遠雷
成り行きを説明すると、リンフィは目をぱちくりさせて「わたくし、決して驚きは致しませんが」と頬に手を当てた。
「ゼス=カナンがエウラリカ様とご結婚なさることで、ジェスタの民がどのように反応するかと思うと、少々不安に思うところではございます」
憂い顔になったリンフィに、エウラリカはちらと傍らのカナンを見た。真剣な表情で唇を引き結んだ横顔を眺めて、一度瞬きをする。
「理解してもらうためなら何でもする覚悟はある」
カナンの『何でもする』が文字通りの意味なのは知っていた。エウラリカは目を伏せて少し沈黙する。
「私も力を尽くすつもりよ」
口を挟むと、カナンが「はい」と微笑む。その顔を思わず凝視してしまうが、カナンは何も気づかなかったらしい。
視線を前に戻して、丁寧な口調で告げる。
「そういう訳だから、先日の申し出はここで正式に断らせて頂く」
「承知しました」
リンフィは案外とあっけらかんとした態度で頷いた。
「……このことは、ウーナさんに伝えてもよろしくて?」
「ああ、それはもちろん。俺の方からもジェスタに手紙を出すつもりだ」
横で会話を聞きながら、エウラリカは肘掛けに腕を置く。
(何だか、現実味がないみたい)
自分の決断が鈍ることはないと思っているし、納得もしている。けれど何だか色々なことが立て続けに起こっているような気がして、心が追いつかない。
窓の外に目をやれば、珍しく雪が舞っていた。道理で寒いわけだ、と息をつく。
「あ、そういえば」とリンフィが手を合わせた。
「少し早くはございますが、お二人にこちらをお贈りしようかと思って、持って参りました」
そう言って取り出したのは、手のひらに収まるような小さな箱である。どことなく見覚えのある形に、エウラリカは目を細めた。
「アクォアーネ」とカナンが呟く。それでリンフィの持つ箱の正体が思い出されて、エウラリカはひょいと眉を上げた。
(ジェスタで新年に食べられる伝統菓子)
横目で見ると、カナンは懐かしげに頬を緩めてリンフィから箱を受け取っている。
「本当は、慣例通り年が明けてからお渡ししたかったのですが、もうじき領地の方に戻ろうかと思っておりまして、近日中に帝都を離れる予定なので」
「ああ、なるほど……」
「帝都でも入手はできますが、あまり広く出回っているものではございませんから、なかなか珍しいかと思ったんです」
(そういえば、カナンが来た最初の年だけは用意してやったけど、以降はそこまで気が回らなかった)
考えるにつけ、自分がカナンとジェスタを引き離したことが思い出される。思わず暗い気分になって、エウラリカは目を伏せた。
それくらい気を遣ってやれば良かったと思うのは、あの頃よりカナンの存在がうんと大きくなっているからだろう。
どうしようもなく切迫していた、幼さゆえの視野の狭さで走り続けていたあの頃の自分に言い聞かせたって、聞き入れやしまい。
「こちらは、エウラリカ様に」
「ありがとう」
リンフィが笑顔で差し出してくる箱を受け取る。口では普段通りに受け答えしつつ、態度はつっけんどんになってしまった。リンフィはその様子に目敏く気づいて、「どうかなさいましたか?」と心配そうに首を傾げる。
八つ当たりをした狭量さを突きつけられた気がして、エウラリカは自然と耳朶を赤くしていた。
「何でもないわ」
かぶりを振って、エウラリカは手に乗っている箱を見下ろす。……こんな、ほんの小さな箱に入った菓子ひとつでカナンは笑うのだ。カナンは、たったそれだけのことすら用意してやれない自分の隣にいてくれている。
言葉にならない感情が膨れ上がり、エウラリカは息を詰めた。
「お二人の来年が、良い年でありますように」
リンフィが微笑む。その言葉を素直に受け取れない自分が嫌になる。
部屋を出る直前、リンフィは深々と一礼してからこちらを見た。何が契機だったのかは分からないが、随分と顔色が明るくなったようだ。
「エウラリカ様、色々と相談に乗ってくださってありがとうございました」
「私? 私は何もしていないじゃない」
困惑して目を丸くすると、「そういうところですわ」とリンフィは苦笑した。
「ジェスタに行ったら、わたくしからも言っておきますね。エウラリカ様は素敵な方だったって」
そんなの大嘘である。エウラリカが言葉を選んでいるのをよそに、リンフィは軽い足取りで部屋を辞してしまった。
