花香1
ジェスタ王国が帝国の属国となってから半年ほど経った。
王女の奴隷に成り下がった少年の姿は、いつしか城内に馴染みつつあった。何せ、王女はほとんど側仕えを置かないのである。従って、王女にまつわる諸々はこの奴隷の役割となる。加えて、あの気ままな王女のことだ、どのような思いつきで我が儘を起こすか、分かったものではない。毎日のように城内を駆けずり回るこの奴隷の顔を、城で働く人間は徐々に覚えていた。
奴隷は常に首輪をしていた。それはまさに犬の首に嵌まっているような代物である。身動きの度に、取り付けられた鈴がしゃらりと涼やかな音を立てた。
ウォルテールはわざわざ自分からこの奴隷に近づこうとはしなかった。奴隷に近づくこととは、エウラリカに近づくことである。どこの藪からどんな蛇が出るか分かったものではない。ときおり遠巻きに眺めることはするが、話しかけることはせず、通り過ぎるだけだ。
(俺は憎まれているだろうしな)
そう思って、この奴隷をやり過ごしていた日々に、あるとき変化が訪れた。
それは、とある午後のことだった。もうじき空が赤らみ始める頃で、人気があまりない時間帯である。
「王女様の、庭?」
「はい。草、……花が、たくさんある、建物の庭」
たどたどしい帝国語で、奴隷が下働きの女に声をかけている。しばらく遠くから眺めていたが、どちらも要領を得ない様子で見ていられない。しかもウォルテールには、奴隷の言葉に思い当たる節があった。
(……どうするかな)
片手で頭を掻き、ウォルテールは顔をしかめてため息をついた。――出来ることなら関わりたくない。この奴隷をわざわざ逆なでするようなことはしたくなかったし、そもそもエウラリカに近づきたくない。だが、このまま何も見なかったふりで通り過ぎるのも、良心が咎めた。
……逡巡の末、ウォルテールは未だに進展しない会話を続けている二人に歩み寄った。
「もしかして、エウラリカ様は、温室、と言っておられなかったか?」
そう声をかけると、奴隷は弱り切った表情で振り返り、――そして、その顔を強ばらせた。固い表情に、やはりな、と思いつつ、ウォルテールはもう一度「温室、だ」と繰り返す。
奴隷は僅かに眉を寄せ、それから一度、頷いた。
「王女様の温室?」
先程まで奴隷と一緒に困った顔をしていた下働きは、ウォルテールの言葉に首を傾げる。
(下働きも知らないか)
内心で多少の驚きを覚えるが、それを表に出すことはせず、「ああ」とだけ頷いた。仕事に戻るように、と言うと、下働きは後ろ髪を引かれるような顔をしながら立ち去った。
奴隷と二人取り残され、気まずい沈黙が落ちる。ウォルテールはこういった場で上手く舌が動く質ではなく、奴隷が自分から口を開く様子もない。「あー……」とウォルテールは首に手を当てながら言い淀む。
「温室に、行きたいのか?」
「……はい」
(会話!)
思わず頭を抱えた。奴隷はぎらついた目でウォルテールを睨みつけており、友好的な会話をする気など欠片もないらしい。
「場所が分からないのか」
「はい」
「奥まったところにあるからな」
「はい」
(会話!)
