外遊2
跳ね橋を渡り、帝都を出た隊列は、ハルジェール領を目指して南下を始めた。森林地帯は早々に抜け、一昼夜を過ぎる頃には、エウラリカを擁する隊は短草草原へと足を踏み入れようとしていた。
ハルジェール領へ行くためには、大陸を東西に横断する山脈を越える必要があった。それが、かつて帝国とハルジェール王国を隔てていた境界である。街道の整備された今となっては、もはや形骸化した障壁だった。
「あの山を越えると、一気に気候が変わるんですよ」
アニナは荷物用の幌馬車のひとつに腰を引っかけたまま、のんびりと遠くを見透かした。休憩中だが、だだっ広い草原の中央とあって、各自がてんでばらばらに散って休んでいるらしい。目の届かない遠くへ行こうとする者がいないか気を配りながら、ウォルテールはアニナを見下ろす。
帝都を出る前に買い込んだと思しき菓子をかじりながら、彼女は緩やかな風に吹かれるがままにして目を細めていた。
「どんな風に気候が変わるんだ」
隣に座ると、アニナは「えっと」と人差し指を顎に当てて斜め上を仰ぐ。
「この辺りは山脈に遮られてあまり雨が降らないんです。ハルジェルでは雨がよく降りますから、空気ももっと湿っています」
うなじに落ちた栗毛の先が、ふよふよと浮き上がっていた。それを一瞥し、ウォルテールは「そういえば」とアニナを振り返る。
「貴女の発音は特徴的だ」
「ええ!? 訛ってましたか!?」
仰天して仰け反ったアニナが荷台から滑り落ちそうになるのを支えてやりながら、ウォルテールは「訛りというか」と言葉を濁した。
「……母音とアクセントの感じが、違う気がする」
「そ、それって、いつもですか? 私、これでも相当訛りをなくそうと頑張っているのですが」
アニナは目を白黒させながら身を乗り出す。ぐっと縮まった距離から逃げるように背を反らして、ウォルテールは「普段は気にしたことがない」と首を振った。
「……俺はいつも、ハルジェール、と発音する。比較的古い家柄によくある形の音型なんだ、名前の最後に『ェール』がつくのは。でも貴女はハルジェル、と頭にアクセントを置いている」
「ああ……」とアニナは何やら理解したように頷いた。ウォルテールは頷き返し、指を折りながら並べる。
「イリージオの名字であるアルヴェールや、俺のウォルテール、あとはもちろん、――王家クウェール」
ウォルテールが話している間、アニナは黙って何度も首を上下させていた。それから、「やっと分かりました」と深く頷く。
「何がだ」と首を傾げれば、アニナは目を細めた。
「昔から、山の北から来られる方が、うちのことを『コルエール』って呼ぶ理由です」
「アニナ……コルエル、ではなかったか?」
ウォルテールは眉をひそめた。アニナは確かにそう名乗ったはずだった。彼女は「コルエルで正しいんです」と首肯する。
それから、アニナはおもむろに周囲を見回し始めた。何かを探しているような仕草を問えば、「何か書けるものが欲しいのですけど」と言う。しかし、この荷馬車は食料を詰んだものである。紙もペンもあるはずがなかった。
諦めたのか空中に人差し指を向けて文字を綴る仕草をみせるが、これまたウォルテールにはいまいち分からない。
業を煮やして、アニナはおもむろにウォルテールの手首を掴み上げた。手のひらを開かせようとしているようだが、咄嗟にウォルテールは動けないままでぽかんと口を開いた。何を言わんとしているのかは分かるが、……正気か?
