婚約騒動6
「あっ、おかえりなさい」
自身の執務室の扉を開けると、アニナとデルトが同時に振り返った。二人して暖炉の前で丸まり、随分とくつろいでいる様子である。何故この部屋に居着いているのかを小一時間問い詰めたいところだが、それはまた今度にしておく。アニナは笑顔で寄ってきた。
「この間、実家から新しい茶葉が届いたんです。もしよろしければ一緒にいかがかと思って待っていたのですが……」
「…………。」
無言のウォルテールを見て、デルトが首を傾げる。
「何か人相悪くないですか? どうしたんですか」
敬意を見せない部下に対して、ウォルテールは「残業だ。すぐに出られるか」と短く声をかけた。ちらりとも笑みを見せないウォルテールに、デルトはすっとふざけた態度を落とす。
「外ですか」
「恐らくは。追尾になる」
「分かりました」
デルトは素早く立ち上がり、椅子の背にかけてあった上着を羽織る。ぽかんとしているのはアニナ一人である。
「お……お出かけですか」
「ああ。貴女はもう帰りなさい」
ウォルテールは頷き、アニナを一瞥した。彼女は呆気に取られて立ち尽くしている。何やら逡巡するように一度俯き、それからアニナは「分かりました」と頷いた。
「ご無理はなさいませんよう。外は寒いのでしっかりと温かい格好をなさってくださいね」
ウォルテールの外套を持ってきながら、アニナは真っ直ぐな視線で見上げてくる。両手で外套を持って、明らかに着せようとしている構えだったが、それは固辞しておいた。
「火の始末などはお任せください」
「ああ、それなら」
自分で外套を羽織り、ウォルテールはアニナを振り返る。「戸締まりも頼む」と執務室の鍵を放ると、アニナはこぼれ落ちそうなほどに大きく目を見開いた。口元を押さえ、わなわなと震える。
「へ、部屋の鍵!? そんなのもう……恋人じゃない!」
「違うぞ」
部屋の鍵というか、仕事場の鍵である。視界の端ではデルトが死んだような目をしていた。
イリージオの所属は知っている。彼が官舎住まいであることも知っている。ウォルテールはデルトを伴って、イリージオがどちらへ行くにも通るであろう通路を監視していた。時刻は宵の口、多くの人間が城内での仕事を終えて帰宅する時間帯であることも手伝って、人通りはなかなかに多い。気を抜けば目標を見逃しそうである。
簡単に説明すると、デルトは怪訝そうな顔をした。
「王女様の婚約者を見張る? えっ、婚約者ってこの間死にましたよね」
「その婚約者が死んだ後、また新しく婚約者を用意した奴がいるんだよ」
ウォルテールは腕組みをしながら壁により掛かる。イリージオが自分からエウラリカの婚約者に立候補した訳ではない。恐らくはあのネティヤとかいう女とその一味が話を持ちかけ、イリージオが承諾したのだろう。……そして、この件をカナンは把握していた。関与は明白である。
ふと、エウラリカの婚約に関して、皇帝の口から初めて発表があったときのことを思い出した。あれは確か、第二王子ユインが入城し、歓迎会が催されていた晩のことである。
皇帝が話し出す直前、カナンは、エウラリカを外へ連れ出した。大広間からエウラリカを出した後、皇帝は彼女の婚約を発表した。
(なるほど、あのときから……)
ウォルテールは僅かに眉をひそめて顎を撫でる。エウラリカの婚約を画策する官僚たちに、カナンが協力しているのは明らかだ。……だが、
(『手を引け』、か……)
首を捻る。カナンはこの婚約に乗り気ではないのだろうか?
