平穏
穏やかな気候が続いていた。ウォルテールは姪を背負いながら、末の弟であるヘルトと並んで帝都を歩いていた。
「じゃあ、この春からこちらに進学するんだな」
「はい」
市民たちが集う公園では、ちょうど花盛りを迎えているせいか、活発な空気が漂っていた。賑わう公園を横切りながら、ヘルトはウォルテールの肩に頬を乗せて眠っている姪の前髪を避けてやる。
「結局、兄上の屋敷に下宿することにしたのか?」
「はは……。僕は遠慮したんですけど、兄さんもお義姉さんも是非にと仰るので」
年末年始に家族で集まった際のやり取りを思い返しながら、ウォルテールはくすりと笑った。数年前のあれ以来疑惑の花が持ち込まれることもなく、ごくごく平和に終わった集まりだと言えた。強いてもめ事があったと言うなら、この春から帝都に来るヘルトの処遇についてだ。
どうせ帝都に住むなら同居すれば良いと申し出た長兄夫妻に対して、迷惑はかけられないと固辞する末の弟とのやり取りである。話を聞くに、折れたのはヘルトの方らしかった。
「セイレアはこの間三歳になったばかりですし、元気な盛りで……世話を見る人間は多い方が良いと言われてしまって。兄さんはここ最近忙しくて帰る時間も遅いし、お義姉さんだっていつもセイレアの側にいられる訳ではありませんから」
セイレア、と慣れた様子でヘルトが呼ぶのは、三年前の春先に生まれたルージェンとリュナの子である。ウォルテールやヘルトの姪にあたった。
「それにしても、兄さんがいるときのセイレアは大人しいですね」
「子どもなんて、みんなこんなもんじゃないのか」
「ルージェン兄さんに人見知りするんですよ。いつも帰りが遅くて、起きている時間に顔を見せることがあまりないから慣れないみたいで。兄さん、毎回悲しそうな顔で可哀想です」
ウォルテールは哀れな長兄を思って眦を下げた。我が子に避けられるとは何とも……切ない。
「正直、僕が一緒にいるのが一番ご機嫌なんです」とヘルトは気まずそうな顔で呟いた。
「兄か何かだと思われているのかもな」
言いつつ、ウォルテールはふにゃふにゃとずり落ちていくセイレアを揺すり上げた。む、と声を漏らしたセイレアが、しばらく身じろぎをしたのちに顔を上げる。
「おじさま……?」
寝ぼけたように漏らした姪が、肩口を片手で叩いてきた。どうやら下ろせと言いたいらしいので、ウォルテールはその場にかがみ込んでセイレアを下ろしてやった。
「セイレア、おいで」と呼んで、その口元を手巾で拭ってやるヘルトの様子は実に手慣れている。ルージェンの屋敷で生活し始めたのはわりかし最近のはずだが、随分とよく面倒を見ているようだ。
小さいと思っていた弟の成長に、ウォルテールは思わず感慨深く空を仰いだ。そのときのことである。
「あれは、」
交差する通路の向こうから、見覚えのある姿が近づいていた。来た方向を見やれば市民のために解放された図書館がある。腕に抱えているのは本なのだろう。
「カナン」
声をかけると、その青年は驚いたように顔を上げた。黒髪が春風に揺られている。丸く見開かれた目は同じく濃い黒色をしている。
その色彩に驚いたのがヘルトだった。明らかに異国の雰囲気を漂わせるカナンに、ヘルトはセイレアを背後に回しながら「誰ですか?」とやや警戒を露わに訊いてくる。ウォルテールが答えるよりも先に、カナンが「初めまして」と微笑んだ。
「エウラリカ様の……従僕です」
流石に奴隷とは言えなかったらしい。歯切れの悪いカナンを誤魔化すように、ウォルテールは二人の間に立った。
「エウラリカ様に仕えているカナンだ。カナン、こっちは弟のヘルト」
「ヘルト・ウォルテールです」
互いに浅い礼をして簡単な挨拶を済ませると、ヘルトは興味津々でカナンを眺めた。注意が自分から逸れたのが気に食わないらしい、セイレアはヘルトから離れてウォルテールの足下に寄ってくる。手を繋いでやりながら、ウォルテールは二人の様子を眺めた。
「こちらの言葉がお上手ですね。王女さまの側仕えなんですか?」
「ありがとうございます。まあ……そんなようなものですね」
カナンは苦笑交じりに頷いた。同い年である二人の視線はおおよそ同じ高さにあって、それが気安そうな空気に繋がっているらしかった。そもそもがどちらも人好きのする性質である。
「王女さまってどんな方なんですか? 絶世の美女だって噂で聞いたことがあるんですけど」
