外遊3
目深に帽子を被ったエウラリカが、手書きのメニューを前にカナンと顔を突き合わせている。
「これは?」
「何だか危なそうじゃないですか? だったらこっちの方が」
「確かにそれもよさそうね……」
表を指さしながらあれやこれやと小声で言い交わしている二人を眺めながら、ウォルテールはひやひやしながら席に着いていた。食事時は過ぎているが、どうやらこの食堂は日がな暇な住民が集う場でもあるらしい。酒の匂いがしないのがせめてもの救いだが、しかし人の目がないとは決して言えなかった。むしろ見慣れない顔に、住民や店主の視線が集まっているのがよく分かる。
「そうモゾモゾされなくたって良いじゃありませんか」
笑いを噛み殺すアニナに、ウォルテールは渋顔になる。
「よくもまあそんなに平然としていられるな」
「だって、別にやましいことなんて何もありませんもの。ウォルテール様がそんなに周りを睨みつけていては、怪しくないものも怪しまれてしまいます」
「あまり俺の名前を呼ばないでくれよ」
ウォルテールはアニナを制するように少し怖い顔をした。彼女は一瞬だけ眉を上げてから、「ごめんなさい」と項垂れてしまう。
ああいやそんなに怒っているわけでは――そう弁解しようとしたウォルテールの耳に、エウラリカの明朗な声が届いた。
「ねえ、ウォルテールはどう思う?」
(……この王女は本当に手に負えない)
ウォルテールは思わず机に肘を突いて額を押さえた。食堂にウォルテールの名前を響かせた当人は何も分かっていないような顔で、きょとんと首を傾げている。
……自分で言うのも何だが、ウォルテールの名前はそれなりに有名だった。これがどこかの貴人を護衛する隊であることなど、誰が見ても分かる自明のことだ。それは織り込み済みだった。が、そこにウォルテールの名が加われば事態は別である。
(勘が良い人間なら、俺の名前とエウラリカ様を結びつけてもおかしくない)
はぁあ、と重いため息をついて、ウォルテールは「何でしょう」とエウラリカを見やった。
「ウォルテールはこれとこれ、どっちが良いと思う?」
エウラリカが笑顔で指し示すメニューの文字をろくに見もせずに、ウォルテールは力なく「上の方が良いかと」と適当に応じた。
食事を終え、ウォルテールは三人を連れてそそくさと食堂を出る。もうこの街をうろつくのはよした方が良さそうだ。小さな街はそれだけ情報が出回りやすい。エウラリカを連れていることもあって、ウォルテールは夕食まで宿の部屋で休養を摂ることに決めた。
***
夕飯はデルトに買いに行かせ、ウォルテールは地図を開いて旅程を勘案していた。
「カナン、都までの道だが、」と振り返ったところで、彼の姿が見当たらないことに気づく。いつの間に部屋を出ていたのだろう、とウォルテールは瞬きをした。
(どこに行ったんだ?)
カナンももうそれなりの年齢である、常ならばその動向をいちいち気にすることなどない。が、ここが旅先であることに加え、背中に走ったあの怪我が気にかかった。
嫌な胸騒ぎがして、ウォルテールは立ち上がる。地図を畳んで机に置き、彼は廊下に出て周囲を見回した。
「……カナン?」
やや声を張って呼びかけた、直後、どこか近くから「何するんですか」と険しめの声が聞こえた。耳をそばだてる。それはカナンの声のように思えた。声の出所は――エウラリカの部屋。
(エウラリカ様と二人きりか?)
ウォルテールは眉をひそめ、軽いノックをすると、返事を待つことなく扉を開け放った。果たして目の当たりにした光景は、二人の男女が顔を寄せている瞬間である。ウォルテールは絶句し、その場に立ち尽くした。
「なっ……!?」
細い隙間を残して締め切られたカーテン。その側に佇むカナンと、窓の桟に腰を預けたエウラリカ。カナンは背を丸めるようにして身を屈め、エウラリカが首を伸ばして彼と視線を重ねているのは明白だった。その鼻先の距離は手のひら一つ分ほどしかなく、端正な二つの横顔がやけに絵になるのも焦りに拍車をかけた。
「――な、にを、なさっておられるのですか!」
扉の取っ手に手をかけたまま、ウォルテールは顔を真っ赤にして叫んだ。エウラリカは目を丸くして振り返り、「いきなり大きな声を出してどうしたの?」と首を傾げる。対するカナンもごくごく平然とした様子で、「どうかされましたか」と眉をひそめている。
(……俺がおかしいのか?)
