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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
変革せし帝国と手繰る系譜【湖城】

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斜陽 2



「さて、いきなりだけど、用件というのは単純なの」

 斜めに光の射し込む部屋の中で、エウラリカは後ろ手に鍵を閉めた。部屋の中で立ち竦んでいた青年は、その場でよろめいて尻餅をつく。


「うぉ、ウォルテール将軍に、聞いたんですか」

 怯えた声である。

「ウォルテール? お前、あれに相談したの」

 目の前で青ざめて震える姿を見下ろして、エウラリカは腰に手を当てた。

「私は、何も聞いていないわ。ウォルテールを頼るのは正しい判断だったみたいね」と肩を竦めると、彼女はそっと膝を折って相手の目を覗き込んだ。


「私がここに来たのはただの勘よ、ノイルズ」

 とはいえ、八割の確信に基づいた勘である。



「ノイルズ。あなた、家族はいる?」

 問うと、恐る恐る「はい」と返事がある。「妻と、息子がひとりいます」

 だから何なのか、と警戒しているのが見え見えの口ぶりであった。

「既に所帯を持っているのね、立派だわ」と言いながら、エウラリカはしたためたばかりの書簡をノイルズに押しつける。正体を確かめるように視線を落としたノイルズへ、強い口調で言う。

「大切な家族なのよね?」

「ええ、はい。もちろんです」

 躊躇いのない返事に、思わず笑みこぼれていた。窓の外は既に夕暮れである。稜線の縁が、まるで燃えるように赤い。


「それなら、今すぐこれを持って逃げなさい、ノイルズ」


 書簡には、エウラリカ・クウェールがこの者の身柄を保証すること、便宜を図って欲しいことなどが記されている。宛名は、ネティヤ・エルール。

「これは、一体……」

「勝手なことを言っているのは分かっているわ。でも時間がないの」

 真剣な表情で、エウラリカは腰を抜かしているノイルズの前に膝をついた。


「妻と子を連れて、ウディルで州知事を頼りなさい。詳しい事情までは話さなくても良いから、しばらくウディル、あるいはどこかの田舎で身を潜めて頂戴」

 ノイルズの自室にいきなり押しかけ、この暴挙である。呆然としていたノイルズだったが、ようやく我に返ったように「どうして」と呟いた。


「ひとつ、聞いても良いかしら」

 尻餅をついた間抜けな姿勢のまま、ノイルズが小さく頷く。エウラリカは膝に手を置き、短く問うた。

「この城の部屋割りを決めたのは誰?」

 カナンにも訊いたものと同じ問いである。『さあ』とカナンが首を傾げる。『マーキスでしょうか?』と曖昧な答え。


 ノイルズは意図を図りかねたように少し目を揺らして、それから小さな声で答えた。

「カナンです。でもそれが何か、」

 その答えに、彼女は深く息を吸った。顔色が変わったエウラリカを見て、ノイルズが言いかけた言葉を飲み込む。


「お前は、カナンがあの晩に部屋を出るのを見たのね?」

 静かな声で呟くと、ノイルズが大きく目を見開いた。頷きかけて、慌てて首を振る。「俺は何も見ていません!」と声を荒げる様子は、恐慌と言っても良かった。

「カナンは何もしていない、だから……」

 だから、と声になりきらない息で、ノイルズは顔を歪めて床に手をついた。


「カナンを殺さないでください、お願いします……!」

 まるで小さな子どものような顔をして、頭一つ以上大きな男が懇願するのである。その様子を眺めながら、エウラリカはやるせない思いで瞬きをした。


 ノイルズの反応こそが、全ての答えである。

『犯人が見つかった場合、エウラリカ様はどうするおつもりなのでしょう』

 わざわざノイルズが手を挙げて訊いた理由が、今ならよく分かる。あのとき自分は、『犯人が分かったら、その人間を己の手で殺す』と答えたのだ。



