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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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邂逅2



 部屋を出て、人のいない廊下を歩く。エウラリカはジェスタの手を縛った縄の端を持ち、これではまるで犬畜生の散歩のようだった。茫然自失としたまま、カナンは何も考えられずにエウラリカの一歩後ろを歩いていた。そんなカナンを振り返って、エウラリカは声を低め、早口のジェスタ語で囁く。

「――良いこと。お前が今ほど悟ったことをひと欠片でも誰かに漏らしたら、ジェスタは今度こそ跡形もなく消し潰すわよ」

 表情だけ見れば、それはまるで恋人にでも語りかけるように甘ったるいものなのに、その口調にはまるで親しみというものがなかった。


 耳に口を寄せてくるエウラリカを振り払いたいのに、腕が背中で縛られているせいでそんなことも出来ない。カナンは体ごとエウラリカを振り返り、鋭くその目を睨みつけた。立って見てみれば、身長はほぼ同じだった。

「一体、僕をどうするつもりだ……!」

 カナンが叩きつけた言葉に、エウラリカは「しつけが足りないようね」と漏らしたが、そのあと彼女は視線を僅かに上向かせて、答えを探すように黙り込む。

「――どうして私の考えを逐一お前に伝えねばならないの? 身の程というものを弁えなさいよ」

 ややあって帰ってきた言葉はこれだった。まるで取り合うつもりのない、小馬鹿にしたような口調である。


「お前っ……!」

 カナンは肩を怒らせて反駁しようとしたが、それよりも早くエウラリカがその頬を打ち据えた。頬を押さえて愕然としていると、彼女はカナンの頬をぶった扇を腰布に挟みながら、冴え冴えとした目をカナンに向けていた。

「私が親切にもお前の言葉で語りかけてやるのはこれが最後だから、その耳を叩き起こしてよく聞きなさい」

 顔に落ちてきた髪をかき上げ、王女は超然と告げる。



「お前は既に王子ではない、私の奴隷なの。――ねえ、奴隷は主人へどんな口を利くのが正しいかしら?」



 そのとき、慌ただしい足音と共に、『エウラリカ様!』と声が近づいて、この話題は打ち止めになった。ウォルテールという名の将軍は、カナンたちを視界に収めると早足に近寄ってくる。

 カナンは思わずウォルテールに視線を向けるよりも先にエウラリカを見た。一瞬のうちにエウラリカの横顔には楽しげな笑顔が浮かび、わざとらしいほどのあどけなさが演出されている。その変わり身の早さに、カナンは我が目を疑った。

『ウォルテール!』

 裾を広げて振り返って、少し頬を紅潮させて、エウラリカは破顔する。それに対峙するウォルテールは反対に酷く苦々しげな表情で、カナンに繋がる縄に一瞬だけ目をやった。


 自分には分からない言葉で、エウラリカとウォルテールが会話をする。表情をころころと変えつつ、甘えたように話すエウラリカに対して、ウォルテールは終始険しい顔のままである。

 話をしながら、じりじりと――恐らく本人は気づいていないのだろうが――ウォルテールはエウラリカから逃げるように後退していた。そのことにカナンが気づいたのは、エウラリカが不意に足を大きく踏み出したときだった。

 自分より頭二つほども大きな男を壁際に追い詰めて、エウラリカはさも純真そうなかわいい笑顔で、満足げに相好を崩していた。猫が獲物で遊ぶような優越感がその背から滲んでいるように見えた。

 ウォルテールは顔を赤くして何かを早口に告げる。エウラリカはすっと足を下げてウォルテールから離れた。


 それらの様子を見ながら、カナンは小さく舌打ちした。

(この男も、何も気づいてはいないのか)

 愚かな男だ、と侮蔑の目を向ける。王女の本性も知らず、良いように転がされて、……こんな男に、自分たちは攻め落とされたのか。そう思うと屈辱が巡り巡って何重にも襲い来るようで、カナンはぐっと唇を噛んだ。




 エウラリカはカナンを伴って城内を闊歩し、やがてひとつの扉の前で立ち止まった。それは長い廊下の突き当たりで、見上げるほどに大きな扉は立派な樫の木だった。艶やかに磨かれた両開きの扉に片方の肩を乗せながら、エウラリカは軽く腕を振って右の手首に嵌めていた装飾品を袖の中から出す。カナンが見ている前で、エウラリカは当然のように腕輪を外した。腕輪からは細長い棒状の装飾が沢山下がっており、エウラリカはそのうちのひとつを手に取る。

(鍵……?)


 金属の棒は、エウラリカの小指程度の長さしかない。目を凝らしてみれば、棒と垂直にいくつかの突起があるようだった。それをエウラリカは躊躇いなく鍵穴に指し、ひねる。扉が開いた。

 僅かに軋む音をさせて、重い木の扉が細く開く。エウラリカは扉を完全に開け放つことはしなかった。隙間から体を滑らせるようにして反対側へ行くと、ぐいと縄を引く。腕が自由でないのに無理に引かれてしまうと、崩れた体勢を立て直すのが難しい。カナンは閉じかける扉に肩を打ち付けながら、部屋の中へ倒れ込んだ。

