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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【表層編】

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婚約騒動2



「どうされましたか? 辛そうな顔をしておられますが、大丈夫ですか」

 声をかけてきた少年の顔を見やって、ウォルテールは力なく首を振った。

「お前が気にすることじゃない、カナン」

「アニナさんが心配しておられましたよ」

「彼女だって関係ないだろう」

「まあ、そりゃそうですけど……」

 カナンは尻の辺りで両手を重ね、気楽な立ち姿でウォルテールの前に立つ。冷たくなってきた風に、少しだけ鼻先が赤くなっていた。


 冷え込む夕方の頃だった。中庭の噴水の水は止められている。その縁に腰掛けたウォルテールは、目の前にいるカナンを見上げた。カナンは少しの間言葉を選ぶように黙っていたが、ややあって口火を切る。


「……オルディウス様、でしたっけ」

「ああ。知己だった」

 ウォルテールが何を落ち込んでいるのかはお見通しらしい。項垂れるように頷いたウォルテールに、カナンは痛ましげに眉をひそめた。

「毒殺、という噂を聞きました」

「滅多なことを言うもんじゃない。オルディウスには持病があったし、幼い頃から体が弱い質だった」

「それでも、いきなり人が一人、何の危害も加えられていないのに息を引き取るなんてことがあるんでしょうか」

 ふと、カナンが声を低める。ウォルテールは思わず唾を飲んだ。が、すぐに奥歯を噛みしめ、険しい声で「何が言いたい」と問う。カナンはただ「いえ」とだけ呟いて目を伏せた。



 少しの間を挟んで、カナンが囁く。その右手が首元に伸び、首輪を握りしめた。

「――今の状勢を考えれば、有り得ない話ではないと、そう思ったのみです」


 ウォルテールは唇を引き結んだ。今の城内は完全に次期皇帝を見据え、エウラリカにつくかユインにつくかで割れている。エウラリカを傀儡に立てようとしている人間からすれば、この降嫁の話は非常に不都合だろう。……それは、その相手を殺すことも厭わないほど、だろうか。


 カナンはすい、と視線を遠くへ滑らせた。その片手が口元を隠すように立てられ、少年は人目を忍ぶように視線を左右に薙ぐ。そして、いかにも秘密だと言わんばかりの小声で告げるのだ。

「これは、俺だけに内密で伝わっている話です。決して他へ流さないで頂きたいのですが、」

 さりげなく距離を詰め、カナンが身を屈めた。耳元に気配を感じ、ウォルテールは居心地の悪さに身じろぎする。


 カナンの横顔が近くに見えた。ウォルテールは立ち上がることも出来ずにその言葉を待つ。カナンが呟く。

「次の婚約者として、オルディウス様の弟さんの名が挙がっています。ウォルテール将軍と仲がよろしいとか」

「イリージオが?」

 ウォルテールは息を飲み、大きく目を見開いた。咄嗟に浮かんだのは、恋人に関して嬉しそうに語る彼の姿だった。慌てて首を振り、ウォルテールは腰を浮かせかけた。


「待て、イリージオは駄目だ、」

「声を潜めてください。まだ内々の話ですが、本人からも了承の言葉を頂いたと聞いています」

 否定の言葉を並べるウォルテールに対して、カナンは叱りつけるようにぴしゃりと返した。その言葉に、ウォルテールは愕然と目を見開く。

「……嘘だ」

「少なくとも俺が聞いた限りではそうなのですが……」

 カナンは眉根を寄せて首を傾げた。顎に手を当て、「比較的簡単に了承頂けたとネティヤさんも言っていました」と怪訝そうに呟く。


 ウォルテールは訳が分からないまま、呆然と言葉を失っていた。あのとき――オルディウスが急逝したあの晩餐会の場で、イリージオは自身の恋人の存在を語っていたはずである。結婚の約束をしてあるとも言っていた。

 ……そのイリージオが、エウラリカとの婚約を引き受けた?

(おかしい)

 厳しい表情で、ウォルテールは眉間に皺を寄せる。しばらく黙り込んでから、彼は立ち上がった。イリージオに話を聞かねばならない。何か思い悩んでいることがあるのなら、少しでも力にはなれまいか。


 と、その前にウォルテールはカナンを振り返った。

「……カナン、どうして俺にこの話を伝えた。機密なんだろう」

「知りたいかと思いまして」

 カナンは静かな表情でウォルテールを見上げる。黒い目は驚くほどに無感情で、底知れなさにウォルテールは思わず肩を強ばらせた。

「それだけで、情報を漏らすのか? お前は、俺にどうして貰いたくてこんな話を……」

 怯みつつ重ねて問えば、カナンは薄らと微笑む。目を細め、相手に全てを委ねようとするみたいな表情は、彼の主人のそれによく似ていた。


「僕の個人的な理由です。詳しくは訊かないで頂けると有り難いのですが」

「しかし……!」

「ウォルテール将軍、」

 困ったような苦笑で、カナンは唇の前にそっと人差し指を立てる。


「――好奇心は犬をも殺しますよ?」


 くす、と息を漏らして、そのままカナンは軽やかな足取りで歩き去った。ざわりと風が薙ぐ。後頭で括られた短い黒髪の房が揺れていた。それがまるで機嫌の良い犬の尾のようで、ウォルテールは呼び止めることも出来ずに立ち尽くした。革でできた首輪はカナンがここに来てからずっとその首にある。ことあるごとにちりんと鳴る鈴の音が、いやに耳についた。



