表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傾国の乙女  作者: 冬至 春化
変革せし帝国と手繰る系譜【湖城】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

215/230

二通目 2



「マーキス殿をお連れしました」

 ノイルズの声に振り返ると、その背後でマーキスが背中を丸めている。半日ほど部屋に入れられていただけで、やけにげっそりとしている。老いた執事は、何の話をされるのかと怯えた様子で、顔色を窺いながら席に着いた。

「そ……そちらの方は?」

 一人だけ新しい顔に気づいて、グエンを指し示す。「呼ばれていた料理人です」と言葉少なに応じたグエンも、マーキスを見て怪訝な顔である。

「この人はどなたですか?」

「この離宮の執事よ。今回の事件に関与していたから捕まえていたの」


 細かい説明を省いて答えると、グエンは「執事?」と気味悪そうにマーキスを凝視する。

「執事? ここの?」

 それほど驚くようなことだろうか? エウラリカはまじまじとグエンを顧みる。グエンは言葉を選ぶように視線を泳がせながら、小さな声で呟いた。


「俺の知っている執事じゃない」

「執事ってみんな大体こういう感じだと思うわ」

「違う!」

 やけに強い口調でかぶりを振るので、面食らって口を噤んでしまう。グエンは怪物でも見るような目をして、恐る恐るマーキスを窺った。


「お……俺が知っている、ここの執事は、前から悪くしている膝の療養のために、今は隣村の息子夫婦のところで生活している。自分が休んでいる間、陛下が一人になるのが心配だと言っていた」

 ぴくりと反応を示したのは、何故かマーキスだけでなく、ノイルズも同時だった。エウラリカががばりと顔を上げて見つめると、ノイルズは『何も知らない』というように慌てて小刻みに首を横に振る。



「……マーキス。正直に答えなさい」

 低い声を出すと、老執事であるはずの男は落ち窪んだ目でエウラリカを見た。疲れ切った風情だが、どこか清々しさを感じる表情でもあった。その姿には破壊的な達成感が漂っている。褒められるのを待っている犬が思い出されたが、犬はこんなに荒んだ顔はしないだろう。


 恐ろしいような心地で、慎重に問う。

「――あなたが、この城に来たのは、いつ?」

 問われて、マーキスの視線がふらふらと泳いだ。部屋を一巡して戻ってきた目線が、再びエウラリカに据えられる。

「約一ヶ月前です、エウラリカ様」

 一ヶ月前、と口の中で繰り返した。ちょうど自分たちが東ユレミアを発った頃だ。


 強烈な違和感に、エウラリカは額を押さえた。以前にも同様の感覚を味わった。何かが決定的におかしい、噛み合わない。


 一ヶ月前?

「……ここに来る前、あなたはどこにいたの?」

「エルヴ領の領主館に仕えておりました」

「レウィシス家の跡地ね?」

「ええ。フェウランツィア様がお生まれになり、逝去された場所でもあります」

 旧レウィシス領の位置は、地図で調べたことがあった。帝都からは北西に位置し、この離宮からはそう遠くない。

「エルヴ領からここまで移動するのに要する日数は?」

「およそ五日程度でしょうか」


「どうして、旧レウィシスからここへ来たの?」

 そこで初めて、マーキスの受け答えが鈍った。目を細めて、エウラリカは狼狽える男を睥睨する。


「おとうさまから、何かを命じられたの?」

「へ、陛下が……その、ええと」

 言い淀みながら、視線が再び動く。弾かれたように振り返り、視線を追う。そこに立っていた姿を認めた瞬間、血の気が引くのが分かった。悲鳴のように呼ばわる。


「……カナン!」


 鋭い視線を向けられても、カナンはたじろぐ様子を見せなかった。叱責をとうに覚悟していたような態度で、「はい」と応じる。そのふてぶてしさに、エウラリカは顔を歪めた。 

 その瞬間に違和感の正体を突き止めて、恐慌にも近い衝撃が全身を襲う。



『いつ頃、こっちに到着したの?』

 問われて、カナンがユインを振り返りながら『俺たちは一緒に来ましたから』と答える。その前日にユインが『五日前くらいに到着したんですが』と言っていたから、てっきり、カナンも同じなんだと思っていた。


 でもおかしいのである。

「そうよね。あなたが帝都で危篤の手紙を受け取ったなら、もっと早く、ここに着いていなきゃおかしいものね」

 ぴく、とカナンの下瞼が震えたのが分かった。


「私は、約一ヶ月前に東ユレミアで手紙を受け取ったわ。東ユレミアと離宮間の道のりは一ヶ月分。すなわち、おとうさまの容態を知らせる手紙は、この城から、二ヶ月前に出されていないといけない」


