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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【表層編】

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婚約騒動7



 冷たく乾いた風が吹きすさぶ。半分に分かれた橋の先は確かに持ち上がり、向かいの橋との距離は既に大きく開いている。飛び越せる距離ではない。行き止まりだ。空は重苦しい曇天で、月の影はどこにも見えない。足下では北西から流れる大河がごうごうと地響きのような水音を立てて流れている。


「イリージオ……一体何をしようというんだ」

 橋の先に立ち尽くす後ろ姿に、ウォルテールは努めて穏やかな声で語りかけた。背後では角灯を持ったデルトが固唾を飲んで見守っている。

「イリージオ。話をしてくれ」

 何度も声をかけ続け、そしてようやく、その男はゆっくりと振り返った。角灯の僅かな明かりに照らされた顔は、確かにイリージオのものである。しかし、その有様はとてもではないが平常とは言いがたかった。


 イリージオはウォルテールを眺め、ぼんやりと立ち尽くしたまま数度瞬きを繰り返す。それから、まるで魂が抜けでもしたかのように呆然と呟く。

「教官……どうして……?」

「それはこっちの台詞だ。どうしてこんなことをしている」

 言いながら、ウォルテールは慎重に一歩踏み出した。イリージオの背後には柵も何もなく、途切れた橋の先にあるのは奈落のみである。あまり急な動きをすれば、動転したイリージオが足を滑らせるやも知れなかった。


「そこは危ないからこちらへ戻ってきなさい」

「教官、俺は、もう……教官に気を遣って頂けるような人間ではありません」

「落ち着け、イリージオ。戻ったら暖かい部屋で話をしよう。そうだ、知り合いの侍女が新しい茶葉を用意してくれたんだ。今度一緒に試してみないか?」

 ウォルテールは朗らかな口調でイリージオに手を伸ばした。イリージオは逃げるように一歩下がる。


「ごめんなさい。……ごめんなさい、俺が全部悪いんです。一体どうやってこの罪を贖えば良いのか、俺には分からない」

 頭を振り、イリージオは自らの体を抱いた。その仕草はただ寒さに耐えるだけのものではなかった。身を竦め、まるで鞭で打たれるのを構えているような態度である。普段のイリージオの姿とは、まるで似ても似つかなかった。イリージオがこのように怯えた態度を取るなど、見たこともなかった。


(何があった……?)

 イリージオの姿をもう一度まじまじと観察してみる。普段はきっちりと整えられた金髪は、今は風にもみくちゃにされて荒れ狂っている。暗くてはっきりとは見えないが、服装にも明らかに乱れた様子があった。身なりに気を遣う男だったのに、これはどういうことだ。

 何より、その切羽詰まったような表情が一際目を引いた。笑みは一欠片も残らず、憔悴しきったように目が落ちくぼんでいる。

(俺たちが見失っていた間に、一体何が……)


 ウォルテールは言葉を選びあぐねて立ち尽くした。そのとき、はっと息を飲む。

(――カナン、)

 元はと言えば、カナンとイリージオの会話を耳にし、この夜に接触すると踏んだからイリージオを尾行し始めたのである。それなのに、当人のうちの一人の姿が見えない。……見失っていた間のことか。

 ウォルテールは一旦後ろへ下がって距離を取りながら、イリージオの様子をじっと窺う。そして、ゆっくりと問うた。



「――カナンは、何か関係しているのか?」

 その瞬間、イリージオの顔色が変わった。


「あの子には何も訊かないで下さいっ!」

 血相を変えて叫ぶ。それまでの茫然自失とした様子とは、まるで別人のようだった。恐怖を感じるほどの豹変に、ウォルテールは思わず体を強ばらせる。デルトも後ろで鋭く息を吸ったようだった。

