婚約騒動5
それから半月ほどが過ぎ、帝都には冬が訪れた。ウォルテールが窓の外を眺めていると、背後で盛大にくしゃみをしたアニナが鼻をぐずぐずさせる。風邪気味らしい。
「寒いですねぇ」とデルトが暖炉の前に陣取りながら呟いた。
「まあ、帝都は雪が降らないだけマシですよね」
言いながら、火かき棒で暖炉の中の火をつつき回す。「やめろ」とウォルテールはその手から火かき棒を没収しながら、小さくため息をついた。どうもこの部下は態度が不真面目でいけない。戦地に突っ込んだ方がまだ役に立つ気がする。
「デルトさんは北の出身なんでしたっけ?」
アニナが話題を向けてやれば、デルトは「はい」と頷いた。
「そりゃもう山奥の雪深い地域で、きっと今頃は父さん母さんや弟たちが必死に雪かきをしてますよ」
「一家総出か。大変だな」
「大変ですよ。曾爺さんなんて、雪下ろしの途中に屋根から落ちて死にました」
けらけらと笑いながらデルトが立ち上がる。笑える話題なのか分からずに、ウォルテールとアニナは顔を見合わせた。
暖炉の火にかけられていた鉄瓶の中で湯が沸く。それを見つけて、アニナが暖炉の方を見た。「えっと」と首を巡らせて探しているのは、恐らく鉄瓶を回収するための棒である。火にかけられた鉄なんて、熱くて触れたものではない。
あたふたと棒を手に暖炉に近寄るアニナを制して、ウォルテールは嘆息する。危なっかしくて見ていられない。
「俺が取る」
そう言って棒を取り上げる。視界の隅に映るデルトが口元に手を当ててにやにやとしていた。……どうやら、今ウォルテールが手に持っているものが鈍器になることを理解していないらしい。
(棒の先で小突くぐらいは許されるんじゃないのか?)
内心で物騒な報復の算段を立てながら、ウォルテールは暖炉の前にかがみ込む。しゅんしゅんと湯気を上げる鉄瓶を回収すると、机に置かれた台の上に下ろした。
「ここ数年で薪の値段が上がったんでしたっけ?」
机の上を片付けながら、デルトが首を傾げる。暖炉で湯を沸かしている理由である。去年までなら、家庭ではいざ知らず、城内で湯を沸かすのに暖炉を使うことはあまりなかった。
「そうらしいな」
デルトが雑に積み上げる書類の山を整えながら、ウォルテールは頷いた。アニナは布巾越しに取っ手をつかみ上げ、茶葉の入ったポットに湯を注ぐ。
「寒い地域は大変ですよね。薪炭材が生命線ですもの」とアニナは視線を手元に落としたまま苦笑した。ふわりと紅茶の香りが立ち上る。
「去年は、ハルジェール領からまとまった量の薪炭材が皇帝陛下に献上されたとかで、城内の燃料に関してはそれほど困窮しなかったんだよな」
呟くと、アニナが「あら!」と目を丸くした。
「私、そのハルジェル領の出身なんですよ!」
「そうだったのか。南の方かとは思ったが……」
「はい。十五のときにハルジェル領から出て参りました」
アニナはポットに蓋をしながら頷いた。湯を沸かした鉄瓶を台の上に戻し、アニナは満面の笑みでウォルテールを振り返る。ぎらぎらと目を光らせて胸に手を当て、何か期待するような目をして、彼女はウォルテールを見上げた。
「こう見えてもわたくし、ハルジェル領ではちょっと有名な旧家の生まれなのですよ! えっへん!」
「……へえ、良かったな」
「三女ですし、跡取りなんて話がうっかり出てくることもございません!」
「ほお」
「安心安全の好物件! ですよっ!」
「そうかそうか」
真顔で律動的に頷くと、アニナは両手で拳を握って地団駄を踏む。「どうしたどうした、ご令嬢」と声をかければ、お嬢様は唇を噛んで恨みがましい目をウォルテールに向けた。
アニナが淹れた紅茶を冷ましながら飲んでいたウォルテールは、ふと窓の外、渡り廊下に二つの人影を見つけた。
(カナン、と、……エウラリカ様)
黒髪が一歩足を踏み出すたびに揺れる。背筋を伸ばして歩くカナンの横を、エウラリカがうろちょろとしている。カナンが振り返って一言何かを言うと、エウラリカは大人しくカナンの一歩前を歩き出した。カナンが何かを言いながら微笑む。エウラリカは肩越しに振り返り、声を上げて笑ったようだった。
(何とも仲がおよろしいことで)
ウォルテールは窓際に肘をついて、短い息を吐き出した。もう夕方になろうというのに、二人連れだってどこへ行くのやら。
エウラリカのカナンへの懐きっぷりは尋常ではなかった。並んで歩くカナンとエウラリカの間にイリージオの姿を思い浮かべてみるが、いまいちしっくりとしない。
ふと馬鹿な考えが浮かぶ。
(帝国の王女と、ジェスタの王子、か……)
カナンは確かに祖国を遠く離れ、エウラリカの奴隷としてこの城内で生活をしている。基本的に低姿勢で丁寧な態度を保つ少年だったが、どこか得体の知れないほの暗さを漂わせることがあるのもまた事実だった。カナンの生い立ちを思い浮かべながら、ウォルテールは眉根を寄せる。
(別に不都合はないどころか、ジェスタにしてみれば願ったり叶ったり、か)
そこまで考えて、ウォルテールは慌てて頭を振った。突拍子のない愚考である。
