墓前にて
――――エウラリカが死んだ。
「ジェスタでその報を受けたとき、俺がどれだけの衝撃に打ちのめされたか分かるか」
カナンは昏い目をして呟いた。ウォルテールは口を噤んだまま項垂れる。
低い声で語る青年の姿は、物静かながらも人当たりの良い少年の姿とは似ても似つかない。しかし、カナンにこうした鋭利な一面があることを、ウォルテールは既に薄々察してもいた。
エウラリカの死後、既におよそ一年あまりが過ぎている。城内では既にエウラリカのことが話題に上ることも少なくなり、いつしかあのお騒がせな王女の記憶は薄れつつあった。
しかしエウラリカを決して忘れなかった男がいたのである。
この夜、カナンは再び帝都に舞い戻り、宮殿を制圧した。まるでかつての再現のようにウォルテールはカナンのもとに下り、当のカナンは征服者として皇帝のところへ向かうよりも先に、エウラリカの墓を目掛けて歩を進めていた。その目には憎悪とも渇望ともつかない熱が揺らめいている。
「ロウダン様っ!」
左手の通路から声がしたと思って、ウォルテールは弾かれたようにそちらを振り返った。見れば、兵に取り押さえられたまま身をよじるアニナが、こちらに向かって手を伸ばしている。その頬は涙に濡れ、訳が分からないと言わんばかりに顔を歪めていた。
「アニナ!」
ウォルテールはすぐさま走り出そうとしたが、カナンの鋭い一瞥と「ウォルテール」という低い呼びかけに足を止める。
そこでアニナはカナンの存在に気づいたようだった。大きく目を見開き、ウォルテールとカナンを見比べ、「どういうこと?」と漏らす。
「……カナンくん、戻ってきたの?」
「アニナ、」
ウォルテールは首を振ってアニナを制止した。アニナはすぐに応じて口は閉じたものの、未だに事態を飲み込めない様子でカナンの横顔を呆然と見つめている。カナンはアニナに向き直ることすらしなかった。
「お久しぶりですね」と冷ややかな目を向け、カナンはアニナを横目で見た。
「カナンくん……?」
アニナはそこでようやく、カナンが、かつてのカナンと同じ、穏やかな青年でないことを理解したようだった。……否、これがカナンの本来の姿なのか。
カナンはアニナに短く問うた。
「エウラリカの死について、何か知っていることは?」
「エウラリカ様のご逝去?」
眉をひそめて、アニナがカナンを見つめる。彼女は一度口を閉じ、それから躊躇いがちに告げた。
「……エウラリカ様は、流行病で、お亡くなりになりました」
「嘘だ」
カナンの否定に予断はなかった。アニナは首を横に振る。
「う、嘘じゃありません。お医者様は急な発作のようなものじゃないかと仰っていました。夜の間に息を引き取って、お医者様が駆けつけたときには、既に……」
カナンは「そういうことになっているのか」と呟き、小さく息を吐いたようだった。
「あの女がそんな穏やかな死に方をするはずがない」
そうして彼は興味を失ったようにアニナからふいと目を逸らす。
『もう良い。連れて行け』
『ゼス=カナン殿下。この女が関係者である可能性はないのですか』
アニナを後ろ手に拘束したジェスタ兵が、やや困惑交じりにカナンを窺う。カナンは『放っておけ』と素っ気ない口調で吐き捨てた。
『一般の人間と同様に大広間へ連れて行けば良い』
『承知しました』
早口で交わされたジェスタ語の応酬に、アニナは目を白黒させ、ウォルテールも半分以上意味を汲めずに体を強ばらせる。
アニナの姿が見えなくなってから、カナンは表情の抜け落ちた顔でウォルテールを一瞥した。
「先を急ぐぞ」
「……はい、閣下」
嫌味を込めて呼べば、カナンは肩越しにウォルテールを振り返り、頬を吊り上げたようだった。負けじと睨み返す。カナンは愉快そうに目を細めた。
そのまま廊下を進み、ついにカナンはエウラリカの部屋へと続く通路に足を踏み入れた。そこでウォルテールははたと思い出し、咄嗟に「カナン」と呼びかける。
「エウラリカ様の部屋の扉には鍵がかかっている。誰がかけたのかも分からないうえ、鍵も行方不明で、……部屋を通って墓のある庭へ行くことは出来ない。回り込むならそちらの庭から」
「鍵なら持っている」
カナンは羽織っていた外套の前身頃を片手でかき分け、腰元に手をやったようだった。ウォルテールは目を見開いた。……エウラリカの部屋の鍵を、カナンが持っている?
