邂逅1
ジェスタ王国が陥落したのは、とある夜半のことであった。
その襲撃は素早く迅速で、なおかつ一切の容赦というものがなかった。扉が破られ、兵が倒れる。逃げる余裕もなく腕を掴まれ、少年は隠れ小部屋から引きずり出された。膝を床に擦り、服が半ば脱げかかるがどうしようもない。
乱暴に床に投げつけられ、少年――カナンは呻き声を上げて這いつくばった。すぐさま頭を上げて体を起こそうとした直後、後頭部を掴まれ、強く床に押しつけられる。
「くそ、……放せっ!」
ジェスタと新ドルト帝国とでは、あまりにも力の差がありすぎたのだ。勝ち目のない戦いだった。いくつもの国を取り込んで、新ドルトは成長し続ける。――まるで、征服を何かの信条にでもするみたいに。
両親や兄妹、臣下と並んで床に押さえつけられながら、カナンは目の前に立ちはだかる男を見上げた。男は黄土色の短髪を僅かにかき混ぜたのち、威圧的に顎を上げて何事かを告げる。帝国の言葉ははっきりとは分からないが、その口調から、降伏を要求しているのはカナンにも何となく知れた。
国を蹂躙され、まるで罪人のように捕らえられ、見下ろされる。筆舌に尽くしがたい屈辱だった。カナンは歯を剥き出しにして奥歯を噛みしめ、男を鋭く睨みつける。
「殺してやる……絶対に、お前たちを、許すものか」
男はふいと目を逸らした。まるで歯牙にもかけない様子だった。その態度にまた、胸の底が言葉にもできない憎しみに焼かれる。
抵抗の余地もなく拘束され、カナンはその日、初めて祖国を出た。
***
(何だ、この街は……)
馬車に乗せられたまま、カナンは呆然と街並みを見渡した。兄や妹たちも、気圧されたように黙っている。
広い通りの両脇に立ち並ぶ建物は店だろうか。いずれも綺麗に整えられ、商品をこちらに向けて並べている。道行く市民たちは明るい表情で語らい、見たことのない通貨で買い物をしている。
声もなく大都市を見回すカナンたちの前で、大きな運河に渡された、巨大な跳ね橋が下ろされた。
ここから先が、大帝国である新ドルトの中枢、帝都である。足を踏み入れずとも、それがいかに発展した都市であるかは推し量ることが出来た。大通りの両脇には背の高い建物が並び、それでいて押しつぶされるような窮屈さはない。見渡す限り整えられた帝都の最奥には、陽の光を受けてその存在感を存分に放つ、巨大な宮殿がそびえ立っていた。
実際に帝都へ乗り入れて、カナンはその地面の滑らかさに舌を巻いた。これまで僅かなりとも車輪が跳ね、振動が伝わってきていたのが、今ではまるで滑るように進んでゆく。実際に帝都に入って分かったことだが、その地面には編み目のように水路が張り巡らされ、濁りのない水が流れていた。水の豊かな土地なのだ。この水こそが、おびただしい人数の市民を支える、最も重要なものだった。
(最初から、勝ち目が、なかったのか)
心底認めたくはないことだったが、カナンはそう思わざるを得なかった。この都市の豊かさは、ジェスタのそれを優に上回っている。
「兄さま」
隣にいた妹が、心細げにカナンを見上げた。カナンは背中で縛られた手を妹の指先に伸ばす。
「わたしたち、もう、ジェスタには帰れないの?」
「そんなはずない」
カナンは妹の手を掴みながら、低い声で囁いた。カナンは帝国の言葉を完全には把握できない。何が目的で、自分たちがここに連れて来られたのか、カナンはあまり理解していなかった。けれど、絶対に屈するものかという意地にも似た決意ばかりが、その胸の底で渦巻いていた。
「大きなお城……」
妹が呆然と呟く。カナンは目を細めて、見上げるほどに大きな城を眺める。まるで山のようだった。中央に構える大きな丸天井の宮殿を囲むように、幾多の塔が立ち並んでいる。渡り廊下で繋がれたそれらを、広大な庭園が包み込んでいた。
