三日目 1
眩しい陽射しが顔に当たって、エウラリカは小さく呻いた。カーテンの細い隙間から、ちょうど枕元に日が差し込む角度らしい。僅かに瞼を上げれば、白い光が晴天に輝いていた。
「ん……」
呻いて、日向を避けるように寝返りを打つ。柔らかい枕に頬を沈めて、ゆっくりと深呼吸をした。
しばらく、目を閉じたまま枕の端を握り締めていた。屋根にでもいるのか、鳥の鳴き声が随分と近い。
寝起きが悪いと揶揄されるのはだいぶ不本意である。目元を指の節で軽く擦って、エウラリカは緩慢な動作で体を起こした。手櫛で髪をかき上げ、焦点の定まらない目で室内を見回す。
「――エウラリカ。起きていますか」
欠伸を噛み殺したせいで、扉越しの呼びかけへの返事は少々遅れた。「起きたわ」と声を張って応じると、部屋の前にいると思しきカナンはやけに硬い声で「分かりました」と呟いた。
「できるだけ早く、出てきてください」
その言葉に、耳の裏が冷たくなるような、不吉な予感がした。弾かれたように立ち上がり、戸口へと駆け寄る。震える手で鍵を開けると、一息で扉を開け放った。
「……カナン」
開閉に合わせて一歩横にずれたところに、カナンは蒼白な顔をして佇んでいる。その表情を見上げて、何かがあったのだと瞬時に理解する。
「何があったの?」
小さな声で問うと、カナンは言葉を選ぶように目を伏せた。
「とにかく、着替えてから談話室へ来てください」
「寝間着でも構わないわ」と身を乗り出したエウラリカを制して、カナンが首を振る。
「それなら、せめて何か羽織った方が良いです。随分と冷え込みましたから」
言われて初めて、部屋の外の冷気に気づいた。ふるりと体が震える。目が覚めてみれば、どうも城内の空気は異様である。
***
胸元で上衣をかき寄せながら、エウラリカは半ば怯えるような、半ば挑むような心持ちで階段を降りた。談話室に近づくにつれ、ざわつく人の声が聞こえるようになる。こわごわ傍らのカナンを見上げるが、彼はきつく唇を引き結んだまま何も言おうとしない。
明るい吹き抜けの下を横切り、エウラリカは半開きになった談話室の扉に手を伸ばす。
「マーキスさん、何か長い棒のようなものはないですか!」
「ぼ……棒、でございますか……ああ、ええと……」
「あ、あたし、分かります! 地下の倉庫に、長い棒がありました! すぐに取ってきます!」
「いや、地下はまだ水が引いていないかもしれない。俺が外に出ますから、念のための縄だけでもあれば……」
慌ただしい会話の直後、目の前の扉が勢いよく開いてきて、リェトナが目を潤ませて飛び出してくる。「あ」と呟くが、それ以上の言葉が出てこないらしい。ぺこりと不慣れなお辞儀ひとつ、ばたばたと足音を立てて地下へ降りる階段の方へかけてゆく。
開け放たれた扉の向こうで、ユインとウォルテールが窓際に張り付いて何やら言い合いをしている。二人の表情はただ事でなく、エウラリカは思わず唾を飲み込んだ。
「何があったの」
険しい声で問いかけると、二人ははっとこちらを振り返る。カナンと同じ、返事に窮したような表情である。一体窓の外に何があるというのか。臆する心をねじ伏せて、エウラリカは無言で窓辺へと歩み出た。
外を見れば、一階の床から人ひとり分ほど下がった位置に水面がある。一時期に比べれば随分と水が引いた、などと考えている場合ではなかった。
窓からほど近い位置に、それは浮き沈みしていた。
一瞬、目の当たりにしたものが何なのか理解できなかった。水に沈みかけている塊が、一体何なのか。
水面の向こうで、布がゆらゆらと揺れている。魚の腹みたいに青ざめて白くて柔らかい皮膚が見え隠れしている。まるで悪夢のように現実味のない光景であった。
「……なに?」
呟く声が嗄れている。
「あれは、何なの?」
よろめいた体を、窓枠を掴むことで咄嗟に支える。
そのとき、「棒を見つけてきました!」とリェトナが息せき切って駆け込んできた。絨毯のない床に、点々と足跡が続いている。両手でしっかと掴んでいるのは、どうやら小舟などを漕ぐのに使うような櫂である。
「な、縄もあったはずなんですけど、ちょっと見つけられなくて、とりあえず棒だけ、」
「ありがとう、十分だ」
ウォルテールは櫂を受け取ると、無言で窓に向き直った。窓越しに櫂を差し伸べ、大きな塊をこちらへ引き寄せる。
それが近づいてくるにつれて、疑いようもない人間の四肢の形がありありと目に映る。胸の前で手を握り合わせて息を殺す。何かの悪戯であって欲しいと祈るエウラリカの眼前で、水に浮かんだ肉体は壊れた人形のようにこちらへ顔を向けた。
生気のない、青白い頬であった。力の抜けた四肢に、服の布地が絡まって揺蕩っている。
大きく見開かれた眼が、エウラリカの動きを封じるがごとくこちらを睨みつけている。
こうして改めて見つめてみれば、反吐が出るほど面影のある顔であった。
「ひっ」とユインの押し殺した悲鳴と、後じさる足音。指先が白くなるほど強く片手を握り締めて、エウラリカは凍り付いたように立ち竦んでいた。
「……ファリオン殿、ですね」
一旦感情を切り離したように、ウォルテールは淡々とした声で告げた。が、櫂に添えられた指先は間違いなく小刻みに震えている。こんなに冷え込んだ朝なのに、そのこめかみから脂汗が一筋流れ落ちた。
「死んでいるのね?」
気丈に問うたつもりだったのに、驚くほどか細い声が出た。隣の窓から身を乗り出していたカナンが、眉根を寄せて頷く。
大変に気分の悪そうな表情で、長い時間をかけて慎重に、ウォルテールとカナンがファリオンの遺体を室内へと引き上げた。椅子や机をどかして開けた床に、濡れた遺体を置く。
力なく横たわった体から絨毯へと、音もなく水が染み出てゆく。
「う」とリェトナが口元を覆い、青い顔で談話室を飛び出した。無理もない。エウラリカはファリオンの遺体から顔を背け、吐き気を堪える。
先程から部屋の隅で物も言わずに黙り込んでいるマーキスを振り返れば、腰が抜けたように壁に背を当て、「どうしてこんなことに」と譫言のように呟いている。
しばらく、呆然と壁に寄りかかって額に手を当てていた。あまりにもいきなりのことに、心が追いつかない。
それなのに、目ばかりは大きく見開かれ、眼前の遺体を見据えているのだ。目を逸らしたい。知らないふりをしたいのに、走り出した思考が止まらない。
(目立った外傷はなし、死因は……落下による損傷?)
