内乱阻止 2
リンフィは神妙な表情で続けた。
「まだ、表沙汰になるような話ではございません。あくまでジェスタ王家内部での話です、でもジェスタ国民に知れ渡るのも時間の問題ですわ」
「内密の話なら、どうして貴女がそのことを知っている?」
「それは、……」
以前に会話をしたときと同じ、不意に口が重くなって躊躇うような仕草をする。しかし今のリンフィはそれを振り切るようにかぶりを振って、顔を上げた。
「正直に申し上げます。わたくしは、ゼス=リッカの指示を受けて閣下に接触しました」
「……つまり、俺がジェスタを顧みないことを問題視しているのは、リッカ兄上の方なんだな」
「……、はい」
リンフィの強ばった顔からするに、この話は本来ならカナンに漏らすつもりのなかった内情なのだろう。
「なら、リッカ兄上が俺を排斥しようと?」
「はい。……リッカ殿下が閣下の廃嫡を提言し、それを王太子殿下が何とか食い止めていると聞いております。重臣たちも二分しているとか」
ジェスタがそのような状態になっているなど、今までつゆ知らずにいた。口元を覆い、カナンは「それは」と呻く。
(俺の、せいなのか)
冷たくて重たいものを飲み込んだみたいに、ずんと腹の底が苦しくなった。
「リッカ殿下は、閣下がジェスタを独立させると確約することを望んでおられます。そうすれば、自分は兄の即位を手放しで祝福し、兄と弟がジェスタのために戦うのを全力で応援する、と」
「俺が、それはすぐに実現できるものではないと頷かなければ?」
「やむを得ず、エナト殿下に代わって国王となり、帝都を相手取ってジェスタの主権を取り戻すために戦うのだと仰っていました。『すっかり帝国に飼い慣らされた弟を救うため』と」
ジェスタ語を交えた部分は、恐らくはリッカ本人の発言なのだろう。距離はあれど、帝国からジェスタのために尽力しているつもりでいた。それを肉親から踏みにじられたように感じて、決して愉快ではない。
様子見か、慎重さゆえか、ともかく帝国に対して大きな動きを示そうとしない第一王子に対して、第二王子は強硬な姿勢を取っているらしい。それだけ聞けば各地でよくある揉め事に聞こえるが、問題は、争点がカナン自身であるという点である。
「リッカ殿下と同じく、帝国への抵抗を唱えているのが、ウーナさんの嫁いだシュリエ領。ジェスタの中でも特に帝国に近い立地から、揉め事が多く、帝国への悪感情も強い地域だと聞いています」
「ウーナはどちらについているんだ」
反射的に問うと、リンフィは目を伏せた。
「……僭越ながら、わたくしが勝手に推測する限り、ウーナさんは戦火を望んでおられないと思います。けれど、反帝国の機運が高まるシュリエ領に嫁いだ身として、彼女は反戦を唱えられる状況ではない」
帝国の直轄地にあたるウディル州と接している土地である。揉め事が多いという一言から、恐らく帝国の人間の横暴があるのだろうと推測がついた。もっと早く気づいて対処できなかった自分に腹が立つ。
「帝国もジェスタも、どちらも大切なわたくしの故郷です。わたくしは両国の間に戦端が開かれるのを望みません」
リンフィが静かな声で告げる。
「先日お話しした申し出に関して、今もわたくしの気持ちは変わっておりません。けれど、それはあくまで一つの提案であると付言させてください。帝国の枠組みの中では、閣下は迂闊に動けないでしょう。そうした状況下で、わたくしが力添えできる可能性を提案しております」
努めて抑えたような、理性的な表情で、慎重に語るのだ。
「ジェスタに縁のあるわたくしを伴侶に選べば、ジェスタの独立を目指す意思はあるのだという表明になります。帝国内の反発も予想されますが、わたくしも純系の帝国人ではありません、厳しい目を向けられるのには慣れています。求められる立ち回りも分かっているつもりです」
エウラリカに何を言われたのかは知らないが、この間に会ったときとはまるで別人のように確かな口調だった。それでもその裏に、時折胸を掻きむしるような焦燥感が滲んでいるのを感じる。
「起こりうる戦火を防げるなら、わたくしは両国のために身を捧げる覚悟です。それが、先日お答えできなかった、わたくしの動機です」
リンフィの言葉を最後まで聞き届けて、カナンは「状況は分かった」と応えた。