ぱたんと閉じた扉を見つめて「あ……」と声を漏らすと、カナンが怪訝そうにこちらを見る。
「なにか言っておくべきことでも?」
首を左右に振って、エウラリカは頬杖をついた。
「……私が良い人に見えるなら、それはあの子が私のことを知らないからだわ」
自嘲を込めて呟く。カナンは少しの間、真意を量るように黙っていた。瞬きを繰り返すその視線が妙に気詰まりで、エウラリカは緊張気味に唇を引き結ぶ。
「そうかもしれませんね」
ややあって、カナンはそれだけ応えた。また少し間を置いて、淡く微笑む。
「でも、彼女にはあなたが良い人に見えていたんです。なら、それも紛れもなくあなたの側面のひとつということでしょう」
優しい声音で、カナンが告げる。うっかり身を委ねたくなるような甘美な言葉であった。
エウラリカは上目遣いで三秒ほどカナンを見据えた。多分、私は、あなたがそう言ってくれるのを待って弱音を吐いたのだ。カナンはそれを見越して求めている答えを返してくれた。
まさしく甘えである。
「……まだまだね、私」
ため息をついて、エウラリカは目の前の箱を一瞥した。カナンが手にしているものと同じ代物だ。
年が明けるまでは、あと数日ある。
(今から準備して間に合うかしら)
リンフィに対する対抗心を抱いている自分に気づいて、エウラリカはますます大きなため息をつく。――自分にこんな一面があったなんて知らなかった。
***
誰も彼もが新年で休みを取っているらしい。いつになくしんと静まりかえった城内を歩きながら、カナンは昨日のエウラリカの様子を思い出していた。
いつになく歯切れの悪い様子で、明日部屋に来るようにと言われたのである。
(何か怒られるようなことはあったかな……)
頑張って思い起こせば、思い当たる節は多分にある。が、どれも呼び出されるほどのこととは思えない。
新年にもかかわらず天気はあいにくの雨で、正午を回った頃からしとしとと小雨が降り続いていた。頭上はまだほのかに明るい雲に覆われているが、空の端には黒々とした雨雲が広がりつつある。きっと夜にはもっと激しい雨になることだろう。
エウラリカの部屋の鍵は持っているが、持っていないことにしてある。もしかしてその件だろうか、と思いながら、カナンは扉を叩いた。
少しして、「開いているわ」とエウラリカの声が返ってくる。彼女の言う通り、扉は軽く押せば難なく開いた。
「何か用でもありましたか」
声をかけながら後ろ手に扉を閉じると、カナンは注意深く部屋の中に入った。エウラリカは本を閉じて置き、こちらを振り返る。
「大した用事じゃないのよ」と声音は柔らかかった。それで多少は安心して、カナンは大人しくエウラリカの向かいに腰かけた。
エウラリカは少しの間、目が合うことを避けるように顔を背けていた。が、ややあって意を決したように傍らの包みを取り上げる。
「渡しておくわ」
ぶっきらぼうな口調で鼻先に突きつけられて、カナンは面食らって仰け反りながらも包みを受け取った。これは……。
「これ、何ですか?」
形や大きさから正体は分かっていたが、珍しくエウラリカが耳を赤くしているのが面白くて、つい訊いてしまう。意地の悪い意図を見抜かれたか、むっと唇を引き結んだエウラリカがこちらを睨む。
言葉が見つからないように二、三回ほど口を開閉させて、それからエウラリカは鼻を鳴らして吐き捨てた。
「……お前が欲しがると思って、わざわざ用意してやったんじゃない」
「うん、ありがとうございます」
怒り顔と憎まれ口に相応しくない真っ赤な頬で、エウラリカが黙り込む。
「アクォアーネですね。老舗のだ」
「まあね」
当然のような口ぶりで肩を竦めるエウラリカを眺めながら、カナンは知らず知らずのうちに口元に笑みを浮かべていた。
リンフィからアクォアーネの話題が出た際に、彼女は何やら憂い顔をしていた。彼女なりに気にするところがあったらしい。
複雑そうな表情でエウラリカはこちらを見ている。居心地悪そうにしている彼女をしばらく観察してから、カナンは軽い口調で呼びかけた。
「食べさせてくれないんですか」
「はい?」
耳を疑うようにエウラリカが眉をひそめる。それから数秒おいて、口をあんぐりさせて絶句した。
呆れて物も言えないように口を開閉させ、エウラリカは困惑の色を強めてかぶりを振る。
「嫌よ、そんな……自分で食べなさい」
「そんな意地悪を言わなくたって」