「う、わっ」

『のろまね』

「くそ、」

 ……理解はできないが、何か失礼なことを言われたのは分かった。


 何とか立ち上がると、カナンは辺りを見回す。そこは真っ暗な空間で、それまで明るい廊下を歩いていたカナンは目を瞬いて首を巡らせた。

「何だ、ここ……」

『私の部屋よ』

 エウラリカの言葉の中に「部屋」という単語を見つけて、カナンは小さく頷く。エウラリカがカナンの側を離れた気配がした。と、次の瞬間、目を刺すような光が射し込んだ。カーテンが開け放たれたのだ。目の前にあるのは天井まで届くほどに大きな窓だった。その向こうには庭園らしき緑が広がっている。


 明るくなった室内を見渡してみれば、そこはだだっ広いとも言えるような大きな部屋だった。床は白いタイルが並べられ、部屋の隅には広い机と、それを囲むように置かれた長椅子が鎮座している。この部屋にあるのはせいぜいその程度だった。まるで生活感のない空間は、まさにその持ち主を表しているかのようだ。

 阿呆のように部屋を見回すカナンは、眩しさに顔を歪める。色のない部屋である。白々とした床、壁、柱が、巨大な窓から射し込む光を跳ね返して、まるで自ら輝きを放っているようだった。……しかし、生きているという感じが、しないのだ。呆気に取られて立ち尽くすカナンを振り返って、エウラリカが目を眇める。


『ゼス=カナン・ジェスタ』

 勢いよくカーテンを引いた姿勢のまま、窓に背をつけエウラリカはよく通る息で囁いた。カナンは目を慣らすように瞬きを繰り返しながら、怪訝に首を捻る。……自分は、この王女の前で、一度でも名乗っただろうか?

『この先、私がお前という奴隷をその名で呼ぶことはないわ』

 はっきりとした口調で放たれた言葉は、辛うじてカナンの理解の及ぶ範囲だった。エウラリカはカーテンから手を離し、窓に背を付けたまま艶やかに嗤う。


 エウラリカは、不意に、口元に手をやって小さく咳払いをした。こほん、と乾いた音が部屋に落ちる。

『これがお前の名よ。お前は、私が咳払いをしたとき、それを自分の名のように感知して反応しなければならない』

 初め、カナンは自分が聞き間違えたのだと思った。カナンの拙い帝国語の知識では、それを母語とする人間の言葉を聞き違えても無理はない。問うように眉根を寄せているのに、エウラリカはじっとカナンを見つめるばかりだ。


 ……こほん、と、咳払いの音が響く。カナンは困惑し、動けずに固まった。しんと部屋が静まりかえった。

 しばらく待って、エウラリカは厳しい声で『返事は』とだけカナンに吐き捨てる。粗雑な扱いにカナンは剣呑な表情を浮かべるが、先手を打ったのはエウラリカの方だった。


『そういえば、お前の妹はかわいいのね』

 かっと、頭に血が上る。考えるまでもなく蘇る妹の顔を思い浮かべて、カナンは握りしめた拳をぶるぶると振るわせた。

「……ウーナに手を出したら、お前を、殺す」

『あら。お兄ちゃんは妹のことが大好きなのね、素敵ですこと。――だったらどうすれば良いのか、お前、分かるでしょう?』

 何を言われているのか、正確には分からない。けれど、何事かを嘲られ、促されたのは分かる。エウラリカはしなやかな動きで足を踏み出し、まるで獲物を追い詰めるように弧を描いて歩いた。視線をひたとカナンに据えたまま、『ね?』と息だけで嗤う。カナンはぐっと噛みしめていた上下の奥歯を引き剥がした。


 自らの誇りを、家族への愛を、制圧された祖国への想いを、侵略者への憎悪を一緒くたに飲み下して、カナンは血を吐くように唸った。


『……はい、ご主人様』

『良く出来ました。――良い子ね』


 エウラリカはいつしか背後に回っていた。その指先が触れた感触はなかったが、音もなくカナンの手首を後ろ手に縛っていた縄が足下に落ちる。

 なよやかに伸びた指先が、カナンの首元に伸びた。細く白い十指の先に、あえかな桃色の爪が並んでいる。思わず首を竦め、逃げるようにしたカナンをものともせず、エウラリカは距離を詰める。カナンの喉元に、滑らかな感触が触れた。目を見開いてその顔を見やると、エウラリカは頬を吊り上げて笑っていた。かちり、と小さな音がした。何かを彼の首に嵌めて、エウラリカは手を自らの後ろに隠し、満足げに目を緩める。


『よく似合っているわ』

 短い囁きと共に、エウラリカが一歩下がった。似合っていると言われてもしかし、首元はどんなに下を見たって視界に入らない。見えぬ喉元で、何かが吐息にも似たささやかな音を鳴らした。カナンは嫌な予感に眉をひそめる。

『こっちよ』

 エウラリカに促されて振り返った壁際には、全身の見える大きな姿見があった。そしてついに、カナンは鏡の中に自らの姿を見つける。

(…………くそ、)

 カナンは諦念にも似た屈辱を、歪めた唇に乗せて吐き出した。


 丹念になめされた革の首輪。鎖骨の間の窪みの影に落ちるのは小さな鈴だ。金色をしたこの鈴は、カナンが身動きをするたびに音を立てる。それは囁きのようであり、細い呼気にも似て、すすり泣きのごとく、婀娜めいた色すら孕んでいた。


 エウラリカはカナンに顔を寄せ、その頬に息がかからんばかりの距離で囁いた。

『お前への命令はただひとつ。でもそれをお前に伝える時はまだ来ていないわ』

 その瞳を間近に見て、カナンは一つの事実に気づいた。――青色に見えるエウラリカの目の奥には、深い緑色が沈んでいる。



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