浮気騒動 3
扉を押さえておいてやると、リンフィはおずおずと部屋に足を踏み入れた。彼女が連れていた侍女は部屋の外に待たせ、扉は半開きにしておく。単身で部屋へ招かれ、リンフィは不安げである。警戒を煽るだけなので飲食は勧めない方が良さそうだ。
「さて」とエウラリカは口火を切った。
「お前、何が目的なの?」
いきなり鼻面を殴るように問うと、リンフィは眉をひそめた。が、立場を考えてでもいるのか、押し黙ったまま何も言わない。「多少の無礼くらいで怒りやしないわよ」と付言すると、ようやく彼女は口を開いた。
「何が目的かって、……それは、こちらの台詞です。元はと言えば、あなたが閣下の身柄を要求したから、こんなことに」
正直に言えば、リンフィの言葉は了見違いだと思った。
しかし、ジェスタとカナンを取り巻く軋轢の原因の大半は、確かにエウラリカにある。
リンフィは大真面目であった。
「閣下を、早く解放して差し上げてください。これ以上、閣下の人生を拘束しないで」
それにしても、彼女のカナンへの入れ込みようは不可解なほどだった。あれは確かに女を引っかけやすい質の男だが、流石にこれは異常である。
「お前、カナンのことが好きなの?」
驚いたように、リンフィが目を見開いた。
「それは」と戸惑ったように言いかけて、はっと我に返ったように「もちろんですわ」と言い直す。先程の助言を早速取り入れるあたり、学習能力は高いらしい。
「どんなところが?」
試すつもりで追究すれば、リンフィはそれを勘良く悟ったようだった。硬い声で応じる。
「逆に、エウラリカ様は閣下の何が気に入られて、あの方を傍に置いているのですか」
「目が好きだったの」
即答して、エウラリカは視線を膝に落とした。
「ジェスタの王族が帝都まで連行されてきたとき、皆すっかり諦めたみたいに項垂れていたわ。国王でさえ、ちゃんとその場の正解を弁えていて、ほんとうに従順だった。でもあの子だけ、ずっと顔を上げて、凄い目をしてこちらを睨みつけていて、……こんな馬鹿なら、きっと簡単に思い通りにできるって思ったから」
はっと息を飲んで、リンフィが僅かに身を退いた。信じられないものを見るような目で、嫌悪の表情でこちらを見ている。当然の反応だと思った。
あれほどの馬鹿なら、ずっと私のことをちゃんと憎み続けて、ちゃんと私のことを殺してくれると思っていた。芯があって、肩に乗せられた重みをはね除けることのできる子だと思った。
「でもあの子は私の予想をはるかに上回る馬鹿だったから、全然思い通りにならなくて、……それがものすごく憎らしくて、本当に腹が立つし、たまに殺してやりたいくらい嫌いよ。でも、そういうところが、たぶん、彼の美徳で、」
腿に乗せた両手の指が絡む。感情は上手く言葉にならない。
「――私は、カナンの馬鹿なところが、好き」
思いのほか弱々しくて小さな声になってしまった。まるで消えかけの火のように、言葉尻がいとけなく震える。
返事がないと思って顔を上げれば、リンフィは呆然とこちらを眺めていた。
「なにそれ」と唇を動かさずに声が漏れる。
「そんなの、勝ち目がないじゃない」
膝に置いた手がぎゅっと握られるのを見た。
「なんで、わたしだけ、居場所がないの」
迷子の子どもみたいな声だった。黙って視線を向けていると、リンフィは深く項垂れて呻く。
「閣下は、わたしと同じだと思ってた。帝国人にはなりきれず、けれどジェスタにも見放されそうで、どこにもいられない、はぐれ者同士仲良くやれるって思ってたのに」
(…………。)
肘掛けに頬杖をついて、エウラリカは足を組んだ。……この娘も、また随分と面倒なものを背負い込んでいるらしい。
「お前、ジェスタ人になりたいの」
沈黙は肯定らしい。目を細めてリンフィを眺めていると、彼女は呻くように呟いた。
「幼い頃から、ずっと優しくしてくれた人たちから、いきなり敵意を向けられる気持ちが分かりますか。ある日からいきなり、皆を蹂躙した国の人間として扱われる気持ちが」
