婚約騒動4
現在帝都にいる手すきの将軍の一人に、レダスという男がいる。ウォルテールよりだいぶ年嵩の将軍で、今より更に若造の頃から世話になってきた元上司である。ウォルテールとしては全く頭の上がらない相手だった。
彼の部屋を訪問したウォルテールは、レダスから簡単な説明を聞く。東ユレミアでの衝突を援助するために派遣されるのはやはり彼だったらしい。
レダスは腕を組み、髭面をしかめて難しい顔をする。
「些か人員が足りなくてな。そういう訳で、お前に声をかけるようにと言っておいたんだが」
「なるほど。確かに動かそうと思えば動かせる兵はいますが」
ウォルテールは頷いた。確かにここ数年、ウォルテールは一切隊を動かしていないし、ほとんどが帝都の警備に当てられている。そこから人員を割くことは可能である……が。
「……ただ、今は、ちょうど別の話も同時に来ているのが困りもので」
歯切れ悪く呟くと、レダスは「そうなのか?」と眉をひそめた。どうやら警邏隊から話は上がってきていないらしい。
(いつの間に俺は帝都での事件捜査の担当になったんだ?)
ちなみにこうしたことは初めてではなかった。これまでにもちょくちょくウォルテールのところには、帝都での傷害事件の仲裁や、宮殿内での不審者騒ぎの原因究明などの話が持ち込まれてきた。どう考えても雑用係である。
と、ここで文句を垂れても仕方ない。ウォルテールは咳払いをし、それから経緯を説明した。帝都で子どもが相次いで姿を消す事案が発生しており、その調査を依頼されている、と。
「そういう訳で、兵をそちらに派遣するのはもう少し待っていただけないでしょうか。もちろん、この件が片付いてから、すぐに辞令を出すつもりです」
「なるほど。そういうことなら仕方あるまい」
レダスは鷹揚に頷き、にっと歯を見せて笑った。「東ユレミアのためにも、帝都の子どもたちのためにも、ぜひ素早い解決を頼むぞ」と、どこかからかうような表情である。ウォルテールが反応に窮して黙り込むと、レダスはくいと眉を上げた。
「ま、この程度の事件、名探偵のウォルテール将軍にかかればあっという間だろ?」
「はいっ!?」
意味が分からなすぎて声が裏返った。この男は何を言っているんだ? 顔を引きつらせて絶句するウォルテールに、レダスは声を上げて笑った。ウォルテールは苦虫を噛みつぶしたような顔で首を振る。
「……俺は別に、特に何かしている訳ではありません。ただ、職務を」
「そう謙遜しなくたって良い。ほら、数年前のラダーム様のときも凄かったじゃないか。その日のうちに大臣を捕縛するところまで行くとは、誰もが驚いたものだ」
いきなり話題に出された名前に、ウォルテールはぎくりと体を強ばらせる。表向き、あの件は自分が犯人を見つけ出し、その不正の証拠までもを見つけ、事件を解決した……とされている。が、ウォルテールにとってあれは苦い思い出の象徴だった。
――不意に意識が二年半ほど昔、ラダームの部屋でのことに引き戻される。
部屋の主は既に殺され、冷えた部屋には夕陽ばかりが射し込んでいた。ウォルテールに相対するその女はぞっとするほどに美しく、ゆったりと目を細めて微笑んだ。少女の甘やかな囁き声が耳の奥をくすぐる。
『好奇心は猫をも殺すわ』。『世の中には公にする必要のないこともあるのよ』。『ねえ、ウォルテール』、『どうか無粋なことはしないでね』。
そう言って、エウラリカが笑うのだ。
(……俺は結局、何も分からなかった)
ウォルテールは唇を噛む。拳を固く固く握りしめ、呻くように応じた。
「――あの件に関しては、俺は何もしていません」
しかしレダスはそれを謙遜ととったらしい。「流石、若くして将軍となった人間は違うな」とご満悦である。
どうにもやりきれない思いだった。
レダスの部屋を辞し、ウォルテールはあてもなく城内をうろついていた。考えることが多くなると、ウォルテールはいつもこうして何かから逃げるように宮殿を歩いている。何から、どこへ、どうして逃げたいのか、それは自分でも分かっていない。