あまりにも平静を崩さない二人に、血相を変えて叫んだ自分の方が異常な気さえしてきた。襲ってきそうな頭痛を抑えるべく眉間を揉みながら、ウォルテールは「その、」と言葉を探す。
「……みだりに近づくのはいかがなものかと。勘違いする者もいますから」
「あら、勘違いって何のこと?」
エウラリカは不思議そうにカナンと顔を見合わせた。カナンの方はウォルテールの言わんとしていることを察したらしい、「申し訳ありません」とばつの悪そうな顔で目を逸らす。
「頼むぞ、カナン」
エウラリカの手前、あまりはっきりとしたことを言うわけにもいかない。やたら曖昧な言葉だったが、カナンは神妙な顔で頷いた。
ウォルテールは扉の枠に手を当てて頭を掻く。
(何もないとは思うが、一応年頃の男女だしな……。カナンは回収して、エウラリカ様の相手は……仕方ない、アニナにでも任せるか)
そこまで考えて渋い顔でため息をつき、ウォルテールがカナンに声をかけようとした直後のことだった。
「――ウォルテール将軍閣下であらせられますか」
差し迫った声が背後でウォルテールを呼んだ。低く抑えられたそれは、日常でおよそ聞くような声音ではない。彼は一瞬で気配を張り詰めさせて廊下を振り返った。
(……女?)
そこにいたのは、どこかで見たことのあるような顔をした女である。眉根を寄せるウォルテールを見上げ、女は切迫した表情で告げる。
「閣下に、内密にお話ししたいことがございます」
「貴女は一体?」
問えば、女は「官僚でございます。……元、ですが」と目を伏せた。その言葉に、何かの記憶がちらりと脳裏で光る。どうやら確かに自分はこの女を知っているらしい、ウォルテールはそう確信した。
どうするか、と一瞬迷う間にも、女は背後を窺い、人目を避けるように身を縮めている。どうやら事態は急を要すうえ、人に知られては困るようだ。ウォルテールは咄嗟に一歩下がり、女を部屋に引き入れた。
部屋の奥にいたカナンとエウラリカは並んで、元官僚だという女を興味深げに見据えている。二人に気づいた女は、「あっ」と声を漏らして鋭く息を飲んだ。
その瞬間、記憶が弾けるように蘇った。ウォルテールは女の顔をどこで見たのか思い出す。
「貴女は、エウラリカ様の……」
と、そこでウォルテールは言葉に詰まった。女は「ご明察の通りです」と目を伏せる。ウォルテールはかける言葉に迷い、結局何も言えないままに頷いた。
――第二王子であるユインの入城を巡って、エウラリカおよび皇帝と官僚たちが真っ向から対立したのはまだ記憶に新しかった。その中でもとりわけ印象的な出来事のひとつに、中庭での陳情がある。
エウラリカはユインの入城を頑なに拒み、その旨を父である皇帝に伝えることで我を通していた。対する官僚たちは、皇帝の意思を変えるにはエウラリカを説き伏せることだと判断し、彼女を直接諫めようと宮殿の中庭でエウラリカを呼び止めた。
その結果は今でも覚えている。
(……エウラリカ様の要望によって、そのときの官僚たちは全員左遷された)
苦い思いで奥歯を噛みしめながら、ウォルテールは元官僚の女を見た。なるほど、思い出してみれば、確かにそのとき先頭に立ってエウラリカに諫言していた女の顔である。
(しくじったな)
この女はエウラリカと因縁があったのに、よりによってエウラリカのいる部屋に引き入れてしまった。ウォルテールは顔を引きつらせて両者を見比べる。が、エウラリカは何も覚えていない様子で成り行きを見守っているし、官僚の方も苦い顔だが今更エウラリカに何かを言うつもりはないらしかった。
「それで、どのようなご用件なのですか。ご様子から察するに、ただ事でないとみえます」
硬直するウォルテールを援護するように、カナンが落ち着いた声で口火を切った。それでようやく動けるようになったウォルテールは、「ああ、」と頷き官僚に向き直る。
視線で促されて、女は小さく頷いた。「この街で役人をしている、オリルと申します」と彼女はまず名乗りを上げる。
オリルは鋭い目でウォルテールを見据えた。
「単刀直入に申し上げます。……即刻、この街を立ち去って下さい」
「それは一体どうして」
間髪入れずに問い返したのはカナンだった。緩く腕を組んだまま、彼はオリルを油断のない目で観察している。
「それは……」とオリルは少しだけ逡巡するような素振りを見せた。顔を伏せて苦い顔をするオリルに、ウォルテールは「話してくれ」と声をかける。ややあって、オリルは躊躇いがちに口を開き、言葉を選ぶように慎重に話し出した。
「……ハルジェール領の中に、怪しい動きがございます。こちらに左遷されてから分かったことですが」
聞き捨てならない言葉に、ウォルテールは表情を険しくする。
「怪しい動きとは何だ」
「まだ決定的に何かがあるという訳ではありません。しかし、この街を通る流通の中に正体不明の荷物が紛れ込んでいるのも、一度や二度ではなかった」
「帝都側からハルジェル領に、何かが持ち出されている、と?」
「逆です。――何かが帝都に持ち込まれている。それが何なのかは分かりませんが……」
オリルは低く抑えた声で告げた。ウォルテールは疑念に体を強ばらせる。