「……要するに、以前に言っていた俺の廃嫡が云々という話は、ジェスタ王家内での揉め事のことであって、このままでは継承権を巡った争いに繋がる、と。加えて、もしリッカ兄上が王位に即けば、ジェスタが帝国に向けて挙兵する可能性があるんだな」
「そのご理解で問題ございません」
「そうか、……」
腕を組んで、カナンはしばらく沈黙した。――俺が完全に帝国に染まっていたら、この報を聞いた時点でジェスタを潰していただろう。リンフィの進言は危うい賭けであった。
「貴女の知っているジェスタの状勢と、貴女の意思については分かった」
言いたいことは言い終えた、というように、リンフィがほっと肩から力を抜く。また数秒間黙り込んでから、カナンは「でも」と呟いた。
「やはり、貴女の提案には乗れないように思う」
リンフィの表情が変わる。眉を曇らせた彼女を見据えて、カナンは落ち着いた声で告げた。
「それは俺が貴女自身に対して不満があるだとか、そういう問題ではない。俺が憂慮しているのは、貴女がリッカに使わされたという一点だ」
不安げに目を揺らしたリンフィを眺めながら、カナンは腕組みを解いて、落ち着かずにまた腕を組んだ。
「俺が貴女を伴侶に選ぶことは、リッカの思惑通りにことが進んだことを意味する。長兄に対して反目することを選んだなら、リッカも並大抵の覚悟ではないだろう」
カナンの知る家族は、多少の遠慮はあれど仲の良い家族である。それがここまで話がこじれているのだ。一時の気の迷いであるはずがない。
「自分の意に沿うように俺を動かしたいリッカに成功体験を与えることは、彼を勢いづける可能性がある。王位争いを収めるどころか火に油を注いでしまうのは、俺の本意ではない」
硬い声で言うと、リンフィは眦を下げた。
「それでは一体、どうなさるおつもりですか」
「それは……」
強権的にジェスタの独立を認めさせることが不可能なわけではない。ただ、それをしてしまえば、もうじき訪れるユインの成人後が恐ろしい。カナンに与えられている権限は、ユインが成人するまでの限定的なものだった。
「エウラリカを呼んでもらえるか」
言うと、リンフィはもの言いたげな目をしたが、すぐに「はい」と頷いた。リンフィが細く扉を開いて外に声をかけると、エウラリカはすぐに入ってくる。扉のすぐ近くで待っていたのだろう。
扉は厚いから室内の会話は聞こえていなかったはずだが、視線が重なった瞬間、エウラリカはどこか覚悟を決めたような眼差しになった。
「どうしたの?」
珍しく優しい声で、エウラリカが後ろ手に扉を閉める。
「私は、リンフィの用件を詳しくは把握していないから、何とも言えないけれど……その顔色からするに、あまり芳しくない話だったのね」
リンフィは返答を拒むように目を逸らした。カナンも咄嗟に答えられず、不自然な沈黙が広がる。
「ジェスタの状勢が思わしくない?」
やっとの思いで小さく頷くと、エウラリカは「そう」と目を細めた。
心臓が早鐘を打っていた。強く拳を握れば、手のひらに爪が食い込む。その鈍い痛みを感じながら、カナンは帝都陥落を成し遂げるまでのことを思い返していた。
エウラリカの訃報を受け、その死に疑念を抱いた瞬間から、帝都を落とすまで。一年足らずの期間だが、その間の記憶はどこか白昼夢のように現実味がなく、まるで薄い膜を隔てた向こうの出来事のように思えていた。
帝国は恐るるに足らぬと、何度も唱えたように思う。実際にそうだった。奴隷として帝都で過ごす間に、帝国の脆弱性や疲弊した有様を目の当たりにした。傀儡と化した皇帝を操らんと烏合の衆が謀略を張り巡らせ、有事の際の指揮系統には危うさがあった。
地下通路のこともある。だから何度でも宣言した。自分についてくれば、帝国の主権を握ることは容易い。
さすれば、いずれはジェスタも帝国から独立し、かつての誇りを取り戻すことができるのだ、と。
帝国は南の蛮族どもに操られようとしている。帝国を護ることが、ジェスタ、ひいては大陸全土を護ることになる。そう説いたし、そう信じていたし、今でも間違いだったとは思っていない。
距離があろうと、言葉もなくとも、親兄弟にはいつかこの献身を分かってもらえると信じていた。だって――血の繋がった家族なんだから。
それなのに廃嫡だ、帝国の犬だと詰られるのは理不尽だ。幼くも、心のどこかでそう憤るのを堪えられない。けれど同時に、自らの至らなさを痛感してもいた。
