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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
変革せし帝国と手繰る系譜【湖城】

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四日目 2



 結局、ファリオンの部屋から怪しい品物は見つけられなかった。多少部屋が荒れている様子はあったが、軟禁直後の暴れようを思えば驚くことでもない。

 再び談話室に戻ってくると、ユインが紅茶を淹れてくれたが、どうにも飲む気がしなくて手をつけなかった。思えば、マーキスが淹れた茶も何だかんだと飲まずじまいである。この状況になってしまえば、彼の手による飲食物を口に入れるのも気が進まないだろう。

 食事の準備を自分で行っていたルイディエトの気持ちを薄々察してしまう。この城にいるのは、揃いも揃って曲者ばかりである。



 何も口にせずに黙り込んでいると、ふと、どこか遠くで人の声が聞こえた気がした。しばらくの間耳をそばだてるが、やはり、聞こえる。少し離れた位置で何やら話しているカナンたちは気づいていないらしい。エウラリカはそっと立ち上がると、誰にも声をかけずに談話室を出た。

 吹き抜けに立って頭上を見回すが、どうにも声の方向が分からない。そもそも、城内から聞こえてきているにしては、やけに遠い。


 まさか、とひとつの可能性が浮かび、エウラリカは片眉を跳ね上げた。片足を軸に体を反転させると、閉ざされたままの玄関扉を振り返る。一瞬だけ躊躇ってから、彼女は大股で玄関に歩み寄ると、閂を外して扉を開け放った。



「あ、やっぱり人がいたんですね!」

 口の横に手を立てて、橋の向こうの湖岸でひょろりと背の高い男が大きな声で手を振っている。

「食事会をやりたいとお話を頂いたので参ったんですが、まさか橋が通れなくなっているとは思いませんでしたよ。困ったなぁ」

 その背後には食料を積んできたと思しき四輪の荷車がある。あれを自力で引いてきたらしい。


 男の正体に思い至って、エウラリカは腰に手を当てた。この離宮に到着した直後に呼ばれたという料理人だろう。晩餐会をするどころではない状況で呑気に現れたのは、彼の責任ではない。

「そうね、まだ水があるから……」

 水没直後に比べれば随分水は引いたとはいえ、まだ橋の上を歩けば膝の下程度は深さがありそうだ。荷車を転がして運ぶことは難しい。

「舟を出すわ。少し待っていて」

 そう声をかけて踵を返しかけた、その瞬間に、エウラリカは妙な既視感を覚えて眉をひそめた。


 ――あの男、どこかで見覚えがあるような気がする。


 考えた直後、すぐにかぶりを振る。こちらの地域には来たことがないし、料理人の知り合いだっていた記憶はない。

 舟はマーキスの捕縛後、玄関脇に引き入れられて転がされていた。一人で運ぶのは難儀である。舟の脇にかがみ込んだ辺りで、談話室に集っていた面々が声を聞きつけて出てくる。



「何かあったんですか?」と怪訝そうなカナンに、「料理人が来たわ」とだけ返す。手振りで舟を動かすように合図すると、ウォルテールとノイルズが回り込んで舳先と艫を持ち上げた。

 興味を示したのか、カナンが玄関へ先回りして外に顔を覗かせる。特段なにかの考えを抱いていたわけでもなさそうだった表情が、外の風を受けた直後に怪訝そうになる。束の間、記憶を辿るように視線が遠くをうろついた。それから、信じがたいというように両目を見開いて湖岸を凝視する。


「――グエン?」

「兄さんっ!」

 カナンが何事か呟いた言葉は、リェトナの悲鳴にかき消された。


 玄関から身を乗り出して、リェトナが涙声で叫ぶ。

「兄さん、あたし、帰りたいのに帰らせてもらえなくて、怖くて、あたし……!」

 その様子を眺めながら、エウラリカは目を丸くして橋の向こうとリェトナを見比べた。なるほど、近くの村から呼び寄せたという料理人は、リェトナの兄だったらしい。そういえば数年前に兄が帰ってきたという旨のことを言っていたし、どこかで修行でも積んでから戻ってきたのだろうか?


 いまいち事態が掴めていないらしい兄とリェトナのやり取りを眺めながら、エウラリカはふと首を傾げた。カナンは愕然としたように立ち尽くしたまま動かない。

(グエン、と言った?)