「えっと……」
アニナは躊躇いがちにウォルテールを見上げる。視線に耐えきれずに顔を背けて手を開けば、直後、手の甲をそっと柔らかい手のひらが支えた。
「その、ウォルテール様のお名前は、こう……ですよね? 綴りは間違っていませんか?」
言いながら、手のひらを指先が行ったり来たりしながら伝う。爪の先で軽く引っ掻くみたいな感覚が、腕を通って肩まで痺れさせるようだった。耐えがたいほどではないが、どうにもくすぐったい。
アニナが手のひらに綴る文字列を頭の中で組み立てながら、ウォルテールは「合っている」と応じる。アニナは「良かった」と破顔し、再び顔を下ろして手のひらに指を這わせ始めた。
「それで、私の名前は、こう綴るんです。これでコルエル」
そう言って書き終わったくせに、アニナはウォルテールの手を離さなかった。とはいえ、下から手のひらを持ち上げられているだけのことである。引っ込めようと思えばいつでも出来たが、ウォルテールは何故かそれをしなかった。
「ね、終わりの形が一緒でしょう? 帝都ではこの形を、母音を伸ばして発音するんですね。だからコルエルのことも、お尻を伸ばして読んでしまう」
アニナはこの発見に嬉しそうな顔をしていた。実に無邪気な表情である。ウォルテールは思わずよそを向いて嘆息した。……ええと、何の話だったか。
「つまり、帝都の発音に慣れた人間は、ハルジェール領の家名を、誤って読みがち、ということか?」
「はい。それもです、私たちはハルジェルと呼びますから」
にこ、とアニナは微笑んだ。
「私は気にしない質ですが、高年の方には引っかかる方も多いようです」
そう言う彼女は、忘れているのか、ウォルテールの手に指先を添えたままである。まだ気づかない様子で、アニナは体ごとウォルテールを振り返った。
「良いことに気がつきましたね! 向こうで相手の名前を正確に発音できたら、一目置かれること間違いなし! ですよ!」
アニナは興奮気味に片手を振り上げた。随分と嬉しそうに頬を染めているので、ウォルテールも思わず表情を緩める。と、不意にアニナはふにゃりと姿勢を崩した。
「良かったぁ……私でも、お役に立てることがあったんだ……」
安堵したように胸を撫で下ろす彼女を見ながら、ウォルテールはやや意外な気持ちで瞬きをしていた。
「よかったよかった」と長い息を吐くアニナの手の平から、自らの手を浮かせる。彼女がそれに反応を示すより早く、上下を入れ替えてアニナの手を持ち上げた。
「あわわわわ……」
故障の早い娘に苦笑しながら、ウォルテールは反対の手を寄せて人差し指を立てる。半開きの手を開かせて、そこにゆっくりと文字を綴った。
「ハルジェル、は、この綴りで正しいか」
「は、はひ……」
反射的に手を引っ込めようとするアニナの手首を軽く掴んで制しながら、ウォルテールは息だけでふっと笑った。柔らかい手のひらを指先で数度突きながら、わざと文句を付ける。
「貴女の手は狭くて書きづらい」
「あの、その……」
哀れ、ついにアニナは空いている片手で顔を覆って俯いてしまった。そろそろ許してやるかと肩を竦める。
「く、くすぐったいです……」
「だろ」
意趣返しのようにぽんと手を離してやると、アニナは両手で顔を覆って「ごめんなさい」と呟く。その耳が可哀想なほど赤くなっているのを眺めてから、ウォルテールは悪びれもせずに青天に目を移した。
少し離れたところでは、エウラリカが楽しげな笑い声を上げながら跳ね回っていた。その足下にはまるで飛び石のように、角張った何かが連なっている。横たわった人間より大きな岩が地面に埋まっているのだ。出ている頭はどれも平らで、人為的な配置の形跡が見て取れた。
視線を動かせば、その石はどこまでも続いているように見える。石の上を軽やかに跳ねてゆくエウラリカと歩調を合わせるように、カナンがゆったりとそれを追っていた。
「あれは何だろうな」と声をかけると、アニナはおずおずと顔を上げ、「さあ……」と首を傾げた。
***
草原を抜け、山を越えるのにもさほど問題はなかった。街道沿いには宿場町が点在していたし、行商人の馬車と行き交うことも多く、不足を補うのにも支障はない。エウラリカの機嫌も今のところは申し分なく、隊にも異常はなし。
帝都を出発して一週間、ついにウォルテールたちはハルジェル領へと足を踏み入れた。
「ここ、もう領地なんですか?」
