流行病1
「ゲフーッ! ゴホ、ゴホッ!」
「咳をするなら口を押さえろ」
「ずみまぜん」
音を立てて鼻をかんだデルトを横目に見ながら、ウォルテールはため息をついた。
冬の帝都をここのところ襲う脅威――それは、猛威を振るう流行病である。
流行病とは言えど、罹患したら必ず命を落とすような代物ではない。症状が大変重篤化する風邪のようなもので、健康な大人なら耐えることも出来るが、体の弱い者や老人、子どもの間では相当な数の死者が出ているらしかった。
デルトがその流行病にかかっているのか、それともただの風邪なのかは分からないが、とにかくこれが使い物にならないことは確かだった。ほとんど追い払うようにしてデルトを帰宅させたウォルテールは、腕を組んでため息をついた。
暖炉の中では薪が音を立てて燃えている。その様子を見るともなく眺めながら、彼は頬杖をついた。
流行病は決して珍しいものではない。毎年患者が出るうえ、何年かに一度大流行するようなもので、ウォルテール自身も以前これでぶっ倒れたことがあった。それにしたって今年は随分と流行ったものである。
(城内でも流行ってきているらしいからな)
熱い紅茶を一口啜りながら、彼は目を伏せた。
ウォルテールがこれほどまでに流行病を気にしている理由。それは単純だった。
(……エウラリカ様の容態は大丈夫だろうか)
王女であるエウラリカ・クウェールは、この流行病に罹患している。
***
か細く咳き込む音が扉の向こうから聞こえていた。医者らしき白衣の人物が出てくる。軽く頭を下げて医者とすれ違うと、ウォルテールは扉を軽く指の節で打った。
ややあって、扉が細く開かれ、隙間から黒髪が覗いた。それを目視して、ウォルテールは口を開く。
「ああ、カナン。エウラリカ様のご容態は――」
そう呼びかけると、扉の向こうの相手は目を細めた。
「カナン君じゃなくて申し訳ございません」
「おっと」
言われて一歩下がってみれば、確かにそこにいるのはカナンではなく、ネティヤという名前の官僚である。
ネティヤはすっと目を細めてウォルテールを見上げた。じ、と見つめてくる視線に、ウォルテールは思わずたじろぐ。
「エウラリカ様にご用ですか?」
「用……という訳ではないのだが。ただ、様子はどうかと思ってだな」
「用事がないならお引き取りください。これ以上感染を広げるのは本意ではありません」
冷たいとすら言える、淡々とした口調でそう告げると、ネティヤはそのまま扉を閉じようとした。「あ……」と声を漏らして立ち尽くすウォルテールの眼前で、唐突に扉が再び開いた。
「ウォルテール将軍! わざわざありがとうございます」
ネティヤの代わりにひょこ、と顔を覗かせたのは、今度こそ本物のカナンだった。「おう」とウォルテールはぎこちなく頷く。
カナンは一旦背後を振り返ると眉をひそめた。
「ネティヤさん、せっかくお見舞いに来てくれたのにそんな言い方はないんじゃないですか?」
「私は何か間違ったことを言ったか?」
「……そういうところですよ」
カナンは呆れたように半目になると、またウォルテールに向き直る。ウォルテールは今度こそ立ち直り、「これを持ってきたんだ」と背後に回していた包みを差し出した。
「何ですか?」と受け取って、カナンは中を覗き込む。彼はすぐに表情を輝かせた。
「蜜柑だ! それもこんなに……。ありがとうございます」
「あまり食事も摂れていないと聞いたから買ってきたんだ。ぜひエウラリカ様に食べさせてやってくれ」
ウォルテールは照れ混じりに頭を掻く。カナンはにこりと微笑み、「ありがとうございます」と有り難そうに包みを抱え直した。
「それにしたって、果物なんて高かったでしょう」
「ああ……まあ、思っていたよりはな」
とはいえ、流石にウォルテールも将軍位に就いている人間である。果物を購入するのに躊躇うほどの懐事情ではない。
カナンはくすりと笑うと、包みを背後のネティヤに手渡したようだった。それから部屋を出てくると、扉を後ろ手に閉める。関係のない人間をエウラリカに近づけたくないのはカナンも同じのようだった。
「エウラリカ様の容態はどうだ?」
問えば、カナンは腕を組んで僅かに項垂れる。
「なかなか快方に向かいません。まあ、一日やそこらで治るようなものでもありませんし、気長に見るしかないですね」
「そうか」
ウォルテールは上手い返事を見つけられずに頷いた。こうして向かい合ってみると、カナンもなかなかに疲弊した様子である。
「自分にうつされないように気をつけろよ」
「はい」
カナンは軽く頷いた。つい昔の癖で頭を撫でかけて、ウォルテールは慌てて手を下ろす。
***
それは、ウォルテールがエウラリカの部屋に見舞いに行った、その次の日のことだった。
(もうすぐ年末か……。出勤はどう割り振ろうか)
城内警備に当てている自軍の兵の顔ぶれを思い返しながら、ウォルテールは城門をくぐって街に降りようとしていた。
(レダス殿がもうじき帰ってくるから、今まで出兵していた者は休みを取らせてやりたいしな)
その矢先のことである。
遠くから何かの騒ぎが近づいてくる。
「キャー!」
「うわっ!」
行く手からは数々の悲鳴が聞こえ、ウォルテールは城門前の広場で足を止めた。声がするのは目抜き通りの向こうからで、今の時間帯は市場が開かれているため、大勢がひしめき合っている。
(……何だ!?)