甘えた声を出すと、エウラリカは苦々しい表情を作った。その口元に一抹の照れを感じ取って、カナンは腕を上げて手招きをする。
しばらく、……本当にしばらくの間たっぷりと逡巡してから、エウラリカは不慣れな仕草で箱を開いた。ぎこちなくも、紙で作られた箱を壊さないようにしようという気遣いが見られる手つきであった。
大変文句のありそうなエウラリカを膝の上へ横向きに座らせる。ここまで来てようやく腹が据わったらしい、彼女はつんと顎を上げた。
「ほら、口開けなさい」
言いながら、ちょっと躊躇って、エウラリカが指の節を添えて顎を上げさせる。抗うことなく顔を上向けて口を開くと、エウラリカは目を伏せて菓子を一つ、指先でつまみ上げた。
『……お前が良き流れに巡り会えるよう。お前が新たな智を見いだせるよう』
彼女の唇から紡がれるジェスタ語は、流暢だけれどどこか異国の響きをしていて、母語でない言葉を語るエウラリカの声は、普段より少しだけよそゆきの装いで高く響くのだ。
『お前に麗しき風が吹かんことを。お前に輝かしい栄光が降り注がんことを』
慈母のごとき威容で、エウラリカは柔らかい声で囁いた。そっと顔を寄せて、口元にその指先が近づく。知らなければ分からないような怯えと緊張感をもって、彼女の五指は宙に浮いていた。
薄く開いた唇のなかに、ほろりと粉砂糖が落ちる。大した甘さじゃないのに、まるで舌先が焼け付くようにさえ感じた。
『――お前の一年が、今年こそ良い年でありますように』
一口に収まる小さな菓子を口に放り込んだ彼女の親指が、一瞬だけ下唇を掠めた。
その感触に、思わず身体を揺らしてしまう。エウラリカは視線だけ動かしたが、特に何を言うでもなかった。
指先についた砂糖を見下ろして、エウラリカは目を伏せる。と、その腕がすいと持ち上がり、彼女自身の口元へと近づく。赤い舌が覗いて、親指の腹についた砂糖を控えめに舐め取る。
たったそれだけの仕草がやけに扇情的に思えるのは、見る目の邪か。
雨脚は強まり、窓一枚を隔てた先では地面へと雨粒が打ち付けられている。屋根の先から滴り落ちた水滴が、水溜まりへ落ちてはぽちゃんと水音を立てる。時に規則正しく、時に不規則に落ちる水音を聞いているうちに、腹の底に蠢くような焦れったさが蓄積しつつあった。
『あなたのこと、大切にしたいと思っているのよ。……ほんとうにね』
額を合わせるように頭をもたせかけて、エウラリカが呟く。その背に手を回しても、彼女はもう憎まれ口を利かなかった。
***
夜更けには、雨は豪雨と言っても良いような強さになった。
全ての窓を閉め切り、物音一つしない部屋を眺めながら、ウォルテールはひとり物思いに耽る。
天気さえ良ければ、新年を祝って通りには出店が並び、出歩く人も多くいただろう。しかしこの大雨では傘を差しても外に出る気は起きまい。
もっともこの雨音では、往来に人が歩いていようと足音や会話が聞こえるとも思えない。
東ユレミアに待たせていたアニナや、彼女を含む一隊は未だに帰還しなかった。当地に伝令が到着し、また一行が帝都へ来るまでの距離を思えば、殊更に不安になるほどの遅れではない。
けれど奇妙な胸騒ぎがずっと、後ろからひたひたと膨らみ続けている。
アニナを娶ったことを機に城内の官舎を出たのは、もう何年も前のことになる。帝都の邸宅を引き払って領地へ戻ろうという老夫婦から譲り受けた家で、造りも立地も良く、もう慣れた間取りのはずなのに、いかんともしがたい居心地の悪さがある。
アニナがいるときならいざ知らず、今はどうせウォルテール一人が寝泊まりして城と往復するだけの邸宅である。常駐の使用人は置かず、通いの料理人や家政婦だけを頼んでいる。夜には誰も残らない。
(他に家族がいれば違ったんだろうが……)
新年である日付を思い出して、ウォルテールは深々とため息をついた。
両親は既に隠居し、ウォルテール家は当初の予定通り次兄が継いだ。妹のクナエイアも領地へ戻り、もうじき帝都で出会った男の元へ嫁ぐのだという。
長兄は死んだ。未亡人となった義姉は、娘を抱いて生まれ故郷である東ユレミアへ帰った。弟はそれを追って西へ発った。
新年に一家が集まる、ウォルテール家の習わしは途絶えていた。
それに安堵している自分に気づいて、ウォルテールは安楽椅子に沈み込みながら再度ため息をつく。
(『総督の犬』になった俺を、皆はあまり良く思わないだろうから……)
