払暁きたりて
呆気に取られるユインの横をすり抜けて、エウラリカは駆け出した。階段を一段飛ばしで駆け下りる。途中でつんのめり、三段飛んで踊り場に着地する。打ち付けた膝と足裏がじんと痺れるが、そんなことに構っている余裕もなかった。大した距離でもないのに息が上がる。
(もし、おとうさまがルオニアのことを殺そうとしたと教えられていたら、私は一体どうした?)
薄らと涙が浮かぶのを、堪えられなかった。よろめきながら階段を降りきると、玄関の大扉へと両手をつく。手をついたまま、項垂れる。
(おとうさまが望むのならと、ルオニアを差し出した? ルオニアを守るために、おとうさまの前に立ちはだかることを選んだ?)
それほど重い扉でもないはずなのに、力が入らないのか、それとも時間の流れが遅くなっているのか。うんと力を込めても、扉は遅々として動かず、固定されているかのようにさえ思えた。
(私は、おとうさまか、ルオニアのどちらかを切り捨てなきゃいけなかった)
喉元までせり上がってくる何かを飲み下す。そんな二択を迫られることを思うと、言葉にもならない恐怖だった。もしも、ルイディエトかルオニアのどちらかを選ばねばならないとしたら、私はどうしただろう?
(私より先にルオニアの手紙を受け取っておきながら、それを言えない理由があった。それを言ったら、私は人を殺す選択をせねばならなかった)
扉をようやく押し開いた瞬間、風が湖上を吹き抜けた。橋の上には薄く水が張って、抜けるような青空を反射して眩しいほどに輝いていた。
(カナンがいなかったら、私はおとうさまに殺されていた)
石橋のちょうど中ほどで、人影が振り返る。冷水をかけられたみたいに、全身が末端まで冷え切っていた。がたがたと手が震える。ぽろりとまた新しく雫が頬を転げ落ちる。――私は弱くなった。
(カナンが、……代わり、に、やってくれなければ、)
実に恐ろしい推論である。これまでの献身を足下から揺るがす、考えられうる限りで最悪の結末だ。エウラリカは何も言えずに、扉から手を離して橋へと足を踏み入れる。
(私はきっと、自分でおとうさまを殺していた)
……そんなの、耐えられるはずがない。
目が合った途端、カナンは目を見張ったようだった。咄嗟に身構え、剣の柄に手をかける。それを眺めつつ、よろめきながら歩き出す。近寄らせまいとするように、カナンの立ち姿が警戒を帯びる。その様子を眺めるうちに、歩調は徐々に速くなり、気づけばエウラリカは駆け出していた。
走りながら手袋に指をかけ、むしり取るみたいに放り捨てる。
指先が早朝の冷気を切る。
勢いを殺すことは一切しなかった。カナンがおののいたように半身になる。
「エウラリカ、どうやって脱走――」
「――――この、馬鹿っ!」
胸いっぱいに息を吸い込んで叫んだ。声は幾重にも木霊し、森の中から一斉に鳥が飛び立つ。
衝動的に、手袋を外した右手を振りかぶり、渾身の力を込めて頬を打っていた。小気味よい打音が響き渡る。
「ふざけないで!」
全身で飛び込めば、受け止めきれなかったようにカナンが尻餅をついた。その前にへたり込んで、両手で胸ぐらを掴んで、エウラリカは涙声で怒鳴っていた。
「――っ私が! ……私がいつ、あなたに全部背負えだなんて頼んだ!」
初めて人の頬を打った手のひらが、火照ったようにじんじんと痛い。頬を押さえたまま、カナンは呆然とこちらを見ている。
「エウラリカ、手……」
「そんなの今は関係ない!」
叫んで、歯を食いしばった。熱い雫が次から次へと頬から顎、胸元へと落ちてゆく。何とか息を整えようとするのに、どうしても肩が揺れるのが抑えられないのである。
跳ねる呼吸の合間に「ルオニアからの手紙」とだけ呟けば、その顔色が一変した。ああ、と呻いて顔をしかめる。忌々しげな表情を見るにつけ、苛立ちと底なしの不安が襲う。
「どうして言ってくれなかったの」
胸元を鷲掴みにしていた指先から力が抜け、ゆるゆると落ちる。
「言ってよ。何でも洗いざらい話してよ……」
気づけば子どものように喉を鳴らして泣きじゃくっていた。カナンはものも言えないほど驚いた顔である。その胸に額をつけて、エウラリカは呻いた。
「一緒に行こうって、言ったじゃない。あなたが分かってくれるならそれで良いって、言ったでしょう。なのにどうして置いていこうとするの」
必死に息を飲み込む背中に、おずおずと手が触れる。