 目の前で怯えて体を縮めるノイルズを見つめて、エウラリカは小さく首を傾げた。

「どうして?」

「は?」

「どうしてカナンを殺して欲しくないの?」

 ぽかん、と呆気に取られた顔であった。


「あなたが友達だと思った頃のカナンは、きっともういないわ。同じように、あなただってあの頃とは違っているはずよ」

 目を逸らさず、声を荒げることなく呟く。ノイルズが、耳を疑うように凍り付く。

「俺は」と口を開閉させて、言葉が出てこないらしい。


 魂だけが遠くを漂っているようだった。放心したまま、ノイルズは何も言わなかった。焦れったくなるほどの沈黙を挟んで、彼はかき消えそうな声で囁いた。

「だって、それじゃ、俺がカナンを殺したも同然だから……」

「どうしてそれが駄目なの?」

「そんなの、」

 途方に暮れたように、ノイルズはこちらを見た。ノイルズに関しては、以前軽く調べたことがある。若くして中隊長に任命され、帝都に配備されている兵の中でも出世頭として将来が嘱望されていると聞いた。要領が良く、何でも小器用にやってのけるという。上官からの覚えもめでたく、年上の部下や新米にもよく慕われている人格者だ、と。

 しかし、カナンに対して少々入れ込みすぎる癖があるのだそうだ。


 優秀な人材なのだろう。それだけに、この、子どものような怯えが歪に思える。

「俺は……、だって、カナンは、友達だから。殺したくないと思うのは当然じゃないですか」

 その手が震えていた。エウラリカは言葉を失ったまま、蒼白な顔をしたノイルズを見つめる。


「普通、友達の生死を案じるとき、『殺したくない』という言葉は使わないわ」


 目元を覆ってノイルズが呻く。

「……カナンから、聞いていないんですか」

「バーシェルは、カナンが殺したのだと聞いたわ」

「違う!」

 吠えるように叫んで、ノイルズはかぶりを振った。大きな声に思わずびくりと肩が跳ねるが、気づかれた様子はない。片手で目を覆ったまま、ノイルズは再度「違う」と血を吐くように繰り返した。


「バーシェルは、俺が殺したんです。カナンはただそこにいただけです」

 自罰的な発言である。何と答えたものか、言葉を選んでいただけなのに、ノイルズは沈黙を非難と捉えたらしい。「全部俺が悪いんです」と声を揺らす。


「俺が、言い出したことです。たとえ刺し違えてでもカナンを止めなければいけないと思ったはずでした。でも、バーシェルを殺す覚悟なんてできていなかった」

 あまりに自分が幼くて、情けなさに死にたくなる。ノイルズが呟く。耳が痛い言葉だった。


「でも、俺が死んだら、カナンを守ってあげられる人間は誰もいなくなる」

「…………。」

 守ってあげる、ときた。

 きっと彼はほんとうに情に篤いひとなのだろう。呆れにも似た諦めが胸の内に広がる。


 この場にカナンがいなくて良かった、と痛切に思った。今のノイルズの言葉を、彼に聞かせたくはない。

「ノイルズ」と呼びかけると、ぴたと口を噤む。


「カナンは、もう、ちいさくて可哀想な奴隷の子どもじゃない」

 硬い声で告げると、彼は哀しげな目をした。ノイルズだって、本当は心のどこかで分かっていたはずだ。彼らの立場は、あの頃とは決定的に異なってしまっている。はい、と彼は小さな声で頷いた。



「それに」と続けるには勇気がいった。黙ってそのあとを待ち構えているノイルズから目を逸らし、エウラリカはなおも躊躇する。

「私が」と、やっとの思いで絞り出した声は嗄れていた。咳払いをして、再び口を開く。


「――私が、いる」


 ノイルズが、大きく目を見開く。

「カナンを今のカナンにしたのは、私だわ。だから、カナンを救うのも、止めるのも、私の役目でしょう」

 俯いて、手首に嵌まる腕輪をそっと撫でた。ありとあらゆる感情が押し寄せて、一瞬息ができなくなる。少なくとも、他人に開陳できるような、綺麗で整頓された思いでないことは確かだ。


