二日目 5
何度も背中を撫で下ろされるにつれて、弾んでいた息が徐々に落ち着いてくる。
「姉上、試しにお茶を入れてみたので、一杯いかが……おっと」
直後、開け放たれたままだった扉の方から場違いに明るい声が響いたかと思うと、慌てて声を潜めた。「またやってるんですか、あの人たち」「あ、いや、その……」とウォルテールが狼狽えているのも分かる。
緩慢な仕草で頭を上げると、お盆を持ったユインが目が合った途端にわざとらしい笑顔で合図してきた。思わず顔をしかめてしまう。
「まあ、分かりますよ。さっきのファリオンさんはショックですよね」
全然分かっていない様子で堂々と談話室に入ってきたユインが、机の上に盆を下ろした。湯気を立てるカップを目の前に置かれて、エウラリカは目を瞬く。問答無用で向かいに腰かけて、ユインが腕を組んだ。
「交代で見張りを立てた方が良いかもしれないって、さっき食堂の方で話していたところなんですよ」
ね、と話を振られてウォルテールが頷く。
「今はノイルズが見てくれていますが、流石に一人でずっと警備をするのも負担が大きすぎます。夜間は、俺がファリオン殿の部屋の前で待機しようかと」
確かに、警備として立てるならノイルズかウォルテールのどちらかが妥当である。「そうね」と頷いたエウラリカとは対照的に、「いや」と難色を示したのはカナンの方だった。
「昨晩の人影について話しても?」
小声で問われて、少しの間黙り込む。カナンは信用しているし、ウォルテールは自分と同時に到着したのだから、ルイディエトと結託して策略を巡らせる理由もなかろう。唯一気にかかるのはユインだが、水没した橋を見たときの驚きぶりが演技とも思えない……だろうか? 気圧されて頷くと、カナンはウォルテールの方を振り返った。
「実は、昨夜誰かがこの城から出るのを、エウラリカが目撃した」
ユインが息を飲むのを横目に、エウラリカは続きを引き取る。
「顔は見えなかったから誰なのかは分からなかったけれど、背格好からして男だと思うわ。でも、朝になってみたら全員が揃っているの。つまりこの城にいる誰かが夜間に城を出て、水門か何かを操作して戻ってきたんだわ」
「父上の協力者が、この城にいるってことですね? この水没が人為的なものだとしたら犯人は父上の他に考えられませんし、流石に昨日の嵐で父上本人が外を出歩けるとは思えない」
顎に手を添えて、ユインが応じる。察しが良い。
「ウォルテール将軍やファリオンさんは到着したばかりで、父上の指示を受ける時間はないですもんね。協力者の線は薄い……この話、僕に明かしても大丈夫だったんですか?」
本人に言われてしまい、エウラリカはカナンを横目で見た。それを懸念していたから、今まで人前で発言しなかったのである。ところがカナンはどこ吹く風で「大丈夫でしょう」と肩を竦めた。
「顔が見えなかったら、令嬢に間違われるくらいですし」
「閣下!」
ユインがいきなり大きな声を出すので、エウラリカは虚を突かれて目を丸くした。ユインは顔を真っ赤にして「僕の汚点の話は余計です」と言ったきり貝のように口を噤んでしまう。ぜひとも詳細を聞きたいところだったが、ユインがこの話題を全身で拒否しているので控えておく。
窓の外を見やりながら、カナンは腕を組んだ。
「見たところ、僅かにですが水が引いているようです。ひょっとしたら夜間に橋が復旧するかもしれないし、また誰かが出入りする可能性もある。橋を見張るのに適した位置に部屋があるので、今夜は外を見張ろうかと思っていて」
「俺も、そちらの監視に回った方が良いと?」
「東側に部屋があって、信頼できる人間に頼みたいと思っていた」
頼めるか、とカナンに問われて、ウォルテールは「もちろんです」と頷いた。
「しかし、ファリオン殿の監視は……」
眉根を寄せたウォルテールに、ユインが手を挙げる。
「僕が代わりますよ。四階から橋を見張るのも現実的じゃないですし、ファリオンさんが暴れて部屋から出る様子があったら大きな声を出せば良いんでしょう? 流石にそれくらいはできますよ、いくら『女の子みたいな体格』でも、ね」
憎々しげな表情で当て擦ってきたユインを受け流し、カナンは「頼んだ」と首肯する。
「ファリオンのことは分からないとして……この状況を作ったのが前皇帝だとすれば、警戒しすぎるということはないだろう」