馬車は城門をくぐり、列柱が両脇に立ち並ぶ通路に入る。そこで下ろされたカナンたちは、兵に周囲を固められたまま、ゆっくりと通路を歩き出した。
まるで罪人のような扱いだ。カナンは歯ぎしりする。見たくないのに、どうしたって豪奢な城内の調度品は目に入ってくる。それが視界に割り込んでくるたび、まるで、自分たちの貧しさを嘲笑われるような気分になった。
『ウォルテール将軍』
ふと、兵の一人が、扉の前に立っていた男に声をかける。その姿には見覚えがあった。カナンたちの祖国を侵略する際の兵を率いていた男だ。カナンは目線を強め、じっとその顔を睨むように見つめる。髪や瞳、肌の色、顔の造形。目尻にある小さなほくろの位置に至るまでを、目に焼き付けるように観察する。
(ウォルテール、)
その名を心に刻み、カナンは戦慄く息をゆっくりと吐いた。
果たして、扉の向こうにいたのは、これまで見てきた大帝国の頂点に立つ皇帝その人だった。玉座にゆったりと腰掛ける皇帝の前に、カナンたちは跪かされる。磨き抜かれた石の床を睨みつけて、カナンは肩を上下させて息をした。
父が、帝国の言葉で、何事かを告げる。それが降伏宣言であることは、言葉が理解できなくても分かった。隣で妹がしゃくり上げるように泣いていた。反対側では家臣が深く項垂れ、肩を震わせている。カナンは頭をもたげ、数段高いところにいる皇帝を見据えた。
(僕たちは、何も悪いことなどしていない)
それなのに何故、まるで罪人のように引っ捕らえられ、こうして皇帝に忠誠を誓わなければならないのか。
ぎり、と噛みしめた奥歯が鳴る。皇帝という座についていても、そこにいるのは一人の男でしかなかった。飛び抜けて頭が切れるようにも見えず、腕が立つとも思えない。……どうしてこんな男に、自分たちは全てを差し出さねばならないのだ。
カナンは夢想する。今目の前に座している皇帝のその首に鋭い刃を突きつける光景を。哀れにも身を竦め、命乞いをする皇帝の姿を思い描いた。
(……いつか絶対に、この国を、)
そこまで考えたところで、突如として響いた物音に、カナンはびくりと肩を跳ねさせた。扉が開け放たれ、そこから誰かが顔を覗かせたのだ。そちらに目をやって、彼は妙な眩しさに顔を歪める。まるで光が射し込んできたようだった。
(何だ、あれ)
カナンは大きく目を見張る。自分の目が信じられず、彼は幾度となく瞬きを繰り返した。
蜂蜜色の髪が、揺れる。滑らかな頬に柔らかい笑みを乗せて、その少女は小さな扉から現れた。
(あれは、本当に、人間か?)
そんな馬鹿げた疑問を浮かべるほどに、現実味のない存在が、目の前に立っている。
それは、既に『こども』という枠を抜けた後であろう少女だった。その輪郭には僅かに幼さが残っていたが、すらりと伸びた手足は若い娘のそれだった。自分より僅かに年上だろう。カナンは呆然と瞬きを繰り返す。
細身ではあるが、不安になるような華奢さはそこにはなかった。絵に描いたような『幸福な少女』が、そこにいた。形のよい唇は、今は緩やかな弧を描いている。
魅入られたように壇上に視線を向けるカナンを、その少女は見返した。……少なくともカナンはそう思った。
(あの子、僕を見ている、)
どこまでも甘やかで柔らかく清純な少女の中で、その目だけが、深い色を湛えていることに息を飲む。青い双眸をひらめかせて、少女は艶然と目を細めて笑ったようだった。品定めするように目を眇め、そして、頬を吊り上げる。
その、どこか謎めいた眼差しに魅入られていた直後――不意に、その表情が一変した。それはまるで手品か何かのように鮮やかな変化だった。
ぱっと目が丸く大きく見開かれる。その笑みは開けっぴろげに広げられる。突如として変わった印象に、カナンは目を疑う。
……先程の意味深な微笑みは、何かの見間違いか?