昨晩、寝る前に書いた部屋割りの図を思い返す。ファリオンの部屋は角部屋で、ちょうど遺体が浮いていた位置の真上に当たる。三階の高さから水面に落ちれば、打ち所が悪く絶命する可能性はあるだろう。
(私が夜に談話室に来たときには、まだ死体はなかった)
あのとき、まさに同じ窓から外を見たのだから、間違いはない。
(私が寝ている間のことだったのね)
この一夜のうちに、一体何があったというのだろう?
部屋を見回して、頭数が足りないことに気がついた。
「おとうさまはどうしているの?」
ノイルズの姿もない。半ば狼狽えながら問えば、その場にいた全員が一斉に顔を背ける。ざぁっと、耳の奥で血の気が引く音がした。不吉な予感に、息が止まる。
「……なに?」
よろめいて、傍らの長椅子に掴まった。ユインが何か言っているが、頭に入らない。
制止を振り切って、エウラリカは身を翻した。談話室から飛び出して、階段を駆け上がる。足がもつれ、つんのめりながら、一段飛ばしに最上階を目指した。
「はあ、はあ、……」
肩で息をしながら廊下へまろび出ると、所在なさげに立ち尽くしていたノイルズと目が合った。
「エウラリカ様」
「おとうさまは?」
はっと息を飲むと、ノイルズは顔を背けて言い淀む。
「陛下は、その……」
「おとうさまは!? おとうさまはどうしているの!」
耐えきれず、癇癪を起こしたように叫んでいた。目を見張って、ノイルズが口を噤む。答えあぐねるような仕草に、また腹の底が居心地の悪さに蠢いた。
「エウラリカ!」
「放してっ!」
追って来たカナンが腕を掴むが、間髪入れずに振り払う。しん、と沈黙の降りた廊下を、エウラリカはゆっくりと歩き出した。最も奥は、昨日扉が破壊された跡の生々しい角部屋である。手前の二室はどちらも扉が半開きになっており、中に人の気配はない。
「おとうさま?」
震える声で呼ぶのに、返事がないのだ。
「おとうさま……」
角部屋の前に差し掛かろうというとき、強烈な血生臭さにたじろいだ。恐る恐る最後の一歩を踏み出す、その足が震えている。
壁に飛び散った血痕を視界に入れた瞬間、そういえば血というものは噴き出すのだったな、とぼんやり考えた。ふわりと足元が浮いたかと思えば、気づけばその場に尻餅をついていた。
「おとうさま」
絨毯についた手が震えている。いっぱいに目を見開いて、エウラリカは眼前の光景を凝視していた。
寝台に縋るようにして上体と腕を投げ出している。その背から生えているのは短剣ではあるまいか。その口元から一筋垂れた血が、白いシーツに染みている。身体を縁取るように真っ赤な色彩がシーツの上に広がっている。既に乾いた血は冷たく固まっていた。
悲鳴を上げてしまうかと思ったが、喉元は凍り付いたように動かず、ただただ呆然とするばかりである。
「殺されているのね」と驚くほど冷ややかな声が出て、エウラリカは背後の手すりに掴まりながら立ち上がった。
「ひと晩のうちに二人死んだのよ。無関係のはずがない……」
痺れたように、全ての感覚と思考が遠くにある。
「誰が、どうやって、何のためにこんなことを?」
扉は蝶番から外れて、近くの壁に力なく立てかけられている。開け放たれたままの戸口から足を踏み入れて、エウラリカは呆然と室内を眺めた。凄惨な現場である。揉み合ったのか、昨日までは几帳面に並べられていた家具や棚の上の物品が秩序なく散らばっている。
窓から吹き込んだ風が、髪を揺らす。外は相変わらず嫌になるような快晴である。朝日が差し込んだ部屋の中は、歯切れの良い陰影に区切られている。
ルイディエトは目を閉じたまま動かない。その姿を見下ろして、エウラリカはゆっくりと瞬きをする。
「……真相が分かるまで、この城から、決して誰も出さないようにしなさい」
低い声で吐き捨てて、彼女は強く拳を握りしめた。掌に爪が刺さる。噛みしめる唇に血が滲む。
「犯人は、この城の中にいる」
絶対に許さない。
呻くと、ノイルズが息を飲んだ。カナンは三歩ほど離れたところで立ち尽くしたまま、眉根を寄せて沈黙している。