「……彼は関係ない。彼は悪くない。罪を犯したのは俺です。関係ない。何も関係ない。何も訊かないで下さい」

 何度も首を振りながら、イリージオは必死に訴える。視界が判然とせずとも分かる、その異常な様子に、ウォルテールは目を見張った。


「教官、お願いします」

 イリージオが囁く。風に浚われそうな小さな声に対して、ウォルテールは大きく頷き返した。

「……分かった。カナンには何も訊かないでおこう」

「約束、して下さい」

「ああ、約束する。――だからお前自身の口から、お前が苦しんでいる理由を聞きたいんだ」



 ウォルテールの言葉に、イリージオは項垂れる。ひとときとして同じ光を投げかけない角灯の明かりを受けて、その顔はどこか怪しげに浮かび上がった。乾いた色をした金髪が風に嬲られて浮き上がり、その目元に影を落とす。

 眉根を寄せ、苦悶の表情を浮かべ、イリージオは奥歯を噛みしめて顔を歪めた。

「俺が馬鹿だったんです、それだけの話です。これ以上は言いたくない。……俺は、あなたに失望されたくない。あなたを悲しませたくないんです」

「お前が何を言ったって、俺はそれを受け止める覚悟は出来ているつもりだ」

「…………。」

 イリージオは絶望したような目でウォルテールを見つめた。ウォルテールの言葉をまるで信じていないのがよく分かる眼差しだった。


「……あなたは、いつも、綺麗な真実ばかりを手にする人です。そうした特権を持っている人だ。そうして得られた視線や精神こそがあなたの持つ最大の宝です」

 ぽつり、水滴を次々と落とすように、イリージオは告げる。僅かに頬に笑みを湛え、息混じりに言葉を紡ぐ。文意が分からずとも、そこに滲む寂しげな気配は無視が出来ぬほどにあからさまだった。

 イリージオの右脚が、ゆっくりと引かれる。その背後には橋が途切れ、ぽっかりと口を開いた空間が待ち受けている。ウォルテールは唾を飲み、相手を刺激しないようにと穏やかな声で語りかける。


「何を言っているんだ。イリージオ、……そこは寒いだろう。早く戻って来い」

「優しいですね、教官。そういうところが大好きです。誰に何を言われたって大切にして欲しいな」

 にこり、微笑んだ瞬間に、平静と同じような優男の面影が蘇った。それなのに妙な胸騒ぎがする。イリージオは静かに笑っていた。


「今まで俺に良くしてくれた人がたくさんいます。謝らなきゃいけない人が沢山います」

 イリージオの両足が、とん、とん、と後ろへと上ってゆく。途切れた橋の先端へとその姿が近づく。――ついにその片足が、縁にかかった。



 動悸が収まらない。冬の強風に当たっているのに、何故か全身に汗をかいていた。ウォルテールはイリージオにかける言葉を見つけられずに立ち尽くす。

 ……イリージオ・アルヴェールは、人なつっこい好青年で、年上に対してちょっとナメた口を利く小生意気な若者で、つい先日兄を喪って、結婚を視野に入れていた恋人がいて、でも彼女に別れを告げて、エウラリカの婚約者の座に納まった男である。

 イリージオがくしゃりと顔を歪めた。



「――俺が兄さんを殺したんだ」



 言いながら、その体がゆっくりと傾いてゆく。

「人殺しは人以下の行いです。どんな事情があったって許されるものじゃない」

 ウォルテールは地面を蹴って走り出した。手を伸ばす。暗い夜空に、イリージオの白い手が浮かび上がる。それはまるで霊か何かのように儚く空を切った。時の流れは極端に停滞しているように感じられた。体が動かない。イリージオに手が届かない。その声ばかりが脳へと突き刺さる。けれどその内容をはっきりと理解できない。


「こんな奴に、今までいっぱい優しくしてくれてありがとうございました、教官」

「イリージオ!」

 哀しげな微笑みを浮かべて、青年が暗黒の向こうへと身を投げようとする。その足先が、橋の先端を蹴った。全身が空中に浮かび上がる。ウォルテールは手を伸ばす。



 胸が地面に叩きつけられる感触で息が詰まった。ウォルテールの片手は確かにイリージオの手首を掴んでいた。イリージオはウォルテールの手を掴み返さなかった。

 ウォルテールは橋の上に腹ばいになったまま、イリージオをすんでのところで捕まえていた。イリージオは驚いたように目を見開く。

「教官……」

「馬鹿か! こんなところから落ちたら死ぬぞ!」

 ウォルテールは声を荒げて怒鳴りつけた。イリージオはきょとんとしたように瞬きをすると、ふっと息を漏らして笑う。目を細め、彼は一度深呼吸をした。

「――ごめんなさい、教官」


 その言葉の意味を問うより早く、デルトが駆け寄ってきて、手を貸そうと橋に膝をついた。二人がかりなら引き上げることも可能だろう。デルトがイリージオの腕を掴もうと前屈みになった。


