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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
変革せし帝国と手繰る系譜【湖城】

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四日目 5



「グエンの言う通り、確かに地下には独房があったわ」


 ウォルテールは腕を組んだまま、暖炉の前で毛布にくるまっているエウラリカの話を聞いていた。


 昨日まで完全に水没していた地下二階だが、現在は様子を確認できる程度には水が引いているらしい。

 着替えを済ませて談話室に戻ってきたエウラリカの顔色は悪かった。服は替えても髪はまだ湿っており、濡れてくっついた髪が一房、重たげに胸元に落ちている。寒そうに首を竦めながら、彼女は低い声で続けた。

「グエンやリェトナの言葉からしても、ファリオンがかつてこの城で幽閉され、トルトセアの影響下にあった可能性は高い。それが、おとうさまの仕業だってことも」


 ファリオンがおとうさまを憎んでいても、何も不思議じゃない。エウラリカが目を伏せたまま告げる。

「お待ち、ください」

 震え声で遮ったのはマーキスだった。瞼を上げて、「なに?」とエウラリカが視線だけを向ける。


 マーキスの顔は蒼白だった。

「もしや、かつてファリオン様が錯乱なされて家人を襲撃した事件も、その『傾国の乙女』とやらのせいなのですか? ……陛下のせいなのですか?」

「分からないわ。だとしたらどうなるの?」

 どこか投げやりな口調が気になって、ウォルテールは壁に背を預けたまま室内を見回した。同じく壁際に立って、全員を見回せる位置にいたカナンと目が合う。無言で視線を外すと、カナンも同じように顔を背けたのが分かった。


「だとしたら、陛下が『フェウランツィア様を殺害したのはファリオン様』だと言っていたのは、真実なのですか?」

 真実、とウォルテールは内心で繰り返した。腕組みをしていた指先がぴくりと跳ねてしまう。ウォルテールは口を噤んだまま、エウラリカの横顔を注視する。彼女は憂いに満ちた眼差しで、マーキスを見据えている。


「それでは誰が、フェウランツィア様を殺したのですか?」

 唇を戦慄かせて、老執事が消え入りそうな声で囁く。

「私は一体、何のために陛下の片棒を担いできたのですか?」


 リェトナが青ざめた顔で答えを待っている。がたがたと震えている妹を抱き寄せて、グエンが顔を歪めた。



「歴史というものは――」

 長い沈黙のあと、エウラリカは静かな声で切り出した。何を言い出したのかと訝るような空気が流れる。

「いつだって、勝利し、生き残った者の語る言葉で作られるわね」

 寂しげな表情であった。やけに大人びた微笑みで、彼女は談話室に集まった全員の顔を見回す。


「一意に定まる真実というものがあって、それが何より正しく尊い、美しいものだって、誰もが信じている。真実は、真実だというだけで何よりも雄弁なのだから、いずれ明らかになるのだと」

 言いながら、彼女は胸元で毛布を押さえていた手を片方浮かせた。炎の暖色が、その指先に踊る。


「でもそれは、真実をたゆまず希求し続けられる者の言葉」

 幼子が内緒話をするみたいに、彼女は唇の前にそっと人差し指を立てた。

「都合の良い、綺麗な真実を与えられて、その裏側を疑おうとする人間なんてそういないわ」

 それこそ、お前のようにね。視線を向けられて、マーキスが今にも泣き出しそうな顔になる。



 衣擦れの音とともに立ち上がって、エウラリカは流麗な仕草で毛布を肩から落とした。

「――ファリオンは、小さな頃から幼馴染みであるルイディエトに対して、ある種の劣等感を抱いていた」

 エウラリカが唐突に言い放った言葉の意味が分からずに、ウォルテールは耳を疑った。


「そんなあるとき、ルイディエトの危篤の報せを受けて、彼は好機とばかりに離宮へと赴いた。それまで抱え続けていた憎悪をもって相手を殺害したものの、自分の犯した罪の大きさに耐えきれず、その場で窓から身を投げて命を絶った」


 激しい音を立てて、暖炉で炎が一際強く爆ぜる。得体の知れない笑みを浮かべる唇を開いて、彼女は可愛らしい声で問うた。

「……異論がある人、いる?」

 凄惨、と言うに相応しい目をしていた。問いかけの形を取りながら、否やを唱えさせる気などまるでない。


「マーキス、あなたはどう?」

 信じられないものを見るように、名指しで問われたマーキスがこわごわ顔を上げた。「一体、何の話を」と言いかけた言葉を片手で遮り、エウラリカはマーキスの横まで移動して肘掛けに浅く腰かける。


「あなたはおとうさまの言葉に踊らされて、本当は何の咎もなかったかもしれない人の殺害を幇助した? 長年にわたって悪事の片棒を担いできた? ――いいえ、そんな『事実』はどこにもない」

 身を屈めて顔を覗き込み、優しい声で語りかける。慈愛に満ちているようにさえ見えた。柔らかく目を細め、エウラリカはゆるりと小首を傾げる。耳にかけていた髪が、その頬に音もなく落ちた。目元に影が差す。