ウォルテールは、今日になっていきなり浮上した事案を思い返す。
一つ目は、東ユレミア州に関して。
それは、二十年と少しほど前までユレミア王国の東、肥沃な農業地帯を担っていた土地である。現在は新ドルト帝国の西端に位置する植民地となっているが、帝国の抱える植民地の中でもとりわけ抵抗運動の激しい地域の一つだった。
新ドルト帝国の西に位置するユレミア王国、すなわち大陸の中でも帝国に比肩する王国との戦の果てに得た土地だ。どちらも大国ということもあって、戦争は長引き、苛烈を極めたという。
その頃はウォルテールもまだ訳も分からぬ幼子だったが、軍に入ってから上官らから繰り返し聞かされた話だった。
そうした事情もあって、ユレミア王国が表立って東ユレミア州の返還を要求することはない。が、東ユレミア州で現地の住民が繰り広げる運動の背後に、ユレミア王家がついていることは明白だった。厄介な話である。
この件に関してはレダスが請け負うと言っていた。
(ユレミア王国が関与しているという証拠を掴めれば、せめてもの牽制になるんだが)
そうもいかないのが現実というものである。ウォルテールはため息をついた。
対するもう一つの事案と言えば、帝都で子どもが行方不明になっているというもの。恐らくウォルテールのところにお鉢が回ってくるのだろう、どうせ。
帝都全域では軍の下位組織である警邏隊が見回りを行っており、武器の購入に対する制限などもあって、治安はわりかし良い方である。……と少なくともウォルテールは思っている。
(子どもが……誘拐されているのだろうか?)
ウォルテールは庭園を見渡しながら思考を巡らせる。ここ十数年で帝都は更に人口を増し、古くからある大きな屋敷を除く住宅地は混沌と化していた。集合住宅は増築に次ぐ増築で見上げんばかりの高さとなっているし、ここ最近は建物の安全面や衛生面での問題が浮上しつつある。
警邏の目が行き届くところばかりではない。しかし、帝都において、人目につかない場所など存在しないも等しかった。……子どもを無理に誘拐していたとすれば、それが誰にも目撃されないはずがないのだ。
(調べれば何かしら出てきそうだな)
ウォルテールは帝都の地図をざっと思い浮かべ、長い息を吐く。帝国の内外では常に騒動が絶えない。
気がつけば、足は昼間に訪れた庭園に向いていた。イリージオとエウラリカが共に歩いていた庭園だ。まさかあの逢瀬が偶然のものであると信じるほど、ウォルテールは阿呆ではない。恐らくは、エウラリカに気取られぬように仕組まれた顔合わせなのだろう。
(イリージオ……一体どうして)
ウォルテールが難しい顔で息をついた、直後、バラの茂みの中に置かれたベンチの上で項垂れる人影を見つける。その姿を見咎めて、ウォルテールは目を見開いた。
「イリージオ、」
思わず声をかければ、彼はゆっくりと顔を上げた。さらりと前髪が額にかかる。いかにも疲れたような表情では色男も形無しである。そして何より目を引くのは、彼の左頬に刻まれた、真新しい青痣だった。
ウォルテールは唇を引き結んで彼を注視した。しかし彼は、ウォルテールと目が合った途端ににこりと微笑む。
「どうも、教官。調子はいかがですか?」
「それはこっちの台詞だ」
人好きのする柔らかい笑みで出迎えたイリージオを叱りつけるように、ウォルテールは眉根を寄せた。有無を言わさずにその隣に腰掛ける。
「……その頬は?」
「ちょっと恨みを買ったので」
イリージオは訳ないことのように告げた。さもふて腐れたように両手の指を絡ませ、唇を尖らせる。頬にあるのは明らかな打撲痕で、痛々しい色をしていた。それを眺めて険しい顔をするウォルテールに、イリージオはへらりと笑う。
「まあ、そんな話良いじゃないですか、もっと別の話題にしましょうよ。ね、教官! そうだなぁ、あ、聞きました? 来年、南の方のハルジェール領が帝国に組み入れられてからちょうど二百年」
