火花
年が明けてしばらくすれば、新年の頃の悪天候が嘘のような晴天続きだった。明るい陽射しに目を細めながら、エウラリカは城の横腹に位置する裏口へと歩を進める。
ジェスタへ出発する期日は思ったより早く訪れた。まだどこか地に足がつかないような心持ちである。
ジェスタ側の心象を鑑みて、帝国の兵を大勢引き連れての旅路は見合わせることとなった。エウラリカとカナンの両人が正式に他国を訪問するにしては、驚くほど少ない人員といえよう。
それでも用意された馬車は立派なもので、目立った華やかさはないものの頑丈そうな造りをしている。エウラリカは腰に手を当てながら、着々と出発の準備が整いつつある車寄せを階段の上から覗き込んだ。
「本当ならウォルテール将軍に采配を頼みたかったのですが、何やらご都合が合わない様子で」
隣で、ユインが申し訳なさそうに首を竦める。有言実行というべきか、いつの間にか諸々の手配はユインが済ませてしまい、エウラリカはほとんど介入できなかった。
「ウォルテールは他の遠征が入っている訳でもないはずよね。何か差し支えでもあったのかしら」
「ちょうど年が明けた直後あたりに声をかけたのですが、珍しく強い口調で断られてしまい、無理強いするのも気が引けて……」
ユインも不思議そうな表情である。エウラリカは腕を組んで思案する。そういえば確かに、ここ最近はウォルテールの姿を見ていない。元から用もないのに顔を合わせる仲でもなし、さして気にもしていなかったが……。
「それに、流石にジェスタへ向かうのにウォルテール将軍を派遣するのは流石によろしくないですもんね」
「そうね。わざわざ逆なでする必要はないわ」
ウォルテールはジェスタにとって直接の仇である。連れて行くのは憚られるし、カナンがウォルテールと親しくしている様子を見せつければカナンの立場にとっても良くない。
他の将軍位の人間を任じて箔をつけたかったそうだが、ウォルテール以外の将軍となると、帝国圏外での振る舞いに懸念がある。
そういう訳で、元々はウォルテールの下にいたという隊長が、此度の護衛を指揮する手筈になっているらしい。
あらかじめ説明されていた内容を思い返しながら、エウラリカは長いため息をついた。
「でも、見送りにくらいは来ると思ってたわ」
何となく面白くないような気分がして、エウラリカは腕を組んだ。今にも出発しようという段階になっても、ウォルテールの影はどこにもない。
と、生真面目な歩調でこちらへ近づいてくる姿がある。
「失礼致します」ときっちり一礼して、男はこちらへ向き直った。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。今回のご訪問の護衛を務めさせて頂く、ガーロットと申します」
軍属にしてはそれほど大柄ではない。ちょうどカナンと同じくらいの上背だろうか? 短く刈り込まれた髪や、背筋の伸びた立ち姿からは、確かにウォルテールに似た誠実さを感じさせた。
「準備は調っているのか」
ユインが気楽な口調で声をかける。どうやら以前から知り合いであるらしい。
「はい、ほぼ完了しております。すぐにでも出発できる状態ですが、……総督閣下はどちらに?」
「朝方に急ぎの来客があったとかで、少し遅れると言っていたわ。もうじき来るはずよ」
承知しました、と頷いて、ガーロットがユインに視線を向ける。
ユインは冗談めかした口調で告げた。
「姉上と閣下を、命に替えてもお守りするんだぞ」
「……心得ております、陛下」
目礼して応えたガーロットに頷きながら、エウラリカは視線を動かしてカナンを探す。まだかしら、と唇を尖らせたとき、角を曲がってこちらへ歩いてくる姿が見えた。
「エウラリカ」
急ぎ足で近づいてきたカナンが、心持ち息を弾ませながら隣で足を止める。
「すみません、遅れて」
「それほど待っていないわ」
