二日目 4
いくつもの疑問が渦巻いていたが、最も気にかかるのはやはりファリオンのことである。
「誰か、ファリオンが部屋から出てくるところを見ていた人はいないかしら」
ユインが言うには、ファリオンは一度談話室に来てルイディエトの居場所を聞くと、一目散に部屋の前まで来たということらしい。その前の様子は分からない。
「ウォルテールは見ていないと言っていました」とカナンがため息をつく。
ファリオンの部屋を見張ることができる位置は限られている。
吹き抜けを挟んだ反対側なら全室から見えただろうが、カナンとユインは談話室、エウラリカはルイディエトの部屋である。残るはウォルテールのみで、マーキスに呼ばれて走ってきた様子からするに、部屋の中で寛いででもいたのだろう。同じ通路にいるノイルズも同様だ。
談話室の隅に椅子を置いて、エウラリカは窓の外を時折見やりながら眉根を寄せた。
「……通路が、濡れていたの。ファリオンの足は濡れていなかった?」
問われて、カナンが目を瞬く。記憶を反芻するように中空を見上げてから、「そういえば」と顎に手を当てた。
「足元が濡れていたかもしれません。裾だけ色が違うから変だと思ったのを覚えています」
「外に出ようとして諦めたのかしら」
玄関からすぐ外は、未だにひたひたと小波の打ち寄せる水際である。数歩踏み出して戻ってきたなら足だけ濡れるのも想像はできる。
「それにしても、あの様子……常軌を逸している。どうしていきなり」
「そのことで、ひとつ推測があるのだけれど」
最大限に声を潜めて、エウラリカは低く囁いた。ちらと談話室を見回し、他に人がいないことを確認する。
「勘違いかもしれないし、あくまで憶測の域を出ないけれど、……匂いがしたのよ」
「匂い?」
おうむ返しに繰り返したカナンが、身を屈めて耳を傾ける。エウラリカは一度唇を噛んでから、躊躇いがちに口を開いた。
「――傾国の乙女」
は、とカナンが息を飲むのが分かった。「トルトセアの?」と素早く聞き返され、エウラリカは目顔で肯定する。
「ファリオンが、違法薬物の常用者ということですか」
「分からないわ。だから、部屋の中を調べたくて……」
「少なくとも、開いている扉の近くにいるだけでは、特に匂いは感じませんでした。一瞬しか見ていませんが、怪しい物もなかったと思います」
もしもファリオンが『傾国の乙女』を使用したのなら、突如として人が変わったように暴れ出した理由として一致はする。
一時的な高揚感を得られる一方で、幻覚や思考力の低下を招く、常習性の薬だ。
信じ切れないように、カナンが身を乗り出した。肩口に顔を寄せた拍子に、黒髪が一房滑り落ちて、首筋をかすめる。思わず肩を跳ねさせて、エウラリカは体を固くした。眉をひそめながらカナンが元の位置に戻って座り直す。
「流石にもう匂いはしないですね」
「あれだけ密着して、気づくか気づかないかという程度だもの。やっぱり部屋を調べるしかないかしら……」
何か縋るものでも探すみたいに、空の手が宙を泳ぐ。瞬間、指先を何かが掠めて、エウラリカは小さな悲鳴を上げると弾かれたように手を引いた。恐る恐る目を向ければ、何のことはない、肘掛けに手が当たりそうになっただけである。
視線を感じて顔を上げると、カナンは行儀良く膝の上に手を置いたままこちらを見ていた。十指を緩く絡ませて、何も言わずに、微笑みも呆れもせずにエウラリカを注視している。
目が合うと、カナンは一度まばたきをした。
「……俺は、いつまででも待てますから」
唇をほとんど動かさずに放たれた一言を、四度に渡って反芻する。
「俺は待てるから、逃げないでくださいね」
言いながら、伸ばされてきた腕が喉元に向かうのだ。首の、皮膚の柔らかく薄いところに指が添えられる。
ごくりと唾を飲んだのはきっと伝わっただろう。その頃になってようやく、カナンは口元に微笑みを浮かべた。
「ところで、あの男とは何の因縁があるんですか?」
言えないなら、それが答えで結構です、と。
ひたりと据えられた視線はただの一秒さえ離れようとせず、返答を迫っていた。脅すようでありながら、同時に縋るみたいに心細げな眼差しにもみえた。
思わず、噛みつくように答える。
「お前にはっ」
「関係ないですか?」
皆まで言う前に言葉尻を捕らえられ、エウラリカは眉間に皺を寄せた。
「それならさっきは、制止しない方が良かったですか」
小さくかぶりを振ると、カナンが目を細めたのが分かった。エウラリカの首から手を引いて、一度、小さく咳払いをする。唇を引き結んだ仕草からして、緊張しているのはお互い様だ。乾いた指先が離れていったあと、喉元にはどこかひんやりとした空気のみが残った。自然と手を添える。
「言ってくれなければ、分かりません」
潜められた声の裏に、抑圧された苛立ちを感じ取る。余人なら気づくことさえないような、些細な声音の違いでしかない。
「言葉で教えてくれなきゃ……」
つと、魅入られたように目を奪われていた。
こちらを真っ直ぐに正視する眼差しの奥に、くすぶる種火の光彩を垣間見る。加減に気をつけて、慎重に、そっと息を吹いてやれば鮮やかに燃え上がる瞳である。かつて玉座の間で、壇上から初めて見出したときと同じ。