 その名には、聞き覚えがある。しかし、どこで聞いた誰なのかが思い出せない。

(私が、直接話をしたことがある相手ではない気がする)

 カナンは目を疑うような表情のまま立ち尽くしている。話しかけても反応せず、エウラリカは仕方なくこめかみに指を添えて記憶を辿った。


「食料もあることですし、とりあえずこちらへ来て頂きましょう」とウォルテールが舟を水に浮かべた。ユインがその辺に立てかけてあった櫂を持ってくると、片手を出してそれを受け取る。

 意外と慣れた様子で湖を渡ってゆくウォルテールを眺めながら、エウラリカはなおも『グエン』という名をどこで聞いたのか思い出せずに眉根を寄せた。



「お兄さんは料理人をしているの?」

 家族の顔を見て緊張の糸が緩んだのか、その場にへたり込んでしまったリェトナに問う。放心している様子で「え、あ……えと、はい」と曖昧に答えた彼女を見下ろして、エウラリカは腰に手を当てた。


「数年前にあなたのお兄さんが帰ってきたと言っていたけれど、もしかしてそれまでは帝都にいた?」

 念のために訊いておくと、リェトナは目玉が零れ落ちそうに目を見開いてこちらを見上げた。

「……どうして、分かったんですか?」

 その目にちらと覗いたのは警戒である。一瞬だけ、針先のように小さな緊張が、ぴりっと漂う。内心で戸惑いつつ、エウラリカは「出稼ぎに行っていたなら大きな都市に行くものでしょう」と平常の口調で応じた。


 ついでに名前も聞こうと思ったが、よしておく。リェトナに嫌われるようなことをした覚えなら多分にあるし、兄のことを根掘り葉掘り聞こうとしていると思われるのもよろしくない。


 対岸についたウォルテールが、向こうで男と何やら言葉を交わしている。ほんの少しの会話のあと、二人で食料を舟に積み込み始めた。何度か往復して運び込む寸法らしい。

 どうやら男は食料を運び終えた最後に渡るようだ。ウォルテールが一人で玄関と湖岸を行き来しているのを眺めながら、エウラリカは横目でカナンを窺った。ようやく意識がこちらへ戻ってきたようだ。こちらを見て、小さく手招きする。


「エウラリカ」

 人目を忍ぶように囁かれ、エウラリカはそれとなく歩み寄ると耳を傾けた。カナンが身を屈めて耳打ちしようとする、その寸前に、ノイルズと目が合った。

 ウォルテールが運んできた荷物を玄関の中へ移動させていたノイルズは、様子を窺うようにじっとこちらを見ていた。目が合ったことに気づくと、すぐに視線を逸らして作業に戻る。


「……なに?」

 促すと、カナンの声が耳元で囁く。

「グエン。――帝都にいた頃、親しくしていた厨房の料理人見習いです」

 緊張気味に掠れた声が聞こえた瞬間、ぱっと閃く記憶があった。分厚い本が一気にめくられて目的のページに辿り着くように、いくつもの光景が明滅して、特定の場面に辿り着く。



 鼻腔に蘇るのは、一度嗅げば忘れられない、あの独特の香りである。

 ――かつて、帝都で出回る違法薬物『傾国の乙女』が、城内でまで売買されていることがあった。すなわち売人は城に出入りできる何者かである、と。


『グエン!』

 悲鳴のようなカナンの声が、脳裏をよぎる。あのとき自分は、柱の陰に身を隠して、一部始終を聞いていた。

『……今日で辞めるんだってな』

『ああ。臨時収入もあって十分に金も貯まったし、そろそろ地元に帰って母さんの世話を見なきゃいけないんだ』

 カナンの友人こそが、売人と手を組んで、城内で薬物を売買していた張本人だった。そうと悟った瞬間の、絶望した彼の顔を思い出す。



 食料を運び終え、最後にウォルテールとグエンが舟に乗ってこちらへ近づいてくる。舳先が水面を割り、波紋が音を立てずに広がってゆく。


『他に手段があったら、誰が、自分の家族を破滅に導いた売人に手なんて貸すものか!』

 糾弾され、顔を歪めて叫んだ青年の悲痛な声が蘇った。慄然として立ち尽くすエウラリカの隣で、カナンも険しい表情で眉を寄せている。


「……偶然だと思いますか?」

 舟が着いて、グエンが玄関前に足を踏み入れる。リェトナが勢いよく兄に飛びつく様子を眺めながら、エウラリカは唇を引き結んだ。

「俺、あいつは地元に帰って足を洗ったものだとばかり」

 カナンが呻く。「まだ決まった訳じゃないわ」と小さな声で言いながら、エウラリカはいくつもの懸念を思い浮かべていた。


(ファリオンの部屋に、トルトセアに関する物品は見つけられなかった。けれどファリオンがこの湖城に来てから傾国の乙女の影響を受けたのはほぼ確実……)