「私は、カナンの人生に責任がある」


 自分の幼さゆえの一言で、全てを狂わせたのである。違う出会い方をしていたなら、真っ当で幸せな関係を築けたのだろうかと今でも考えることがある。そんな夢想はもう捨てなければならないとしても。



「早く行きなさい。私が足止めをするから、誰にも気づかれないうちに近くの村まで行くの。今からなら、急げば完全に日が落ちる前に村へ着けるかもしれない」

 路銀の足しにと、鞄の底に隠してあった宝飾品の袋を手渡す。ノイルズは拒まなかったが、しかし不安げである。

「エウラリカ様は、カナンを殺さないのですよね?」

 その言葉に、エウラリカは微笑んで小首を傾げることで答えた。



 ***


「――あの晩、ユイン様と見張りを交代したあと、どうしても心配で眠れないでいました。万が一、ファリオンが暴れ出したら、ユイン様では太刀打ちができない。けれどユイン様から、自分だけで大丈夫だと強く言われてしまった手前、あまり声をかけることもできず……。仕方なく、部屋の中でいつでも出られるようにと待機していました」

 何とも目に浮かぶ場面だった。ユインも今回の件に一枚噛んでいたのである。ノイルズを遠ざけるために言葉を重ねたことは想像に難くない。


「それで?」と優しい口調で促すと、ノイルズは言い淀んだ。

「それで、……何度か、そっと扉を開けて確認していたんです。もしも差し支えがあるようならすぐに交代しようと思っておりましたから……」

「そのときに、カナンを見たのね?」

 頷いたノイルズの顔は青い。


「カナンの部屋は二階のはずです。なのに、俺が見たとき、カナンは向かいの棟の四階にいた。四階には先代とユイン様の両陛下の部屋しかない。ユイン様は見張りに当たっていると思うと、先代陛下のところへ向かっているのだと推測しました。あんな夜間に動くのだから、俺には分からない内密の話でもあるのだろうと思って、見なかったことにしてそのときは胸にしまいました」

「そして夜が明けたら、おとうさまが殺害されていた。だから、カナンがやったと思ったのね?」

 はい、とノイルズが囁く。


「どうすれば良いのか、分からなくて。カナンの身を脅かすことなんてしたくない。でも、今カナンを見逃したら、俺はもう、カナンの友達ではいられない気がして、」

 迷子の子どものような顔をして、ノイルズは零した。私だって、どうすれば良いのかなんて、ずっと分からないままだ。自然と顔が下を向いていた。


「……私もね、カナンのことがちっとも分からないの」

 同じ食卓を囲んでも、数え切れないほど言葉を交わしても、分からない。手を伸ばせば届くところにいるカナンに、どうしても手が届かないのだ。


「結局、人の内面になんてどうやっても決して触れられないし、完全に推し量れるわけがないのよ。だから分からないままでも構わないはずなのに、それなのに、知りたくて……」

 ノイルズは再び「はい」と小さく頷いた。



 野火のように山が赤く染まる。鮮烈な茜色が目に染みる。足元から長い影が伸びていた。強い風が吹き寄せて、窓はがたがたと音を立てる。蜂の羽音にも似て、隙間風が低く唸りを上げる。

 黙りこくったまま動かないノイルズを見つめて、エウラリカは噛みしめるように告げた。


「カナンの友達でいてくれてありがとう、ノイルズ」

 いえ、と消え入りそうな声でノイルズがかぶりを振る。


「俺たちは多分、ずっと前から……あのときにはもう、友達ではなかったんです。自分の罪悪感を友情だと思ったから変になったんだ」

 そんなことない、と言ってやるほどエウラリカは優しくなかった。微笑むことなく、黙ってその言葉を受け止める。

「でも、カナンのことを、大切に思ってくれていたのは本当なんでしょう?」

 問うと、ノイルズは泣き笑いのような表情で頷いた。



「私の我儘でごめんなさい」と厚顔無恥な言葉は舌の上に強い苦みを残す。

 カナンをどうしたいのか分からない。自分が何をしたいのかも分からない。けれど、これだけはもう決めたのだ。


「私は二度と、カナンに友達を殺させたくない」

 だから、とエウラリカは服の布地を強く強く握り締めた。

「もう、カナンに関わらないで」


(――もし、私がしくじったとして、)