エウラリカは首を振った。ばつが悪そうに苦笑して、カナンは見慣れないガーロットに目を移す。ガーロットが先程同様に一礼して名乗ると、彼はすぐに合点したように頷いた。
「いつでも出発できる状態です」
ガーロットが言うと、カナンは何やら馬車の方を指さして、確認したいことがあるらしい。カナンとガーロットが並んで馬車の方へ歩いて行く。
様々な搬入にも使われる裏口には、円周の大きな車止めが設けられている。開口部は南東向きで、朝日がちょうど射し込むかたちである。正午まであと数刻ほどある時間帯、広い裏口はちょうど半ばまでが日向で、奥まったこちら側は対照的に濃い影に包まれている。
忙しそうに動いている人影の数々を視界に入れながら、エウラリカはカナンに目を向けた。
軍人であるガーロットに合わせて大股で歩いているカナンの後ろ姿を眺める。彼が影から日の当たる場所へ歩み出した一瞬だけ、その背中が白く眩んだ。
カナンを追って馬車のある地階へ降りるため、階段へ足を向けようとした矢先のことだった。
「姉上」
そっと腕を取られて、立ち止まる。「なに」と振り返った先で、ユインは薄らと微笑んで立っていた。手を伸ばしてエウラリカの肘を捕まえたまま、口元に笑みを浮かべて黙っている。
「なに?」
多少の苛立ちを込めてもう一度訊くと、ユインは一歩こちらへ歩み寄ってきた。
――距離が近づいて、顔に影が落ちた瞬間、そういえば相手が、本当には弟ではないことを思い出した。
その父の面影を宿した姿で、一滴たりとも血の繋がらない義弟がこちらを見下ろしている。
(私たちは姉弟じゃないし、姉弟として育ったわけでもない)
当たり前のことのはずなのに、ふと忘れてしまいそうになるのはどうしてか。だってユインがあんまり自然にするりとこちらの懐に入ってくるから。
こんなにたくさんの人がいるのに、柱の陰を覗き込む者は誰もいないらしい。
「愛してます、エウラリカさん、」
腰を折って身を屈めて、頬を何か熱いものが掠める。
「……僕が死ぬまでずっとね」
至近距離でこちらを見据えた視線に、迫り来るような熱は感じられなかった。ユインは静かな眼差しで微笑んでいる。
「いってらっしゃい。どうぞお幸せに」
恭しい手つきで腕を放して、ユインは何事もなかったように下がった。エウラリカは困惑の色を浮かべて頬に手を当て、ユインを軽く睨む。
「いまの、何のつもりで、」
「あ、閣下が待ってますよ、あそこ」
が、ユインは普段通りの笑顔で階下を指さし、あまつさえ大きく手を振って合図までしている。言われた方向を見れば、カナンが何やら怪訝そうな表情でこちらを見上げていた。
「今行きますね!」と大声で呼びかけて、ユインが軽い歩調で階段を降りてゆく。動けずにいるエウラリカを階段の下で振り返り、彼は他意のなさそうな素振りで首を傾げた。
「どうしたんですか、姉上?」
呆れたようなふりをして、ユインが苦笑する。
先程の、空恐ろしいような気配が嘘のように気楽な態度だった。その表情が、つい数秒前のことは存在しなかったのだと言外に語っている。
「ほら、早くしないと閣下に置いて行かれちゃいますよ」
弾けるような笑顔を浮かべたその顔に、光が当たる。
「……そうね」
頷いて応えると、ユインは『それで良い』とでも言いたげに笑みを深めた。
***
帝都を出発した十三日後、新ドルト帝国東部ウディル州のアトラル地方、海沿いの街道にて、エウラリカとカナンを乗せた馬車が襲撃された。
賊から逃れるべく街道を逸れた馬車は、岩場に車輪を取られ、大きく体勢を崩して岸壁から落下。現場は地元でも有名な急崖であり、高い位置から岩礁に打ち付けられた馬車は大破、既にいくつかの破片を残すのみだった。
不幸にも犯行は薄暮時に行われ、事態を聞きつけた近隣の街の警備隊が到着したときには、辺りは既に暗くなっていた。大規模な捜索は翌朝まで待つことを余儀なくされ、対応は後手に回らざるを得なかった。