と、そのとき、ウォルテールは行き交う人混みの中に、見覚えのある横顔を見つけた。咄嗟に体を固くすれば、傍らでデルトも表情を引き締める。
「行くぞ」
「はい」
短いやり取りの後、二人は人の流れに滑り込むように、そっと歩を進めた。
見覚えのある金髪が先を行く。見失わないよう目を凝らして、ウォルテールはイリージオの背中を追った。ウォルテールの隣を歩きながら、デルトが声を潜める。
「追っているのはあの金髪の男ですか」
「ああ。イリージオ・アルヴェール……ついこの間急死したエウラリカ様の婚約者の、弟だ」
「弟?」
驚いたような表情のデルトに頷き、ウォルテールは目を細めた。イリージオが角を曲がったのである。方向からするに、城を出て帝都の市街地へ繰り出すつもりらしい。
宮殿の広々とした玄関ホールを突っ切り、両脇に続く列柱の間を抜けて門を目指す。正門を抜けると、そこは幅の広い目抜き通りが伸びる市街地である。イリージオは慣れた様子で幾つかの角を曲がり、帝都の奥へと入り込んでゆく。その背中を必死に追う最中に、デルトは小さな声で呟いた。
「元々の婚約者が死んで、次いでその弟が婚約者になる……。どこかで聞いたような話ですね」
「ん?」
その言葉に、ウォルテールは首を捻った。そんな話、あっただろうか? 思案を巡らせ、そこではたと気づく。
「……フェウランツィア様のことか」
フェウランツィア。エウラリカの母であり、娘を産み落とした半月後、何者かによって殺害された正妃の名である。
「そういえばそうだな」とウォルテールは視線を落とした。現在の皇帝は元々第二王子である。事故死した兄の代わりにその婚約者を娶り、皇位を手に入れた。そして現在へ至り、結果としてそこにいるのは官僚に操られるがままの傀儡だ。
最初の婚約者が死に、その弟が後釜となる。その点だけで言えば、フェウランツィアとその娘はよく似ていると言えるだろう。とはいえ、その他に相違点はいくつもあり、単純に準えて話すのは早計に過ぎる。……しかし、
(もしもこれが全く同じだったとすれば、)
――エウラリカは何者かに殺されるのだろうか。
あまりに不謹慎な考えに、ウォルテールは思わず頭を振った。馬鹿馬鹿しい。俺は一体何を考えているんだ。
そう思って顔を上げたウォルテールは、イリージオの背中が細い路地へ吸い込まれていくのを見つけた。くいと眉を上げ、歩調を速めて彼を追う。イリージオに次いでその角を曲がったウォルテールは、そこで息を飲んで立ち尽くした。
「いない……っ!」
デルトが呟き、慌てて駆け出す。目の前に伸びるのは両脇を背の高い集合住宅に挟まれた、人がすれ違うのも難しいような狭い道である。隠れる場所などはなく、分かれ道もない。面している扉は数えるほどしかないが、そのどれもが閉ざされている。
「どういうことだ……!?」
ウォルテールは愕然として、路地の入り口に立ち尽くした。つい先程まで追っていたイリージオの姿は、そこからかき消えたように見えなくなっている。冬になり日が短くなったせいか、いつしか辺りは暗くなっていた。例に漏れず路地は暗闇に落ち、見通しの良い直線の道が、今はろくに状況も分からない。
(イリージオ……)
胸を上下させて息をした。訳が分からない。まるで魔術でも目の当たりにしたようだ。頭がクラクラとする。
「隠れる場所も逃げる場所もありませんよ」
デルトは呆然とウォルテールを振り返った。ウォルテールは為す術もなく頷く。足を地面から引き剥がすようにして、歩を進めた。
……それにしても歩きづらい道である。ただでさえ幅が狭くて圧迫感があるというのに、地面に放置された謎の荷物や不法投棄されたと思しき物品が足の踏み場を奪っている。何やら生臭い異臭までするようだ。
(帝都にこんな場所があったとは)
鼻に皺を寄せながら、ウォルテールは自分の不案内を恥じた。普段見えている場所のみが帝都の姿ではなかったのだと心に刻む。手入れされていない石畳はところどころ割れたり浮き上がったりし、度々ウォルテールたちの歩行を阻んだ。地面に埋め込まれた碑には番地が刻まれており、いつの間にか帝都の端の方まで来ていたことに気づく。
どれほど時間が経っただろうかと思い、月の位置を確かめようと顔を上げたが、そそり立つ集合住宅に阻まれ、空は細い一部分しか見えない。ウォルテールはため息をつき、もう一度路地を見渡した。――イリージオはいない。
イリージオを見失ってからしばらく周囲を捜索したものの、結局、その姿を見つけることはできなかった。イリージオを追ってはるばる帝都の隅まで来てしまったこともあり、ウォルテールとデルトの疲労もひとしおだった。
帝都を貫く目抜き通りに出てきて、二人は顔を見合わせた。
「どうします? もう戻りますか……?」
「……腹が減ったな」
夕食も取らずに飛び出してきたが、気づけばもうとっぷりと日は暮れた後である。空腹はいかんともしがたかった。この帝都で見失った人間をもう一度見つけるのは困難を極めるだろう。今日のところは諦めて戻るか、と結論づけようとして、ふとウォルテールは道の先にある建物に目を付けた。
