外遊10
演舞の際に起こった騒動に関する疑惑を、訪問先であるハルジェルで厳しく追及することはやはり憚られた。何はともあれ目的の式典には参加したのである。ウォルテールは真実の訴求よりもエウラリカを安全に帝都へ連れ帰ることを選択した。
式典の翌朝、エウラリカを乗せた馬車は素早く主都を出発した。張り詰めた表情の兵を見回しながら、ウォルテールは手綱を強く握りしめる。
(昨日、踊り手の剣がエウラリカ様に当たりそうになったこと。カナンの『大丈夫』という言葉。……オリルは言っていた、『ハルジェル領内に怪しい動きがある』という話)
頭が痛くなってくるようだった。唇を噛み、大きなため息をつくのを堪える。
(それに、エウラリカ様が左大臣に言っていた言葉は何だ)
ウォルテールの脳裏に、少女の甘えるような声が蘇った。――『わたし、帝都を出たいのよ』。
(一体、何が起こっているんだ。俺に見えないところで、誰が、何を……)
馬車の車輪ががらがらと音を立てていた。夏風が薙ぐ。青い穂のついた一面の小麦畑が水面のように遙か遠くまでさざ波を立てた。
ウォルテールの内心とは裏腹に、空は抜けるように青く、明るい光を視界に投げかけている。ウォルテールは詰めていた息をそっと吐いた。
「――ウォルテール様! 主都が!」
不意に背後からアニナの声がして、ウォルテールは馬上で弾かれたように振り返った。そうして目の当たりにした光景に、彼は瞠目する。
アニナの声につられて、他の兵も元来た主都を顧みた。隊列は道半ばで停止し、誰もが息を飲む。
「まあ、火事!?」
馬車の窓から身を乗り出したエウラリカが口元に手をやって叫んだ。その言葉の通り、主都からは高い煙が立ち上り、明らかに火の手が上がっている様子が分かる。
エウラリカの頭の上から顔を出したカナンが、主都の有様を見て「おや」と眉を上げた。
「これは大変だ……」
カナンは片手で顔の下半分を覆うようにしながら呟く。その表情と声がやけに真に迫っていて、ウォルテールも表情を険しくして主都を振り返ってしまう。
「……一体、誰が火をつけたのかしら」
エウラリカは窓枠に手をかけて、小さく呟いた。カナンが「さあ……」と漏らしたきり、それに答えるものはいない。誰もが声もなく主都を眺めていた。煙の大きさからしてそれなりに大きな火事であることが予想されたが、面積だけで言えば帝都よりも大きな都のことである。主都全体で考えれば、機能が壊滅するほどの火災とは思えなかった。何らかの不始末による小火だろうか。
カナンは遠くを見透かすように目を眇めた。
「――きっと、とってもろくでもない奴ですよ」
***
帰路では特に何か問題が起こるでもなく、オリルがいるであろう峠の街も、一切足を止めることなく通過した。行きよりも移動を速めたせいか、進行は予想以上に早い。
ようやくハルジェル領を出て帝都圏へと戻ってきたとき、隊は既に疲労困憊だった。エウラリカも馬車の中でくたりと萎れたようになっているし、カナンも心なしか疲れた表情である。
「次の街で休憩を取りましょうよぉ」
デルトがねだるように言い、周囲もそれに同意した。ウォルテールは数秒考え、「そうだな」と頷く。
「次の街までの一踏ん張りだ、行くぞ」
「はぁい」
「返事はしっかり」
「はい……」
ぐでっとする部下を軽く一瞥して、ウォルテールは目の前に続いてゆく街道に向き直った。自身も相当に疲弊していることが分かり、彼は黙って眉間を揉む。
(次の街では何か美味いものがあるといいが)
豪華な食事への期待を胸に到着した街で、しかし宿屋の店主は申し訳なさそうに首を振った。
「申し訳ありません、ただ今、この人数の食事をご用意することが出来なくて……」
「えぇ……」
隣ではアニナが唖然として立ち尽くしている。「何かあったんですか?」とデルトが問えば、店主は肩をすぼめて手もみをする。
「お恥ずかしい話なのですが、食料の値段がここのところ高騰していて……うちではとてもじゃないけれど、満室分の食事を常に準備しておくことが出来ないのです」
「数人分の食事は準備できるのか」
「ええはい、もちろん」
店主は勢い込んで大きく頷いた。その態度からは、この客を逃してなるものかという意思が窺い知れる。