 ファリオンの足が濡れていたのが気になる。しかし、彼が地下室に赴いていたとしても、確認できた範囲で、地下室にトルトセアなど存在しなかった。

(地下室が関係あるか否かには関わらず、必ず、何らかの方法で傾国の乙女がこの城に持ち込まれた……)

 その出どころを探すのなら、やはり、今目の前にいる、この男を疑うしかない。



 改めて見てみると、リェトナと目元がよく似ている。玄関扉を潜って「大変な事態ですねぇ」と愛想良く声を発したグエンを、エウラリカは無言で見据えた。

「グエン」

 ユインなどが返事をしようとするより早く、カナンが低い声で呼ぶ。

「え、俺、名乗りましたっけ、」

 言いかけて、振り返った男が固まる。先程のカナンと同じように眉根を寄せ、それから、目を見張る。


「……カナン!」

 その表情に浮かんだのは、驚きと喜色、当惑である。リェトナを一旦脇にどかして、グエンは数秒開けてから「なるほど」と呟いた。カナンの横に立っていたエウラリカに視線を移し、恭しく一礼する。

「北の離宮で雇われている料理人の、グエンと申します」

 リェトナより多少はましな作法を身につけているらしい。鷹揚に頷くと、恐縮しながらも物珍しげな表情で眺め回される。


「先代の皇帝陛下のご客人は、王女殿下でしたか」

「王女じゃありませんよ」


 口を挟んだユインの言葉に、心臓がどきんと大きく跳ね上がった。咄嗟に何も言えなかったエウラリカをよそに、ユインは軽快な仕草でひらひらと手を振っている。

「もう僕が現皇帝なので、皇帝の姉、です」

「こ……!?」


 どうやら、離宮を訪れている客の正体については何も知らされていなかったらしい。グエンは目を剥いてユインを凝視する。湖城でのユインは常に部屋着のような軽装で、愛想の良い態度も相まって、皇帝という地位をうっかり忘れてしまいそうな雰囲気があった。


「今、この湖城は少々込み入った状態にあるのよ」

 話を戻すように、エウラリカは声を張った。全員の視線が集まったのを感じて、腕を組む。

「いきなりで申し訳ないけれど、身体調査と荷物の確認をさせてもらってもよろしいかしら?」

 有無を言わせずに宣言すると、グエンが顔を引きつらせた。



 ***


「王女様……じゃなくて、ええと、皇帝の姉って何て言うんだ……? エウラリカ様、俺は本当に何も怪しいものは持ち込んでいませんが……」

 ほとんど半裸で、グエンは困惑の色を濃くした。カナンによって服を引っぺがされ、暖炉の前で震えている。


「やっぱり何も見つかりません」と、衣服を隅々までひっくり返したカナンが結論を出した。食材の入った箱や袋を見ても同様らしい。エウラリカは腕を組んで唇を尖らせた。空振りだろうか?


「ちょっと警戒しすぎたみたい。寒い思いをさせて悪かったわね」


 哀れ、到着した直後に追い剥ぎのような目に遭ったグエンは、警戒をありありと示しながら服を身につける。随分と最悪な第一印象になってしまったみたいだ。すっかり口数が少なくなり、よそよそしくなってしまったグエンを眺めながら、エウラリカは頬杖をついた。



 傾国の乙女に関することは、まだ口外しない方が良い。それが現状の結論であった。

 ファリオンが、何者かによって意図せず薬物の影響下にあった場合、それを仕込んだ者もこの城にいるのである。


「姉上、何だっていきなりグエンさんをひん剥いたんです」

 流石のユインも少々引いた様子で、笑顔を浮かべようとして失敗している。エウラリカは更に顔を背けて黙り込んだ。

(あまりやりすぎると、今度は私が疑われかねないわね)

 ようやくその可能性に思い至って、自然と苦い顔になる。自分の潔白を知っているのは自分のみ。誰もが同じである。


(それにしても、傾国の乙女の影は見え隠れしているのに、どうにも出処や持ち主の姿が見えてこない)

 この事件は、ルイディエトとファリオンの確執が絡んでいるとみて間違いない、はずだ。加えて、そこにマーキスやユインが一枚噛んでいたということも。


(グエンが薬を持っていれば、おとうさまかマーキスが薬を手配しているといえたのだけれど……)