二回目になる心の叫びである。ウォルテールはぎこちなく言葉を探すが、うまい話題も見つからない。仕方なくウォルテールは手振りでついてくるように指示し、歩き出す。奴隷は黙ってウォルテールに従った。
ウォルテールは、この奴隷がやけに従順であることを目の当たりにして、改めて驚く。その表情は相も変わらず固く強ばったままウォルテールを睨みつけていて、悪感情が和らいだとはとても思えなかったが、――逃げない。鎖はもうないのに、この奴隷は、逃げ出さなかった。
エウラリカの目をついて逃げ出すのは容易なように思えた。鎖を外した、ということは、あの王女はもうすっかり油断しているのだろう。眠っている間にでも逃げ出して、この王宮からも逃げ出して、帝都へ出ることは難しくない。
鋭い視線を行く先に投げかける横顔を眺めながら、ウォルテールは内心で呟く。
――さては、この奴隷も、王女に魅入られたか。
王女に骨抜きにされ、身も心も捧げる人間は少なくない。その代表例が、この国のあるじ、皇帝である。大切な一人娘を溺愛し、エウラリカの言うことならばすべて叶えようとその権力を駆使する。その姿は、エウラリカの兄と弟、二人の息子たちのことはまるで目に入っていないかのように思えた。
もしもエウラリカが帝位を望めば、皇帝は喜んでその地位を譲るのではあるまいか。いや、さしもの皇帝もそこまでの暗君ではあるまい。そんな、冗談みたいなやり取りが囁かれるのが、この宮殿の現状だった。
皇帝の第一子たるエウラリカの兄などはこれを非常に問題視していて、奔放な妹を何とか落ち着かせようと、あらゆる手を尽くしていると聞く。それが今のところ、まるで響いている様子がないのは、見ての通りである。
ウォルテールはさりげなくを装って、奴隷をちらと窺う。
「エウラリカ様は、どうだ?」
「どう、とは?」
初めて『はい』以外の返事が来た。ウォルテールは返された問いに少し躊躇う。まさか『エウラリカは愚鈍で苦労するだろう』とも言えないし、だからといって変に美化したようなことを言うのは、癪に障った。
「エウラリカ様は、……お優しくしてくれるか?」
散々考えた末にそう訊くと、奴隷は曖昧に首を傾ける。肯定も否定もせずに、少年は脇の庭園にすいと視線を滑らせた。
「……すべては、あの方のお心ひとつですから」
目を眇めて、奴隷は僅かな嫌悪を込めて吐き捨てたようだった。
複雑な通路を、その頭に叩き込もうとするみたいに、奴隷は周囲を丹念に眺めていた。ウォルテールが話しかけても生返事で、何やらぶつぶつと口の中で唱えている。どうやら道順を復習しているらしかった。
まだ十代前半の少年だろう。恐らく同年代の少年たちに比べても小柄で、俯かれてしまうと、ウォルテールからはそのつむじしか見えない。柔らかく真っ直ぐな黒髪は新ドルトではなかなかお目にかかれないそれで、少年が異国民であることを如実に表していた。
「ゼス=カナンという名前は、」
どうせ大した返事が来ないのは分かっていたので、ウォルテールは適当な話題を口に出す。が、言いかけた途端、弾かれたように見上げられ、彼は思わずたじろいだ。奴隷は大きく目を見開いて、ウォルテールを見据えていた。その感情が読み切れず、ウォルテールは言葉に詰まった。
逆鱗に触れたか、それとも名を呼ばれて喜んででもいるのか? 眼球が落ちそうなほどに見張られた目は、真っ直ぐにウォルテールに向けられているのに、それがどういう意味なのか分からない。
「……その、名前がだな」
「はい、」
静かな相槌だった。囁くような声に、妙な背徳感を感じた。まるで秘め事のような雰囲気を醸し出すのである。ウォルテールも自然と声を低め、奴隷に向かって身を屈めた。
「二つあるだろう? どちらが、俺たちの概念でいう『名』にあたる名前なんだ?」
別にそれほど興味がある訳でもなかったし、調べればすぐに分かるようなことである。そんなことも知らないのか、と一笑に付されそうな問いだったが、奴隷は思いのほか素直に口を開いた。