 指を折りながら唱えれば、談話室はしんと静まりかえった。ユインさえも口を挟まない。その場の空気を完全に支配しているという自覚があった。注目が集まっていると気づいた瞬間、冷たい水の中に体ごと入ったかのように全ての音や物事が遠のく。

 部屋の中央に立っている自分を、どこか遠くから眺め下ろしているような、奇妙な感覚だった。


「でも二ヶ月前には、まだマーキスはこの城にいない。それなら手紙を出したのはおとうさま本人か、グエンの言う普段の執事とやらのはずよね」

 よく分からない顔ながら、ウォルテールが頷く。


帝都(カナン、ユイン)東ユレミア()宛ての手紙が同時に出されたと仮定しましょう。帝都まで十日かけて手紙が届き、たとえ数日ぐずぐずしてから帝都を出発したとしても、あなたたちは少なくとも一ヶ月前には到着していないとおかしい」

 この矛盾をどう見るか? ユインやカナンが到着時期を偽ったのか。それとも、二通の手紙が同時に出されたという前提自体を疑うべきか。


「――私がユレミアへ行っている間に、何があって、何をしたのか、全て教えなさい。でないと、」

 何をしようというのかは、自分でも分からなかった。威勢を失って、言葉が途中で立ち消える。



 カナンは黙ったままである。その表情には多少の苦笑が混じっていた。ややあって、参ったなとでも言いたげに、その口元が中途半端に緩められる。

「……ユインが口を滑らせましたし、俺もしくじりました。俺の負けです」

 勝ち負けの話なんて、少しもしていない。恐ろしさと失望の狭間に立ち竦んだまま、エウラリカはカナンを見つめ続けていた。


「ユインが五日前に到着したのは本当です。――俺は、一ヶ月前にここに到着しました」

 マーキスを振り返る。目顔で頷く。エウラリカは得体の知れない自体に身じろぎ一つできず、同時に誰の身動きも許さない眼差しで一同を威圧した。

「あ……あなたは」

 息ができず、口を開けて小さく喘ぐ。

「私がユレミアに行っている間、旧レウィシス領に、行ったの?」

「はい」

 淀みなく首肯したカナンが、まるで全く知らない別人のように思えた。いつか来る日だと覚悟していた展開にも思えた。


「どうして?」

 身構えながら問うと、カナンは目を伏せる。後ろめたさは感じられず、憂いに満ちた表情は遠慮にもみえた。

「付近の視察へ赴いた際に、旧レウィシス領に立ち寄る機会がありました。無理に立ち寄る必要もなかったのですが、あなたの母方の親族がかつて生きていた場所だと思うと、一目で良いから見たくなって」

 恐らく詭弁だろうな、と予想はついた。自分が帝都を離れている間に視察へ行くという話は聞いていない。


 エウラリカ自身は、現在はエルヴという地名になっている旧レウィシス領に足を踏み入れたことはなかった。当地がどのような状況になっているかはおよそ窺い知れず、何が消えて何が残っているかも分からない。

 エウラリカよりも先にその土を踏んだカナンが、そこで何を見出すかも、予想ができない。


「……何か、分かったことは?」

 カナンの表情はどこまでも凪いでいた。込み上げるのは恐怖である。ずっと背後からひたひたと迫ってくるような、追いつかれたら何か恐ろしいことが起こるような、冷たい予感。それが今、過去のどの瞬間よりも近づいていた。


 微笑みを一瞬たりとも絶やすことなく、カナンは穏やかな表情でこちらを見つめている。

「あなたに披露するほど愉快な話なんてありませんよ」

 そうだなぁ、と言いながらカナンが笑う。「強いて言えば、向こうの珍味だそうで、屋台でそうと知らずに蛙を食べてしまいました」と、少々興味は引かれるが関係ない話をする。



「カナン」

 頑なに視線を向けていると、話を逸らすつもりはないことが伝わったらしい。カナンは観念したように頭を掻いた。

「旧レウィシス領に行って、分かったことは、あります」

 言いたくなさそうな素振りで、彼は億劫な仕草で立ち上がる。「長い話になりますが……」と端を発するのを聞いて、エウラリカは片手を挙げる。


「混乱しそうだから、あとで要点だけ紙に書いてもらっても良いかしら」

 言うと、カナンは多少の困惑を見せつつ頷いた。それから、何かを探すように顔を巡らせ、「筆記用具を取りに部屋に戻っても?」と振り返る。

(…………。)