『お父さま! わたし、新しいペットが欲しいわ!』
カナンには分からない言葉で、少女が明るい声で何事かを訴えた。少女は扉から手を離すと、皇帝の膝に乗ってその胸に抱きつく。まるで幼子だ。カナンは呆気に取られて、その様子を見つめた。
つい数秒前まで、理知的な――あるいは冷ややかと言えるほどに鋭い視線をしていた少女が、今や生まれたての子猫のようだ。皇帝はすぐにその頬を緩めると、甘えるように見上げてくる少女の頭を撫でる。皇帝の膝の上で、少女は機嫌よさげににこにこしていた。皇帝と少女はいくつかの会話を交わし、皇帝はその間も少女を甘やかすように頭を撫で続けている。
「一体、何が……」
隣で家臣が呟いた。カナンも同じ気持ちだった。あの少女が一瞬だけ垣間見せた眼差しは、恐らく他の誰も見ていないだろう。あのとき顔を上げていたのはカナンだけだった。だが、この光景に気持ち悪さを感じるのは全員一緒のようだ。
ジェスタの人間は唖然としたまま、異様な光景を前に居並ぶばかりだった。
『あら?』
少女はふと振り返り、カナンたちを見渡した。まるで今気づいたかのような表情に、カナンは疑問を抱く。
(……先程、目が合ったように感じたのは気のせいだったのか?)
彼女は、周囲から不審な目を向けられていることに頓着もしなかった。顔を輝かせて、少女は段を降りて近づいてくる。ひた、という音に、カナンは少女が素足であることを悟った。
カナンが膝をついている白い石の床は滑らかで、なおかつ嫌になるほど硬く、冷たかった。その石の上を、少女の爪先が音もなく掠める。踊るように軽やかな足取りで床を踏む。カナンは眉をひそめた。
(頭がおかしいのか?)
自室であるならばいざ知らず、ここは玉座の間である。まさか、ここに来るまでもずっと裸足だったのだろうか? 部屋の外を、ずっと裸足で歩いてきたのか。
――それでは、まるで、狂人ではないか。
『誰にしようかしら。次はとびっきりかわいい子がいいわ!』
弾む声で少女がカナンたちを見回す。横に並ばされた自分たちの前を、ゆっくりと端から歩き出した。床に膝をつき、頭を押さえて低く身を屈まされたままで、カナンは少女を横目でじっと眺める。
……見れば見るほどに美しい少女だった。一分の隙もない。それはいっそ恐ろしいほどだった。
『そうね、……あなたがいいわ』
少女は短く呟いて、カナンの前に立ち止まる。いつの間にか目の前まで迫っていたその姿に、カナンは息を飲んだ。間近で見てみれば、それはなおのこと目を疑うような輝かしさだった。
『こんにちは。今日からあなたはわたしのペットよ』
とびきり甘ったるい声を出して、少女はカナンの前に膝を折ってかがみ込んだ。自らの膝頭に手を置き、その上に頬を乗せて、にこりと唇を綻ばせる。
何を言われているのか分からない。けれど、あまり良くない予感がするのは確かだった。……そもそも、この少女は誰だ? 新ドルト帝国の人間であることは明らかだが、一体、何者なのか。このような場に平然と出てきて、そのうえ皇帝に抱きつき、自由気ままに振る舞う存在。
そのとき、カナンの脳裏に、ひとつの名前がよぎる。それは、この世のものとは思えぬほどに美しいと言われる、帝国の一人娘の噂。
(それでは、こいつは、)
カナンはごくりと唾を飲んだ。心臓の音がうるさくなった。血の気が引くのに、顔はむしろ熱いくらいだった。心の内で、その名を唱える。
王女――エウラリカ・クウェール。
『放してあげて』と王女が手を振ると、カナンを押さえつけていた重圧がふっと消える。背後にいた兵が退いたのだ。カナンは頭を上げた。しかし、一体自分の身に何が起こっているのか分からない。今まで何の話が進んでいたのだ?