「可愛らしい人ですよ。俺にはちょくちょく我が儘を仰ったりしますが、それを聞くのも嫌じゃないのが困りもので」
はは、とカナンが声を上げて笑うので、ウォルテールは内心で酷く驚いた。
(随分とデレデレじゃないか)
元々、カナンがエウラリカに対して態度を軟化させているのは分かっていたが、まさかこうまで好意的にエウラリカを語るとは思っていなかった。カナンの手首にはエウラリカと揃いの腕輪が嵌められており、その絆の深さを物語っている。もはやその顔に浮かぶのは、まるで親友や恋人について語るみたいな表情である。
カナンとエウラリカの関係に思いを馳せていたウォルテールは「それで」といきなり水を向けられてたじろいだ。
「こちらは?」
カナンは膝に手をついて身を屈めた。セイレアと目を合わせて、彼はにこりと微笑む。
「こんにちは。僕はカナンって言うんだ」
声をかけられたセイレアは、ウォルテールの片足に縋り付くようにしながら、おずおずと顔を覗かせる。
「……わたし、セイレア」
「良いお返事だね。セイレアちゃんはいくつかな?」
「みっつ」
大きな目をきょときょととさせながら、セイレアは答えた。カナンは相好を崩し、「良い子だ」とセイレアの頭を一撫ですると姿勢を戻した。
「三年も前にお子さんが生まれていたんですね。まさか隠し子……?」
「はァ!?」
不思議そうな顔の姪を指してカナンにそう言われ、ウォルテールは目を剥いて絶句した。カナンは肩を竦めてウォルテールを見据えた。
「このこと、アニナさんには言ってあるんですか?」
「は!? ……違う、俺の子じゃない! これは姪だ!」
慌てて左右に大きく首を振ると、セイレアは呆気に取られたように目を丸くした後、何がおかしいのか声を上げて笑い出した。その様子を見ながら、カナンは「なんだ、姪ですか」と引き下がった。
その表情が実にあっさりとしているので、ウォルテールは思わず半目になった。
「……お前、最初から分かっていたな?」
「知り合いか親戚の子どもなんだろうなとは……」
悪びれる様子もなく舌を出したカナンに、ウォルテールは脱力して嘆息する。カナンは「ごめんなさい」とほとんど笑っているみたいな声で詫びると、今度はヘルトの方にくっついたセイレアを振り返った。
「西の方から来られた方のお子さんですか?」
セイレアと再び視線を合わせながら、カナンは目を細める。ヘルトが隣で「どうしてお義姉さんの出身地を?」と目を丸くした。カナンはセイレアのお下げを指先でつつきながら、「とても綺麗な赤毛なので」と微笑む。セイレアがぱっと顔を輝かせるのを見下ろしながら、彼はくすりと笑い声を漏らした。
ウォルテールは少し頬を緩めながら応じる。
「母親が東ユレミアの出身なんだ」
「ユレミア……」
カナンは小さく呟き、まじまじとセイレアの顔を見つめる。
「姪っ子ですっけ?」
「ああ、兄の子だ。もしかして城内ですれ違ったことがあるかもしれないな」
へえ、と呟いたカナンの人差し指が、やや無遠慮にセイレアの頬をつついた。セイレアが応戦するように頬を膨らませる。両手の人差し指で幼い少女の頬から空気を抜いてから、カナンは立ち上がった。
「お兄様も軍部に?」
「いや、行政だ。官僚をしている」
「なるほど」
カナンは頷いて、それからふと時計台を見やった。
「エウラリカ様に呼ばれているので、そろそろお暇させて頂きますね」
そう言ったカナンが、数冊の本を脇に抱えているのに気づく。その表紙の文字をざっと見て取って、ウォルテールは背筋が一瞬冷たくなるのを感じた。
(オルディウス・アルヴェール、)
著者として記された名を胸の内で繰り返す。目を見開いたウォルテールに気づいたのか気づいていないのか、カナンは「では」と軽く頭を下げた。
「アニナさんに言っておきますね。子どもと一緒にいるウォルテール将軍もお似合いだったって」
「は? おいやめろ、あれに余計なことを言うんじゃない」
突如として投下された話題に、ウォルテールは泡を食ってカナンを制止する。『ええ!? 子どもの相手をしているところも見たいです!』と大騒ぎするアニナの姿が容易に浮かんだ。なるほど、これは面倒くさい。
しかしカナンは「どうしましょうね」と楽しげに笑いながら、その場をさっさと立ち去ってしまった。慌てて追おうとするも、傍らには小さな姪っ子、横には「アニナさんって?」と目を輝かせる弟がいる。
(……してやられた)
ウォルテールは渋面で鼻から息を吐くと、カナンに追いすがるのを諦めた。