 エウラリカは無言で目を眇めた。

「……部屋まで行かなくても、ここにあるわ」

 戸棚の引き出しから一式を取り出して机に置いてやると、カナンはペンを手に取る。



「……少々時間が飛ぶので順に話しましょう」

 言いながら、『三十年以上前』とカナンが紙の上部に走り書きを記した。

「当時の第一王子が、馬車の事故により死去。場所は、現レンフェール領――事故時にはレウィシス領にあたる、山中の橋です」

「おとうさまの、実兄ね? 聞いたことがあるわ。第一王子は、婚約者……私の母に会いに行く途中だったんじゃないかって言われていたはず」

 事故に関しては、噂程度だが小耳に挟んだことがあった。件の場所は、帝都からレウィシス領の中心地へ向かう際、もっぱら近道として使われる山道だという。そこで谷を渡っている最中に、馬車か橋の不具合か、ともかく何らかの『不幸』があって第一王子は馬車ごと谷底へ転落、そのまま死亡したという。


 兄王子の訃報を受けて皇位継承者となったのが、ルイディエトである。当時、絶大な影響力を誇っていたレウィシス家は、フェウランツィアが国母に相応しいと譲らず、王子の婚約者はそのまま据え置きとなった。


「それから約十年後、今から二十年と少し遡った頃に、フェウランツィア……あなたの母が何者かによって暗殺された。以降、レウィシス家の威光には陰りが見られ、長い時間を要することなく没落の一途を辿った、と」

 沈黙するエウラリカを窺いながら、カナンの手が動く。

「ファリオンによる虐殺が行われたのも、その頃のことです。家族を立て続けに失った哀しみによって異常を来したのだ、と言われていますが、この件があってレウィシス家の取り潰しが決定的なものになったのは間違いない」

 カナンの話しぶりには淀みがなかった。それが、恐ろしいのだ。


「レウィシス家の消滅により、その領地は周辺の領に分割して吸収されました。第一王子の事故が発生した現場は、新しく引かれた領境のちょうど上に位置することとなった。その結果、事故現場周辺の地権は曖昧かつ複雑になった、と。両岸に当たるエルヴとレンフェールの領主同士は縁が薄く、互いに揉め事を避けることを望んだようです」


 約二十年前、と記された項目に複数の文字列が並んでゆく。まさに自分が産まれた頃の話である。初めて聞く話に、エウラリカは軽く眉をひそめたまま耳を傾けた。


「その頃、王子の事故現場の上流にあたる土地が、エルヴの領主によって売り払われた」

 びくり、とマーキスの肩が揺れた。目敏くそれに気づいて、エウラリカは緊張を高める。


「現地でも、崩れやすいことがよく知られた土地でした。売られた土地にはレウィシス家の別荘が含まれていましたが屋敷は取り壊され、周辺も大規模に切り開かれたそうです。もちろんこれが原因だとは断言しませんが、数年後に、谷を土砂崩れが襲った。事故現場は消滅し、それにともなって王子の死亡事故に関する記憶や関心も薄れていったと、語る人がいました」


 初めて聞く話であった。説明された位置からするに、あまり人が多い地域ではない。帝都で話題になるほどの災害ではなかったのだろうが、釈然としないものを感じる。



「その土地を買って、手を入れたのは誰だったの?」

 経緯は分からないが、カナンがここまで把握しているなら、買い手の正体を調べていないはずがない。多くは聞かずに問うと、カナンはマーキスを一瞥する。


「……ご自分で説明したらいかがです」

 殊更に慇懃な口調とは裏腹に、その目に軽蔑の色が見え隠れしていた。「あ……」と呟いたマーキスの額を脂汗が伝う。

「…………ファリオン様、が」

「俺も、初めはそう説明されました」

 絞り出すように答えたマーキスを一刀両断するように、カナンが言葉を継ぐ。その目が、三日月のように細い弧を描く。


「エルヴ領主が言うには、旧レウィシス邸を家財も含めてそのまま譲渡される引き換えに、山の上の土地をファリオンに売ったのだと」

 実際に書面も見させてもらった、とカナンの口調はなおも得体が知れない。話の着地点が分からずに聞き続ける恐怖が、ずっとエウラリカの身体を竦ませていた。


「契約書には、確かにファリオンによる署名がしてあった。屋敷に残されていた書類をいくつか改めましたが、どうも本人による筆跡で間違いないようなんです」


 しかし、妙ですよね。カナンが顎に手を添える。誰も口を挟むことはできなかった。

「ファリオンが捕縛されたことが理由でレウィシス家は取り潰された。レウィシス家が消滅したから、領主が新たに来たのです。にもかかわらず、ファリオンが領主から別荘の土地を買った? 順序がおかしくはありませんか」


