傾国
「そういえばこの間の訪問って、何の話だったんですか? こないだ姉上と一緒に来てたご令嬢が、噂のリンフィさんですよね!」
ユインがにやにやと口元を覆いながら顔を覗き込んでくる。それを黙殺して、カナンはゆらりと立ち上がった。
リンフィが来てから既に四日ほどが過ぎた。エウラリカの問いかけにはまだ答えられていない。けれど、永遠に引き延ばせる話ではないことは重々分かっている。
「……閣下? どうされたんですか? ここのところ顔色が悪いですよ」
事態が変わっていることを敏感に察したらしい。少し神妙な声になって、ユインは歩き出したカナンを目で追う。
「別に、何もない」
「何もないって顔じゃないです。……僕では大したことも言えないかもしれませんが、困っていることがあるなら聞かせてください」
真剣な表情で見上げてくるユインを一瞥し、カナンはふいと顔を背けた。
「エウラリカと二人で話をするから、今言うべきことはない」
「それって、良くない話なんですか?」
「分からない」
自分でも、エウラリカと対面して、何を言おうというのか分かっていなかった。不確実な返答に、ユインは表情を曇らせる。
「閣下。僕はこれでも、閣下と姉上の幸せを願っているんですよ」
「そうか、……ありがとう」
曖昧に頷くと、ユインはふと、意外なほどに大人びた眼差しをした。
「どうか、正しいご判断を」
そのつもりだ、と小さく呟いて、カナンは部屋を出た。
***
エウラリカの部屋へ向かうつもりだったのに、気がつけば足は庭園の奥の温室へ向いていた。
示し合わせたわけでもないのに、彼女はそこにいた。
硝子扉を開けて、蝶番の軋む音と、温室を横切る光の反射に意識を向ける。凍みつくような冬の冷気に囚われていた身体が、柔らかく暖まった室温に緩む。
「エウラリカ」
呼びかけると、彼女は緩慢な仕草で顔を上げた。音もなく頬に落ちた金髪を耳にかける仕草は、蜂蜜が焦れったいほどにゆっくりと垂れる様子を思わせた。
「カナン」と返事をして、エウラリカは傍らの空いた椅子を指し示した。色とりどりの花が咲き誇る温室に相応しく、曲線的で華奢で、やや少女趣味の椅子であった。
「大丈夫?」
ユインだけでなく、エウラリカにまで開口一番に問われるとは、自分の顔色は相当に悪いらしい。
億劫な思いで椅子に腰かけると、机の角をひとつ挟んで、エウラリカはじっとこちらを見ていた。
「避けられる戦火は、万策が尽きるまで避ける努力をするべきです。とりわけ、お互いに得られるものの少ない戦なら」
重い口を開いて切り出す。
「だから、一度、ジェスタへ戻ろうと思っています」
エウラリカは続きを待つように黙っている。
「家族と、……特に、次兄と話をするべきでした。今からでも遅くない。だから、ジェスタへ戻って、向こうの揉め事を収めてきます。加えて、ウディルなどに配備されている帝国兵の素行に関しても視察をするべきだと思って」
そう、と頷いて、エウラリカは肩を竦めた。
「やだ、そんなに深刻な顔をするほどの距離でもないじゃない。地の果てって訳じゃないのよ」
からかうような口調で、エウラリカがころころと笑う。カナンが乗ってこないのを察すると、彼女は口を噤んでこちらを正視した。
カナンは目を伏せたまま呟く。
「……俺は、自分がジェスタ人であることに誇りを持っています」
「うん」
「帝都にいることで、祖国に貢献できるものだと思っていました。でもそれは俺の逃避だし、独りよがりだったのかもしれなくて、いつの間にか裏目に出てしまって、このままでは祖国に内乱を招く可能性がある」
「うん」
穏やかな表情で相槌を打つ、エウラリカの声が柔らかい。
「あなたのことが大切です、本当に。でも、ジェスタのことも同じくらい、……」
「大切なのよね?」
「はい」
エウラリカの悟りきったような眼差しが痛かった。
