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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
変革せし帝国と手繰る系譜【湖城】

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三通目


 絶対に眠るものかと思ったのに、部屋が徐々に明るくなってくる頃に少しだけ瞼を閉じてしまったらしい。はっと息を飲んで、エウラリカは飛び起きた。きょろきょろと辺りを見回す。

「ここは……」

 カナンの部屋である。部屋の中には人影はない。寝台の上で上体を起こしたまま、エウラリカはしばらく呆然としていた。身じろぎもできずに固まっているうちに、昨晩のことがゆっくりと実感を伴って蘇ってくる。


(……結局、私はカナンを殺せなかった)

 阻止されたと言い訳するのは不公平だろう。たとえカナンが刃を防がなかったとしても、自分はたぶん、彼を殺せなかった。



 ため息をついて、寝台から降りる。と、そのとき窓の外から声が聞こえた気がして、エウラリカは耳をそばだてて動きを止めた。やはり人の声がする。

 足早に窓際へ歩み寄ると、橋を渡った先に馬車が並んでいた。水は既にほとんど引いており、橋の上では足裏に触れる程度なのだろう。水面を波立たせながら、荷物を持ったウォルテールが橋を渡っている。

 名前は確かデルトといったか、ウォルテールの部下がその荷物を受け取って荷台に積み、何事か話しているようだ。


 まだ朝日が昇りきらない時間帯である。薄く霞がかった白い光の中に、長い影が落ちている。鼻を赤くして白い息を吐きながら、デルトがあれこれと身振り手振りを交えて、笑顔で一生懸命報告をしている様子である。

 どういう訳か、それが日常を強く象徴する光景に思えて、エウラリカは窓に手のひらを押し当てたまま押し黙った。硝子の冷たさが分からないのは手袋のせいだ。


 外に出ようと、踵を返して扉へ向かう。しかし、ドアノブを捻っても扉が動かない。力を入れれば指一本分ほどは前後するのだが、開かなそうだ。おおかた、扉の外に物を置いて塞がれているのだろう。先に部屋を出たカナンの仕業なのは考えなくても分かった。全身で押せば動かないこともなさそうだが、骨が折れそうだ。


(本当に腹の立つ……)

 人がいないのを良いことに思い切り舌打ちをして、エウラリカは扉から手を離して部屋の中へ戻った。どうせそのうちカナンが来るに違いない。



 まだカナンの荷造りは済んでいないらしい。文机の上に細々とした物品が並んでいるのを眺めて、彼女は引き出しに手を伸ばした。造りが良いのだろう、滑らかに動いた引き出しを覗き込むが、中に入れられた物は決して多くない。


「……これ、」

 と、無造作に入れられていた封筒に自分の名を見つけて、エウラリカは目を瞬いた。慎重に取り上げて目の高さに掲げると、やはり宛名はエウラリカ・クウェールとなっている。封筒を裏返して、彼女は息を飲んだ。


「ルオニア……?」

 送り主は、ルオニア・ドルテール。南方連合を匂わせるような印章や文言は一切なく、これを見て一目で南方連合の長から送られてきた手紙だと分かる人間は少なかろう。

 一見すると封は切られていないように見える。が、カナンの部屋の机にあった時点で彼が中身を検めていないはずがない。


 今すぐ文面を確かめねば。はやる気持ちとは裏腹に、指先は情けなく震えて思い通りに動かない。苛立ちながら封を切って、エウラリカは力の入らない手で便箋を開いた。並んでいるのは向こうの言葉だが、読み取りにさしたる不自由はない。


『例の、あなたの予想していた人が生きていました』

 形式的な挨拶を読み飛ばして真っ先に目に入ったのは、拍子抜けするほど飾り気のない一文だった。検閲が入ることを警戒しているのか、用件は曖昧である。エウラリカは一拍遅れて思い至り、「エーレフ」と呟く。