帝国を今すぐ掌握するため、軍を動かす許可が欲しい。激情のままにそう要求したときの、まるで化け物を見るような家族の目が忘れられなかった。青ざめた母の顔や、愕然として絶句する兄の顔が目に焼き付いて離れない。
(あのときジェスタを発って以来、俺は一度もジェスタを訪れていないし、便りもほとんど送ったことがない)
顔を合わせたのも、用事で帝都まで来た長兄と軽く話をしたときだけで、それ以外は皆無と言っていいだろう。
全くもって的確な比喩ではないが、以前に聞いた、仕事に忙殺されているうちに妻と子に逃げられた男の話を思い出した。自分は家族を養うために身を粉にして働いているのに、裏切られたと嘆いていた。
まだ物知らずの少年だったときに聞いた話である。そのときは、仕事と家庭を両立できなかった男の間抜けさを哀れみ、半ば嘲ったものだったが、どうやら彼を笑うことはできなさそうだ。
(……俺は、怖かった)
自分は既に、かつてジェスタにいた幼い王子とはまるで変わってしまったのだ。
それを家族に認めて欲しいけれど、同時に、変わり果てた姿に失望され、家族が離れてゆくことが何より恐ろしかった。家族は、カナンの変貌を喜ばないと思った。
自分のしてきた所業を知ったら、きっと、家族は嫌悪感を抱くに違いないから。
そうして祖国と向き合うことから逃げ続けてきた結果が、これだ。
深く項垂れそうになる頭を何とか上げて、カナンは口角を歪めた。
「ぜんぶ、俺の不手際です」
「誰か一人に非がある問題ではないと思うわ」
詳細が分からないからか、遠慮がちにエウラリカが言う。少し躊躇ってから、カナンは言葉を選んでジェスタの状況を説明した。兄弟間での対立が、と告げた瞬間に、彼女の目にふと痛切な色がよぎる。
「私は、あなたがジェスタを優先したいのなら、止め立てはしないわよ」
彼女の言葉尻がわずかに揺れるのを聞きながら、カナンはエウラリカをじっと見つめていた。
「ジェスタ独立に関して、あなたはどう思いますか」
抑えた声で問うと、彼女は目線だけで傍らのリンフィを一瞥した。「出ていなさい」と合図されて、リンフィは渋りつつも部屋を出る。
「……私は元より、帝国が現在の領土を維持し続けるのは難しいと考えているわ」
扉が閉まる音を聞き届けて三秒ほど置いてから、エウラリカは慎重に口火を切った。
「でも、だからといって属国を野放図に独立させることはできない。前例を与えれば別の地域だって同じ要求をするでしょう。それに、東部文化圏の中でも大きな影響力を持つジェスタを独立させることは、帝国の防衛の面で危険が伴う」
ジェスタが周辺諸国とともに連合軍を編成し、帝都侵略を目してウディルまで侵攻したのは記憶に新しい。火種は未だに燻っている。
「私はこれでも帝国の人間だから、帝国に危険が及ぶ可能性を見過ごすことはできない。もしもジェスタが帝国に対して戦争を仕掛けようとしているのなら、一秒でも早く東部の軍備を強化し、牽制と弾圧を行う必要がある。帝国の人間なら皆が同じことを言う」
エウラリカの表情は冷ややかで、今にも言葉通りの命を下しそうな気迫があった。
「先に言っておくわ。あなたがジェスタへ戻り、帝国を相手取った戦いに臨むのなら、私はあなたと一緒にはいられない」
硬い声は、彼女の緊張を如実に示している。
「私は、誰が何と言おうと、真実が何であろうと、新ドルト帝国第一王女のエウラリカとして振る舞い続ける。そう決めたの」
その手が震えているのが分かった。蒼然とした頬で、それでもエウラリカはこちらを見据えて立っている。
「けれど、もしも本当に戦が始まってしまえば、両国の損耗は避けられない。後に尾を引く軋轢を生む。それはやがて次の火種になる。私はそれを望まない」
驚くほど平坦な声で語るエウラリカの立ち姿には、明らかに苦悩が表れていた。どの口が、と小さく呟いて、彼女は薄らと笑みを浮かべる。
午後の陽射しを受けて、彼女はまるで光り輝くようだった。
「……あなたが、自分で決めて。自分の身の振り方も、私の処遇も、帝国のことも、ジェスタのことも。あなたがどうしたいのかを、自分で考えて」
言いながら、足音をさせずにこちらへ歩いてくるのだ。大きく見開かれた双眸が、いっときも離れることなくカナンを射貫いていた。
「私はあなたの選択ならどのようなものでも受け入れる」
机に片手をついて身を乗り出し、エウラリカは囁いた。
「好きよ、カナン」
たぶん、彼女の中では既に結論が出ているのだろう。