その言葉だけで、彼女がいつの話をしているのか分かった。ジェスタ襲撃を命じたのはエウラリカ自身である。エウラリカは自然と体が固くなるのを自覚した。
「一度戦端が開かれた。その一瞬のことで、それまでの関係が途絶するの」
リンフィの声には、聞く者を黙らせるような凄みがあった。
「それでも繋がりを保ってくれる人はいるけれど、でも、今まで通りの関係じゃない。わたしは何も変わっていないのに、みんなはそう思ってくれない。元々持っていたものを取り戻そうとすることの、何がおかしいですか。責められる謂われがありますか」
上手い返答が思いつかずに、エウラリカはただ沈黙する。たぶん、彼女が抱える居心地の悪さは、エウラリカ自身にも身近なものである。
血脈や肩書き、帰属意識のどれだけ厄介なことか。
「あなたは、閣下がいなくても、居場所があります。でもわたしには、ゼス=カナンが必要なんです」
「他人にとって必要か否かで、彼の処遇を思い通りにしようとしないで。それはカナンに対して失礼よ」
低い声で告げると、リンフィは図星を突かれたように口を噤んだ。
ゆっくりと項垂れて、消え入りそうな声で呟く。
「分かっています。でも、わたしは、閣下と一緒じゃなければ、ジェスタに受け入れられない……」
「そもそも、誰に言われたのか知らないけど、嘘よ、それ」
顎を片手で支えながら、エウラリカはばっさりと言い放った。
「たとえあなたがカナンと結婚してジェスタで暮らすようになったとして、それだけで『あなた』がジェスタで受け入れられる訳ではない」
厳しい口調で言いつつも、自嘲は隠しきれなかった。
「お前、さっきカナンが言っていたこと、ちゃんと聞いてた?」
リンフィは俯いたまま答えない。
「あなたがジェスタに受け入れられたかったら、そのための振る舞い、そのための努力が必要になる。それでも、あなたがどれだけ頑張ったとしても、誰もがあなたを受け入れるとは限らない」
まるで自分に言い聞かせるような言葉になってしまった。ほのかな苦笑が口元を緩める。
「逆に言えば、別にカナンなんていなくても、あなたには、あなた自身で道を模索するという手段がある」
「そんなの、綺麗事です。……わたくしには、望み通りの選択肢なんて、ないに等しいんだから」
呻いたリンフィに、エウラリカは「そうなの?」と首を傾げた。
「でも、自分で自分の道を決められないことの方が不幸よ」
真ん丸の目を大きく見開いて、彼女は無言でじっとこちらを見つめた。不意打ちに遭ったような驚き顔で、瞬きをする。
「あなたがまず取りかかるべきは、カナンを懐柔することでも私を排除することでもなく、あなた自身が本当に求めているものを見つめることだと、思う。あくまで私はね」
ほんの僅かの年の功で賢しらに言い放って、エウラリカは小さく首を傾げた。
「あなたは、絶対にカナンがいなきゃ駄目だという強迫観念に駆られているように思えるわ。そんなこと、誰に言われたの? 誰があなたをそんな風に怯えさせているの」
「それは……」
「カナンの妹?」
「いえ、ウーナさんは何も」
リンフィが不安げに身じろぎをした。目を逸らすことなく答えを待っていると、彼女は小さくかぶりを振った。
「これ以上のことは、お話しできません。……お話しするなら、ゼス=カナンに直接お伝えしようと思います」
「そう」
意気消沈した様子だったが、憑き物が落ちたようにもみえた。頷いて、エウラリカは小さく息を吐きながら背もたれに体を預ける。
「……エウラリカ様は、閣下と結婚するおつもりなのですか」
「え? なに?」
気を抜いた隙に脇腹を刺されたような気分だった。虚を衝かれて、思わず大きな声で聞き返してしまう。
「そんなこと初対面のあなたに話す必要ある?」
「加えて、エウラリカ様のジェスタに関するご意志も聞かせて頂きたいです。閣下とご結婚なさった場合、どのような展望をお持ちなのかも」
「随分と不躾ね!?」
呆れ果ててエウラリカは足を組んだ。ちょっとは殊勝なのかと思った途端にこれである。