馬車に乗っていたはずの第一王女と総督は、ともに波に巻かれて行方不明となっている。
入り組んだ海岸線から、事故が起こった現場の波は非常に荒く、不規則な挙動をすると言い習わされていた。
万が一にも人間が崖から落下すれば、生存は絶望的である、と。
「――多くの兵を動員して捜索に当たっておりますが、現状で発見されている手がかりは、離れた海岸に漂着していた、こちらの衣服のみです」
抑えた口調で奏上した州知事を見下ろし、ユインは口元に笑みを浮かべるのを堪えて頷いた。
差し出された布地の色は、確かにカナンが時折羽織っていた上着のそれである。
「襲撃犯の行方は掴めているのか」
「現場から逃走しようとする男を数人捕縛しましたが、計画の詳細については知らされていない手下のようでした。他の犯人に関しても、信頼の置ける数名の部下に行方を追わせております」
吊り目がちで、どこか狐を思わせる細面の女だ。一筋たりとも額から落ちないよう、黒髪をきっちりと一つに束ねて、片膝をついたまま目を伏せている。
「ウディル州にてこのような事件が起こったのは、ひとえに私の責任でございます。何なりと差配を、陛下」
挑戦的な眼差しで、ネティヤはこちらを見上げた。玉座でゆっくりと足を組んで、頬杖をついて、彼はその視線を受け止める。
「……処罰には及ばない」
出方を窺うように息を潜めていた重鎮たちが、一斉に耳をそばだてるのが分かった。
「むしろ、僥倖であったと言うべきかもしれない。厄介なのが二人揃って封じられたと思えば、その襲撃犯らに褒賞を取らせたいくらいだ……ああもちろん、法が許せばね?」
喉の奥で笑いながら言うと、ざわめきが広がる。ユインは頬を緩ませて、一同をぐるりと見回した。
見定めようとするような、人を人とも思わないような視線の数々である。声が聞こえなくとも、彼らが何を考えているかは手に取るように分かる――こいつをどう御してやろう、こいつは自分に利するだろうか、こいつに取り入るにはどうすれば良い?
冷え冷えとして、それでいて絡みつくような、不快な感触だった。
「捜索は打ち止めでも構わないと思っているが、どう思う」
眼前、ただ一人玉座の前で矢面に立っているネティヤは黒い瞳を瞬いて、薄く唇を開いた。
「生きていようといまいと、お二方の消息を追究する必要はあるかと」
ユインは一度だけ、肘掛けの固いところを指先で打った。音は天井に木霊して、周囲を圧するように響く。口を噤んだネティヤを見下ろして、ユインは目を細めた。
「そういえばお前は、姉上の強権で州知事になったのだったな」
「現在に至るまで、市民たちから不満の声は出ておりません。……とやかく仰るのはいつも、ウディルに縁のない帝都の皆様方ばかりです」
眉一つ動かすことなく、ネティヤははっきりとした口調で言い切った。不遜さに眉をしかめる帝国貴族たちの中で、彼女は真っ直ぐに額を上げてこちらを見ている。
この程度の物言い、別に癇に障ることはないが、もう少し突いてみたくもなる。
「本来なら内通に加担した罪で他の売国奴とともに流刑地にいるはずなのに、姉上に取り入って随分とうまくやったものだな」
「お言葉ですが、私は一度として売国に手を貸したことはございません。もちろん、騙されていた私自身にすべての責任がございます。しかし私は常に、故郷であるウディルのことを、帝国のことを第一に考えております」
決して声高に語る訳ではない。むしろ低く潜められたような声音なのに、どういう訳か周りを圧するような気配を持つ女である。
人前でいたぶるのはこの辺りでやめておくとして、ユインはゆっくりと玉座で足を組んだ。
「――余は、新ドルト帝国皇帝である」
声を発して、少しだけ、言葉尻が揺れた。耳聡く気づいたらしいネティヤが、ぴくりと片眉を動かす。
「帝国を第一に考えるのなら、余の命を最優先できるな、ネティヤ」