 サハリィ家が主導したナフト=アハール包囲の際に、カナンが妙な人影を見たのだと言っていた。物陰に隠れて、自分のことをじっと窺う、帝国風の男がいたのだ、と。その身の丈や髪色を聞いたエウラリカは、ある懸念をひとつだけ漏らした。――万が一エーレフが生きていたら、彼はきっと自分を見張っているだろう。


(エーレフが、生きていた)

 それが意味することを咄嗟に量りかねて、エウラリカはその場に立ち竦んだ。嬉しいのか恐ろしいのか、自分でも分からない。


『当該人物による襲撃を受けたため、こちらで対応させて頂きました。恐らくはそれまで宮殿内に潜伏していたと予想され、こちらの状況は相手に筒抜けになっている恐れがあります』

 襲撃の一言に、エウラリカは指先が冷たくなるのを感じた。言葉は少ないが、狙われたのはルオニアだろう。

(エーレフが、ルオニアを殺そうとした……)

 対応、と濁してはいるものの、新女王を暗殺せんとしたのである。まさかお叱りを受けて無罪放免のはずがない。多分、もうエーレフはこの世にいない。


 こちらの状況が筒抜けになっていたとすれば、だ。

(おとうさまは、私たちが南方連合で旧帝国の痕跡を見つけたことを、知っていた)

 どこで何をしていたんだい、と何も知らないような素振りで訊きながら、ずっと一部始終を把握していたのだ。ルオニアのことも、ナフト=アハールで見出したドルテールのレリーフのことも、きっと。

 ある程度の行き先は知られているかとは思っていたが、まさかエーレフがナフト=アハールに潜伏していたとは思わなかった。ぞっと寒気が背筋を走る。


『こちらは警備を増やして次の襲撃に備えています。あなたとあなたの「よき相棒」も、身辺には重々気をつけてください』


 そこまで読んだところで、エウラリカは手紙を机の上に戻した。

 ゆらりと体を反転させ、扉へ向かう。ドアノブを捻って強く押すが、足が滑るばかりである。荒い息を吐いて一歩下がると、エウラリカは勢いをつけて扉に肩から体当たりした。外に置かれているものが棚か机かは分からないが、ず、と僅かに動いた手応えがあった。


 扉を壊さんばかりの勢いで何度もぶつかるうちに、頭が通る程度の隙間が空く。そっと頭を覗かせて外の様子を窺うが、近くに人はいないようである。扉の前を横切るように置かれているのは隣から持ってきたらしい机のようだ。


 扉の可動域を幾分か大きくしてから一度部屋の中に戻り、エウラリカは椅子を持ち上げて取って返した。扉の隙間に椅子の脚を差し込むと、それを梃子代わりにして無理やり扉をこじ開ける。



 頭を通し、体を捻って肩を通すと、エウラリカはねじ込むようにして隙間から這い出た。机の上に膝をついて息を整えていると、談話室から出てきたユインがこちらを見上げ、目が合う。

 ユインは「あ」と声を漏らして、あからさまに狼狽えているようだった。どうせカナンが『部屋から出すな』だの何か言ったのだろうと推測はつく。

 小走りに真下まで近寄ってきたユインが、まだ何も言っていないのに宥めるような仕草をした。


「あの、姉上、えーとね、閣下は今ちょっと手が放せないって……」

「マーキスはどこ?」

 遮って問うと、ユインは戸惑いがちにエウラリカのすぐ横を指さした。

「ちょうど、その隣の部屋にいるはずです」



 そういえば、マーキスは一度舟を使って逃亡しようとして以来、カナンの隣の部屋に隔離されていた。エウラリカは無言で机から降りると、大股で隣の扉へと歩み寄る。「出てきなさい」と拳で数度殴りつければ、怯えたような表情でマーキスが顔を覗かせた。


 ユインが階段を上がってきて、様子を窺うように半歩後ろで立ち止まる。視線を感じながら、エウラリカは居丈高な口調で「マーキス」と呼びかけた。じわりと嫌な汗が背中を伝う。心臓が恐ろしいほど早鐘を打っているのに気づかないふりをして、彼女は腰に手を当てた。