 刹那、ウォルテールの手の甲を鋭い痛みが襲う。

「っ!」

 息を飲み身を竦めた、その瞬間、手の中からするりとイリージオの指先が抜けた。デルトが「あっ」と叫ぶ。


 手の甲からは血が幾筋も流れ、指先から雫が滴っていた。痛みを鮮烈に感じたのは初めの一瞬だけだった。口から意味のある言葉は出なかった。身を乗り出し、手を伸ばす。

 イリージオが遠ざかる。片手をまるで天に伸ばすかのように掲げたまま、その姿は小さくなってゆく。待ち受けるは深い谷底、黒々とした大河の流れる奈落である。


 曇天の下を照らす月はなかった。

 その姿はあっという間に闇に飲み込まれて見えなくなった。

 耳の奥ではごうごうと嵐のような音が渦巻いていた。

 その耳鳴りの遠くで、何か大きなものが落ちたような水音が、聞こえた。



「駄目です、ウォルテール将軍!」

 我に返ったとき、彼は部下に羽交い締めにされながら、必死に前へ進もうとしていた。ふっと力が抜けた直後、二人して後ろにひっくり返る。

「……イリー、ジオ、」

 地面に尻餅をついたまま、ウォルテールは呆然と呟いた。


 思考はろくに回らなかったが、今、目の前で、大切な友人がひとり消えたことだけは、痛々しいほどに深く、脳に刻まれていた。



 ***


「お疲れ様です」

 言葉少なに、アニナはカップを差し出した。アニナの実家から届いたという、新しい茶葉で淹れた茶は、一人で飲んでもろくに味がしなかった。


 乱暴な仕草でカップを干し、ウォルテールは小さな声で「ありがとう」と告げると立ち上がった。アニナは控えめに微笑み、上着を取っておずおずとウォルテールを見上げる。

「お出かけですか?」

「いや。……昨日、行方不明になっていた子どもたちが見つかったと連絡を受けた。もうじきその子どもたちの数人が城に来るそうだから、様子を見に行こうと思う」

「さようですか」

 アニナは小さく頷くと、上着を手渡した。年越しを目前に控えた今、外は本格的に冷え込んでいる。


「……あまり、思い詰めないで下さいね」

 その言葉に曖昧な返事を残し、ウォルテールは部屋を出た。



 向かった先の客間では、ざっと五、六人の子どもたちが目を輝かせて焼き菓子を頬張っていた。

「すっげぇ! これ超うめぇぞ!」

「お城って、すげー!」

 普段城内ではとんと見かけないような、粗野な子どもたちである。その騒がしさに面食らい、ウォルテールは目を瞬いた。

 子どもたちの前には以前に指示を出しておいた部下の一人が陣取り、子どもたちの話を記録に残しているようだった。格式張った挨拶を片手で制すると、ウォルテールはその背後に回り込んで手元を覗き込む。

(知らないところに連れて行かれて閉じ込められていた、と)

 ざっと証言の記録を見て取って、ウォルテールは小さなため息をついた。


(一体どうして、何の関係性もなさそうなこの事件が、いきなり進展したのだろう)

 子どもの発見をもってこの件は解決となる。

 軍部からはそう伝えられていた。その理由は分かっている。こちらの事件が解決し次第、ウォルテールの軍から兵が派遣されることとなっているのである。

 詳細や犯人などの究明より、抵抗運動が盛んな地域の制圧の方が重要だ。少なくともそれが、広大な面積を持つ新ドルト帝国の考えなのだ。


『あなたはいつも綺麗な真実ばかりを手にする人です』

 イリージオの言葉がふと耳に蘇る。

 彼の証言により、病死とされているオルディウスの急死は、殺害であった可能性が浮上した。けれどそれを追究するものは誰もいない。最も綺麗で分かりやすい真実は揺るがない。



