外遊5
広大な畑の間を街道が通る。青々とした葉が風にざわめく。馬車の車輪が転がる音を聞きながら、ウォルテールは行く手に薄らと見えた街並みに目を凝らした。片手で目の上に庇を作り、目を細める。
「あれがハルジェルの主都か……」
呟き、ウォルテールは気合いを入れ直すように肩を上下させて、大きく息を吐いた。
ハルジェル領が帝都に組み入れられてから、あと三日で二百年。エウラリカを擁した隊が帝都を出発してからはおよそ半月弱。
ウォルテールたちはハルジェル領の主都へと足を踏み入れた。
人通りの多い市街地を通ることになり、隊は馬の歩みをやや緩めて目抜き通りを進んでいた。
「背の高い建物が少ないんですね」
デルトが周囲を見回しながら呟く。そう言われて首を巡らせてみれば、確かに道の両脇はどちらも平屋建ての建物がほとんどで、帝都のように上から覆い被さるような感覚はしない。
「それはですね」と荷馬車の御者の隣に腰掛けておやつを食べていたアニナが首を伸ばした。
「ハルジェルでは『風通しが良いこと』が験を担ぐことになるからなんです」
ウォルテールが振り返ると、アニナは人差し指を立てて胸を張る。
「ハルジェル領は大陸でも随一の穀倉地帯ですが、それを支えるのは海の方から湿った空気を運んでくる風なんです。だから風は昔から大切にされてきましたし、古い信仰では風や鳥を象った偶像が崇拝されてきたとか」
「へえ」
地元のことだからか、アニナはいやに饒舌である。頬を紅潮させて語るアニナから目を外しながら、ウォルテールは行く手に待ち構える広大な宮殿を見やった。それでか、と小さく頷く。
ここの宮殿は決して高さはなかったが、その分驚くほどに広大な敷地に多くの建物を擁していた。
城門の中まで乗り入れたところで、ウォルテールは馬車を停めた。先触れを出していたためか、既に前庭にはウォルテールたちを出迎えるために出てきたと思しき人影が並んでいる。
馬車に歩み寄り、扉を開ける。エウラリカは大人しく座っていた。手を差し出したがエウラリカは見向きもせずに一人でぴょんと馬車を降りてしまう。
(げっ)
まさかここで突拍子のないことをしでかしはしまいか、とウォルテールは体を強ばらせた。
しかしウォルテールの危惧をよそに、エウラリカは落ち着いた歩調で歩み出て、居並ぶ面々の前でちらと微笑んで見せた。対して、一人の男が一歩進み出、エウラリカに向かって深々と礼をする。壮年で白髪交じりの男である。何だか誰かに似ている気がする、とウォルテールは目を眇めた。
「ようこそいらっしゃいました、エウラリカ様。私は右大臣のコルエルと申します」
「こんにちは。わたしはエウラリカです」
決して頭を下げることこそしなかったが、そこそこ愛想の良い対応である。ウォルテールはほっと胸を撫で下ろした。
右大臣のコルエル――何だか聞いたことのあるような名前だ――は左手を挙げて脇道を指し示す。
「エウラリカ様ご一行のために、客人用の宿泊棟を一棟用意させて頂きました。担当の者がご案内申し上げるので、荷馬車などはどうぞそちらへ……」
そうまで言ったところで、彼ははたと動きを止めた。その視線を追って振り返ると、御者台の上には、やってしまったと言わんばかりに顔を引きつらせたアニナがいる。ウォルテールが見ていると、その両手はゆっくりと持ち上がり、顔を覆い隠した。コルエル大臣はそれを真顔で見届けてから、まるで何事もなかったかのようにエウラリカに向き直る。
「……失礼いたしました。領主からご挨拶申し上げますので、エウラリカ様はこちらへどうぞ」
淀みなく告げ、にこりと微笑みさえしたコルエル大臣に、ウォルテールは小さくため息をついた。どうやら娘ほど分かりやすい人間という訳ではないらしい。
広い室内で、領主夫妻が並んでエウラリカを待ち構えていた。エウラリカを先頭に、周囲についているのはカナンとウォルテールの二人きりである。絨毯によって導かれた通路をエウラリカはすたすたと進んでいき、二人の目の前で立ち止まる。