「……名が、二つあるのは、国内でも高位の人間のみで、一つ目の名前は……王族や、それに連なる一部の家柄の者だけが持つものです。正確には違うけれど、ほとんど敬称のようなもので、……僕の場合は、『ゼス』。これは、長子以外の王子に授けられる冠称です」
奴隷は淀みなく答えた。発音に時折ジェスタ語の癖が透けて見えたが、意味を汲むのに問題はなかった。半年の間に随分と努力したらしい。
「なるほど。――それじゃあ、お前の名前は『カナン』だという訳だな」
ぴくり、と、その肩が震えた。少年の手が、ゆっくりと首元に向かった。しゃら、と鈴が鳴る。
「……違うのか?」
返事がないので眉をひそめると、少年は小さな声で「いえ」と答えた。
王女の温室は、城の中でも奥の奥、うっかり立ち入ることもないような最奥にある。ウォルテールがその存在と位置を知っているのは、ひとえに彼が城内の見取り図を所持しているからに他ならない。逆に、それを見るまでは、ウォルテールもその所在を知らなかったのである。
「ほら、あれだ」
ウォルテールが腕を持ち上げて生け垣の向こうを指さすと、カナンは「ああ、」と頷いた。驚いたような様子はない。どうやらここに来るのは初めてではないらしい。
ウォルテールは目を眇めて、目の前にそびえ立つ温室を見上げる。――何度見てもすごいものである。全面ガラス張りの壁と天井、高さは二階ほどもあろうか。地下に湯を通して、常にその内部を温かく保っているらしい。
季節を歪めてまで、年中、花を咲かせ続ける。それは、贅の限りを凝らしたものに思えた。まるでエウラリカその人を表すようだ。どこから見ても絶え間なく美しく、贅を尽くし、どこか歪で、――心底馬鹿らしい。
温室の中、視界を阻むように重なる枝葉の向こうに、エウラリカの姿が見えた。彼女の周りを取り囲むように、色とりどりの花々が咲いている。淡い紅色をした大輪の花や、鈴なりに小さな実を下げている鮮やかな赤色の花、白い小花をたくさん咲かせた背の高い植物など、様々である。
温室の入り口に近づいたところで、エウラリカがその中から出てきた。連れだって歩いてきたウォルテールとカナンに、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐさま嬉しそうに頬を染めた。
「ウォルテール、どうしてここに?」と近寄ってきたエウラリカに、ウォルテールは僅かに後ずさりながら応じる。
「彼が道に迷っていたから……何だ、言っちゃ駄目だったのか?」
じとりとカナンにもの言いたげな視線で睨めつけられ、ウォルテールは思わず顔を引きつらせた。
エウラリカとあまり関わり合いになりたくない、というのが本音だった。何せ、エウラリカのご機嫌を損なってしまえば自分の身が危ないし、……何より、苦手なのである。元々、子供があまり得意な質ではない。そこに、子供じみた振る舞いを見せるエウラリカが出てきてしまえば、ウォルテールはどうしても及び腰になってしまう。
「……エウラリカ様。城内に不慣れな者に、このような奥まで一人で来させるのは、あまりに酷だと思われます」
一応言っておくと、エウラリカは「そうかしら?」と頬に手を当てた。カナンは黙ってウォルテールを眺めていた。
さっさと退散しよう、と踵を返しかけて、ウォルテールは少し躊躇う。躊躇ってから、片手を持ち上げ、カナンの頭の上に置いた。カナンはぎょっとしたように首を竦め、ウォルテールを上目遣いで見上げる。
「じゃあな、カナン」
これからもエウラリカのせいで苦労が絶えないであろう少年への、若干の同情混じりだった。カナンの頭を撫でると、「あら」と王女が驚いたような声を漏らす。さらりとした感触の黒髪を数度かき混ぜ、ウォルテールは手を離した。
「――頑張れよ」
そう言って手をひらりと振って、今度こそ踵を返す。――背を向ける直前に見えた顔が、やけに強ばってみえたのは気のせいか?
風が吹き抜ける。ざわりと庭園の草木が揺れ、エウラリカは小さく乾いた咳をした。気づけば風はいつの間にか随分と冷たくなっていた。……もうすぐ冬が来る。冬になっても、あの温室の中だけは、まるで春のように温かいままなのだろうか。