(……馬鹿馬鹿しい)
ぐいと紅茶を呷る。まだ熱い液体が口内に流れ込み、ウォルテールは体を折って悶絶した。
「ああっ! ウォルテール様!」
アニナが悲鳴のような声で叫び、慌てて駆け寄ってくる。それに応じている間に、窓の外の少年少女は姿を消していた。
***
ヒリヒリする舌を口蓋に押し当てながら、ウォルテールは憮然とした顔で廊下を闊歩していた。舌を火傷したのは完全に自分のせいだが、まさか翌日になってまで常に気になるものだとは知らなかった。気分が悪い。
(味もよく分からないし)
口の中でもごもごと舌を動かしながら、ウォルテールは鼻を鳴らした。
冬に入り、寒さは厳しく、外を歩く人影はない。ウォルテールも例に漏れず、足早に渡り廊下を抜けて室内へ逃げ込もうとしていた。体を温めるようにきつく腕を組み、白い息を吐きながら大股で歩く。
(たまったもんじゃない寒さだな。近道でもするか)
ウォルテールは虚空を睨みつけ、常ならばまず選ぶことのない選択に踏み切った。通路を外れ、使用されていない大広間の方へ向かう。
城内で生活する人間の間では周知の事実である。大広間を通ると城の反対側に行くのに一直線だ。とはいえ、まさか大広間を堂々と突っ切る阿呆はいない。誰もが思いつくが、誰も使わない抜け道。それが、かの絢爛豪華な大広間であった。
大広間と庭を繋ぐガラス戸をそっと開け、ウォルテールは静かな空間へと体を滑り込ませた。火の気のない大広間は決して暖かくはなく、天井のシャンデリアも灯されていないためどうにも薄暗い。が、風をしのげるだけでも外に比べれば立派である。
足音を忍ばせ、ウォルテールは壁際を通って反対側の扉を目指した。
並び立つ柱の後ろを通っていたウォルテールは、ふと話し声を聞き咎めて足を止めた。どこから聞こえる声だろう、と首を巡らせる。声はどうやら頭上から降ってきているようだった。壁から少し距離を置いた位置に並ぶ柱が支えるのは、大広間を見下ろすことの出来る二階部分である。どうやらそこに誰かいるらしい。
「――良いですか、あともう一度しか言いませんからね」
それは、静かで柔らかい声音だった。涼やかな話しぶりには聞き覚えがある。しゃらりと鈴が鳴った。
「昨晩ご挨拶を申し上げたのでお分かりとは思いますが、これが最後ですよ」
姿は見えずとも、声だけで分かる。少年は明らかに笑みを湛えている。ウォルテールはようやくその姿を見つけた。相手を手すりに追い詰め、艶然と微笑む黒髪の少年。手すりに置かれた片手は、楽しげにとんとんと桟を指先で叩いている。
そして、カナンは低い声で吐き捨てた。
「――――あの人から手を引け。今すぐにだ」
ウォルテールは声を出さないまま、大きく目を見開いた。その頬には笑みを留めたまま、カナンは相手を鋭い眼差しで見据える。
「返答は後で聞きましょうか。そうだな……今夜にでも」
どこまでも慇懃な態度だった。カナンは一礼すると、そのまま踵を返して歩き出した。ウォルテールは慌てて柱の陰に身を隠す。
(どういうことだ? カナンは一体誰と話をしていた……?)
足音が遠ざかってから、ウォルテールはそっと身を乗り出して頭上を見上げる。そうして、ウォルテールはそこにいた人物を見つけた。
手すりに両肘をついたまま項垂れる青年。その顔は乱れた金髪によって覆い隠され、憔悴しきった様子は明らかである。彼は酷く苦しげな顔をしていた。
息を飲んだのは果たしてどちらだったろう。
「イリージオ……?」
声をかけると、彼は目を見開き、ばっと身を引く。イリージオは蒼白な顔をして、その場でよろめいた。ウォルテールは柱の陰から歩み出て、二階の手すりの側で立ち竦むイリージオを仰ぎ見る。
「どうしたんだ、イリージオ。今のは一体……」
「み、見なかったことにしてください……!」
イリージオは首を振り、ウォルテールを拒むように両手を前に出した。ウォルテールが言葉を選ぶ間に、彼はそのまま後ずさりする。
「……待て、イリージオ! 困っていることがあるなら、」
ウォルテールの呼びかけに対し、イリージオはまるで悲鳴のように応じた。
「教官には関係ありません!」
その一言のみを残して、イリージオはその場から走り去ってしまった。一人取り残されたウォルテールは、呆気に取られたまま瞬きを繰り返す。走ってもいないのに息が切れていた。胸を上下させて息をしながら、ウォルテールは強く拳を握り締める。
(……この帝都では、何かが起こっている)
オルディウスが死んだ。子供が消えた。――カナンとイリージオの間には何かがある。次に狙われるのは誰だ。
(考えろ、ロウダン・ウォルテール……。一体、何が、起こっているんだ)
しかしウォルテールには、分かっていないことが多すぎた。明らかに情報が欠如している。どれほど頭を悩ませても、結論は出なかった。
となれば、何かしら動かねばならないのである。
(『今夜にでも』か……)
ウォルテールは腕組みをした。数秒間そこで立ち尽くし、そして彼は素早く歩き出した。