領主と聞いて想像していたよりも、その姿は幾分か若かった。まだ中年に差し掛かった頃の年齢で、たっぷりとした栗毛がどこか少年らしさまで感じさせるような男である。
「ようこそお越し下さいました。領主のヘンドリー・ハルジェルと申します」
「初めまして、ヘンドリー。わたしはエウラリカよ!」
それにしてもこの口調は何とかならないものか。ウォルテールは頭痛がしてくるような気分だった。エウラリカが年齢の割に幼い振る舞いをする少女だということは伝わっているだろうが、流石にこれは……。
「今回はご招待どうもありがとう。二百年もの間お友達だなんて、わたしもとっても嬉しいです」
聞いているだけでいたたまれなくなってくるようだが、エウラリカは至って真面目だった。真剣な表情でせっせと喋るエウラリカを、カナンが斜め後ろから見守っている。
「わたし、これが初めてのお出かけで、……だから今回ハルジェールに来ることができて本当に嬉しいわ」
そう言ったところで、領主であるヘンドリーの頬が、一瞬だけ、ぴくりと動いた気がした。しかし再度見返してもその表情に変わったところはない。先程までと同じ、礼儀正しい柔和な微笑である。
(気のせいか……?)
ウォルテールが瞬きをする間に、エウラリカはさっさと話を切り上げていた。
「短い間だけど、仲良くしてくれると嬉しいです。よろしくね!」
(これは何とも……)
ウォルテールは思わず天井を仰いだ。慌てて首の運動か何かのふりをして顔を戻すが、そんなことをしたからといってエウラリカの挨拶がなかったことになるという訳ではない。
「……ロウダン・ウォルテールと申します。この度はご招待頂きありがとうございます。専用の宿泊棟までご用意して下さったとか。手厚い歓待に心から感謝申し上げます」
別にウォルテールだって外交官じゃない。こんな場で喋るのだって仕事ではない。それでも一応エウラリカのものよりはまだマシな挨拶を述べると、ウォルテールは内心でため息をついた。――エウラリカに懐かれてからというもの、余計な苦労が絶えない。
「ウォルテール将軍ですね? お噂はかねがね伺っております」
領主夫人がぱっと表情を輝かせて頷いた。一体どんな話が伝わっているのやら、確認しておきたいが心底聞きたくない。ウォルテールは曖昧な相槌でその場を濁した。
微妙な表情をするウォルテールの言葉を継いだのはカナンだった。半歩前に進み出ると、胸に手を当てて和やかに微笑む。
「エウラリカ様の従僕のカナンと申します。こちらでは世話係だけでなく近衛も兼任しておりますので、お二人の前で帯剣するご無礼をお許し下さい」
淀みなく言い終えて、彼は軽く頭を下げてみせた。領主夫妻は「構いませんよ」と鷹揚に頷き、概ね好意的にカナンを受け入れたようだった。が、ウォルテールはそうはいかない。
(……俺はそんな話聞いていないぞ)
近衛って何の話だ。横目で一瞬だけ視線を向けると、カナンは一瞬だけ目を合わせ、それからつーんと視線を逸らす。
(何だその態度)
じとりと睨みかけたが、今は領主夫妻の面前である。軽い咳払いで動揺を抑えると、ウォルテールは姿勢を正した。
「おい、さっきのは何だ」
「その方が都合が良いかなと思って……」
カナンは悪びれもせずに答え、けろっとした態度で腰に佩いた剣を片手で叩く。
「まあ……それもそうかもしれないが」
ウォルテールは渋々頷き、それからエウラリカを振り返った。
「どうされますか。もし観光などされるようであれば、案内役をつけて頂けるようですが」
「うーん。でも今日はもう疲れてしまったわ」
エウラリカは唇を尖らせて不満げに呟く。「わたしも、元気だったらお外に出たかったけど……」
そう言って項垂れるエウラリカは、確かにいつもより顔色が悪い気がした。やや血の気が失せたような、白い顔をしている。なるほどこれは無理をさせるわけにはいかない。
「分かりました」とウォルテールは頷いた。
「顔色もあまりよろしくないようですし」