「誰も損をしない『真実』を拒む理由がある?」

 彼女の瞳に暗い光が宿っていた。


「ね、マーキス。賢いあなたなら分かるわね」

 その口元に浮かんだ微笑は、まさしく魔性のそれである。息を飲んだのはウォルテールだけではない。マーキスは吸い寄せられるかのごとくエウラリカへ魅入られている。こくんと小さく頷いたきり、彼は時間が止まったように固まっていた。


 呆けた顔をする男に微笑みかけると、彼女はそのまま余韻すら残さずに顔を背けて立ち上がる。微風が抜けるように軽やかな動きだった。その様子を、ウォルテールは目だけを動かして眺めていた。



「リェトナ、グエン」

 くるりと体ごと振り返ったエウラリカに兄妹が同時に肩を強ばらせる。エウラリカはなおも柔らかい微笑みのままで腰を折り、二人にそっと顔を近づけた。

「この城には、トルトセアなどという植物なんて一度だって持ち込まれたことはない。ましてや、怪しい企みだって存在したことはないし、あなたたちは何にも関与していない。何も知らない。違う?」


 ぐぅっと、グエンの喉が鳴るのが分かった。強く歯を食いしばり、その目に薄らと涙さえ浮かべてエウラリカを睨み上げている。

「エウラリカ様、それは」

「わかりましたっ!」

 噛みつくように口を開いたグエンを押しのけて、リェトナが叫んだ。

「あたし……あたしは、何もしていない! 何も知らない! ねえそうでしょ兄さん、あたしは何も……!」


 一度は罪を認めて開き直ったように見えたリェトナが、目の前に逃げ道を用意された途端にこの変わり身である。しかし、責められることではない。ウォルテールは重苦しい気分で目を伏せた。

 そうでもしなければ彼女らの生活が成り行かなかったのは、容易に想像がつく。彼女だって、他に手段があれば、こんなことをしなくて済んだのかもしれない。


 リェトナの所業が知れ渡ってしまえば、彼女らがもはやこれまで通りの生活をできないのは自明である。罪をなかったことにできる選択肢があるならば、飛びつきたくなるのも仕方ない。

(でも、罪が消えるわけではない)

 罪の意識というものは、目を背けて隠そうとすればするほど、身の内に深く食い込んで離れなくなるものである。


「リェトナ、」

 グエンが呆然と呟く。リェトナは転げるようにエウラリカの足元に膝をつくと、媚びた笑みを浮かべて言う。

「あ、あたし、何でも言う通りにします。だからっ……」

「そう、ありがとう。私、聞き分けの良い子はだいすきよ」

 足下に跪く少女を見下ろし、エウラリカは艶然と微笑んでいる。その姿に、ウォルテールは寒気を覚えずにはいられなかった。


「あなたも、約束は守れるわね?」

 ゆるりとグエンに顔を向けて、彼女が笑う。

「あなたの家族の平穏な日常を守りたければ、口を開くのは得策じゃないわ。そうでしょう?」

 嫌悪感をありありと示して、グエンがエウラリカを見上げていた。エウラリカはしばらく曖昧な笑みのままグエンを眺めていたが、ややあってくるりと体を反転させて歩き出す。



「そういえば、このような形ではあるけれど、傾国の乙女の売人がこんな場所で商売をしていると分かったのは幸運だったわ。あんな薬、百害あっても一利なしだもの。売人のみが富み、多くの人間の人生を台無しにし、後には何も残らない……国が膿むだけの代物よ」

 胸に手を当て、エウラリカは強い口調で言い放った。突然雰囲気の変わった彼女に、グエンが驚いたように目を丸くする。

「私は、この国から『傾国の乙女』を撲滅したい。そのためには、まずはこの土地から始めなければならないと思ってる」

 眦を決して宣言したエウラリカを、グエンは呆気に取られて眺めていた。


「売人たちを根絶やしにするのは容易なことではないと、お前も分かっているはずだわ。余程の準備が必要になるし、当然、こちらが勘づいたなどと気づかれる訳にはいかない。トルトセアのことは、まだ表沙汰にするわけにはいかないの」

 力強く朗々と語るエウラリカの姿を眺めながら、ウォルテールは重いため息をついた。


 エウラリカのそれが詭弁なのは明白だった。グエンもそれには気づいているらしい。しかし、リェトナの姿と自らの手を数度見比べるうちに、絶望的な無力感が徐々に彼の体を覆う。「分かりました」と、掠れた声で呻く。