エウラリカの死後、いつの間にかその扉には鍵がかけられていた。そのとき既にカナンは帝都にはいなかったはずだ。……それなのに、鍵がどうしてカナンの手に渡っているのか。
疑惑に満ちた視線を向けるウォルテールに呆れたような顔をして、カナンはため息をついた。
「別に勘ぐるような事情は何もない。これはただの合鍵だ」
言いながら、カナンは大きな木の扉に歩み寄り、素早い仕草で手元を捻る。直後、重い音を立てて、両開きの扉がゆっくりと動いた。
高い天井。白い石張りの床と壁。部屋の中央はぽっかりと開いた空間だ。もうずっと使われた形跡のない暖炉、センターテーブルを囲む長椅子。壁際に置かれた戸棚。閉じられたままの扉。
初めて目の当たりにするエウラリカの居室を前に、ウォルテールは息を飲んだ。生前のエウラリカの印象とは大きく異なり、それはまるで生活感のない空間だった。雑然とした様子はなく、そればかりかろくに物すらない。
(……これが、エウラリカ様とカナンが四年間生活していた部屋、)
ずっと鍵がかかっていたことや、カナンが特に違和感を示さないことからして、この部屋は以前からこのような有様だったのだろう。
しかしカナンの視線の先には、かつては存在しなかったものが一つだけあった。
天井まであるようなガラス窓。細く開いたままの厚手のカーテン。部屋を横切るように伸びた月明かり。枯れ草と空の花壇の広がる小さな箱庭。――待ち構えるように設置された、白い墓。
カナンの喉がぐぅっと鳴った。扉から滑らせるようにして手を離し、彼は勝手知ったる態度で部屋に足を踏み入れた。
「……エウラリカ、」
小さく呟いて、カナンは唇を引き結んだ。ウォルテールはなかなか部屋に踏み入ることが出来ず、扉の前で二の足を踏む。
部屋の中央で、カナンは背を伸ばして立ち尽くしていた。その後ろ姿は、どういう訳か、往年のエウラリカを彷彿とさせる。月の光を頭から浴びたまま、カナンはエウラリカの墓をじっと見つめていた。
ややあって、彼は静かな声で語り出した。
「――あなたはあの日、俺に、もう奴隷は必要ないと仰った。用済みだ、邪魔だと仰った。だから俺は帰った。けれどそのうち、いつか、また、戻ってこようと……そう思っていたんですよ。だって俺はまだ何も、俺たちはまだ何も……」
言いながら、カナンは、一歩ずつ、エウラリカの墓に向かって歩を進める。ガラス戸に手をかけて押し開けると、キィ、と軽く軋んで庭への扉は開いた。
「それなのに、これは一体、どういうことですか」
カナンが部屋を通って庭へと歩を進める。ウォルテールはよろめきながらその背を追った。
まるで現実味のない光景だった。冴え冴えとした月光の降り注ぐ庭園で、カナンは項垂れるようにエウラリカの墓を見下ろしていた。それは王族にしては酷く簡素な墓だった。簡素でありながら、妙に人の目に焼き付いて離れないような気配を放っている。献花台に花はなかった。人が訪れた形跡もなかった。
「あなたのことが心底憎い。腹立たしくて堪らない。俺があなたのためにどれだけ人生を歪められたと思っているのか。俺が何のためにあなたに仕えてきたと思っているのか」
カナンは呪うように囁いた。墓は黙ってその言葉を受け止めた。
「――分かっているくせに、それなのに、あなたは一人で勝手に死んだ。一体どういう了見だ」
その唇が強く噛みしめられた。鋭い眼光で白々とした石の表面を睨みつけ、カナンは戦慄く息をゆっくりと吐き出す。
その視線を墓に刻まれた文字列から離さないまま、カナンは囁くように呟いた。
「……エウラリカ様は、どのような人間であったと思いますか?」
と、これはウォルテールへの問いだろうか。ウォルテールは数秒の間躊躇ってから、「美しい方だった」と呟いた。
(エウラリカ様は、真実、美しかった)
……その、死に顔さえも。
カナンは感情を抑えたように小さな声で続ける。
「それだけですか」
「いや」
ウォルテールは目を伏せる。あの生き物のことを、ウォルテールは何と表現してよいか分からなかった。エウラリカを一口に表す言葉を見つけられなかった。
「……非常に我が儘で、手をつけられない。奔放で、やや傲慢で、甘え上手で、恐ろしいほどに真っ直ぐ」
ぽつり、ぽつりと呟くウォルテールの言葉を、カナンは黙って聞いていた。と、そこでウォルテールは結論を見つけて息を止める。エウラリカを明快に示す一言はこれしかなかった。