どれくらい長い間、そうしていたか分からなかった。躊躇するように一度頭を掻いてから、カナンが苦笑を含んだ声で吐き捨てる。
「……あなただって、俺に言っていないことの一つやふたつ、あるでしょう」
「私は良いの」
背を撫でる手を振り払う元気はない。カナンの言葉に、薄々察するものはあった。たぶん彼は、既にすべて知っているのだろう。死んでもひた隠しにしたかった様々なこと。明らかになってしまう前に、逃げ切るみたいに死んでしまいたかった秘密のこと。
知られたからには生かしちゃおけないはずなのに、それなのに、体が動かないのだ。しゃくり上げる背をなおもさすりながら、カナンはようやく詰めていた息を吐いたようだった。
両手を背に添えて、カナンが小さな声で呟く。
「言ったじゃないですか。ずっと昔に、『僕が守る』とか、そんなこと……」
その言葉は、覚えていた。幼さゆえの全能感と無鉄砲が言わせた、実のない約束だと思っていた。
「誰のことを裏切らなくてもいいように、近しい人間を切ることがないようにって、言いました」
消え入りそうな声で語るカナンの心拍を聞きながら、エウラリカは目を閉じた。初めてそれを聞いたときにも、思ったはずだ。彼をこれ以上私の傍に置いてはいけない。あまりにも可哀想だ。そう思ったはずなのに。
「もっと早く、あなたを手放すべきだった……」
「今更放逐されたら、恨みますよ」
縋るように掻き抱く腕に身を任せる。風が吹き抜ける。息苦しいほどに締め付ける腕の強さを思いながら、彼女はぼんやりと遠くの空を眺めていた。
小さな少女のような怯えが、ずっと腹の底で蹲っているのである。わたしの人生のすべてがまやかしで、あるとき突然、抗いようもない大いなる力で取り上げられてしまうのだと、そんな不安がずっとある。
何に掴まることもできないまま、いつ割れるとも知れぬ薄氷の上を歩き続けているような心許なさが。
「だったら、責任を取って、もう絶対に放さないって誓って」
手袋を嵌めたままの左手で頬に触れると、カナンが息を飲んだ。
「もう、こんなこと二度としないで」
目を見つめて、怒気を込めた低い声で、はっきりと告げる。「はい」とカナンが息だけで囁いた。
「ごめんなさい」
その声が震えているのを聞きながら、エウラリカは目を伏せた。そこに含まれる怯えを感じ取り、思わず口元に曖昧な笑みを浮かべていた。背に触れる手が震えている。
「……俺のことを、恨みますか」
「今は答えられる気がしないから、十年後くらいにまた訊いて」
言葉遊びのように答えると、カナンは虚を突かれたように目を見開いてこちらを注視した。
「十年後も、一緒にいてくれるんですか」
「私が嫌がっても隣にいるって言ってたのは誰?」
呆れて苦笑しながら、エウラリカは目を細めた。手の甲でぐいと目元を拭う。
「……何回言ってもあなたには響いていないようだけど、もう一度言っておくわ」
指先を伸ばして、人差し指で顎を上げさせた。顔をもたげたカナンが、朝日に眩しそうな表情になる。そっと顔を寄せて、耳元で囁く。
「――私、あなたと一緒に死ぬくらいの覚悟はできているのよ」
言ってから頬に軽く口づけると、エウラリカはさっさと立ち上がった。
呆然と立ち尽くしているウォルテールとデルトに向かって、片手で合図をする。そちらに向かって歩き出しながら、エウラリカは振り返ることなく、カナンにだけ聞こえるように鼻を鳴らした。
「立ちなさい。私、ずっと腰の抜けた腑抜けを隣に置いておく趣味はないわよ」
言って、額を真っ直ぐに上げる。静かな湖面は時折さざ波が立つ以外は水鏡そのもので、まるで世界がすっかり反転してしまったかのような錯覚を受けた。その中を、一歩ずつ確かに歩いて行く。
どうしようもない喪失感が胸に大きな穴を空けているのに、その穴の形が分からないのである。きっと今までも、求めるものの形を分からないままで歩いてきたのだろう。
(……おとうさま)
彼の助けになりたかった。少しでもその人生に介入したいと思っていた。こちらを振り返って欲しかった。その気持ちをなかったことにすることはできない。必ず向き合わなければならない。
橋を渡り終えて急坂を上がると、柔らかい草と土の感触が足を受け止める。それが妙に懐かしく思えて、エウラリカは胸いっぱいに息を吸った。
訳が分かっていない様子ながら、ウォルテールが慎重に歩み寄ってくる。
「エウラリカ様、その……出発のご準備の方は」