これが、今自分に採れる最善の手段だ。自分はもう子どもではないし、守るべきものがあって、己の心ひとつだけで物事を決めることもできない。
だからこれが正しい判断なのだ。そう自分に言い聞かせなければいけない未練がましさに嫌気が差す。
「……帰ってくるつもりは、あるのよね?」
何気ない問いの裏に、気弱な不安が見え隠れしていた。
「あちらでのことが解決したら、また、帝都に来てくれる?」
ジェスタでの滞在は、移動を含めて最低でも半年以上を覚悟していた。エウラリカの口ぶりからも、同様の期間を想像していることが窺えた。
「私、たぶん、もうあなたのことを逃がしてあげられない。一生をジェスタで過ごしたいって言っても、きっとあなたのことを呼び戻そうとする」
大きく見開いた両目が、切実な色を湛えてこちらを見ていた。
「あんまり帰ってこなかったら、私、また訃報を流しちゃうわよ」
冗談めかした言葉尻が、少しだけ揺れる。
「それは勘弁してください」と苦笑して、カナンは目を落とした。机の上に置かれたままのエウラリカの片手を見やる。視線を感じたのか、少し震えてから、きゅっと五指が握られる。
健気に力を込めている手を見ながら、カナンは噛みしめるように呟いた。
「帰ってきます。必ず」
うん、とエウラリカが俯きがちに頷く。
「待ってる」
不思議な色彩をした瞳が、健気に笑みを作った唇が、不安げに握り締められた指先が、鮮烈に視界に焼き付いた。一瞬でも目を離せば、煙のように跡形もなく消え失せてしまいそうな、儚い佇まいで、こちらを一心に見つめているのである。
「私は、いつまででも待てるから」
だから、と続く言葉は、彼女自身によって飲み込まれた。口を噤んで、小さくかぶりを振る。
直接的な我儘ひとつを言うことにも慣れていない。
カナンよりずっと賢くて聡い人だから、きっと自分の意思も感情も把握して、支配しているはずだ。そのうえで、それを外に出すのが下手なひとである。
迷子になっても大きな声で親を呼ぶことができない、不器用な子どもを見ているみたいだった。
唇を軽く噛んだまま控えめな笑みを浮かべているエウラリカを眺めているうちに、胸のうちに、どうしようもない哀れさと愛おしさが沸き起こる。
これが正しい判断である。理性的で、最も穏便で、多くの人のためになる選択だ。
そう思っているはずなのに、一瞬、目の前が真っ白に眩んだような気がして、身体が勝手に動いていた。蹴倒された椅子が床に当たって派手な音を立てる。
強引に抱き寄せられて、中腰になったエウラリカは呆気に取られたように目を丸くした。
「なにを」と声を漏らす彼女の背に手を回して、ほんの少しの距離も許せずに腕に力を込めながら、何年も前にもこんなことがあったと思った。
「……待たせたく、ないです」
呻くと、エウラリカが息を飲んだ。
「離れがたいです」
大きく目を見開いて、「自分がなにを言っているか分かってるの」と呟く。
腕を振りほどこうとするように、エウラリカが身じろぎをした。
「しっかりしなさい、」
「嫌です」
自分で決意を宣言したくせに『嫌です』とは何だ。呆れ果てながら、撤回する気にもなれない。
季節外れの花がそこかしこで咲き誇る。水面が凍るほどの厳冬で、贅を尽くしたここ、一室だけが、この世の春のように色彩豊かに飾られている。匂い立つような花香である。
「――好きです、エウラリカ」
転げ落ちるように出てきた言葉に、咄嗟に口を手で塞いでいた。一、二歩後ずさり、距離を取る。
目をぱちくりさせて、エウラリカはこちらを見上げている。ややあって、その表情がぱっと綻ぶ。
「いまの、もう一回言って」
彼女の顔に浮かんでいるのが喜色に見えるのは思い上がりだろうか。柔らかく目を細めて、エウラリカは瞳を輝かせてじっと答えを待っている。