「お前、勉強ができても友達はいないでしょう。私が言えた義理じゃないけど、他人との距離感はもう少し考えた方が良いわよ」
「……決して数は多くないですが、良い友人には恵まれています」
図星らしい。目を逸らしたリンフィを眺めて、聞こえよがしにため息をつく。
「ジェスタが強く反発しない限りは、少なくともジェスタを現状より締め付けるつもりはないわよ。だいいち、搾り取っても大して何も出てこないでしょう」
不満のありそうな目を向けられながら、エウラリカは足を組み替えた。
「カナンに関して、は……」
指先で頬を支えながら、彼女はつと言い淀んだ。
「そうね、彼もそろそろいい歳だものね」
これまで何年も一緒にいて、お互いの人となりはほとんど知れている。彼と一緒になるのはやぶさかではないし、何なら周囲からは既に二人合わせて一つみたいに扱われている。
カナンが誰か別の女のところに行くことはほぼあり得ないと思っているし、そのことに胡座をかいている自覚もあった。
「ちゃんと考えてあげなきゃ駄目よね」
あれは、どうも肝心なところでへたれてしまうらしい。だったらこちらから動いてやるのが、エウラリカの果たすべき『責任』というものだろう。
それにしても、『どのような展望をお持ち』ときた。改めて考えてみると、これほど答えづらい問いはない。
ここのところ、ずっと、魂が抜けたまま、体だけが食べて、寝て、生活を繰り返しているみたいだ。目の前のことが、何だか遠い。
別にもう、目指すものもない。叶えたい夢もないし、カナンとの関係に別の名前がついたところで、何かが大きく変わるわけでもない。帝国における地位も、さして変化しないだろう。
「まあ正直に言ってしまえば、私は別に、カナンと結婚することで得られる利益なんて特にないわよ」
それでも一緒にいたいから、ちゃんと、言葉にしなきゃいけない。リンフィのような存在を目の当たりにして、初めて焦りのようなものも芽生えていた。
(カナンの側に差し支えないようなら、できるだけ早く準備を調えてさっさとプロポーズしておきましょう)
ジェスタのことも、カナン自身のことも、私は背負わなければいけないし、背負ってやりたいと思っているのだ。
ふん、と鼻を鳴らして、エウラリカは高らかに宣言した。
「カナンには、私からきちんと話をしておくわ。あなたは何も心配しなくて結構」
(――――は?)
様子を窺おうと聞き耳を立てた矢先の発言に、カナンは耳を疑った。
エウラリカがリンフィに喧嘩を売ったと聞いて駆けつけたのだが、どうも様子がおかしい。話題になっているのは間違いなく自分だと考えていい、と、思うのだが。
(いま、なんて言った?)
部屋の外で待たされている侍女は焦った様子で、カナンと半開きの扉を交互に見比べている。仕草だけで『伝えなくて良い』と合図をして、カナンは扉の影に潜んだまま、口元を覆った。
『私は別に、カナンと結婚することで得られる利益なんて特にないわよ』
最初に聞こえたのは、そんな台詞である。そこからしか聞いていないが、間違いなくあれはエウラリカの声だった。カナンは蒼白な顔で、彼女の言葉を反芻する。
しかも、そのあとになんて言った、……『カナンには、私からきちんと話をしておくわ。あなたは何も心配しなくて結構』!?
「それってつまり、エウラリカ様は閣下と――」
リンフィの返事をみなまで聞ける気がしなくて、カナンは咄嗟に顔を背けた。扉の前に控えていた侍女や兵に「俺のことは黙っておくように」と小声で告げて、努めて平然とした足取りで踵を返す。
つまりは、こういうことだろうか?
何が目的かは分からないが、自分と結婚したいリンフィが、エウラリカに直談判した。
恐らくそのときに、リンフィが廃嫡に関する話をちらつかせたのだろう。
それを受けて、エウラリカは、自分は身を退いてリンフィの後押しをすると決めたに違いない。
(……まずい)
全身に冷や汗をかきながら、カナンは足早に自室へ向かう。
(このままでは、エウラリカに捨てられる……!)