カナンが語ると、懐疑的に首を傾げるウォルテールの隣で、ユインは大真面目に頷いた。
「父上の目的が分からない以上、僕はとにかく五体満足で無事にここを出たいですよ」
両手を握って宣言する。「そうだな」とカナンは頷き、腕組みを解いて立ち上がった。
「……先代に協力者がいるとしたら、それは一体誰なんでしょう?」
ウォルテールが難しい顔をして呟く。エウラリカはその様子を眺めながら、目の前に置かれたカップに手を伸ばす。まだ少し熱い。
「ウォルテールは、誰だと思う?」
声をかけると、ウォルテールは恥じるように耳を赤くして俯いた。ちら、とカナンの目が動く。面白がっているような表情である。
「恥ずかしながら、俺は、人を疑うのは得意じゃありません。証拠から犯人を推理するなんて芸当ができるわけもないし、説明してもらわないと分かりません」
「それでも、ただの言いがかり程度でも良いのよ。試しに聞いてみたいわ、お遊びとでも思って」
ウォルテールは、以前とは随分と変わった。何が変化のきっかけなのかは、帝都陥落の際に立ち会っていないエウラリカには断言できない。どのように変わったとも言えないが、前よりも目端が利くようになった気がする。
肉親であるルージェンが内通者として処刑されたことも、無関係ではあるまい。
「ええ、そう言われましても……。強いて言うなら、そうだな……」
顎に手を当てて、だいぶ長いことウォルテールは考えこんでいた。それから、恐る恐る口を開く。
「……やっぱり、陛下と関係が深そうな、マーキス殿とかでしょうか」
「私がどうかいたしましたか?」
「うわ!」
ウォルテールが言った瞬間、まるで示し合わせたかのようにマーキス本人が顔を出した。ウォルテールの口から珍しい悲鳴が飛び出す。とてもではないが部下には聞かせられない声であった。マーキスは人の声がしたから様子を見に来ただけらしく、不思議そうな顔である。
「何でもないわ」と言いながら、エウラリカは白い湯気の立つカップを口元に運んだ。慎重に口を付ける。
「あら、凄くおいしくない。ちょっと煮出しすぎよ」
正直な感想を漏らすと、ユインが鼻に皺を寄せて渋い顔になった。不満げに言い訳を並べているが取り合わず、マーキスの方を振り返る。
「もし良かったら、あとで一杯淹れてもらえる?」
「承知しました」
慇懃に応じつつ、やはりマーキスは自身の名が出ていたことに怪訝そうである。
「まあ、とにかくそういうことで、各自、危険なことはしないようにしましょうね」
ユインが手を打ち合わせて、強引に話を締めくくる。
「今日の夕食は僕が作りますよ。姉上も手伝えますか?」
エウラリカが頷くと、談話室に集っていた面々は三々五々に動き出した。
***
既に日が暮れ、窓の外は暗闇である。自室に戻り、寝支度を済ませても、エウラリカは落ち着かずに度々足を組み替えていた。
数分おきに立ち上がり、扉を開けて様子を見に窺う。吹き抜けの向こうに目を向けると、廊下に椅子を置いて腕を組んだまま座るノイルズと目が合った。目礼され、エウラリカは目顔で応じると再び扉を閉じた。鍵をかける。
食事を差し入れるため、ファリオンの部屋の前に置かれていた棚は撤去されていた。食事に限らず、たびたび何くれと用を足す必要があるのだ。大の大人が二人がかりでも重い棚を、毎回動かすのは少々骨が折れる。そういう訳で、昼間にあれだけの狂乱をみせたファリオンの部屋の扉は、開けようと思えば容易に可能な状態だった。
もしも、ファリオンが部屋を抜け出して、ノイルズの頭を殴りでもして逃走したら……。そうしたことを考え始めればきりがなく、たとえ部屋に入って鍵をかけていようが気が休まらない。
とはいえ、ファリオンは一時に比べれば人が変わったかのように大人しくなっているという。「どうしてあんなことをしたのか、自分でも分からない」と述べている声も扉越しに聞いたが、本気で動転しているように感じられた。
昼間は様々な不測の事態に動揺してしまったが、ファリオンの発言は随分と奇妙である。……どうしてあんなことをしたのか、自分でも分からない?
(トルトセアの匂いがしたのは確かだわ。ファリオンの態度がいきなり豹変したのも、傾国の乙女による妄想や幻覚症状と思えば何も不思議ではない)
窓際に立って暗闇を睨みつけながら、エウラリカは難しい表情で俯いた。
(自分で使用したのなら、そうした症状が出ることを不思議がるはずがないのではないの?)
