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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【表層編】

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外遊7



 結論から言えば、エウラリカは決して大人しくなどしていなかった。しかもろくでもなかった。幼稚にわめいてくれた方が何倍マシか、とウォルテールは頭を抱えたのであった。



 そもそも宿泊棟にエウラリカの姿が見当たらなかった時点で怪しかったのだ。

「ウォルテール将軍、エウラリカ様がどこにおられるか分かりませんか」

 正午を回った頃、カナンは弱り顔で声をかけてきた。振り返って、ウォルテールは血相を変える。

「……お前が分からないのに俺に分かるはずがないぞ」

 カナンは顔を引きつらせた。


「目を離したのか? 他の警備は何をしていたんだ」

 ウォルテールが眉をひそめると、カナンは顔ごと横を向き、非常に答えづらそうな様子で呟いた。

「その……どうやら、部屋から抜け出した様子で」

「部屋から抜け出した!? 一体どうやって……」

「窓が開いていました。ほら、ここ平屋建てですし」

「ああ……あの方は……本当に……!」

 頭を掻きむしったウォルテールに、カナンはますます小さくなる。


「行き先に心当たりはないのか」

「…………。」

 目を逸らしたカナンに「あるんだな?」と迫れば、彼は「あるかもしれません」と渋々頷いた。

「ただ、予想が正しければ……。……あまり大事にはしたくないので、出来れば捜索は内密にして頂けると助かるのですが」

 いやに深刻な表情のカナンに、ウォルテールは唾を飲んだ。カナンがここまで言うのである、きっと余程の事態に違いない。「分かった」とウォルテールは頷き、カナンを促して歩き出した。


 玄関を出、明るい通路に歩み出ながら、カナンは声を潜めて述べる。

「少なくともこの棟にはいないと思います。いるとすれば……中央の棟かと」

「中央……つまり、領主の居室や行政などを執り行う棟か。エウラリカ様は何だってそんな場所に……」

「あの人の悪癖ですよ。最悪だ。全くもって手に負えないんだから」

 カナンはほとんど独り言のように毒づくと、ため息交じりに額を押さえた。大股で歩くカナンの足取りはいつになく荒々しく、そこには焦りが透けて見えた。



 ちょうど時刻は昼時とあって、職員たちは一斉に昼休憩に入っているらしかった。人気の少ない中央の棟へと足を踏み入れた二人は、広い玄関ホールをぐるりと見回す。ここだけは天井が高く、天窓からは明るい光が降り注いでいる。床のモザイク模様の上に立ったウォルテールは、腰に手を当てて周囲の状況を見た。

 正面には議事堂兼大広間へ続く大扉、左右にはそれぞれ通路が真っ直ぐに伸びている。……流石に大広間で遊んでいるということはないだろう。

「俺はこっちを見てきます」

 カナンは自分が立っている側の通路を指し示し、足早にその場を立ち去ってしまう。ウォルテールも頷き、カナンが向かったのとは反対側の通路へと足を踏み入れた。


 木箱を抱えた人足風の男が、忙しそうに早足で廊下を歩いてくる。それとすれ違いながら、ウォルテールは自らが勤め人であることを改めて痛感した。


 護衛対象を見失うなんて、想像を絶する失態だ。帰ったら相応の処分を覚悟しておいた方が良いかもしれない。ウォルテールは渋い顔をする。

 ……何にせよ、まずはエウラリカを見つけるのが先決である。

(カナンも大変だな)

 先程の様子を見ただけでも、カナンがこれまでに散々エウラリカに振り回されてきたのであろうことが容易に想像できた。最悪だ、と漏らしたカナンの横顔を思い出す。……厄介な主人を持つと苦労するだろう。



「失礼、この辺りでエウ……金髪の若い女性を見かけませんでしたか?」

 誰も彼もが昼食を摂りに行ってしまったらしく、人気のない廊下で、ようやく文官らしい人影を見つけて声をかける。立ち止まった女は見慣れないウォルテールの姿に少し困惑を示しつつも、「金髪?」と首を傾げた。