「少なめに見積もって、最低でも三人分はご用意できます」
「ふーむ」
ウォルテールは顎を撫でた。
「エウラリカ様とカナン、それとアニナが食堂で食事を摂ることにするか。俺たちは保存食料でしのげばいいだろう」
流石にこの状況で不満を言う兵はいない。気が引けるのか、アニナはウォルテールの袖を引いて首を振った。
「そんな、じゃあ私も保存食でいいですよ」
「アニナ、貴女は温かいものを食べなさい。疲れているだろう」
「で、でも……ウォルテール様だって、隊を率いるのにきちんと食事を摂る必要があります」
アニナは納得いかないというように唇を尖らせてウォルテールを睨み上げる。ウォルテールは頭を掻いた。
「……半分ずつにするか?」
「はい!」
譲歩に彼女は大きく頷いて、満足そうに鼻から息を吐く。
(俺だけ食べるのも顰蹙を買うと思ったんだけどな……)
ちら、と背後を窺うと、温かい食事を食いっぱぐれた兵たちが生暖かい目でこちらを見ていた。デルトが「いや、気にしなくていいですよ」と片手を挙げる。
「俺たちはとってもとっても美味しい干し肉食べるので」
「……帝都に帰ったらお前ら全員どこかの店に連れて行ってやるからな」
やむなくそう約束をして、ウォルテールはため息をついた。
そんな風にして、この外遊は最後までいまいち順調とはいかない旅となった。
しかし、何はともあれ、目的である式典には参加をしてハルジェルへの義理を立てたし、エウラリカは無事だし、カナンも命はあるし、隊に欠員もいないし、……最低限の義務は果たせた、と信じたい。あとまあ、おまけのようなものとして、アニナも父親と和解(のようなもの)を出来たし……。
遠くに見慣れた帝都の概形が見えたとき、ウォルテールは肩の荷が下りるのを感じた。
はあ、とウォルテールはため息をつく。これから待ち受ける後始末や報告の数々を考えるだけで頭痛がしてきそうだ。
遠征ってのはやはり大変だ。彼は白く霞んだような青空を見上げて、肩を竦めたのだった。
***
ハルジェルに対する監視体制は強化され、それまで手薄であったエウラリカの警備も相当に増強された。エウラリカ自身が周囲に人が増えるのを嫌がったため、今まで通り最側近に控えているのはカナンのみだ。が、エウラリカの居住する棟の入り口には常に二人以上の兵が立ち、王女の身に危険が迫る可能性は少なくなったと言えるだろう。
城内を歩く人影を見つけて、ウォルテールは「カナン」と呼びかけた。彼はその場ですぐに立ち止まり、ウォルテールが歩いて来るのを大人しく待っている。
「こんにちは、ウォルテール将軍」
朗らかに声をかけてきたカナンに、ウォルテールは「ああ」と頷き、そして身を屈めて声を潜めた。
「カナン、……背中の調子はどうだ?」
暗に背中の切り傷を指すと、彼は小さく苦笑する。「お気遣いありがとうございます。順調に塞がってきました」とカナンは口角を上げて自慢げに胸を反らした。
それならば良い、と立ち去ろうとしたウォルテールを呼び止めたのは、今度はカナンの方だった。
「ウォルテール将軍、」
その眼差しに、それまでとは何か異なる色を感じた。彼はどきりとして唾を飲む。カナンは妙に気だるげな風情を漂わせて、ウォルテールと視線を重ね、そして囁いた。
「俺は、エウラリカ様のためなら、何だって切るし、何に切られたって良いんです」
艶やかな黒髪が後頭の結び目から一筋ふたすじ零れ、その額や頬にかかっている。カナンは口元に僅かな笑みを湛えていた。
「同じ覚悟をしろとは言いません。切られろとまでは言わない」
おもむろにカナンの手が上腕の外側に触れた。指先が食い込むように握りしめられる。
「でも俺は、あなたに覚悟をしておいて貰いたい。それがあなたに足りないものだと思うから」
ウォルテールは魅入られたようにカナンの視線を受け止めていた。目線を重ねるために背を丸め、まるで黒曜石のように暗く丸い双眸を覗き込んだ。カナンは首を伸ばし、ぐっとウォルテールに顔を寄せた。
カナンの薄い唇が息混じりに動く。
「――いつか、あなたが、近しい人間を切る覚悟を」
青年の眼差しは、それが決して遠い『いつか』の話ではないことを、何よりも如実に語っていた。