何故解放されたのか分からず、カナンは眉根を寄せた。困惑を滲ませて無言でいると、隣にいた家臣が顔を寄せ、低い声で囁く。
「……殿下を、愛玩動物にする、と言っています」
その言葉を咀嚼するのに、数秒を要した。カナンはその間、馬鹿みたいにエウラリカを見上げ、……僅かに微笑まれたその直後、その目論見を理解する。
「ふざけるな、」
あまりの怒りに、声が震えた。体を起こして膝立ちになると、エウラリカは目を細めて立ち上がった。その口元には依然として笑みが残されている。ありありと示された余裕に、血が逆流するような思いだった。両手が自由ならば、今すぐにでもその喉元に両手を伸ばしたいくらいだった。
「僕が、お前の、愛玩動物?」
この屈辱を一口に表す言葉を、カナンは知らない。ただ、頭にあるのは、全てを失ったやるせなさと、豊かな帝国への憎悪、美しき王女への憤怒ばかりである。ぶるぶると唇が震えた。
(僕はジェスタ王国の王子だぞ)
歴史ある由緒正しい国家だ。その淵源ははるか数千年前の文明にまで遡り、新興国である新ドルトとは比べものにならない、大陸中の知と思考の源である。それを治める王家もまた同様に、大陸でも随一の一族だ。こんな、美しいだけで何の中身もない女ごときに、良いようにされて黙っていられるはずがない。
(愛玩動物? この僕が?)
あまりの侮辱に、いっそ現実味が湧かないくらいだった。しかし怒りはじわじわと膨らみ続け、ついにカナンは王女に向かって激しく怒鳴りつけていた。
「……僕に、そのような畜生に成り下がれと言うのかっ!」
感情のままに言葉を叩きつける。静まりかえった部屋に、その声はわんわんと響いた。隣で妹が目を丸くしている。カナンとて、ここまで感情を剥き出しにしたことは、今までかつてなかった。
エウラリカは、特にこれといった反応を示さなかった。いきなりの大声にやや驚いた様子を見せているものの、頬に揃えた指先を押し当てたまま、きょとんと目を開いたままカナンを見下ろしている。
『何と言っているのか、分からないわ』と手を下ろすと、エウラリカは部屋の隅にいた男を振り返った。その様子に、カナンはこの王女が自分の言葉を理解していないことを悟る。
『ねえウォルテール、この子は何と言ったの?』
言葉の中に聞き覚えのある名を聞き取って、カナンは思わず歯ぎしりした。……『ウォルテール』。ジェスタを征服した将軍の名である。王女に声をかけられた男は、躊躇いがちに帝国の言葉で応じる。恐らく自分の言葉を訳しているのだろう、と想像はついた。
『あら』
エウラリカは声を漏らし、まるで心底驚いたかのように目を見張ってカナンを見下ろした。ようやく自分の言葉が伝わったか、と、カナンは視線を強める。目をぱちくりさせてカナンを見つめるその視線を受け止めて、彼は負けじとエウラリカを睨みつけた。
エウラリカは頬に手を当てたまま、ゆっくりと口角をつり上げる。これまで浮かべていたあどけない表情は忽然と消え失せ、そこにあるのは余裕綽々の冷然とした嘲笑だった。
(……! まずい、)
まるで別人のようだ。そう思うと同時に、カナンは、この王女が部屋に入ってきたときの笑みが見間違いなどではなかったことを悟る。
……驚きで呆気に取られたせいで、反応が遅れた。
「がっ……!」
――何が、起きた?
突如としてカナンは頬の痛みと共に吹っ飛ばされ、床に横倒しに打ち付けられる。腕を縛られているせいで受け身を取ることもできず、したたかに肩を打った。
(今、この女は、何をした?)
視線の高さで、とん、とその爪先が柔らかく床に戻される。それを見て、蹴られたのだ、とすぐさま思い至った。しかし、あまりにいきなりのことに、思考が追いつかない。……この、少女が、僕の顔を、蹴ったのか?