 ハルジェル領では金髪は珍しかった。ごく明るい茶髪はいるが、透けるような金となると、今のところお目にかかっていない。


 女は顎に手を添えながら、記憶を辿るように視線を斜め上に持ち上げる。

「あー……ええと。……それってもしかして、とてもお可愛らしい顔立ちの?」

「……多分それかと」

 ウォルテールが頷くと、彼女は「それなら」と今しがた歩いてきた廊下の奥を指し示した。

「先程見かけたかも知れません。あちらへ行かれたように思います」

「ありがとうございます」

 軽く礼を言うと、ウォルテールは指された方向に視線を走らせる。

「あちらには何が?」

「大会議室です。突き当たりには左大臣のお部屋ですとか……あとは資料庫かしら? でも資料庫は鍵がかかっていて、許可がないと入れませんから……」

「なるほど」

 頷いて、ウォルテールは一度頭を下げてそのまま歩を進めた。


(左大臣…………)

 コルエル大臣が右大臣であり、左大臣とはその対になる大臣のことだろう。何か明確な理由がある訳ではないが、そこはかとない嫌な予感がウォルテールの胸に去来していた。




 ……その声が聞こえたのは、周りがいやに静かだったからだろう。自らの足音ばかりが規則的に響いているのを聞くともなしに聞いていたウォルテールは、はたと足を止めた。

(ん……?)

 何かが聞こえた気がした。その『何か』の正体を突き止めるよりも早く、嫌な予感が漂う。ウォルテールは廊下の中ほどで佇立したまま、耳を澄ませて全身を張り詰めさせた。



「――ね、仲良くしましょう? わたし、あなたとお近づきになりたいの」


 聞き覚えのある声音が、しかし記憶にあるものよりも何倍も甘ったるい響きを伴って語る。それを耳にした瞬間、ウォルテールの背筋は凍っていた。

「もちろん、私どもはクウェール家に忠誠を誓う、大変近しい国民ですよ」

「そんな言葉を求めているんじゃないわ。わたしが言いたいこと、分かるでしょ?」

 ウォルテールはその場に立ち尽くしたまま、息を殺して耳を澄ませた。

(クウェール家……話をしているのはエウラリカ様で間違いない)


 それは実に蠱惑的な声であった。息混じりでありつつもあくまでも響きは明瞭で、金属を高らかに打ち鳴らしたかのように耳の奥へ入ってくる音だった。

 ウォルテールは身じろぎ一つ出来ぬままに、声の出所を目で探る。

「これはここだけの話ね」とエウラリカは密やかに前置いたようだった。続く言葉にウォルテールは瞠目する。


「――わたし、帝都を出たいのよ。正直、おとうさまと一緒にいるのがもう限界なの」


 ウォルテールがひゅっと息を飲んだ直後、エウラリカに相対する声は「……ほう?」と初めて興味ありげな様子を示した。

 エウラリカの声は初めて聞くような哀切さを含んでいた。

「でも、多分それが難しいことはわかってる。だからわたし、誰か味方が欲しくて」

「私に貴女様の出奔に協力せよと? ……申し訳ありませんが、こちらにとって何の利益もないうえ、そのように危険なことにおいそれと手を貸すことは出来ません」

「そんなっ……!」

「今のことは聞かなかったことにします。ですから――」


 エウラリカと会話をしている相手――恐らくは左大臣が、いきなり沈黙する。その頃には既に声の出所は割れており、目の前の突き当たり、扉が半開きになった左大臣の部屋に二人がいることは分かっていた。

(何があった!?)

 ようやく硬直から解けたウォルテールは、震える手を伸ばして扉に触れた。腕に力が入らない。ほとんど音がしないようなノックをして、そして扉を開け放つ。扉は何の支障もなく、軋むこともなく開いたが、ウォルテールはそこで足と口を縫い止められたかのように硬直した。


「利益だったらあるわ。……わたし、あなたのためなら何だってしてあげる」


 執務机に腰掛けたエウラリカが、天板に片手をついて体を捻っていた。宙に浮いた足先は揃えられ、曲線を描く背から流れ落ちた金髪は窓の光を受けて煌めいている。机に置かれていない方の手は自らの肩に指先を触れさせており、極めつけはその体勢だった。

 机の向こうに椅子に座った左大臣に向かって身を乗り出し、その顔を寄せ、エウラリカは目を細めて微笑んでいた。

「何を捧げたって良いわ。――この身も、心も」


 左大臣の頬に口紅の色を発見した瞬間、ウォルテールは動揺を通り越して脳が冷え渡るのを感じた。この場をいかに収めるか。いつになく思考が素早く回る。あまり刺激するのは良くないし、大きな声を出して大事にするのも駄目だ。そうしてウォルテールはおずおずと声をかけようとした。