 ***


「えーっ!? 王女様の婚約者って死んだんですか!?」

 何から何まで知らない様子のデルトが目を丸くして仰け反る。対するアニナは「そうみたいなんです」と声を潜めて頷き、おずおずとウォルテールの方を窺った。

「で、でもデルトさん、その話を閣下の前でするのはちょっと、今は……」

 あからさまにおろおろとしながらウォルテールの様子を見ている。全く隠せていなが、一応聞こえないふりで虚空を眺めておく。


 デルトは腕を組み、首を傾げた。

「えー、でも俺ついさっき、王女様が若い男と一緒に庭を歩いてるの見ましたよ?」

「それは本当か!?」

「うわっいきなり食いついた」

「聞いてらしたんですか!?」

 突如振り返ったウォルテールに、訓練所の隅の塀に腰掛けていたデルトがひっくり返り、洗濯物を干していたアニナも驚いたように目を丸くする。むしろこの至近距離で聞いていないと思う方がおかしいだろう。


 ウォルテールは呼吸を整えながら、デルトを注視した。

「若い男ってのは、その……カナンではなく?」

「え? まあ……金髪で格好いい感じの……。確か軍のどこかに所属していた気がします。顔見たことあるし」

 塀の向こうで立ち上がって腕を組んだデルトに、ウォルテールは努めて落ち着いた声で「それはどこで見たんだ」と問う。デルトは「えっと」と一旦言葉を切り、ここからほど近い庭園の名称を答えた。


 ウォルテールは小さく頷いて立ち上がった。金髪で若い男、軍部に所属、どれもがイリージオと一致する。デルトが答えた庭園の場所を頭の中で思い浮かべながら、ウォルテールは「悪い、すぐに戻る」と二人を振り返った。

「い……行ってらっしゃいませ……」

 アニナは呆然とウォルテールを見送る。ウォルテールが歩き出すと、背後から楽しげなデルトの声が飛んでくる。


「はっ……もしかしてその人がウォルテール将軍の恋人とか?」

「そ、そんな……私という人がありながら、浮気を……!?」

 まずどこから訂正したら良いか分からない二人を無視して、ウォルテールは渋面で庭園へと向かった。



 向かった先の庭園に一見したところ人気はなく、ウォルテールは首を巡らせて周囲を見回した。

(見に来てどうするんだ、俺)

 ウォルテールは唇を噛む。庭園の木々はその枝の輪郭を晒し、足下の遊歩道には色づいた葉がまるで絨毯のように広がっていた。一歩足を踏み出すたびに、かさかさと乾いた音を立てる。風は肌で受けるにはいささか冷たく、乾いた冬が近づきつつあることを感じさせた。


 ウォルテールの胸はどうにも晴れなかった。

(イリージオ……一体どういうことなんだ……)

 ……エウラリカとの婚約が発表され、その後に急死したオルディウス。その死後まだ一月も経っていないというのに、弟のイリージオに後釜の話が行き、イリージオはそれを引き受けた。

(裏で何かが動いているような、そんな気がする)

 元を正せばこれは、エウラリカの進退を巡る話なのである。広大な新ドルト帝国、ひいては大陸全体に影響を及ぼしうる、国の一大事だ。



 そのとき、ウォルテールの耳はどこか近くの足音を拾い上げた。はっと息を飲んで顔を上げる。気配がした方向を振り返りかけ、ウォルテールはふと肩に触れた手に背筋を凍らせた。この庭園には誰もいないと思っていたが、他にも人がいたらしい。――隠れていたのだ。

「なっ……」

「初めまして、ウォルテール将軍」

 ウォルテールに歩み寄り低い声で囁いたのは、見覚えのない女だった。出で立ちからして、帝都の外の地域から来た官僚というところだろう。ひっつめた黒髪や顔立ちから察するに、恐らく東の地域の出だろうか。

「不躾な頼みで大変申し訳ないのですが、速やかにご同行願えませんでしょうか」

 女はウォルテールを促し、通路から外れた生け垣の裏を指し示す。その表情のあまりの険しさに、ウォルテールは思わず「分かった」と女に従っていた。


「……何だってこんなところに隠れているんだ」

 ウォルテールが顔を顰めると、女は「一身上の都合で」とだけ応じた。あまりになおざりな対応に、ウォルテールは納得できないと口を開きかける。それを制するように女が短い歯擦音とともに人差し指を立てた。



「――それでね、そのときもこんな風に案内してあげたのよ!」

 聞き覚えのある声が耳に入り、ウォルテールは息を止めた。歩道の方から見えないように身を隠しているから、その姿はこちらからも見えない。しかし、この声といい、ふにゃふにゃと甘えたような幼げな喋り方といい、それはエウラリカの話し声に他ならなかった。