周囲を見回しながら、デルトが目を丸くする。鞍部をやや下った街道沿いに位置する街である。地図によれば稜線を境界として以南がハルジェル領となっている。ということは、尾根を越えたところにあるこの街は既にハルジェル領だろう。
もとは街村であったのだろうが、今や中央に街道を通したひとつの塊村である。馬や馬車が通れそうな道はその目抜き通り一本きりで、脇へ伸びる道は秩序なく立ち並んだ住宅に挟まれて幅員が心許ない。
(見通しの悪い街だな)
隊の人員に、あまり遠くへ行くなと通達しておいた方が良さそうだ。ウォルテールは腕組みをしたまま街の様子に目を走らせる。
かつて帝国とハルジェル王国を隔てる関所があったとされているが、帝国がこの地を吸収して以来二百年、その形跡はもはや見当たらなかった。人の姿はまばらで、旅人らしき人影と住民の姿が入り交じっている。街を囲む森が時折風にざわめき、のどかな空気がその場には流れていた。
(人が多すぎないのは良いことだ)
既に時間は昼下がりを幾分か過ぎている。ここに来るまでずっと登りの山道だったこともあり、今日はここで休養を取るのもありかもしれない。
「ねえウォルテール、わたし疲れちゃったわ」
「うわ」
気配をさせずにエウラリカが背後から顔を出し、ウォルテールは思わずぎょっとした。デルトは「どうしますか?」とウォルテールを窺う。
「そうだな、」
ウォルテールは頷き、広場で休んでいる隊を振り返った。
「聞いてくれ」と片手を挙げて合図すると、ウォルテールは隊員を見回す。
「今日はここで一泊することとする。食事や物資の補給は各班で行ってくれ。一人では行動しないように。それと、」
ウォルテールはそこで一旦言葉を切った。気配を尖らせ、自分の話に聞き耳を立てている者がいないかを探る。特に誰かが聞いている訳ではなさそうだったが、彼は思わず声を潜めて告げた。
「注意事項はいつもと同様だ」
悪さをしないこと。迷惑をかけないこと。――この隊がエウラリカを護衛するものだと知られないようにすること。
この旅は決してお気楽な旅行ではないのである。
***
宿の部屋数や隊の人数もあって、一人一部屋ずつという訳にはいかない。同室となったのはカナンだった。二人ともエウラリカの部屋の隣に控えるためである。彼がこちらに背を向けて寝台に腰掛けたまま着替えているのを、ウォルテールは荷物の整理をしながら見るともなしに見ていた。
小さな体をしていたはずの少年だったが、いつの間にかその背は思いのほか広くなっていた。決して頑強そうではない、細身であることには変わりなかったが、そこに貧弱さはない。
上着を脱いで腕をまくろうとしたカナンの手が、ふと止まった。やはり思い直したように袖を戻そうとする。その動きに何故か気を取られ、ウォルテールは目を眇めて注視した。
「――カナン、」
そして『それ』に気づいた瞬間、ウォルテールは腰を浮かせて声をかけていた。
肩越しに振り返ったカナンが、「何でしょう」と落ち着いた声で応じる。袖は既に下ろされた後で、その表情には何らやましさなど見当たらない。ウォルテールは心臓が早鐘を打つのを感じながら、カナンの正面に回り込んだ。
「……脱げ」
「いきなり何ですか? ごめんなさい、俺、露出趣味は」
「良いから脱げ。上だけで良い」
ウォルテールは低めた声でカナンに迫る。彼は冗談めかした表情を収め、反抗的な目つきでウォルテールを見上げた。
「どうしてあなたにそんなことを指図されなければならないんですか」
「じゃあ訊くが、――お前のその包帯は何だ?」
単刀直入に問えば、カナンの表情はあからさまに強ばった。その目が大きく見開かれ、唇は厳しく引き結ばれる。
「ウォルテール将軍には関係ありませんし、人に見せるようなものでもありません」
「良いから見せろ。誰にも言わないから」
叱りつけるように言って聞かせると、カナンは数秒の間すっと目を逸らし、それから渋々と言わんばかりの仕草で袖から腕を抜き、服を落とした。
ウォルテールが袖口からちらと見たのはほんの一部だった。腕のみならず、カナンの上体はほとんどが包帯に覆われている。見えているのはせいぜい二の腕や肩くらいのもので、それ以外は全て、白い布に覆われているではないか。
ウォルテールは絶句して立ち尽くす。
「カナン、お前、これは……」
「……人に見せるものじゃないって言いました」
カナンは不服そうに顔を逸らしたまま低い声で吐き捨てた。寝台の縁に腰掛けたまま、膝に肘を置いて両手を組む。
「大層な怪我に見えるかもしれませんが、前面は無事です。臓腑も無傷ですから」
