悠然と腰掛ける少女の姿が目に入った。

『遅い』

 少女はカナンと目が合うと短く何事かを吐き捨て、足を組み替えた。朝日が燦々と射し込む室内で、エウラリカは顔の右半分に光を受けたまま、気だるげな態度で膝に頬杖をついている。カナンはのろのろと体を起こし、腕に絡んだ鎖を解いて、長椅子に腰掛けた。鎖は相も変わらず机に嵌められている。


 カナンが鋭い目でエウラリカを睨みつけると、彼女は静かな目でそれを受け止めた。表情を一切揺らがせることなく、淡く色づいたその唇を開く。

『お前、新ドルトの言葉はどの程度分かるの』

 目を眇めて放たれたものが、問いであるのは分かった。しかし問われているその内容がいまいち判然とせず、カナンは馬鹿みたいにエウラリカを見つめたまま固まる。

『……なるほど、分かったわ』

 エウラリカは納得したように頷いて、興味を失ったようにカナンから目を逸らした。そのまま軽やかな動きで立ち上がり、部屋の隅にある扉を押して姿を消す。あちらは恐らく、本当の意味でのエウラリカの私室なのだろう。カナンの位置からはその中の様子は窺えなかった。


 程なくして戻ってきたエウラリカは、その手に数冊の本を持っていた。鎖で繋がれてろくに動けないカナンは、黙ってその姿を睨みつける。エウラリカはすたすたと大股で部屋を横切ると、机の上に本を落とした。目の前に積まれた本を見下ろして、カナンは眉をひそめる。

『声に、出しながら、これを、書き写しなさい』

「……どうして僕がそんなこと、」

『呆れた。知を重んじるジェスタの人間じゃないの? お前が無知のままでいたいというのなら私は止め立てしないわよ、私の役に立たない愚図は始末するだけ。無能を側に置いていられるほど私は優しくないのよ』


 一言、文句を漏らしかけただけで、やけに長い言葉が返ってくる。流れるような早口はほとんど聞き取ることが出来ない。が、言葉の中に祖国の名を見つけたことで、エウラリカがジェスタのことを引き合いに出して自分を嘲っていることは分かった。

 カナンは舌打ちをしようとして、思い直して口を閉じる。ぐっと奥歯を噛みしめてカナンは机の上の本に手を伸ばした。柔らかい革の表紙に指先が触れる。それが、昨日嵌められた首輪の感触を彷彿とさせて、カナンは体を震わせた。


 表紙をめくると、そこに並んでいるのは案の定、あまり見慣れない帝国の文字である。顔を顰めようとして、カナンはそこに、ある程度分かる単語が並んでいることに気づく。

 表情を改めてゆっくりと本に目を通し始めたカナンをしばらく眺め、エウラリカは満足げに鼻を鳴らした。



 ***


 エウラリカはときどき、カナンの鎖を持って部屋の外を散歩した。それはほとんど犬の散歩と同じで、毎回同じ通路を歩いて部屋まで戻る、ただそれだけのものだった。エウラリカが選ぶのはいつも決まって人気の少ない明るい廊下で、人通りの多い通路は自分から避けているようだった。

 部屋に帰れば、再び帝国語の勉強である。数日前から、部屋での鎖はだいぶ長くなって、部屋の中を歩き回ることは出来るようになった。しかしエウラリカの私室の扉まではまるで手は届かないし、部屋の出口までも到底たどり着けない。

 エウラリカはカナンの勉強を積極的に手伝おうとはしなかった。私室にこもってみたり、長いこと部屋を外してみたり、ときどきはカナンの向かいの長椅子で寝転がって本を読みながら、カナンが読み上げる単語に続いてその正確な発音を呟いたりする。


 時折カナンは酷い読み間違いをすることがあったし、徐々に自分の誤りに気づくようにもなっていた。意味を正反対に取り違えて理解していたことが判明したとき、カナンは思わず赤面したが、エウラリカは特に反応を見せなかった。些細なことで小馬鹿にしたような笑みを浮かべるくせに、だ。

「笑わないのか」と母語で独りごちたカナンに、エウラリカは冷然とした眼差しで一瞥をよこした。

『だって、無駄じゃない』

 どうやらこれが彼女に表しうる最大限の優しさの言葉らしい。カナンは呆れつつも、笑われないのを良いことにエウラリカを教師のごとく使うようになった。



 そんな毎日だった。エウラリカは思ったよりもカナンに話しかけては来なかった。時折、思い出したように簡素な連絡や指示を告げるだけで、顔を見ようともしない。


 ……自分を奴隷にしたくせに、まるで相手にしようとしない。それがどういう訳か、カナンの矜持を傷つけた。奴隷扱いされたい訳じゃないのは自明のことである。それなのに、さも興味なさげに目もくれない態度を見せつけられて、苛立ちを募らせている自分がいた。