一旦整理しよう、と彼女は椅子に腰かけて足を組む。
「私たちをここに呼び寄せたのはおとうさまで、湖の水位を上げて出られなくしたのも、恐らくはおとうさま……」
どこかにあるという水門を操作したことは、ルイディエトの口ぶりからしても間違いない。それに、協力者がいるということも。
(ウォルテールの言う通り、誰かがおとうさまに協力するとしたら、マーキスが順当よね)
年のほどはむしろルイディエトより上かもしれないが、健康でかくしゃくとしている。可能性は十分にある。
(マーキスの部屋は……確か、西側の二階だったはず。もしも今夜も部屋を抜け出すとしたら、私の部屋からも監視は可能……)
館内の部屋割りを思い浮かべるが、どの部屋に誰がいるのかがいまいち覚え切れていない。手近な紙に書き出そうと思って部屋の中を探すが、筆記用具は備え付けられていないようだった。
談話室の机に一式が揃っていたはずである。落ち着かない気持ちのままに、エウラリカは立ち上がって部屋を出た。後ろ手に扉を閉めると、ノイルズと再び目が合う。
燭台を片手に廊下を歩きながら、エウラリカは深いため息をついた。ノイルズの他に部屋の外にいる人影はなく、足音は高い天井に小気味よく響く。
一階まで降りると、食堂の隣の扉の隙間から明かりが漏れているのに気づいた。
(リェトナが、物置を自分の部屋にしていると言っていたわね)
どうせ部屋は空いているのだから、客間のひとつでも使えば良いものを。遠慮しているのだろうな、と容易に想像はついた。客人は、揃いも揃って『ほとんどが』王侯貴族である。自分だけ『場違い』な気がして、気が引けても不思議ではない。
ふ、と皮肉げな笑みを口の端に浮かべながら、エウラリカは早足で談話室へと足を踏み入れた。
水に囲まれているからか、随分と冷える。燭台を頭の高さに掲げると、談話室を横切って机へ向かった。一旦燭台を置くと、引き出しの中を覗き込む。
真っ暗な一室で、手元だけがぼんやりと照らし出されている。背を向けている暗闇が空恐ろしく思えて、几帳面に収納された紙とペンを取り上げると肩越しに後ろを振り返った。耳鳴りがするような静寂である。闇に沈んだ調度品の輪郭が、影のように並んでいた。
一階で、水面に近いからだろう。城壁へ打ち寄せる水音が自室より鮮明に聞こえて、エウラリカは燭台を片手に窓辺へと歩み寄った。窓を開けて見渡せば、外は暗闇である。掲げた明かりが水面に反射していた。湖岸から離れた立地ゆえに、枯葉さえ浮かんでいない。
月の明るい夜だった。顎を反らして晴れた夜空を見上げれば、魅入られたように目を見開いてしまう。
そうしているうちに、何だか冷たい予感が背後から忍び寄っているように思えて、エウラリカは無言のうちに慄然とした。
窓を開けて随分長いこと立ち尽くしてしまったらしい。長い息を吐いて窓を閉じると、エウラリカはくるりと踵を返して談話室を出た。
「あれ、姉上! 談話室にいたんですか?」
と、頭上から夜にもかかわらず明るい大声が飛んできて、深閑とした空間に慣れていた心臓がきゅっと縮み上がった。目を丸くして声の方向を見上げれば、吹き抜けに向かって身を乗り出したユインが大きく手を振っている。
「いきなり大きな声を出さないで」と声を殺して叫び返すと、ユインはわざとらしい仕草で舌を出して頭を掻いた。反省した様子のない態度に呆れ果てる。廊下の物音は扉の目の前ででもない限り部屋の中には聞こえないとはいえ、深夜にいきなり声を上げるものではない。
ユインがいる場所は、先程まではノイルズがいたはずの位置である。ファリオンの見張りを交代したらしい。部屋の中からは物音一つしないが、不安に思った感情が伝わったのだろう。ユインはにこりと笑うと、椅子から立ち上がってファリオンの部屋の前まで移動した。
「大丈夫ですよ。ちゃんと大人しくしています」
ドアノブを何度か回しながら、ユインは扉が動かない様子を見せてくれる。それを眺めて、エウラリカは肩の力を抜いた。古くに築かれた城だからか、この離宮にある扉の外側には鍵穴がない。施錠はすなわち在室の証である。
「もう分かったから結構よ」とエウラリカはユインを制して、そのまま一階を横切ると階段を上がった。三階にある自室の前に着くと、部屋に入る前にちらと振り返る。
「今晩は冷えますから、ちゃんとお布団に入って寝てくださいね」
目が合うと、ユインがひらひらと手を振って合図をしてきた。思わず、気恥ずかしさに顔をしかめてしまう。
「私、寝相は結構良い方よ」
「寝起きは悪いって閣下が言ってましたけど」
「余計なこと言い触らして……」
知ったような口を利かないで欲しいが、いかんせん事実である。これ以上の言及は更なる墓穴を掘る予感がして、エウラリカはふいと顔を背けた。
「おやすみなさい。良い夢見てくださいね」
「……おやすみなさい」
こんなことを人に言うのも、随分と不思議な感じがする。