「そういえば聞き忘れていたのだけれど」と首を傾げる。


「――私を毒殺するための薬って、おとうさまから支給されたものなの?」


 当然のことを聞くような、何気ない口調で言う。背後で「え」とユインが間抜けな声を漏らした。マーキスは落ち窪んだ目で「やはり、お気づきでしたか」と項垂れる。


「その通りです。陛下に命じられて、どうしても拒むことができず……」

「そう、分かったわ。質問はそれだけよ」


 落ち着いた口調で頷くと、エウラリカはくるりと踵を返した。ユインが「待ってください」と追いすがる。

「ど、どういうことですか? 父上が、姉上の命を狙っていた? それを姉上は分かっていたんですか?」

「質問は、ひとつにしなさい」

 素っ気なく返しながら、心臓が嫌な脈打ち方をしていた。耳の奥で血の流れる音がする。知らず知らずのうちに呼吸が浅くなり、手のひらに汗が滲む。吐き気が込み上げて、思わず息を止めた。


 ……やはり自分はもう、あの人にとって従順で可愛い娘ではなくなっていたのだ。


(おとうさまは、旧帝国の痕跡を消すためなら、罪のない異土の民を殺戮することに躊躇いない人だわ)

 恐ろしいひと。決して私を振り返ることのない人。不都合になれば、誰だって切り捨てられる人である。


 自分が不要と判断されたと聞いても、驚きはしない。驚きはしないけれど、知りたくなかった。

(……本当なら、おとうさまに見捨てられる前に、死んでしまいたかったのに)

 愛されていないと薄々分かっていながら、それを突きつけられることを何より恐れている。臆病と僅かな期待を理由に必死に縋り付いて、馬鹿みたい。


 それは、死ぬより恐ろしいことだと思い込んでいた。愛されたい人にどうしても愛されないことが、人生が途絶するほど絶望的なことだと思っていた。


(――私、生きてる)


 己の手を見下ろして、エウラリカは深く息を吸った。おおよその事情が掴めて、次に腹の底からふつふつと湧き上がってくるのは、やり場のない苛立ちである。出口を失った感情が膨れ上がり、ゆっくりと顔を上げる。慎重に弦を引くように、しなった弓に力が込められてゆくように、全身が張り詰める。


「あ……姉上?」

 戸惑いがちにユインが顔を覗き込んでくるのにも反応できなかった。


 考えろ、と内心で呟く。


(マーキスに毒を盛られていたとして、それを避けられたのは、ただの偶然ではあるまい)

 彼の用意した紅茶を『あとにしましょうか』と遠ざけた手を思い出す。皿を交換しようといきなり言い出したときも変だと思った。あのときはマーキスは同席していなかったから、実際に毒が盛られていた可能性は低かろう。それでも、彼はずっと警戒し続けていたのか?


 普段なら、『何もなければ』、一言伝えてくれれば済んだ話だ。

 どうやら先代があなたの命を狙っているようですよ。マーキスが毒を盛りそうなので気をつけた方が良さそうですよ、と。

 ……『何もなければ』すべての事情を話してくれたはずのカナンは、どうして何も語ろうとしなかった? どうして『わざわざ』、こんな面倒な真似を……。


 顔を歪めて、エウラリカは強く拳を握りしめた。これ以上ないほど最悪な気分だった。


(――――っカナン!)




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― 新着の感想 ―
[一言] そりゃ、おめーさん…父親から必要とされないくらいなら死んでもいい、なんて考えがあるかもしれないなら、「ルイディエトはあなたを切り捨てるつもり」だなんて言えねぇよ、カナンとしては。 というか…
[気になる点] >愛されない人にどうしても愛されないことが 愛されたい人に、かな? [一言] よもや到着初手から毒殺の罠が・・・
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