ウォルテールは身構え、悲鳴がする方を注視した。悲鳴は瞬く間に近づく。そして原因はすぐに知れることとなった。
逃げ惑う人垣、その頭の上に飛び出して見えるのは、全身から湯気を立ち上らせた馬の姿である。行く手に人間が大勢固まっているのも気にせず、馬は猛然とこちらに向かって走ってきていた。すんでのところで人々が避けていくものの、転倒する者や荷物を取り落とす者など、とてもではないが無事とは言いがたい。
(暴れ馬……!)
彼は剣の柄にかけていた手を離し、周囲を見渡す。何事かと怪訝そうな顔の市民に「避難しろ!」と叫び、ウォルテールは馬の通り道に対して半身になって腰を低くした。
……が、その姿がはっきりと見えるにつれ、ウォルテールはそれが決して『暴れ馬』ではないことに気づく。馬の背には旅装の男が乗っており、明らかに手綱を握って馬を走らせている。
「こんな無茶苦茶な走り方をする馬鹿は誰だ……」
ウォルテールは絶句した。馬を無理矢理止めようと構えるのをやめ、馬上の男に声をかけようと一歩前へ出る。
人混みを突破し、ついに一騎は城門前の広場に躍り出た。そこで手綱を強く引いたらしい、馬は前足を浮かせて急停止すると、荒い呼吸でその場に立ち止まった。距離があってもその汗のにおいが押し寄せる。
「おい、こんな場所で馬を走らせるなど」
ウォルテールは進み出て、肩を怒らせながら馬上の男を睨みつけた。男は反応を示さず、ウォルテールに気づいているのかどうなのかも分からない。ほとんど滑り落ちるように馬から下りると、その場で大きくたたらを踏んだ。ふらりとその体が傾き、ウォルテールは慌てて走り寄る。
「大丈夫か?」
地面に倒れ込みかけた男を支え、ウォルテールはその顔を覗き込んだ。目の下には濃い隈が浮かび、酷く憔悴した様子が見える。外套の下に覗いた軍服を目にして、ウォルテールはこれがただ事ではないことを悟った。
「……至急、……ご報告、を、」
(……! 伝令か)
息も絶え絶え、掠れた声で告げた男に「分かった」と頷き、ウォルテールはその腕を首の後ろに回して伝令の男を担ぎ上げる。城門の前に立っていた門番も駆け寄り、反対の腕を持って伝令を支えた。
伝令は担がれている間も何かを言おうとするように口を開閉させていたが、その声は掠れ、ほとんど息のようで要領を得ない。耳を傾けるがいまいち何を言っているのか分からず、ウォルテールは伝令を屋内に運ぶことを最優先にした。
別の門番が先に言っていたのか、玄関ホールの扉は大きく開け放たれ、慌てた様子の侍女が水を片手に奥から走り出てくる。窓から様子を見ていた者もいるのだろう、階段や渡り廊下からわらわらと人が顔を出してはウォルテールたちの様子を窺っている。
玄関ホールの中央で伝令は崩れ落ちるように倒れ込んだ。ウォルテールはその傍らに片膝をついて身を屈めると、侍女から受け取ったグラスを伝令に手渡す。
伝令が喉を反らして水を飲んでいる間、誰も言葉を発しようとはしなかった。ウォルテールに声をかける者もおらず、人の溢れる玄関ホールは、しかし暫しの沈黙に満たされた。
「……落ち着いたか?」
「は……はい」
伝令は何度か頷いて、荒い息にむせたように咳き込む。それから顔を巡らせ、「どなたか、将軍か、それに類する軍部の方は……」と呟いた。
「俺が将軍だ」
「ああ……」
ウォルテールは伝令の背をさすってやりながら応じる。男は呆気に取られたようにウォルテールを二度見し、それから「ウォルテール将軍、でしたか」と呟いた。
(気づいてなかったのか)
どれだけ動転していたのかが分かる。ウォルテールは黙って伝令の顔を見下ろした。
「……ご報告、申し上げます」
伝令は肩で息をしながらウォルテールを見据える。その場にいる全員が固唾を飲んで男の言葉を待っていた。
乱れた前髪が額にかかる。伝令の目に決して嘘はない。この寒い冬に、滴るほどの汗を顔中にかいて、男は大きく息を吸い、はっきりと告げた。
「東部諸国が反旗を翻し、緩衝地帯であるウディル州に進軍しました。連合している主な国はカルエナ、ダイランなど。中心となって軍を率いているのは、属国である――」
そのとき、ウォルテールは、こちらを見つめる数々の視線の中に、その青年の姿を見つけていた。どうしてこの一瞬のうちに気づいたのかは分からなかった。ウォルテールは緩慢な動きで瞬きをした。全てがゆっくりと流れているような気がした。
伝令は続ける。
「――ジェスタ王国の第一王子。要求は『捕虜の返還』とのことです」
すっと、頭の中心が冷えてゆく気がした。ウォルテールは呆然と言葉を失ったまま、視線だけで、『彼』を窺った。
ざわつき、互いに顔を見合わせる人混みの中で、彼だけが微動だにせず立ち尽くしている。黒い色彩はその場に浮かぶように際立っていた。彼の顔色は蒼白だった。それは彼自身もこの状況が予想外であることを表していた。
唇が動く。囁く。それはジェスタの言葉だ。彼の母語。最も舌に馴染んだことば。
カナンは声もなく呟いた。
――――『兄上』。