「……そりゃあ俺も、同じ犯罪に一度は手を染めた身です。声高に誰かを糾弾できるはずもない」


 にこ、とエウラリカが満足げに頷いた。何か言おうとした彼女を遮るように、グエンが膝に拳を叩きつけて呻く。

「今の言葉、信じて良いんですか」

「…………。」

 しばしの沈黙ののち、エウラリカは恐ろしいほど凪いだ表情でグエンに向き直った。


「――勘違いしないで欲しいのだけれど、私、何も真っ当な正義が嫌いなわけではないのよ」

 怒気や苛立ちなど一片も含まれない穏やかな眼差しでありながら、どこか空恐ろしく思える。口元に浮かぶのは苦笑である。


「信じて欲しいとしか言えないのが、歯がゆいわね」



 それだけ告げたのち、しばらく黙って足元を眺めていた彼女が、再び顔を上げる。

「たとえ帝国の出身で、以前から因縁があったとは言え、ファリオンはユレミアの要人だわ。まさか、殺害されたなどと明かせるはずがないのは分かってもらえるかしら、――ウォルテール?」


 次に標的となったのは、ウォルテールであった。どきりと心臓が跳ねたのを押し殺して、「は」とだけ応じた。涼しげな目元で、エウラリカはこちらを見定めるように顎を引いて立っている。


 ……エウラリカの提案が、最も正しいのは分かっていた。ユレミアとの国交は正念場である。帝国の先代皇帝と、ユレミア側の通訳の醜聞は互いにとって痛手となる。否、舞台はクウェール家の所有する離宮であり、むしろ帝国の失態と捉えられかねない。ともすれば、国交の再開を目指す上で後手に回らざるを得ない可能性すらある。


 それでも、ウォウテールは問わずにはいられなかった。

「万が一、虚言が露呈したらどうします」

「しないわ。たとえ怪しむ人間がいたとしても、証拠がない」

 エウラリカの答えには淀みがない。


「私のところに、私の名前宛てで手紙が来た。それを聞きつけたファリオンが、半ば無理矢理ついてきたのはユレミア側も知る事実よ。私たちがあの時点で何かを企んでいたと疑うのは難しいでしょう」

「大きな目的の為なら、いかな白に見える状況さえ黒だと言い張る人間はおります」

 くす、とエウラリカが鼻先で少しだけ笑ったのが分かった。


「『大義のため』?」

 その一言に含まれた嘲笑に、ウォルテールは思わず体を固くした。エウラリカは目を眇め、口角を吊り上げる。


「それなら、大義のためにお前も黒を白と言いなさい、ウォルテール。お前の祖国のために」


 エウラリカの言葉に総毛立つ。

「お言葉ですが」と咄嗟に声を荒げていた。眉を上げたエウラリカを見据えながら、ウォルテールは必死に息を整える。

「……俺は、あくまで、そのような人間もいると申し上げたのみです」

 何とか落ち着かせた声で告げると、エウラリカが面白がるような仕草で続きを促す。


「僭越ながら俺自身の考えを述べさせて頂くのであれば、確かに国益のため、明かす情報の取捨選択をすることは、あって当然だと思っております。けれど、そのとき言葉を語るのは大義などという実体のないものではございません。言葉を選び、言葉を乗せるのは己の口です」

 偽るのも偽られるのも、常に人である。ウォルテールは項垂れたくなるのを堪えて、額を上げ続けた。


「帝国のためならば、真実を偽るという選択肢を採ることもありましょう。しかし、それは俺が自分で見聞きし、自分の頭で考えて、決断したときです」

 これほど挑戦的な目をエウラリカに向けるのは初めてだった。ぐっと奥歯を噛みしめて顎を引く。意外そうな表情で、彼女はこちらを見つめ返していた。



「そう。なら、言い方を変えるわ」とエウラリカが腰に手を当てる。

「ねえ、ウォルテール――」

 絡みつく魔性でも、恐ろしい威圧でも、崇高な語り口でも、冷淡な軽蔑でもなかった。からりとした可愛らしい笑顔で、一歩近づいてきたエウラリカが上目遣いに小首を傾げるのだ。背に回した両手の指を絡めて、身を寄せる。


「ウォルテールは、私と一緒に、秘密を抱えてくれる?」


 猫のように真ん丸な瞳の奥に、不思議な色彩を見る。深い湖の底のような、ゆらめく碧色である。その双眸を見下ろしながら、ウォルテールは心ここにあらずで立ち尽くしていた。

(……この方は、)

 全くもって、度しがたいお人である。


 かつて、カナンがエウラリカを評した言を思い出す。

 エウラリカというのは、本当に我儘で、手のつけようのないほど性格が悪くて、奔放で、この上なく傲慢で、飴と鞭の使い分けがお上手で、目的の為なら手段を選ばない女。

 忌々しげに吐き捨てていた。悪し様に言いながら、相手を憎からず思っているのは明白な口調で。


(ほんとうに、真性であらせられる)

 思えば、今自分がここにいるのだって、全てはエウラリカの思し召しである。ここまで来たら一蓮托生か、と追い詰められたような心地で考える。

「はい」と呻くと、エウラリカは心底安心したように頬を綻ばせた。



「僕も、姉上の案に乗るのはやぶさかではありませんよ」とユインがひょいと片手を挙げる。カナンも控えめに首肯する。

 エウラリカが、部屋の中をぐるりと見回した。満足げな表情で、しかしその視線が一瞬だけ、部屋の隅で沈黙したままのノイルズを見据えた。




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