身を屈めながらそう応じると、エウラリカはきょとんとしたように頬へ手を当てた。どうやら自覚がなかったらしい。
前を歩く二人は、それからぴったりと横に並び、何やら耳打ちをしては囁きあってはしゃいでいる。ウォルテールとてそれに聞き耳を立てようという気はないが、二人が声を上げて笑い転げているのが不可解だった。
「どうかしましたか?」
「いいえ、何でもありません。……すみません」
声をかけると、カナンがすぐに答える。どう見たって『何でもない』様子ではないが、そう言うなら問題はないのだろう。ウォルテールは首を傾げた。最近の若い人間の考えることはよく分からないな。
***
宿泊用にとあてがわれた一棟に向かい、壁もなく中庭と繋がっている談話室にエウラリカを案内する。柔らかい長椅子に身を沈めたエウラリカが重い息を吐き出した。どうやらどっと疲れが出たらしい。
「大丈夫ですか、エウラリカ様」
「ええ、大丈夫」
カナンがすぐさま近寄って、水差しからグラスに水を注いで手渡したりと甲斐甲斐しく世話を始める。その様子を見ながら、ウォルテールは腕を組む。荷ほどきか何かをしているであろう兵を数人警備に呼んでこようかと廊下に脚を踏み出したときだった。
「あのぉ……ウォルテール様ぁ……」
直後、背後からおどろおどろしい気配と共に声がした。振り返ると、今にも死にそうな形相のアニナが立っている。正直エウラリカよりもよほどフラフラである。
「お父様……何か言っていましたか……?」
「いや、何も言っていなかったが」
「はぁああああん……」
頭を抱えてその場にかがみ込んでしまったアニナに、ウォルテールは「大丈夫か」と声をかけた。膝に手をついて前屈みになり、その顔を覗き込む。アニナは抱えた膝に顎を乗せながら、重たいため息をついた。
「御者台に上がって喜んでいるような娘は娘じゃないって思われたんです、絶対……」
「ええ……?」
いきなりの落ち込みっぷりに、ウォルテールはおろおろと言葉を探した。アニナは膝の上に顔を伏せて項垂れる。
「実家では私、ずっと大人しい娘のふりをしていたんです」
「絶対嘘だろ」
アニナは文句がありそうな目でウォルテールを見上げた。「悪い」と片手を挙げて軽く詫びる。
「それなのに地元に帰ってきた瞬間に御者台でヘラヘラしているところを見られてしまって……どうしよう……」
「御者台くらい良いだろう。別に自分で手綱を取っていたわけでもあるまいし」
「勘当もありえる……」
「悲観的すぎないか!? どんな家庭環境なんだよ」
思わず目を剥いて突っ込んだところで、「すみません」と声をかけられた。振り返ると、廊下の先で所在なさげに兵が立ち尽くしている。どうやら声をかけるタイミングをずっと伺っていたらしい。
ばつの悪さに目を逸らしながら、「どうした」と応じると、兵は「ええと」と言いあぐねるように呟いた。
「入り口の方に、コルエル大臣がいらしています。荷馬車の御者台に乗っていた侍女……ってアニナさんのことですよね? お呼びみたいです」
「ひえ……」
アニナが顔を引きつらせる。ウォルテールも思わず腰が引けてしまった。
「じゃあ……俺はこれで……」
「待ってください!」
がし、と腰の辺りを掴まれて、ウォルテールはやむを得ずに立ち止まる。「お願いします、私を見捨てないで……」と縋られてしまえば、まさか振り払えるはずもない。
「帝都で私がいかに真面目で品行方正で素晴らしい働きぶりをしているかをお父様の前で証言して欲しいんです」
「いや、俺は嘘はつかない主義だから……」
「ひどい!」
アニナがきゃんきゃんと吠えるのを少しの間聞いて、それからウォルテールは「分かった」と頷いた。
立ち去り際、その場に残っていた兵に声をかける。
「エウラリカ様が談話室で休憩を摂っておられるから、手が空いている者を警備に当ててくれ」
「分かりました」
頷いて別の方向に歩き去った兵を見送って、それからウォルテールはアニナの背を無理矢理押しながら玄関の方へと向かった。