(あれは……帝都に出入りするための跳ね橋を管理する詰所か)
帝都は二本の大河と、先の時代に作られた運河に囲まれている。それによって、大陸の中央にありながら、周囲の陸地からは孤立した形になっているのが特徴だった。
橋を渡らねば、王都に入ることは出来ない。同時に、橋を渡らずして帝都から出ることも出来ないのだ。大河は広く、太古の昔から川底が削られてきたせいで、水面はめまいがするような遠くにある。
帝都に出入りする全ての物品や人間は、軍部の管理するところである。ウォルテールの管轄とはまた違うところだが。
「橋の方の詰所に確認をしたら戻るか」
「そうですね……」
何の収穫もなしにただ夜の帝都を歩いただけとなると、徒労感が凄まじいというものである。もう少し足掻くか、とウォルテールとデルトはとぼとぼと歩き出した。
詰所には明かりが灯っており、暖炉が部屋を暖めていた。もうじき跳ね橋を上げて今日の仕事を終えようとする頃合いだったらしい。緩んだ空気が漂うところに訪れたウォルテールたちに、詰所にいた兵士たちはあからさまに面食らった様子だった。
「金髪の青年……ですか?」
「ああ。もし通っているとすれば、まだそれほど時間は経っていないと思うのだが」
ウォルテールの言葉に、兵士たちは揃って顔を見合わせる。誰も思い当たる節はないような表情である。それを見て、ウォルテールとデルトも落胆混じりに顔を見合わせる。駄目元で聞いてはみたが、やはりイリージオは橋を渡っていないらしい。
「……申し訳ありませんが、把握しておりません」
「そうか。ありがとう」
仕方ない、帰るかと声をかけようとして、ウォルテールはデルトを振り返った。と、デルトが「そういえば」と身を乗り出す。
「ここ最近、この辺りで子どもが行方不明になるとか、そういう話って聞いていませんか?」
その言葉に、ウォルテールももう一つ抱えていた案件を思い出した。大きく頷きながら兵を見れば、彼らは「ああ……」と異口同音に呟いて目配せをしあっている。
「それは、だいぶ前から出ている話ですね」
「そうなのか? しかし、こちらに話が来たのはついこの間のことで」
「おおかた、誰かお偉方の子どもが消えるとかしたんでしょう。子どもが消える事件に関しては、もう……一年くらい前から続いているものですよ」
ウォルテールは息を飲んだ。耳を疑い、呆然と今しがた聞いた言葉を反芻する。デルトが「一年前?」と呟いた。
「こういう言い方はどうかと思いますが、……そこらの平民の子どもが消えたって上は動かないというのが、この辺りでの見方です」
だいぶ言葉を選んだと思しき表情だった。兵は遠慮がちに告げ、すぐに口をつぐむ。ウォルテールは耳鳴りがするような心地で数度頷いた。
(俺は、今まで何を見てきていたのだろう)
城とその近辺を行き来するだけで、帝都を――ひいてはこの新ドルト帝国を知った気になっていたのである。それがどうか。一年前から続いていたという事件のことすら把握できていなかったのだ。
(……情けない、)
ウォルテールは唇を噛んで項垂れた。忸怩たる思いで沈黙したウォルテールの耳に、ふと外での会話が届く。
「ちょっと! 橋が上がってるんだから、もう渡れないよ!」
橋の見張りをしていたと思しき兵の声だった。室内にいた全員が顔を上げる。
「駄目だってば! こら、待ちなさい!」
苦り切ったような声が遠ざかっていった。どうやら呼び止められた当人は、呼びかけを無視して歩き続けているらしい。兵がそれを追いかけている様子である。真っ先に動き出したのはデルトだった。窓に歩み寄り、外を覗き込む。その目が眇められ、怪訝な顔をし、一度目を擦り、「あっ」と声を漏らし、そしてデルトは勢いよく駆け出した。
「どうした!?」
慌てて振り返ったウォルテールに返事をするより早く、デルトは詰所の扉を開け放って外へ出る。冷気が渦を巻いて室内に流れ込み、ウォルテールはぶるりと体を震わせた。慌ててデルトを追おうと歩を進めると、外からデルトがウォルテールを呼んでいる。
「ウォルテール将軍、あれ!」
デルトが指さした先は、今まさに上がり始めたと思しき跳ね橋である。街灯が点々と並ぶ街中とは違い、橋の上は既に真っ暗である。目を凝らせば、その橋の上を歩いて行く人影が薄らと見えた。
まるで闇に吸い込まれてゆくような背中を見つめ、ウォルテールは眉をひそめる。もう橋を上げようというのに、無理に橋を渡ろうとしているのか?
「何だ?」
「あの男です! 王女様の婚約者だっていう男!」
(――イリージオ!)
ウォルテールは息を飲んだ。……見失ったはずのイリージオが再び姿を現した。しかし、一体何をしようとしているのか?
「……追うぞ!」
「はい!」
橋を上げるのを一旦止めさせ、ウォルテールはイリージオの背中を追って橋の上へと踏み出す。思いのほかきつい傾斜に一瞬怯むが、上れないほどの角度でもない。
「イリージオ!」
叫んで、ウォルテールは遠ざかってゆく後ろ姿を目掛けて走り出した。