「ファリオンは事件後、どこへ?」

「帝都が直轄する牢獄へ送られたと言われていますが、記録は確認できませんでした」


「ファリオンを騙る別の人間が関与していたのかしら。それとも、ファリオンが事件を起こす前にエルヴと契約がされていたのか……」

 レウィシス没落の前に領地の処遇が決まっていたとは考えづらい。前者の方が可能性は高いように思えた。



 ちら、とマーキスを見やる。この話題に入って以来、ずっと顔色が悪いようだ。エウラリカは目を眇めた。

「お前がやったの?」

「そんなことをするはずがございません!」

 悲鳴のような声で否定して、マーキスは冷静さを欠いた態度で机を叩くと立ち上がった。


「陛下の、ご厚意でした! フェウランツィア様の生まれ育った家が取り壊されるのは忍ばれると、直々に手を回してくださったのです!」

「父上が?」


 それまで静観していたユインが素早く食いつく。その目が、ようやく言質を取ったというように爛々と光っていた。

「それでは父上はどうやってファリオンさんの署名を手に入れたんです。領主館を保存したいだけなら、どうして山の上の別荘を壊す必要があった? 実の兄が死んだ事故現場が消滅したのは、偶然じゃないのではないですか」

 まるで別人を見るようだった。身を乗り出したユインの舌鋒は鋭く、マーキスは目に見えてたじろぐ。


 ユインの口元に浮かぶのは、紛れもない喜色であった。

「父上は、皇位を手に入れるため、ひいてはフェウランツィアを我が物にするため、実の兄を殺したのでしょう! その証拠を消すために、殺害現場となった屋敷を取り壊したんだ。それくらいのことはやりかねない」

 違いますか、とマーキスに迫るユインを、エウラリカは呆気に取られて眺めていた。

(この子、おとうさまのこと、)


 マーキスがさっと顔色を変えた。大声で反駁しようと、息を吸う。

「落ち着きなさい」

 彼が声を発するよりも前に、エウラリカは静かな口調で制した。


「ユイン。その殺害現場というのは、事故で死んだと言われている先代の頃の第一王子が殺された場所という意味で間違いない? それが、おとうさまによって取り壊された別荘だ、と」

 ユインに目を向けると、彼は我に返ったように口を噤んだ。「は、はい」と小さな声で呟く。しおらしく目を伏せたユインを眺めて、エウラリカは嘆息した。


「……確かに、おとうさまが実の兄を暗殺したと聞いても、私はそれほど驚かないわ」

 しん、と静まりかえった部屋に、誰かの息を飲む音が響く。



「争点は、実際に先代が少年期に兄を殺したか否かではない」

 カナンの声に、一抹の苛立ちが滲んだ。指先が机の天板を強く打つ。マーキスを眺め下ろし、カナンは厳しい声で宣告した。

「エルヴ領主に対し、『例の土地はファリオンが買った』と証言するように命じていたのが、先代皇帝だという事実です」

 エウラリカは目を見張ったが、何を言うでもなく経緯を見守る。

「お前はエルヴ領主館の家令という肩書きではあるが、実際には先代の手先だった。そうだな」

 マーキスは黙ったまま、否定しようとはしなかった。ルイディエトが各地に間諜や手先を忍ばせているのは薄々察していたところだが、旧レウィシス領にも仕込んでいたらしい。エウラリカは改めてマーキスの顔をまじまじと見つめる。



 ***


「……これは、誰からの手紙だ?」


 エルヴ領主館の朝食の席にて、手渡された手紙に目を通すと、カナンは便箋を机の上に放り投げて吐き捨てた。盆に載せて手紙を持ってきた家令を睨み上げる。


「封筒には、ルイディエト陛下、とありましたが……。内容は異なっていましたでしょうか?」

「白々しい。どれほど客を馬鹿にしたら気が済むんだ? 謀るならもう少し上手に騙して頂きたいものだな」

 舌打ちをして、カナンは足を組んだ。向かいの席で領主がやけに青ざめた顔をしているのを横目で確認する。


「俺は、昨日この館に来たばかりだろう。それなのにどうして俺宛の手紙が到着しているんだ」

 吐き捨てたカナンに対して、家令は薄らと微笑むばかりだった。

「それが、陛下の恐ろしいところでございます」と、含みのある言葉。


 その言葉を無視して、カナンは手紙を矯めつ眇めつして検分する。手跡は、以前ユインに見せられた密書と同じ。本文は簡潔であり、隠された意図は見つけられない。末尾までをもう一度眺めたところで、「ああ、なるほど」と声が漏れた。