「背中か」
「少しだけ」
諦めたように目を閉じ、カナンは重いため息をついた。「取るぞ」と声をかけて包帯の結び目を解いて端を浮かせれば、下からは傷口に押し当てられているのであろう布が出てくる。それをそっと剥がすと、カナンの喉から痛みを堪えるように呻きが漏れた。
目の当たりにした真新しい傷口を前に、ウォルテールは声もなく深呼吸した。軟膏の匂いが鼻を突く。
「……剣で切られたな?」
慎重に問うた。カナンは俯いたまま「ええ」と短く応えた。
「誰にやられた」
「…………。」
唇を噛んでカナンは無言を貫く。それを答えと受け取って、ウォルテールは傷口を覆うように布を当て直した。
「……おいそれと口に出せないような人間なのか」
「どうでしょうね」
カナンは辛うじて頬に笑みを引っかけた。それがまるで作り笑いのような仕草に思えて、ウォルテールは痛ましさに眉根を寄せる。
その背を斜めに横切るような、生々しい切り傷。それほど日にちも経っていないだろう。
「なあ、カナン」
包帯を巻き直してやりながら、ウォルテールは努めて穏やかな声を出した。
「一体誰にやられたんだ。教えてくれ」
カナンは口を噤んだまま答えない。
「……俺のことを信用してくれよ。俺はこれでも一応それなりの地位には就いているし、お前の力になってやりたいんだ」
「それは罪悪感や同情からですか? ご自身の利己的な罪滅ぼしのために俺を利用しないで下さいよ」
カナンの返答はにべもなかった。ウォルテールを遠ざけようとしているのがあからさまだ。つんけんとした言葉の裏に隠しきれない幼さを感じながら、彼は鼻から息を吐く。
「……俺が、目の前でこんなに大怪我を負っている人間を見逃せるような奴だと思うのか」
自嘲混じりに告げると、カナンは数秒黙り、それから少しだけおかしそうに笑ったようだった。
「出来ないんでしょうね。あなたはそういう人ですから」
カナンは包帯の巻かれた片腕を持ち上げて頭を掻く。
包帯を戻し終え、ウォルテールはカナンから一歩離れた。部屋の隅に置かれた椅子に腰掛けると、カナンは服を着ながら苦笑する。
「先程、『信用してくれ』と仰いましたが」と彼は頬を緩めながら呟いた。
「あなたが思っている以上に、俺はあなたを信用していますよ。信用していなかったらあなたにこの旅を任せることなんて出来るものか」
その目は真っ直ぐだった。黒曜石のように艶やかな、それは強い眼差しだった。
「ごめんなさい、全てを語ることは出来ません」
けれど、とカナンはウォルテールの双眸にひたと視線を据えたまま囁いたのだ。
「エウラリカ様を守り抜いて下さい。たとえ何が敵として立ちはだかろうとも、――絶対に」
言葉に乗せられた重みに、ウォルテールは思わずたじろいだ。カナンは静かに嗤っていた。
直後、廊下に繋がる扉が勢いよく開け放たれた。びくり、と全身を跳ねさせて弾かれたように振り返る。
扉を開け、「ウォルテール!」と満面の笑みで呼びかけたのは、言うまでもなくエウラリカだった。同時に振り返った二人は、彼女の姿を認めて肩の力を抜く。
「エウラリカ様」
カナンが立ち上がってエウラリカに歩み寄る。「どうされましたか」と問えば、彼女は「暇だったから……」と当然のことのように応じた。
「それに、お腹も空いたわ」
言われて時計を振り返れば、なるほど、昼時をだいぶ過ぎてしまっている。今から食事をするのでは遅めの昼食となってしまうだろう。
「申し訳ありません」とウォルテールは軽く頭を下げた。王族を連れた旅だというのに、予定管理が甘かった。
「全然怒ってないわよ!」
エウラリカはぶんぶんと勢いよく首を横に振る。移動を始めてからのエウラリカは随分と寛大である。有り難い限りだ。
戸口のところに立っていたカナンはウォルテールを振り返った。
「どうします? 馬車から食料を取ってきた方が」
「隣のおうちに看板が出ていたわ。わたし、お隣でごはんが食べたい!」
「しかし、エウラリカ様……」
目を輝かせるエウラリカに対し、カナンは苦い反応で腕を組む。ウォルテールとしても、エウラリカの要望には頷きがたかった。何せエウラリカの容貌は目を引きすぎるのである。加えてこの騒々しい性質と何をするか分からない不安定さ。とてもではないが食堂に連れていけない。
「……わたし、ちゃんとお行儀良くできるわよ?」
不信感に満ちた男二人の視線に、エウラリカは顎を引いて不服そうに唇を尖らせた。