「あれはまさしく、……傾国の乙女だった」
そう呟いた瞬間、カナンは顔を歪めるようにして片頬をつり上げた。何か不味いことを言ったか、とウォルテールは肩を強ばらせたが、カナンが何かを咎めることはなかった。
「傾国。……そうだ、その通りだ」
カナンは呟いて、重いため息をつく。そうしてウォルテールに体ごと向き直り、彼は陰鬱な表情で佇んだ。
そのとき蘇ったのは、エウラリカにまつわる様々な記憶である。斜陽の射し込む室内で秘め事じみた笑みを浮かべたエウラリカを思い出す。ハルジェル領で彼女が囁いた言葉を思い出す。『どうか無粋なことはしないでね』『何だって捧げてあげるわ』。
ウォルテールは畏怖と若干の軽蔑を込めてエウラリカの墓を見た。
「しかし、本当に『乙女』であったかどうか……分かったものではない。アジェンゼやラダーム様、それにハルジェルでのこともある」
そう呟いたウォルテールに、カナンは不意を突かれたように目を丸くした。それから口元に手をやり、彼はくつくつと喉の奥で笑う。ウォルテールは眉をひそめ、「何だ」とカナンを窺った。
「ああいえ、あまりにも面白いので。……エウラリカは乙女でしたよ、確かに」
カナンは心底おかしそうに肩を揺らして笑い出す。そこまで馬鹿にされるようなことだろうか。そう思いつつも、ウォルテールはカナンの口ぶりに違和感を覚えて首を傾げる。
「……どうしてそのように言い切れる」
「だって俺がはじめてでしたから」
訳もない、という風に、カナンはさらりと応じた。絶句するのはウォルテールの方だった。長い沈黙ののち、やっとこさ一文字を返す。
「…………は?」
「あはは、そんなに驚かなくたって良いじゃないですか」
声を上げて笑ったカナンの表情に、かつての面影を見いだす。ウォルテールが息を飲んだ直後、その目線は一瞬にして冷ややかなものへ逆戻りしてしまった。
ウォルテールは身を乗り出し、カナンに詰め寄る。
「それでは何だ、……お前は、エウラリカ様の情人ででもあったと言いたいのか」
「いやあ、まさか」
カナンはくるりとその身を反転させ、沈黙し続ける白石の墓を見やった。
「エウラリカが誰かに情を傾けるものか」
その言葉には、妙な重みが乗せられていた。
「あの女は俺のことなんて、全く、歯牙にもかけていませんよ。何とも想っていない。爪の先程も感情を抱いていないに決まっている」
石の下には、エウラリカの棺が収められた石室があるというように聞いている。中へ降りる階段があるのだそうだ。階段を塞ぐように鉄の扉が置かれ、その上に墓標として墓石が積まれているのだと。
「だってあれはそういう女だ」
言いながら、カナンの片足が持ち上がり、立てられた墓標にかけられた。
(何をする気だ、)
ウォルテールが静止するよりも先に、カナンは歯を剥き出しにして顔を歪める。
そしてカナンはひと思いにエウラリカの墓を蹴り倒した。どう、と音を立てて墓は倒れた。
「何という冒涜を……」
目を剥いて立ち尽くすウォルテールをよそに、カナンは倒れた墓石に歩を進める。
風が吹きすさぶ。底冷えするような夜だった。明かりは背後のジェスタ兵が無言で掲げる角灯の炎のみ。それも頼りなく揺らめき、遠くではざわりと木々の梢が音を立てる。体表面も指先も冷え切っているのに、体の中ばかりが燃えるように熱かった。脂汗が止まらなかった。……俺は一体、これから何を目の当たりにするのか。
「エウラリカというのは、本当に我が儘で、手のつけようのないほど性格が悪くて、奔放で、この上なく傲慢で、飴と鞭の使い分けがお上手で、目的の為なら手段を選ばない女だった」
墓石を乱暴にどかしながら、カナンは吐き捨てるように言葉を続けていた。やがてその足下に、地面へ埋め込まれた鉄板が覗く。それは墓の下へ続く扉だ。ウォルテールはそこでようやく、カナンが何をしようとしているかを察した。
扉の取っ手に片足の爪先がかけられる。彼は超然と顎を上げ、頬を吊り上げて笑ったようだった。
「――――エウラリカは一度だって、考えなしの愚鈍であることはなかった」
かくして、エウラリカの墓は暴かれる。
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【表層編】 完