「今からすぐに準備をするわ。あまり荷物は持ってきていないから、時間はかからないはず」
肩を竦めて応じると、エウラリカは馬車を一瞥した。
「東ユレミアでサイラール王子を待たせているのに申し訳ないけれど、一度帝都に戻ろうと思っているの。ファリオンがこうなった以上、結婚がどうとかという話にはならなそうだもの。早めに文書を送った方が良いわね。アニナや向こうに置いてきた兵も呼び戻しましょう」
「了解しました」
そうした会話をしているうちに、まるで湖城での数日間が何かの夢だったような気さえしてくる。
けれど、夢であるはずがない。体ごと振り返れば、離宮は何も言わず、華やかさのない威容で湖の中に佇立している。いくつもの秘密を抱えてなお平然とした素振りである。
きっとこの城を訪れることはもう二度とないだろう。だが、一生忘れることはあるまい。忘れてはならないとも思う。
既に早朝の霧は晴れ、この時期にしては珍しい、まばゆいばかりの陽射しが降り注いでいる。まるで皮肉のように晴れやかな光景に、思わず目を細めてしまう。
「カナン」
近づいてきた足音がすぐ横で止まったのを聞きながら、エウラリカは呼びかけた。
「私たち、やっぱりとっても悪い子ね」
ユインが小走りに橋を渡ってきている。一歩ごとに波紋が足跡のように広がり、ぱちゃぱちゃと軽い水音がしていた。
「はい」とカナンが頷いて、額にかかった髪を片手で払う。遠くを眺めている横顔を一瞥して、エウラリカは腹の前で十指を絡める。
「……こんな悪い子のことは、おとうさまもきっと見放してしまうわね」
カナンは自嘲には頷かなかった。ただ黙って、視線を向ける。目を合わせただけで、通ずるものがあった。
ありがとうとは決して言わない。言ってはならない。
だから、袖を引くだけにした。一瞬だけ眉を上げて、カナンが薄く微笑んだようにみえた。
***
グエンとリェトナに別れを告げ、朝靄が晴れてきた頃に一行は離宮を発った。森の道へと馬車が入っていくにつれて、背後の湖城が遠ざかってゆく。木漏れ日が馬車の窓から膝元へ降り注ぎ、木立の隙間に見え隠れする城は作り物めいて見えた。
完全に湖城の姿が見えなくなった頃、エウラリカは「そういえば」と足を組んだ。
「お前、ユインに浮気したでしょう」
カナンがあの手この手で小細工をするにあたって、協力したのがユインなのは明白である。ウォルテールがファリオンの見張りをすると言い出したとき、真っ先に手を挙げたのもユインだ。
「はて」と向かいで白々しく呟いて、カナンが肩を竦めた。
「この浮気者」
言って、エウラリカは鼻を鳴らす。
思い返せば、ユインの言動はやたらと臨機応変だった。カナンから、今回の計画についての大半を伝えられていたに違いない。
(ユインにファリオンを殺す動機はなかったかもしれないけど、おとうさまを殺す動機はあった)
ルイディエトの過去の闇に対し、義弟が一瞬だけ垣間見せた歓喜が蘇る。ぎらついた目をしたユインの姿を思い浮かべながら、エウラリカは頬杖をついた。ユインはルイディエトを陥れたかったのだろうか。今更考えても詮無いことを考える。
カナンやノイルズは一ヶ月前に到着しており、ユインだけが湖城に遅れて到着したのだ。日数を考えると、ユインが呼び寄せられたのは、カナンが旧レウィシスからこの湖城に到着してからのことだろう。
彼がユインを協力者に選んだということに、驚きこそすれ、不思議には思わなかった。敵意がなさそうで、まるで何も考えていないようで、あれは周りを非常によく見ている。末恐ろしさに、エウラリカは薄ら寒さを覚えた。
ユインは物心ついたときから帝都から離れた離宮で育ったのである。彼の実父であるルイディエトが、ユインもとい後妻である側室を訪ねるとは思えない。ユインのもとへ足を運んでいたのは、ラダームただひとりだけ。
(お兄様……)
瞑目して、エウラリカは瞬きのような木漏れ日を浴びていた。
何も分かっていないと思っていた兄は、きっと同時に、自分には分からないことをよく知っていたのだろう。今更気づいても仕方のないことだ。
(私は、何のために産まれてきたのかしら)
虚ろな思いで、傍らに置いていたルオニアからの手紙をそっと手に取る。彼女の直筆を見るのは初めてだったが、ルオニアらしく、一文字ずつが力強くて歯切れの良い筆跡をしていた。
「俺が帝都を外している間に届いたのだそうです。どうやら個人的な手紙のようだから念のため、とユインがここまで」