「エウ、」

「エウラリカ様っ!」

 しかし、ウォルテールの配慮の何もかもを叩き壊して、割り込むように飛んできた人影がある。ぎょっとして一歩下がったウォルテールの眼前で、束ねられた黒髪が揺れた。

 彼は開け放たれたままの扉の枠に片手をかけ、無言で部屋の中を見据えた。斜め後ろから見える横顔がいやに剣呑で、ウォルテールは不安定さに危機感を覚えて肩を強ばらせる。


「カナン、」

 ウォルテールはその肩に手をかけて落ち着かせようとした。が、カナンは乱暴な仕草でそれを振り払う。それから数度肩で息をして、彼は声ばかりは穏やかに、エウラリカへ語りかけた。

「……エウラリカ様。昼食の準備が出来ております」

 するとエウラリカは体を左大臣に向けたまま、肩から手を下ろし、天板についた手を浮かせて肩越しに振り返る。ぱっとその表情が華やかに広げられ、彼女は明るい声で応じた。

「あら。お昼ごはんも楽しみだわ!」

 ――その、まるで何事もなかったかのような、素振りに。


(この王女は、やはり、何かおかしい)

 ウォルテールは言葉に出来ない恐怖を覚えて戦慄した。



 元来た廊下を、エウラリカを連れて引き返す。一歩先を行くエウラリカの背で、長い髪の毛先が機嫌よさげに揺れていた。小さな背中を眺めながら、ウォルテールはその肩で輝く金具を見下ろす。

 先程、大臣に身を寄せながら、彼女が指先で触れていたものだ。エウラリカの纏う服はやけに古式の巻衣で、上部を折った布を体に巻き、肩の上を二箇所の留め具で押さえることで服としての形を保っている。

 そのときになってようやく、ウォルテールはカナンがどうしてあれほど息せき切って駆け込んできたのかを悟った。

 ――あの金具を取ってしまえば、布が落ちる。

 身も心も、と囁いたエウラリカの言葉が脳裏に蘇る。ウォルテールは無言のうちに奥歯を強く噛みしめた。


(エウラリカ様は、何を考えているんだ)

 この少女を野放しにしておく訳にはいくまい。ずっと前から抱いていた危惧が、今になって更なる緊迫感を伴って立ち上っていた。



 帝都を出たい、と語ったエウラリカの声が頭から離れない。その手段としてハルジェルの高官を頼る。確かに荒唐無稽ではないかもしれない。……しかし、あまりにも杜撰だ。そのうえ、代償として自分を差し出すような真似など……。


 エウラリカの本心がどうであれ、ウォルテールの職務は彼女をハルジェル領へと連れて行き、そして無事に連れ帰ることである。……これから帝都に帰るまで、エウラリカから目を離すわけにはいかない。




 しかしウォルテールの危惧も何のその、その日のエウラリカはそれからずっと大人しくしていた。昼食を食べ、談話室に戻って午睡、目が覚めたら中庭に出て草と戯れ、飽きたら再び暇を持て余して菓子を食べたりするなどしている。いかにも気ままな様子だった。まるで室内飼いの猫を眺めている気分だった。それも、機嫌の良い猫である。


「ウォルテール様、瞬きくらいはされたらいかがでしょうか……」

 アニナに言われて初めて、ウォルテールは自分の目が乾いていることに気づいた。「随分と熱心にエウラリカ様を見ておられるんですね」とアニナが怪訝そうに首を傾げる。まさかおいそれとアニナに話せるような事情ではない。ウォルテールはやむを得ず「まあな」と言葉を濁した。

「カナンに、『エウラリカ様から絶対に目を離さないでください』って言われてしまったからな……」

 不思議そうなアニナの視線を感じながら、ウォルテールは円卓に頬杖をついてため息を漏らした。


 一面に壁のない談話室は、いかにものどかで穏やかな空気が流れている。無邪気な様子で花瓶の花を眺めるエウラリカの眼差しはどこまでも真っ直ぐだ。

(……そうだ。エウラリカ様は真っ直ぐなのだ)

 自分の意思を通し、行動を制限されることが何より嫌いで、誰に何を言われようとやりたいようにやる。傲慢で我が儘で無邪気。それがエウラリカという少女だった。少なくともウォルテールの目にはそう見えた。


 何にせよ、エウラリカのちょっとした言動が大きな問題に繋がる可能性があるのは事実だ。エウラリカがその立場を理解していないことも事実。


 はぁ、と重いため息をつくウォルテールを、当のエウラリカはきょとんとした顔で眺めていた。その指先には茎からむしられた数枚の花弁が摘ままれている。潰された花弁の表面から色のついた汁が滲む。

 花の香りが際立っていた。




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