「馬鹿な……無茶なことを言っているのは、分かっています」
足に力が入らなくなって、気づけばその場に膝をついていた。まるでエウラリカに向かって跪くかのような姿勢で、熱に浮かされたように手を差し伸べる。
「俺と、一緒に来てくれませんか」
満足そうな、余裕綽々の超然とした微笑みで、それでいて少しだけ頬を上気させて、エウラリカは笑みを深めた。力なく垂れていた腕が、ゆっくりと持ち上がる。磨いた貝のように艶やかな爪だった。細い指が、花開くようにそっとこちらへ向けられる。
まるで自分が自分でないかのようだった。するりと言葉が口から滑り出る。
「他に誰も考えられないんです。いつからか分からないくらい前から」
「……きっと、私の方が先だわ」
手のひらに風が通る。掠めるみたいにして指の付け根を撫でたのが何なのか、分かっているのに信じられなかった。
思い描いていたほど柔らかい指先ではなかった。少し固くなった指の腹が、恐る恐る手のひらに触れては、怯えるように離れる。震える両手は、彼女の激しい逡巡を示していた。
ほんの僅かにでも手を動かしてしまえば、エウラリカはすぐさま両手を引っ込めるだろう。そう直感していた。
だから、ひたすらに手を差し出して待っているしかできなかった。蝶が近寄ってくるのを、息を殺して待っているようだった。爪先から脳天に至るまでを、苛立ちにも似たむず痒さが駆け上がる。
儀式めいた静謐さが二人の間に立ちこめていた。詰めていた息をやっとの思いで細く吐く。
何度も躊躇を繰り返して、そうしてやっと、全ての指が触れる。薄く開いた唇から、小さな吐息が漏れたのが聞こえた。
光に縋るみたいに弱々しく掲げられた手を、両手で慎重に下から掬い上げて、彼女は笑っているような、泣くのを堪えているような、不思議な表情でこちらを見下ろしていた。
「立って」
エウラリカが囁く。腰を浮かせて立ち上がると、目線の高さが逆転した。
カナンの片手を小さな両手で包み込んで、エウラリカはしばらく黙っていた。
「カナン、……あなたのために、私は、何ができる?」
ひたむきな眼差しを向ける彼女の手を、慎重に握る。
「あなたの名前を、地位を、威光を貸してください」
エウラリカの手に、手のひらを真一文字に横切る傷があることを初めて知った。想像してみれば分かるはずのことだった。カナンの背を横切る傷跡が音もなく疼く。
もう古くなった傷だけれど、決して消えることのない跡である。肉を裂かれた直後は夜も眠れないほどに痛んだ。今でも痛むことがある。それはエウラリカも同じだろう。
自分たちがこの帝国で生きてきた痕跡である。帝国を取り巻く暗部の象徴でもある。
「俺はジェスタの人間であると同時に、帝国の民に対する責任があります。南方連合との盟約もある」
きらりとその目が光る。エウラリカが小さく微笑む。
「長期的な目的は、クウェール王朝の廃止および新体制の整備。加えて、現在帝国と呼ばれる共同体にとって優先度が低いと思われる諸地域の段階的な独立承認」
教師が教え子を褒めるみたいに頷いて、彼女は「ええ」と応えた。自分で口にしておきながら、無謀すぎる試みに胸の内で畏れが何度も反響する。それなのにエウラリカの目に曇りはなかった。
「でも、それらを実現するには、俺は力不足です。だから、」
言葉が出てこずに、俯く。沈黙が痛くてすぐに口を開いた。
「馬鹿なことを言っている自覚はあります」
言い訳がましく呟くと、彼女はかぶりを振る。
「あなたが本当に望むことを聞けて良かった」
そうしてエウラリカの頬に浮かんだのは不敵な笑みだった。
「……うん。やっぱり今のうちに言っておくわ」と独りごちて、彼女は笑顔で言い放った。
ぎゅっとエウラリカの指に力がこもる。
「――落ち着いたら結婚しましょう。できるだけ早いうちにね」