 エウラリカは明らかに誰かに向かって喋っていた。

「そのお兄さんもこーんな奥にまで入ってきちゃって、今みたいにお外まで連れてってあげたの! あのお兄さん、また会いに来るって言ってたのに、ちっとも会いに来てくれないのよ? なんてお名前だったかしら、えっとね、待ってね、わたしちゃんと覚えてるんだから!」

 エウラリカが楽しげに笑い声を響かせる、そのお喋りの相手が知りたいのである。ウォルテールは生け垣の裏にしゃがみ込んだまま、息を殺し、すぐ隣から聞こえる会話に耳を澄ませた。


「えっと……あのお兄さんのお名前……うー、わたし覚えてるの、ほんとなのに……」

 エウラリカが不満げに唇を尖らせる。少しの間、エウラリカがうんうんと唸る声ばかりが聞こえた。――ややあって、柔らかい男の声が静かに応じる。


「……オルディウス、とその人は言いませんでしたか?」

(イリージオ……!)


 ウォルテールは目玉がこぼれ落ちんばかりに目を見開き、声が漏れぬように両手で口を押さえた。聞こえた声は紛れもなくイリージオのもので、それを理解した途端、どっと全身から汗が噴き出す。


 ぱん、とエウラリカが手を合わせた。

「そう! そんなお名前だったわ! どうして知ってるの?」

「オルディウスは私の兄なんです。その、少し…………事情が、あって。……しばらく、エウラリカ様にお会いすることが難しくなったと言っていました。兄に代わってお詫びしますね」

 イリージオの声が、エウラリカに答える。その事実といい、その内容といい、何から何まで信じることが出来ずに、ウォルテールは凍り付いたようにその場で固まっていた。身じろぎ一つ出来ない。


 ふとしたときに陰りを見せつつも、優しく語りかけるような声は、まるで愛しい人間に対するそれのようである。たとえそれが演技だとしても、イリージオが自らそのように取り繕っていることは確かだ。

(カナンが言っていたことは本当だったのか)

 イリージオは、自分から、エウラリカとの婚約の話を引き受けたのだろうか。

 ウォルテールはゆっくりと胸を上下させて息を整えながら、聞こえる会話に再び注意を向ける。


「あら、それは大変ね。忙しいのかしら? ゆっくり休んでねって、お兄さんに言っておいてね……」

 エウラリカが多少しおらしく応じると、イリージオは鋭く息を飲んだ。ウォルテールも思わず体を強ばらせる。

 長い沈黙が落ちた。二人はウォルテールともう一人の女の潜む生け垣の側を通り過ぎ、遠ざかってゆく。そうして、イリージオが小さく呟いた声が、最後に聞こえた。

「分かりました。兄さんにはしっかりと伝えておきますね……」



 肉親を失ったばかりの場面に、何も知らないエウラリカの相手をするのは、さぞかししんどかろう。心からの同情を込めて、ウォルテールはそっと頭を上げて、イリージオの歩き去った方向を見やった。

 女が体を起こし、ウォルテールに向き直る。

「いきなりこのような場所へ引きずり込んで申し訳ございませんでした。その……今しがた見聞きしたことに関しては、内密にして頂けないでしょうか。大変失礼なお願いを申し上げているのは重々承知しております」

 女を見下ろし、ウォルテールはしばらくの間黙り込んだ。この素性の知れぬ女は、ここで何をしていたのか。たまたま二人の散歩に居合わせただけなら、ウォルテールを伴って身を隠す理由はない。


「……分かった。この件は他人には言わないでおこう」

 ウォルテールは一旦そう答えてから、威圧的に女に迫った。「ただ、これがどういうことなのかは説明して貰わねばならんな」と睨めつければ、女は目を逸らして口角を引きつらせた。



 女から聞き出した話は、カナンの語った話と同様だった。オルディウスが死去し、その代わりにイリージオへ話を持ちかけ、了承された、と。カナンから聞いた話以上でも、以下でもない。女はこの件に関する様々な調整を担っているらしかったが、大した情報は持っていない。

 一番不可解な点が説明されないのである。ウォルテールは腕を組み、女に視線を向ける。

「どうしてイリージオがそのような話を引き受けたんだ」

「それは……存じ上げません。そうした交渉に関しては私の管轄ではありませんから」

 役に立たない、とウォルテールはため息をつく。女は立ち去りたい様子を見せながら周囲を見渡した。


(やはり、イリージオ本人を問い詰めるしかないのか)

 例えば、イリージオが、不本意ながらこの件を引き受けたとしたら? ウォルテールはそれを見過ごすことは出来ない。


 ウォルテールは立ち上がり、地面に膝をついたままの女を見下ろした。女は厳しい表情でウォルテールを見返してくる。

「……くれぐれも、内密に、お願いいたします。ウォルテール将軍」

 その視線のあまりの鋭さに、彼は思わず息を飲んで奥歯を噛みしめた。ほとんど睨みつけるような視線だった。

「俺は約束は守る男だ」

 それだけ答えると、女は「結構です」と頷いて立ち上がる。「それでは、失礼させて頂きます」と慇懃に頭を下げると、女はそのまま歩き去った。



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