「それでねー、すっごく怖い金髪のお兄ちゃんがね、ソアのことを殺そうとしたの。とっても怖かったの」

 幼い少女の声が耳についた。何より気になったのはその内容だった。ウォルテールは顔を上げる。今発言した、十にも満たないような小さな少女を注視した。少女は隣に座る子どもに視線を向ける。同じ年頃の少女のようだった。


「ね、ソア」と声をかけられたことから察するに、それが少女の名前らしかった。きゅっと首を縮めて口を噤んだソアとは対照的に、その友人は開けっぴろげな笑顔を浮かべた。


「――でもね、黒い髪の毛のお兄ちゃんがソアのことを助けてくれたんだよね!」


 ざぁっと血の気の引く音が聞こえた。ウォルテールの背筋を寒気が駆け上がる。

 直後、少女は隣にいた少年にぱしりと口を塞がれた。「馬鹿、それは黙ってろって言われただろ」と年上の少年が声を潜めて言い聞かせれば、少女は大きな目をきょときょととさせ、慌てて頷く。

 それから、子どもたちがこの件について口を割ることはなかった。


 ***


「あら、ウォルテール!」

 悶々と考え事をしていた矢先に、明るい声が自分を呼んだ。顔を上げると、目の前には満面の笑みを浮かべた麗しい王女が立っている。抱えているのは絵本だろうか?

 次いで、その背後で控える黒髪の少年を見る。視線が重なった。彼はにこりと微笑んだ。


「こんにちは、ウォルテール将軍」

 淀みのない挨拶に、ウォルテールは奥歯を噛みしめる。強い視線を向けるが、端正なその顔に浮かべられた微笑みはびくともしない。

 黒髪は後頭部で一つに括られていた。帝国の民に比べれば些か小柄な体なれど、しなやかに背筋を伸ばしたその立ち姿からは、もう貧弱さを感じなかった。喉元を首輪で飾られても、およそ奴隷らしい立ち居振る舞いには見えない。

 そこにいるのは、まるでどこぞの貴人のようでありながら、得体の知れない化け物のようにも見えた。黒い瞳が緩やかに細められる。


 ――『あの子には何も訊かないで下さい』。その言葉にウォルテールは諾と答えた。


 それでも堪えきれず、言葉は口をついた。

「……イリージオという男を知っているか?」

 是と答えられたらどうするつもりだったのだろう。自分でもそれは分からなかった。しかし少年は一瞬だけ考えるような素振りを見せると、「さあ」と呟いて首を傾げる。その眼差しはしかとウォルテールを見据え、どこかわざとらしさの漂う表情であった。


「申し訳ございません」と慇懃に頭を下げる姿を見つめたまま、ウォルテールは声もなく立ち尽くした。

 それ以上の問いを投げかけることは出来なかった。何かを見つけて楽しげに走り出したエウラリカを追って、その奴隷は短い挨拶と共にその場を去ろうとする。ウォルテールは体を捻って振り返った。


「カナン」

「はい」

 呼び止められた少年は、どこまでも朗らかな微笑みを湛えていた。底知れなさに悪寒がする。ウォルテールはくしゃりと顔を歪めて俯くと、声もなく拳を握りしめた。


「……何でもない」

 唸るように吐き捨てれば、カナンはそれまでの整った微笑みを僅かに崩し、笑みを深める。ウォルテールは何も言えずに立ち尽くした。カナンはさも不思議そうに首を傾げると、エウラリカが走って行った方向を横目で確認する。

「――また何かございましたら、何なりと」

 そう、言葉を残して、カナンは今度こそ本当にその場を立ち去った。






スケジュール調整のためしばらくお休みさせていただきます。出来るだけ早く戻ってこられるようにしたいので気長にお待ちください。

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