 これから先、二度と彼の判断が狂わないように。彼が近しい人間のために手を汚すことのないように。近しい人間を失って苦悩することのないように。


「私の知らない遠いどこかで、あなたが幸せに暮らしているんだって信じさせて」




 ***


 これが、この湖城での最後の食事と思うと妙に感慨深い。

「ユイン食堂もついに閉店ですね。ご愛顧どうもありがとうございました」

 白々しく涙を拭うふりをして、ユインが鍋の蓋を閉じる。実に嘘くさい言葉に、数秒前まで感じていたはずの少々の寂寥が吹っ飛んだ。


「ついに閉店と言っても、グエンが来てからはほとんど何もしていないでしょう」

「それは言わないでくださいよ」

 肩を竦めたユインを一瞥して、エウラリカは頬杖をついた。


 狼煙を上げて数刻、街から数人が御用聞きに現れた。明朝に迎えの馬車を寄越すようにと言伝をして帰したから、明日の朝にはもうここを発つ手筈だ。外は既に完全に夜闇である。

(ノイルズはもう村に着いた頃かしら)

 無事に到着していれば良いが、と案じる。頬杖を解いて、膝に手を置いた。



 長いようで、あっという間だったような気のする四日間であった。ぼんやりとしながら、エウラリカは湯気の立つ皿を見下ろす。

(カナン)

 机を挟んだ向かいで平然と人に紛れている顔を、そっと窺った。まるで何も知らないみたいな顔をして、いけしゃあしゃあとここにいる。


 ウォルテールが先程から何も語ろうとしないのも気にかかっていた。目が合いそうになると、途端に視線を外す。相変わらず分かりやすい男である。

(カナン、私は、)

 片手をもたげて、食器を手に取る。陰鬱な気持ちで目を伏せた直後、気楽な口調で声がかけられた。


「エウラリカ、こっちの方が量が多いので、交換しましょうか」

「え?」

 顔を上げると、スープの入った器を持ち上げてカナンがこちらを見ている。訝しんで眉をひそめ、エウラリカは「結構よ」と首を振った。今はカナンに近寄りたくない。


「大体、普通は量が多い方をお前が食べるんじゃないの?」

「でも、昨日も、今日の昼食も、ろくに食べていないでしょう」

 食べ物が喉を通らないのは本当だった。図星を突かれて、エウラリカは黙り込む。そうしている間に、カナンはさっさと身を乗り出して器を交換してしまう。大きな声を出してまで制する気力がなくて、その様子を静観していると、ふとウォルテールが唐突に口を開いた。




「そういえば、ノイルズはどこへ?」


 席が一つ空いている。ウォルテールが呟いた瞬間、やけに俊敏な仕草でカナンが振り返るのを見た。

「体調が優れないから休ませてくれって、さっき廊下ですれ違ったときに言われたわ」

 平静を装って、エウラリカはそれだけ答えた。「食事はあとで摂るから、食堂に置いておいて欲しいって」


 何やら気がかりそうな表情で、ウォルテールが腰を浮かせかける。カナンがゆっくりと扉の方向へ顔を向ける。同時に動こうとした二人を制するように、エウラリカは咳払いをした。


「私、お腹が空いたわ」

 聞こえよがしに呟くと、渋々カナンは席についた。「そうですね、冷めてしまいますし」とそつなく微笑む様子とは対照的に、ウォルテールは傍目にも逡巡しながらこちらを窺っている。


(カナンとウォルテールの間で、ノイルズに関する話が、あった?)

 内心で訝しみながら、エウラリカは眉をひそめた。




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