「分かった。話題を変えよう」
ぺらぺらと早口で語り出したイリージオの言葉を遮り、ウォルテールは鋭い眼光で彼を見据えた。イリージオは幾分かその笑みを消し、ウォルテールの視線を黙って受け止める。
「――なあ、イリージオ。お前の大切な恋人はどうしたんだ?」
「……参ったな、話題が変わってない」
ひょいと肩を竦め、イリージオは片手で頭をかきむしった。その表情からは先程までのにこやかさは消え失せ、苦々しく顔をしかめて舌打ちさえしかねない。
「別れましたよ。まったく、そのせいで彼女の兄に酷く殴られた」
「エウラリカ様と連れ添うためにか?」
ウォルテールが間髪入れずに問うと、イリージオは一瞬驚いたように目を丸くした。「それをどこで?」と呟くイリージオに、ウォルテールは庭園で会った女の特徴を伝える。イリージオは小さく頷いた。
「ネティヤさんかな。俺あの人ちょっと苦手なんですよね、何かちょっと怖いっていうか、恨みがましいというか」
「あの女には興味はない」
ウォルテールはばっさりと切り捨て、イリージオに向き直る。イリージオは青い目を瞬かせ、ウォルテールを見返した。
「どうしてエウラリカ様との婚約を受け入れたんだ。……それは、本当にお前の意思なのか?」
真っ直ぐにウォルテールの目の奥を見据えるイリージオの眼差しが、一瞬だけ揺らめいた。不思議な色を湛えたイリージオの双眸が、ふと硬くなる。
「ええ、はい。もちろんです」
イリージオは口元に薄らと笑みを浮かべてそう答えた。一切の躊躇いのない返答だった。
「逆に、エウラリカ様との婚姻を拒む男がこの国にいますか? いくら性格に難があるとは言えど、エウラリカ様はこの国で最も尊い血筋のお方です。それに、他の何者も比肩せぬほどの美姫だ。栄誉も地位も金も美しい姫もこの手に入るというのに、何を悩む必要がありますか」
ウォルテールは声もなくイリージオを見つめた。イリージオは笑顔を崩さない。
「欲のない教官には分からないかもしれませんが」
「ああ、さっぱり分からないな」
肩を竦め、頭を振り、ウォルテールは苦々しく吐き捨てた。その返答に、イリージオは一瞬だけ目を伏せて笑みを深めた。
「それなら、俺たちは考えが合わないってことです。それだけのことです。でも決裂するには十分だ」
訳の分からないことを言いながら、イリージオは不意に立ち上がった。体を捻って振り返り、ウォルテールを一瞥する。やけに冷え冷えとした視線に、ウォルテールは思わず息を止めた。
「――金輪際、俺に関わらないでください。きっとこれから俺に擦り寄ってくる連中も増えるでしょうし、俺とてそうした奴らとあなたを一緒にしたくないんです」
「は? お前、一体何を言って」
顔を顰めて腰を浮かせかけたウォルテールを、イリージオは鋭く睥睨した。その視線の険しさに、ウォルテールは口をつぐむ。
「大体、いつまでも教官面されるの、鬱陶しいんですよね」とイリージオは目を眇めた。
「俺はもう自分のことは自分で出来ます。あなたの干渉は受けません」
何を言っているんだ、と、ウォルテールは絶句する。訓練期間が終わってもずっと教官と呼んで、よく懐いてくれていたのは、お前の方じゃないか。開いた口の塞がらないまま、ウォルテールは立ち尽くした。
「――それではご機嫌よう、『ウォルテール将軍』」
額に落ちた金髪を片手で払いのけ、胸に手を当て、一礼し、イリージオは頑なな声で告げる。そしてウォルテールが何かを言うより早く踵を返し、立ち去ってしまう。
「待て、イリージオ!」
彼がウォルテールの呼びかけに振り向くことはなく、応えるのは足下で水面のごとく蠢く枯葉の層ばかりである。まるで悪夢のようだった。訳が分からない。筋が通らない。体が思うように動かない。
心臓の音ばかりがうるさかった。薄寒いような心地を抱えて、冷たい風に頬を嬲られるがままにして、ウォルテールは声もなく、誰もいない庭園に取り残されていた。