ルージェンが処刑されるに至った経緯は、誰もが広く知るところだった。内通は大罪である。兄は長年にわたって帝国の金を横流しし、他国へ資金提供を続けていた。
ルージェンは帝国の司法の名の下に裁かれ、その地位の高さから尊厳をもって弔われたと聞いている。
その過程に、カナンの個人的な感情が介入していないことは、きっと両親だってきょうだいたちだって分かっているはずだ。それでもどうしても受け入れられない、わだかまりが残るのである。
ウォルテール自身も、これまで何も思わなかったわけではない。けれどカナンに与することは自分で選んだし、納得もしている。
他の家族が素直にカナンを憎めるのは、彼らが帝都から離れているからだろうし、不思議にも思わないし、特段苛立つこともない。しかし時折、ふと焦がれるような羨ましさと寂寥を感じることはある。
家族の輪からひとりだけ弾き出されたような、途方に暮れたような心細さがある。
(早くアニナが戻ってこないものか)
こんな大雨の中を帰ってくるはずがないと思いながらも、ゆっくりと腰を上げて窓へ近づく。片手でカーテンを持ち上げ、隙間から外を覗いた。
向かいの窓は煌々と灯りがつき、濡れた石畳と水煙に反射していた。人影はない。
普段なら何とも思わないような孤独感が何故か痛烈に押し寄せてきて、ウォルテールは思わず額に手を当てていた。
居場所とは、空間のことではなくて人を指すのだと思い知る。誰もいない屋敷を見回して、一度だけ咳をしてみた。
――呼び鈴の音がしたのは、ちょうどそのときだった。
大粒の雨が激しく叩きつける。厚い雨雲が隙間なく空を覆い、晴れた夜よりうんと濃密な闇が空間を占めていた。
明かりを持って扉を開けた先に、俯きがちに立っている男の姿を見る。傘も差さずに歩いていたらしい。頭や肩だけでなく全身までがずぶ濡れになったまま、だらりと力なく両腕を垂らして、扉のすぐ眼前に立ち尽くしている。仕立ての良い服を着ていなければ、浮浪者かと思うような姿だった。
「……どなたですか」
来客の予定などはない。警戒を滲ませつつ声をかけると、訪問者はゆっくりと顔を上げた。
「お久しぶりです、兄上」
濡れて顔に張り付いた前髪の隙間から、ぎょろりと二つの目が覗く。その顔を目の当たりにした瞬間、ウォルテールは深い衝撃に襲われた。
「ねえ、兄上。僕、兄上にお話したいことがあって、ここに来ました」
ともすれば雨音にかき消されそうな声に、必死に耳を傾ける。
ロウダン・ウォルテールの弟はこの世界にただ一人しかいない。
「ヘルト」と掠れ声で呟く。もう何年も会えていなかった家族の姿である。再会を喜ぶべきだし、喜びたい。けれど、奇妙な違和感が、警鐘を鳴らしている。
記憶にある無邪気な弟とは、明らかに雰囲気が異なっていた。頬はこけ、その眼差しは凄惨といってもいいほどに荒んでいるように思えた。
疲れ切ったような風情なのに、目だけがぎらぎらと輝いて、それなのに焦点が合わないような姿だ。言葉にはなりきらぬ苛立ちが彼の全身を取り巻いている。
そもそも、リュナを追って東ユレミアに行っていたはずのヘルトが、どうして帝都にいて、前触れもなしに自分を訪ねる?
力が入らず半開きになっていた唇が、不意に、にぃっと弧を描いた。
「兄さん、――アニナさんの無事を願うなら、僕の言う通りにしてください」
言いながらヘルトは腕を上げ、顔の高さまで持ってきた手を開く。
はらはらと音もなく舞い落ちたのは、少し癖のある栗毛である。見覚えのある色彩。
足元に散らばった一房の長髪と、アニナの顔が重なる。その瞬間、ウォルテールは弾かれたようにヘルトを睨んでいた。咄嗟に手が出る。
「……お前、アニナに何をした」
「何もしていませんよ、まだね」
胸ぐらを掴み上げられて踵を浮かせながらも、ヘルトは余裕のある薄ら笑いで応えた。
空になった手を背に回しながら、血を分けた弟が、奇妙に歪んだ笑顔で言う。
「大丈夫ですよ。目的を達成したら、すぐに解放して差し上げます」
空全体が、一瞬、昼間のように明るさに包まれた。大きく見開かれた眼に、稲光が白く焼き付く。
地面が割れるほどの轟音が辺りを揺るがしたのは、ほとんど同時のことだった。雨は堰を切ったように、いっそう強さを増す。
街並みが白く煙るほどの豪雨を背景に、ヘルトは肩を揺らして笑い続けていた。
「僕は、僕の正義を貫くんだ」