「そう」
頷きながら文面を眺め下ろして、エウラリカはふと『追伸』という言葉に目を留めた。部屋で見たときには気づかなかった、最下部に加筆された数行である。
『話は変わるのだけれど、今度子どもが産まれることになりました。最近は毎日名付けに悩んでいます。落ち着いたらまた連絡するね!』
「ええ!?」
思わず手紙に顔を近づけて、エウラリカは目を疑った。もう一度追伸を読み直すが、やはり内容に間違いはないらしい。向こうの言葉を読み違えているのかとも思ったが、そうでもなさそうだ。
「誰の子!?」
手紙に向かって叫ぶが、当然ながら返事はない。呆気に取られて顔を上げると、カナンも「だいぶ驚きました」と真剣な顔で頷いている。
「俺は全く分からないのですが、何か心当たりは」
「手紙を運ぶのにかかる時間を考えると、ルオニアだって即位した直後あたりにこれを書いたんじゃないの? ルオニアはもともと男子禁制の宮殿にいたんだし、今のルオニアが誰と近しいのかなんて私だって知るはず……」
と、そこでエウラリカは動きを止めた。
(ポネポセア)
彼女がそれを必要とした理由に思いを馳せる。数秒間呆然としてから、エウラリカは「アドゥヴァ」と小さく呻いた。
「え?」
流石に耳を疑ったのか、カナンが身を乗り出して聞き返す。
「アドゥヴァって、あの男ですか?」
「可能性としては、ありえるわ」
「それは……」
口ごもったカナンが言わんとすることは、何となく分かる。ルオニアとアドゥヴァの間に横たわる並々ならぬ因縁はもちろん、――これから新体制となって南方連合を立て直していかねばならない状況下で、アドゥヴァの血を引く王子あるいは王女は、決して歓迎されはしないだろう。
(産まれない方が、幸せなんじゃないの?)
そんな考えが頭をよぎる。
「……それでも産むって決めたのね」
もし自分がルオニアの立場なら、同じ決断はできない、と思った。この世には産まれるべきではない子どもがいる。どうせ幸せになれない人間がいる。エウラリカはそうした諦観の中で生きてきた。それでも、ルオニアは我が子を幸せにすると決めたのだろう。だから産むのだろう。
彼女の決断を、フェウランツィアと同じく身勝手なものだと断じてもよかった。今まさに抱いている嫌悪を無視することはできなかった。拒否感が胸の内でずきずきと主張する。
「……ルオニアなら、きっと大丈夫よ」
言い聞かせるように呟いて、エウラリカは膝の上に手紙を置いた。
こうして、人の営みが前に向かって続いてゆくのだと、内心で呟く。たとえ誰にも祝福されずに産まれた存在だって、その中にいても良いのだろうか。甘い願望に身を委ねたいし、自ら凄惨な道を選び続けてきた自分には許されないような気もしていた。
(私は駄目でも、)
……新しく生まれる子が、手を汚すことなく、おぞましいものに直面することなく、健やかに育って欲しいと思っているのは本当だ。
「おとうさまが亡くなって、これからのことを考えていかなきゃいけないわね」
言いながら、エウラリカは毛先を弄ぶ。
帝国と南方連合の対立を避けるべく、先に弓を引いたルイディエトの権威を排除せねばならぬと思っていた。今回の騒動でそれも、予想外の形で収束してしまった。
背後で指示を出していた先代亡き今、その影響を排するのは残党狩りに等しい処理であろう。あのルイディエトが、自分の後釜となる人材を育てていたとも思えない。旧帝国の痕跡を消し去らんとする人間も、もはやどこにもおるまい。
ならば、これからは旧帝国とナフト=アハールの関係を明らかにし、諸々の因縁を清算して、平和的な解決をして、……。
作業を順に思い浮かべることはできるのだ。けれど、それが何のためのものなのか、どこへ行き着くのかが分からない。助けたかったひとは、もうどこにもいない。
俯いて、空の手のひらを見下ろして、エウラリカは内心で呟いた。
――これから私は、何を目的に生きていけば良いのだろう?
顔を上げれば、カナンと視線が重なる。カナンは一緒にいてくれるけれど、道を示してくれる訳ではない。示させる気もない。
憑き物が落ちたような晴れ晴れとした気分と、虚ろな脱力感が背中合わせに存在していた。
車輪はからからと規則正しく回り続ける。
行く手に見える空は晴天である。
第三部二章「湖城編(先帝暗殺編)」完結です。
次章の開始までしばらくお待ちください(次章は軽めにする予定です)。