 カナンが新ドルト帝国に来て、一月ほどが経ったある日、エウラリカは久しぶりにカナンの目を見て話しかけた。

『どれくらい理解できるようになった? この環境だし、聞き取りに関してはあまり懸念はしていないけれど、文字を読めないのは目が見えないのと一緒だから』

 カナンは大きく瞬きをした。

(……何を言っているのか、大体分かる)

 言ったのと同じ内容を文字にして紙に綴り、カナンに向かって差し出す。それを長い時間をかけて読み解いてから、カナンは自分がおおよその内容を聞き取れていたことを知る。

 エウラリカの語る流暢な帝国語が、以前よりもつっかえなく入ってくる。そのことに、肩の力が抜けるような安堵と、凄まじい屈辱を感じた。……自分は憎き帝国の言葉など学びたくはないのに。いつの間にか自分が塗り替えられていくような心地がして、カナンは唇を噛む。


 エウラリカは返答を待つように、じっとカナンを見据えた。その視線を受けて、カナンは頭の中で言葉を探る。

『少し、ずつ。小さい……短い? 言葉なら、分かる』

 たどたどしく答えると、エウラリカはいくつかの発音を訂正し、小さく微笑んだ。それからいくつかの文を帝国語からジェスタ語へ訳させ、その逆も行う。カナンは必死にそれに応え、そのたびにエウラリカは笑みを深めた。

 一通りの確認が済んだらしい。エウラリカは満足げに微笑んだ。


『――頑張ったわね、偉いわ』

 そう言って、エウラリカは目元を緩める。手を伸ばして机の端にあった菓子盆を引き寄せ、カナンの前に置いた。『おやつにしましょう』と差し出されて口にした砂糖菓子は嫌になるほど甘くて、カナンは目頭が熱くなるのを感じた。


(どうしたんだ、僕)


 カナンは慌てて顔を伏せる。目が潤んだことを、決してエウラリカに知られたくなかった。ゴミが入ったふりで目元を手の甲で乱暴に拭うと、何もなかったように顔を上げる。エウラリカは不思議そうな顔でカナンを眺めていた。

『どうかしたの?』

 エウラリカが首を傾げる。その発音が、部屋の外で聞く他人のそれよりも聞き取りやすいことに気づいて、カナンは狼狽えた。……こんなのは、おかしい。


 ――長いこと放っておかれたのが、そんなに堪えていたのだろうか?

 優しい笑みで、エウラリカがカナンの口元に焼き菓子を差し出す。ふわりと鼻腔をくすぐった香ばしい匂いに、カナンは誘われるように唇を開いていた。

 嬉しい、と思った。毎日、毎日、ずっと、他にやることもなく、ただ一人、誰とも言葉を交わすことなく、死に物狂いで学んだ言葉を、聞いてくれて、あまつさえそれを褒めてくれて、……


『良い子ね』

 エウラリカが愛おしげに囁く。青い瞳が、ゆるりとほどけて、甘やかすみたいにカナンに向けられる。

『だいすきよ』と、エウラリカはまるで口づけでもするみたいに顔を寄せた。実際のところ、その肌は決してカナンには触れることはなかったが、僅かに届いた蠱惑的な甘い香りだけで十分だった。


『……ずっと良い子でいてね』

 懇願するような口調であった。どこか切実な声音に、カナンは声を失ってエウラリカを見つめた。


『難しいことなんて求めないわ。心の底から、他の考えなど浮かばないくらい真剣に、その身も心も、生まれも誇りも尊厳もすべて捧げて、決して裏切ることなく――私に仕えてくれるだけでいいの。それだけ。簡単でしょう?』


 それは早口で、今のカナンにはすぐさま聞き取れないような、耳慣れない表現混じりの長い一文で、でも、それが命令であることは分かる。エウラリカはそれから数度、念を押すように似たことを繰り返し囁いた。


『私、二心を許してやるほど寛容じゃないのよ』

 脅すような言葉であったが、囁いた小声は妙に秘密めいて妖しい気配を放つ。


 気づけば、カナンはまるで熱に浮かされたみたいに『はい』と応えていた。その瞬間、自分がジェスタの王族であることも、この少女の奴隷であることも、ふっと意識の外へと消える。

 美しい少女の微笑みだけをその目に写し、全くもって盲目に、この少女へまるで忠誠でも誓うように、……ただ魅入られていたのだ。


 ――エウラリカの本性など知りもせずに。


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