「日付だけ後から書き加えている訳だ。印章は本物だし、あの先代が他人に印を渡しておくとも思えない。つまり、同じような文言で客人を北の離宮に呼び寄せるための手紙があらかじめ用意されているんだな?」


 家令の表情が、一瞬だけ、僅かに強ばったのを見て取る。どうやら小細工をしたのもこの男らしい。カナンは片眉を上げたまま、傍らに立つ家令を睨み上げた。


「北の離宮まで往復すれば、最低でも十日程度は要するはずだ。つまりこの手紙を俺に渡したのはお前の独断。俺の立場あるいは言動が、俺を北の離宮に呼び寄せる原因だろう。さしずめ――」

 ちら、と領主を見れば、家令よりよほど分かりやすい顔色である。腹芸に慣れていない成金は嫌いではない。

「例の土地に関して探っている人間、が条件か?」



 昨夜、山の上の地権を話題に出したときの領主の動揺はただ事ではなかった。探られるとまずい事情が確実に存在しているのである。彼は咎められることを恐れているように見えたが、……誰に?

(ルイディエト、か)

 家令の背後に先代がいるのはほぼ確定である。それほど飛躍した推測ではなかろう。


 ファリオンが土地を買ったというのは、明らかに嘘である。この件に足を踏み入れた途端に、先代の命を受けた見張りが干渉してきた。誰がファリオンを騙ったかなど、明白すぎるほどではないか。


「山の上の別荘を購入し、取り壊したのは先代皇帝だな?」

 家令の方は見ず、領主に向かって真正面から問いかける。領主は決して口を割らなかったが、血の気が失せるほど噛みしめられた唇を見れば、答えは火を見るより明らかだ。

「そして、それを口止めされた。もしも誰かに聞かれた際は、レウィシス家の人間が購入したと答えるように命じられたんだろう」

 恐ろしいほどの沈黙で、家令がこちらを見据えている。けれどもカナンは領主からひとときたりとも視線を逸らさなかった。



「いやあ、こんなところで先代陛下の画策を目の当たりにするだなんて、予想だにしていなかった」

 いたぶるように優しい声で、カナンは目を細めた。内心で、この土地に先代の弱みがあると睨んだユインに舌を巻く。


「なあ、『先代から届いた手紙』に従って離宮に行くと、俺は口封じのために殺されでもするのか?」

 机に肘をついて身を乗り出せば、領主は顔全体に脂汗を伝わせてぶるぶると震えた。顎の肉が揺れているのが場違いにおかしく思えて、カナンは思わず「はは」と声を上げていた。


「……せっかくの招待だ。陛下に聞いておきたいこともある。有り難く離宮へ拝謁することにしよう」

 家令を振り返って、カナンは頬を吊り上げる。


「言っておくが、俺がエルヴ領主館に向かったことは他の人間も知るところだ。もしも俺が今、忽然と姿を消せば、嫌疑の目は間違いなくここに向く。そうすれば、先代が隠したがっていた事実が今度こそ明るみに出てしまうかもしれないな?」


 高圧的に吐き捨てて、カナンは立ち上がった。家令と視線を合わせて、カナンは不気味だと分かっている笑顔を浮かべる。

「――フェウランツィアのことも、今更ほじくり返されたくはないだろう」

 顎を上げ、長身の家令の耳元で囁いてやる。男の顔に激しい苛立ちが閃いたが、すぐに薄ら笑いの下に覆い隠された。しかし、これで確信した。


(フェウランツィアには『何かしら』人に知られると不名誉なことがあって、こいつは、それを知っている)



 昨晩、領主と話している間に侍女が入ってきたことがあった。そのときに聞いた名を思い出しながら、その胸元を指で突く。


「お前、確か、名前はマーキスといったな」

 何を言われるのかと身構えているような表情を眺めながら、カナンは厳しい口調で言い放った。

「道中に妙な『事故』でも起こっては堪らない。離宮まで同行してもらおうか」


 家令は口の端を引きつらせ、「それは」と拒もうとしたが、否やを言わせる気はなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] うーん…カナンは色々隠してはいたけれど、ここからの流れでルイディエトを殺害したとも考えにくい…むしろルイディエトに「お前は知りすぎた」で殺されることすらあり得たような流れだけど… まぁ、そ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