 苛立ちながら自らの頬をこねていると、ふとウォルテールと目が合った。はっと息を飲んで自身の体を抱いたウォルテールに、「脱がせないわよ」と思わず噛みついてしまった。



 ともかく、身ぐるみ剥がされた直後ゆえに誰より潔白が証明されているグエンが厨房に入る。昼食の準備をするらしい。それでも目を離す気になれず、エウラリカはグエンの作業を見守ることのできる位置に腰かけて頬杖をついた。


「エウラリカ、少し疲れていませんか」

 隣に座ったカナンが気遣わしげに顔を覗き込む。咄嗟に素っ気なく否定しようと思ったが、思い直して「そうかもしれない」と答えた。……前皇帝と、ユレミアの要人の死亡。手に余る話題のように思えた。

 加えて、エウラリカにとっては、単にそれだけの二人ではない。


「あまり、無理しない方が良いです。ただでさえ閉鎖空間で人死にが出て気が滅入るのに、そう考え詰めては休まらないでしょう」

「じゃあ、あの夜に何があったか分からないまま、この事件を終わらせて良いって言いたいの?」

 真っ直ぐにカナンを見返すと、彼は眉根を寄せて沈黙した。


「そんなはずない、と言うべき場面なのは分かりますが」

 歯切れの悪い答えに、エウラリカは思わず唇を噛む。

「あなた一人が、そこまで心血を注ぐ必要はないのではないかと、思います」

 カナンの声は優しかった。こんなに柔らかい声が出せたのかと驚くくらいに、気遣いに満ちていた。それだけに息苦しくて、エウラリカは眦を下げて黙り込む。


「わたし、……」

 何を言おうとしてもうまく言葉にできなくて、どうしても声が詰まってしまう。分かってもらいたいのだと痛切な感情が襲う。この事件は自分にとって大切なのだと、けれどそう言おうとすればするほど、目の前にいる人が遠ざかってゆく言葉に思えるのだ。


(ひと晩で、私の父親が二人とも死んだのよ)

 言えるはずのない言葉を、飴玉のように口の中で転がす。



「気晴らしに外にでも出たいところですが、生憎この有様ですから」とカナンが冗談めかして窓の外を指した。

「窓から紐でも垂らしたら、魚が釣れませんかね」

 口を挟んできたユインに、「水面が遠すぎるわ」と肩を竦めて、エウラリカは深々と嘆息した。あまり思い詰めても仕方ないのかもしれない。


「もし釣り竿が見つかったら、舟を出して魚釣りと洒落込んでも良いわよ」

 ほんとですか、と明るい声を出したユインを眺めて、エウラリカはゆっくりと瞬きをした。……自分の実父が殺されて、それに自分が加担したかもしれないのに、随分と元気なのね。

 その図太さが何だか羨ましく思えてきて、エウラリカは手櫛で髪を梳きながら嘆息した。



「そういえばエウラリカ、数日前から聞こうと思っていたんですが、その髪飾りはどこで手に入れたんですか」

 調理台の方からは良い匂いが漂ってきて、空気が緩んだ頃にカナンが問う。言われるまですっかり忘れていた。エウラリカは後ろ頭の結び目に手を当てて、「ユレミアに行く途中の街で買ったの」と答えた。青い石が嵌められた代物で、大して高価な品ではないが意匠が気に入ったのである。


「よく似合っていますよ」

 自分が着飾っている訳でもないのに、カナンはどういうわけか嬉しそうな顔である。虚を突かれて瞬きを繰り返したエウラリカは、そこではっと思い出して指を立てた。

「そのときに、お土産にってもう一つ買ったのよ。待ってて、鞄に入っているはずだから取ってくるわ」

「いや、俺は、髪には何もつけなくても……」

「あら、じゃあ必要ない?」


 困惑気味に言いかけたカナンを振り返って、腰を浮かせた姿勢のままエウラリカは首を傾げた。懊悩するようにしばらくカナンが黙り、だいぶ躊躇ってから、「……ほしいです」と耳を赤くして応じる。素直に頷いたことを評価して微笑むと、何が不満なのか渋い顔である。


「少しだけ待ってて頂戴」

「待ってください。俺も行きます」

 一人で出歩くのは良くない、と立ち上がったカナンを背後に従えて、エウラリカは厨房を出て自室へ向かった。



 空元気も全くの無意味という訳ではないらしい。思いの外軽くなった足取りで部屋の前まで歩くと、エウラリカは扉を開いた。鞄は寝台脇に置かれたままである。カナンは戸口のところに立ったまま、鞄の脇に屈むエウラリカを眺めている。