『動物が嫌なら、ちゃんと人間として扱うわ。ね、それならいいでしょ?』
その表情は、まるで粗相をした飼い犬を見下ろすような表情なのである。自分が悪いなどとは一欠片とて考えていない、やれやれと言わんばかりの呆れ顔だ。その表情もすぐにかき消える。
王女は幼げな困り顔で、床に倒れ込んだまま動けないカナンに歩み寄った。エウラリカが蹴りを放ったことで、側にいた人間は一斉に距離を取っていた。半径三歩ほどの距離には、誰もいない。
すっと、気配をさせずに、エウラリカはその場に屈んだ。裾が揺れ、足首に嵌められた金の飾りがちらと見える。彼女は慈愛に満ちた眼差しで微笑んでいた。耳にかけていた髪が滑り落ちて、滑らかな金髪が幕のようにそのかんばせに影を落とす。周囲から見えぬように隠されたその顔が、非常に意地悪い表情を浮かべた。
そしてエウラリカは低い声で、ただ一言だけ囁いた。
「――お前に選択肢があるとでも思っているの?」
その言葉に、カナンは鋭く息を飲む。カナンがありったけ目を見開いてエウラリカを見上げると、彼女は無感動に冷ややかな表情でカナンを見返した。とてもではないが、聞き間違いなどではない。今の言葉は、明らかにこの王女が放ったのだ。
カナンは、動悸が抑えられないまま、呆然とエウラリカを見上げる。理解が追いつかない。訳が分からない。
(…………ジェスタ語、)
エウラリカが囁いたのは、カナンの祖国の言葉だった。その発音に違和感はまるでない。よどみのない口調は、彼女がこの言葉を難なく解していることを予感させた。それが意味することに、カナンは戦慄する。
(この、女……)
エウラリカはこの短いただ一言のみで、三つのことをカナンに示唆した。
――自分がジェスタの言葉を理解していること。自分が周囲に対して、ことさらに幼稚かつ無知を装っていること。今、優位に立っているのは自分であるということ。
彼女はこれらを一息の内に、いっぺんに突きつけてきたのである。
どうして、と幾つもの疑問が浮かぶが、それを投げかけることはできない。目の前に立つこの王女が、突如として得体の知れない化け物に見えた。何を考えているのか、まるで分からない。それは疑いようのない恐怖だった。
『今日からあなたは、わたしの奴隷よ』
再び帝国の言葉に戻って、エウラリカは可愛らしく控えめな微笑みをその頬に浮かべてみせた。その裏に薄ら寒いものを感じて、カナンは背筋をぞくりとさせる。
(何だ、この女……)
これが見かけ通りの少女でないことは、既に明らかだった。しかし、カナンの目の前で、エウラリカは年齢不相応に幼い笑顔を浮かべて、嬉しそうに口角を上げている。不意に彼女の目がカナンを向いて、彼は思わず逃げるように顔を伏せていた。
冷たい石の床と、そこに反射する自分の顔が目に入る。カナンは堪えきれずに涙をこぼした。さして歳の変わらない少女にやりこめられたこと、自分が明らかにこの少女に明らかに臆し、怯えていることを痛感して、身を竦めた。悔しさに歯噛みし、声を漏らす。雫に濡れた石の肌を見ないよう、きつく目をつぶり、床に額を押しつけて、言葉にならない声で呻いた。
「殺してやる……絶対に、お前を、許すものか」
この王女は間違いなく、カナンの呪詛を理解しているはずだった。それなのにエウラリカは不思議そうに、こてりと首を傾ける。部屋の隅にいる将軍を窺うふりまでしてみせて、そうして、王女は足下に転がるカナンを見下ろしたようだった。彼女の唇が動く。
『良い子ね』
その言葉は知っていた。カナンの中でのそれは、犬を褒めるときの言葉だった。
彼女の目に浮かぶのは紛れもない嘲笑だ。