「陛下が命じられるのであらば、私はどのような御下知であろうと従いましょう」
糸のように目を細めて、ネティヤが滑らかに応えた。
「それでは、私の部下には陛下の仰せの通りに伝えさせていただきます。総督閣下と内親王殿下の捜索は不要である、と」
深々と頭を下げた州知事を見下ろし、ユインは頬を吊り上げる。
その場にいる全員に聞こえるように言い放つ。
「捜索がされようとされなかろうと、どうせ生きてはいまい。この話はこれで終いだ」
顔を見合わせて一斉に囁きだした議員たちを見下ろしながら、組んでいた足を戻して、彼は少しだけ微笑んだ。
「――帝都に帰ってくるべきじゃなかったって、ちゃんと言ったでしょ、姉上」
誰にも聞こえない声で囁いて、頬杖をつく。
***
早咲きの花が枝の先に開いている。蝶が生け垣の上をゆっくりと上下しながら庭園を横切ってゆく。以前にユインから聞いていた通り、確かに景観の優れた庭である。
が、とてもではないが景色を楽しむ気分にはなれそうにない。
「――それで、そろそろここがどこで、どういうつもりなのか聞かせて頂いても良いかしら、ガーロット」
あとほんの僅かにでも刺激したら破裂しそうなほどの剣幕で、エウラリカが低い声を出す。
「ここは、ハルジェル郊外に位置する南の離宮です」
ガーロットは硬い口調で要領の得ない答えを返した。エウラリカの苛立ちがなお一層増すのが、隣にいても分かる。
「どういうつもりで、行き先を勝手に変更し、ジェスタではなくこの離宮に私たちを連行したのかと聞いているのよ」
拳で机を叩き、エウラリカが珍しく声を荒げた。ガーロットは答えづらそうに言い淀み、それから口を開く。
「皇帝陛下より、言伝を預かっております」
そう言って、懐から折り畳まれた紙を取り出す。どちらに手渡すかを迷う素振りを見せたガーロットに手を差し出すと、彼は素直に紙を受け渡した。
合図をすると、生真面目に一礼して部屋を出て行く。
ガーロットの足音が聞こえなくなってから、カナンは無言で紙を開き、やや尻上がりの文字列に視線を落とした。
『申し訳ありませんが、僕の成人まで離宮にいてもらいます。姉上が憤慨している様子が目に浮かびます。ですが、僕がこの座にいる限り、お二人を二度と帝都に入れるつもりはありません』
ユインの声が脳裏に浮かぶようだった。エウラリカが、ぎり、と奥歯を噛みしめる。
『お二人は死んだことにしておいてあげます。どこか、僕の知らない遠くで幸せに暮らしている分には、これ以上なにもしませんからね』
脅しとも取れるような文言に、エウラリカは唇の端を歪めて笑った。
『それでは、もう二度と会わないでしょうが、お元気で』
カナンの手からもぎ取った紙を、彼女は強く握り締めた。食いしばった歯の隙間から、唸るように吐き捨てる。
「上等じゃない、弟の分際で……」
エウラリカがユインを弟と呼ぶのは、初めてだった。その横顔を見る限り、ユインの企みを受容する気は一切ないらしい。
カナンは立ち上がり、窓に歩み寄ってカーテンを端に寄せた。
庭には少々不自然な人数の衛兵の姿が見え隠れしており、少しの間外を見ていただけで、彼らはすぐさまこちらに注意を向ける。
「なるほど」とカナンは呟いて、くるりとエウラリカを振り返った。
視線を向けた先で、エウラリカは足を組んで頬杖をついていた。
「脱走経路を見つけましょう。速やかにね」
その目には好戦的な光が宿っている。
本来なら、きっとこんなことを考えてはいけないのだろう。けれどカナンは、密かに体が震えるのを禁じえなかった。
鋭い眼差しで窓を睨む横顔は、やけに彼女に似つかわしいものに思えた。
区切りが悪くてすみません。
更新再開をしばらく(割と長めに見積もって)お待ち頂けると幸いです。更新再開後は一気に完結まで目指します。
いつもお読みいただきありがとうございます。