「髪を結わえるのに使っている紐も、随分古くなってきているでしょう。あまり華美なものは好まないかもと思ったから、大した品ではないのだけれど……」

 言いながら荷物をひとつひとつ寝台に上げながら探すのだが、必ず持ってきたはずの小物入れが見当たらないのである。


 鞄の中身を全て寝台に並べたところで、エウラリカは困り果ててしまった。どこかで落とすほど小さなものではない。手のひら程度の底面がある蝶番付きの小箱である。



「どうしたんですか?」

「ないの。小物入れが、ひとつ……」

 様子がおかしいと気づいて部屋に入ってきたカナンが、眉をひそめる。

「最後に部屋を出たのはいつですか」

「……昨日の、朝。でも私、ここに到着してから一度も小物入れを鞄から出していないわ。いつからなかったのかは分からない」

 エウラリカは立ち上がって室内を見回した。異変はない。離宮までの道中や馬車の中で落としただろうか?


 顎に手を当てて記憶を辿っていると、カナンが躊躇いがちに呟く。

「部屋にいない間は、誰でも出入りができます」

「誰かが盗んだって言いたいの?」

「あくまで、この状況で考えられる可能性というだけですよ」

 言われるまでもなく、エウラリカも検討した可能性である。検討した結果、少々可哀想な結論に達したから口に出さなかっただけで。


「この離宮で、私の大して高価でもない私物を盗みそうな人間というと、リェトナくらいしかいないわ」

 それだけの理由で疑いを向けたら、リェトナがどれだけ傷ついた反応をするかは想像に難くなかった。額を押さえて、エウラリカはひとつ嘆息する。今更、人に嫌われることを厭うている訳ではない。悪役を演じるのだって初めてではない。


「聞くだけ聞いてみるわ」と踵を返し、カナンの横をすり抜けて部屋を出ようとする。すれ違った直後にカナンの声が聞こえて、エウラリカは思わず振り返っていた。いやに小さな声だったので咄嗟に聞き取れず、「え?」と聞き返す。


「俺が、聞いてきましょうか」


 彼は心持ち俯いていた。瞬きをして、エウラリカはその姿を見据える。

「俺が代わりに聞きますよ。気が重いようですし、関係ない俺から聞いた方が角も立たないでしょう」

(…………。)


 顔を上げてこちらを見た、その頬が緩み、にこりと微笑みが浮かべられる。数秒間その表情を眺めてから、エウラリカは「結構よ」と応じた。

「赤子じゃないんだから、それくらい自分で聞けるわ」

 片手をひらりと振って一蹴しながら、エウラリカは努めて軽やかな足取りで部屋を出た。リェトナはきっと厨房のグエンのところにいるだろう。



 食堂に入ると、机の上に皿が並べられている途中だった。

「リェトナ」

 声をかけると、配膳を手伝っていた彼女が体ごと振り返る。「あたしに用ですか?」と、その口ぶりには少々の警戒が見られた。

 今すぐ問いただそうと思ったが、昼食の準備ができている頃に揉めそうな話題を持ち出すのも良くなかろう。考え直して、エウラリカは多少の温情として切り出した。

「昼食を食べたら、あなたの部屋に行っても良いかしら?」

「あ、あたしの、部屋ですか!?」

 どういう訳か、リェトナは仰天した様子である。大きく目を見開いて、首を振る。


「よ……用事があるんなら、あたしが出向きますよ。わざわざあたしの部屋に来させるなんて申し訳ないです」

 やけに狼狽えている彼女に、エウラリカは内心で疑いを深めた。「いいえ」と笑顔を浮かべて、いかにも温厚そうに語りかける。


「私、少しくらい部屋が散らかっていても気にしないわ。女の子は私たちしかいないんだし、たまには仲良くお話しましょう」

 引きつった表情で頷いたリェトナを見て、エウラリカは満足を示して笑みを深めた。我ながら、穏やかな態度で話しかけることに成功したと思う。


「姉上、いじめは弱い人間のすることですよ」

 ……あとで怯えたような顔のユインが耳打ちしてきたことからするに、もしかしたら失敗していたかも知れない。




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― 新着の感想 ―
[一言] あー、あー…そういえばいたね、グエンとかいうの…久しぶりすぎて忘れてましたわ… しかしまぁ、疑心暗鬼なエウラリカ視点でのことだからか、目にはいるもの全てが怪しく見えてきますな…
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