「え? 何の話ですか?」
「えっ……」
エウラリカが目を真ん丸にして立ち尽くす。自分も負けず劣らずの間抜け面をしているだろう。カナンは絶句したまま、エウラリカの顔を眺める。
しばらく言葉もなく顔を見合わせて、二人は同時に叫んだ。
「け――けけけ結婚!?」
「そういう話じゃなかったの!?」
開いた口が塞がらないように、エウラリカが絶句する。カナンは首がもげそうな勢いで激しく頭を左右に振ると、三歩ほど後退して植木鉢に蹴躓いた。慌てて体勢を立て直そうとして、逆によろけて尻餅をつく。
「えっ違……そこまで踏み込んだ話のつもりじゃ」
「むしろ私は、そういう話なんだとばかり……!」
額に汗をかきながら、カナンは唖然としてエウラリカを見上げた。エウラリカは口元に手を当て、答えに窮して言葉を選んでいる。
「……お前が嫌なら撤回しておくわよ?」
少し拗ねたような口調で、エウラリカがひょいと肩を竦めた。そのまま踵を返す素振りを見せるので、慌てて「嫌じゃないです!」とその背中に叫ぶ。
一拍おいて、エウラリカが肩越しに振り返った。腰に手を当てて鼻を鳴らす。
「それなら結構」
照れ隠しのように厳しい口調で言って、エウラリカはまたふいと顔を背けてしまった。
「じゃあ、後でね」
「よ、用事があるんですか?」
「ちょっと顔を冷ますのに忙しいの」
そう言ってエウラリカが温室をそそくさと出て行く。戸口を出た寒空の下で、少し俯きがちに両手を頬に当てている後ろ姿を呆然と眺めてから、カナンはやっとの思いで立ち上がった。
***
「えっ何!? 何で二人ともそんなに顔が赤いんですか?」
ガタッと椅子を鳴らして、ユインが大きな声を出す。上手く取り繕える自信がなく、カナンは無言で顔を背ける。それでますます勢いづいて、ユインは立ち上がるとすぐ横まで歩いてきた。顔を覗き込んで眉をひそめる。
「閣下なんて、さっきまで今にも死にそうな顔色だったのに、一体どんな一発逆転が!?」
「お前に詳細に話すような内容はないわよ」
素っ気ない口調で切り捨てて、エウラリカは肩を竦めた。
「まあ、そのうち……少し帝都を空けるかもしれないから、それだけ伝えておくわ」
「ん? ……二人でってことですか?」
腕を組んで、ユインがすかさず食いつく。ちら、と顔を見合わせた仕草だけで察するものがあったらしい。ユインはぱっと表情を輝かせると、「それってつまり」と拳を握る。相変わらず勘が良くて何よりである。
「新婚旅行ってことですね!?」
「いやそこまでのアレじゃ……」
「良かったじゃないですか! やりましたね、閣下!」
これ見よがしに脇を肘でつついてくるユインから一歩離れて、カナンは両手を挙げた。お手上げの姿勢である。
ユインは大袈裟に手を叩いて、笑みが止まらないらしい。
「僕、何だか我がことのように嬉しいです! むしろ何でお二人はそんなに無口になってるんですか? まさか姉上まで照れてるとか?」
「…………。」
黙秘したエウラリカに、ユインは「うわー!」と楽しげに声を上げる。
「この感じ、マジじゃないですか!」
ユインはひとしきり騒ぐと、何やら感慨深そうにしみじみと頷いた。
「ほんと、ここまで手がかかりましたよ……」と誰目線なのかよく分からない呟きを漏らして、カナンとエウラリカを見比べる。
「折角のハネムーンですよね! 手配は僕に任せてくださいよ」
「え? 良いわよ別に」
首を振ったエウラリカに対して、ユインは「いえいえ」と笑顔で言う。
「僕が姉上のためにしてあげられることなんて、それくらいしかありませんから」
目を細めて、柔らかい表情で呟くその顔に嘘はないように思えた。眩しいものでも見るみたいにエウラリカを眺めるユインを、カナンは無言で一瞥する。
「僕は、いつでも姉上の幸せを願っています。どうか忘れないでくださいね」