「それに、この街は異常なほどに急激な拡大をしています。私がここに来る数年前までは、この街はそれほど大きな街ではありませんでした。しかし今は……」
「……家がいくつも乱立し、見通しも悪く、治安もあまりよろしくない」
言い淀んだオリルの言葉を継いだのはカナンだった。「街道沿いから離れれば、どれも真新しい家ばかりです」彼は剣呑な表情で吐き捨て、腕を組み直した。オリルは一瞬呆気に取られたように目を見開いたが、すぐに大きく頷く。
「帝都圏との境界に位置するこの街が、明らかに異常な動きを見せている。私はそのことに気づいてすぐ書簡を出しましたが、……どういう訳か、何度連絡を上げても、なしのつぶてです」
「……俺は、そんな報告を受けていない」
「やはり。……返事が来ないばかりか、それ以来私には監視がつくようになりました。住人はいつも私の家を見張っていますし、部屋の中に誰かが入った形跡があったのも気のせいではありません」
オリルはきつく唇を噛んだ。血の色の抜けた下唇は今にも噛み破られそうだった。危機迫った表情に嘘の色はなく、ウォルテールは言葉もなく立ち尽くす。
「監視は撒いて来ましたが、私がここで閣下にお会いし、ご報告申し上げたこともすぐに知られることとなるでしょう。……一刻も早く、この街からお逃げ下さい」
オリルが言葉を切り、室内には沈黙が落ちた。ウォルテールはいきなり投げかけられた情報を整理できないまま、呆然とオリルを見下ろす。エウラリカは珍しく口を挟まず、黙ったまま机に肘をついていた。
「どう……どうする。今からでも帝都に引き返した方が」
「その方がよろしいかと」
ウォルテールがオリルと顔を見合わせたところで、不意にエウラリカが立ち上がった。
「わたし、ハルジェル領に行きたいわ」
「エウラリカ様、話を聞いておられましたか」
ウォルテールは歯噛みする。危急の要件とは言え、エウラリカがいては自由に身動きできない。何をするにもエウラリカを説き伏せるのが一番大変なことのように思われた。
「だってわたし、初めてお外に出たのよ? それなのに目的地に到着もせずに引き返すなんて、わたし、我慢できないわ」
その顔がきゅっと歪められる。その表情が、三歳の姪が癇癪を起こす一歩手前の顔と重なって、ウォルテールは顔を引きつらせた。
(まずい)
エウラリカを宥められるのはカナンしかいない。助けを求めるように振り返れば、カナンと目が合う。彼が小さく頷いて歩み出るので、ウォルテールは思わず胸を撫で下ろした。
……が、しかし、カナンの口から出たのは予想と真逆の言葉だった。
「そうですね。――急いでハルジェル中央へ向かいましょう」
「は?」
ウォルテールはぽかんと口を開いてカナンを眺める。その顔色は実に平然としたものである。
「……話を聞いていたか?」
「聞いていました。ここで引き返せば、企てをしている輩はこちらが何らかの情報を掴んだと判断し、帝都に着く前に何としてでも口封じをしようとするでしょう。この隊がどなたを擁するものであるか覚えていますか」
エウラリカの身を危険に晒すな、と言いたいらしい。ウォルテールは歯噛みをする。どちらにしたって危険なことには変わりがないではないか。それなら、事態を一刻も早く帝都に持ち帰ることの方が……。
カナンの表情は揺るぎなかった。
「企てがどのようなものなのか、誰の手によるものなのかは何も分かっていません。が、一つの街を膨れ上がらせるというのは、どこかの一私人に出来る芸当ではない――背後に『何か』が立っていると考えるのが妥当だし、恐らくそれは相当に大きい組織です。国の中枢まで食い込んでいる可能性だってある」
腕組みは解かれ、その指先はとんとんと窓枠を叩いている。ウォルテールは眉根を寄せ、カナンを軽く睨みつけた。
「だからこそ、今すぐに引き返すべきだと言っているだろう」
厳しい声音で言った言葉は、しかし、カナンの忍び笑いで叩き落とされた。
「領内での動きを察した俺たちが中央に今訪れれば、向こうは慌てて馬脚を現すはずだと言っているんですよ。逆に言いましょうか。……この機を逃せば、敵は帝都に企てを看破されないように対策を行うはずです。事態は困難を極める」
何を言っているのか、分からなかった。ウォルテールは絶句し、目の前で頬を吊り上げる青年を見つめた。滅多に柔和な態度を崩さないカナンの目に、今は仄暗い色が浮かんでいる。弧を描く口元は、もはや傲岸不遜と言ってもよかった。
(こいつは……)
ウォルテールが立ち直り、反駁をするよりも一瞬早く、カナンはころりと表情を豹変させた。にこやかな笑顔を浮かべ、「それに」と胸の前で両手を合わせてみせる。
「ハルジェル領内でエウラリカ様に危害を加えようものなら、帝都からどんな報復があるか分かったものではないでしょう? そんなことくらい誰でも分かっていると思いますし、中央まで行ってしまえばハルジェル側が用意してくれた護衛も加わるはずです。少し怖いのは道中のことですが、それも心配はしていません」
甘えるような笑みは、彼の主人のものと酷似していた。どこまでも人をたらし込むのがお得意な主従だ。ウォルテールは苦い顔をする。
「だって、ウォルテール将軍がいるんですから」
――そう言われてしまえば強く拒めないのが、ウォルテールの大変な弱点であった。