思わず、呼びかけていた。
「カナン」
「はい」
「……お前、大きくなったわね」
微笑むと、カナンが真ん丸に目を見開いた。それから耳を赤くして食ってかかる。
「は……はぁ!? 今はそんな話じゃ」
「幼い頃にね、ファリオンに襲われたことがあるの。といっても、手を掴まれた程度のことだったのだけれど」
遮って穏やかな声で切り出すと、彼はぴたりと口を噤んだ。まるで指示を待つ飼い犬の真似をするように、さも従順ぶった仕草である。
「その頃は私も今よりもっと小さかったし、逃げることもできなくて本当に恐ろしかったわ。でも一番怖かったのは、ファリオンに、ちっとも話が通じなかったことだった」
明るくて、暖かくて、穏やかな午後だった。いつもと何も変わらない平和な日だった。
「私が十歳頃……だいたい十数年前の話よね。何の用事だったのかは覚えていないけれど、おとうさまの部屋に行ったの、今はユインが使っている部屋ね。きっと、どうでも良い話題だったのよ。ただお話がしたいだけで扉を開けたら、おとうさまはいなかった」
部屋の中央に佇むひとには見覚えがないはずなのに、初めて会った気がしなかった。今ならその理由も分かる。ふっと焦点が定まらなくなり、目の前の視界が遠ざかる。背筋を伸ばして遠くを見たまま、エウラリカは息混じりの声で続けた。
「誰なのか聞く前に、いきなり腕を掴まれて、逃げることもできなくなったわ。何を言っても放してもらえなくて、怖くて、」
両手に大きな手が絡みつき、壁に縫い止めるのだ。
『お父さんの言うことが聞けないのかい』と、あたたかい息が頬に吹きかけられる。
あなたなんて父親じゃないわ。そう叫んだ記憶がおぼろげにある。
するとその人は、口の端が避けてしまいそうなほどに笑ったのだ。
『いいや。お前は、確かに俺とフェウラの子だよ』
唇に人差し指が触れる。さながら封蝋を垂らして、印璽を強く押しつけるみたいに、唇の中央がへこむ。
『お前が父と呼んでいる男は、父親でも何でもない。そうと知ればルイはお前をただではおかないだろうな』
そんなことない。そんなこと、あるはずがない。おとうさまはいつだって優しい、エウラリカの肉親である。
『いずれ分かる。お前にはクウェール家の血なんて一滴も流れていやしない。お前が王女だ何だと呼ばれて傅かれているのも、お前が当然のように享受するすべても、本来はお前に与えられるべきものではない』
お前には何もない。
もっともらしく言い聞かせる声が、今に至るまで何度だって木霊して、耳から離れないのだ。
『いつか耐えられなくなる日が来る。そうしたら俺のところに来ればいい』
フェウラのように、完璧なレディに育ててやろう。
黙り込んだエウラリカに、訝しげな視線が向けられる。少し物思いに耽りすぎたようだ。蘇った記憶のすべてを胸の内に封印して、エウラリカは目を伏せた。
「――あのときにも、同じ匂いが、した」
断言した瞬間、カナンが息を飲む。煙のような不思議な匂い。それでいて、どこか清涼感のある、甘みの混じった匂い。
「……結局、そのときはどうなったんですか」
続きを促す言葉にしばらく黙り込んで、エウラリカは深く項垂れた。
「おとうさまが、助けてくれたわ」
自分でも呆れてしまうほど、弱々しくて哀れがましい声が出た。カナンは何も言わないことにしたらしい。こちらに視線を向けたまま、ゆっくりと瞬きをする。
「あのとき本当に、おとうさまは助けてくれた……」
更に下がってゆく顔を両手で覆って、エウラリカは呻くように呟いた。
あのときは、助けてくれたのに。
『うちの娘に何をしている』
あれほど冷え冷えとした声は、あのとき以来一度も聞いたことがない。部屋に入ってきて、エウラリカとファリオンが壁際で身を寄せているのを見たルイディエトは血相を変えた。
ファリオンの肩に手をかけて無理矢理に引き剥がし、床に転がす。圧をかける手が離れ、エウラリカは壁に背を付けたままその場にへたり込んだ。床に尻をつけたまま呆然としていると、ファリオンが慌てたように体を起こし、叫ぶ。
『ルイ、貴様』
『気安く呼ぶでない』
身軽な仕草で衛兵を呼ぶと、ルイディエトは蛇蝎を見るような目でファリオンを見下ろしていた。
『二度と余の前に現れぬようにしておけ』
ファリオンを連行しようとする兵にそう声をかけて、そうして、こちらへ大股で歩いてくるのだ。壁際に座り込んだまま動けない自分に手を差し伸べて、優しく声をかけてくれる。
『エウラリカ』
呼ばれた瞬間に、涙が溢れ出した。胸元に抱き寄せられながら、泣きじゃくって縋り付くのだ。
『あのね、あの人にとっても恐ろしいことを言われたの。わたしが――』
そこで、声が詰まる。大きく目を見開いて、見上げた先で、父はじっとこちらに視線を注いでいた。その目の奥に、得体の知れない空洞を覗いたような気がして、エウラリカはびくりと肩を跳ねさせていた。
気がつけば、『何でもない』と首を振っていた。
『お父さま、助けてくれてありがとう』
胸が冷えるような感覚を押し殺し、エウラリカは父に抱きつく。暗い井戸に身を乗り出して底を覗くよりなお恐ろしい心地がした。
それでも、『もう大丈夫』と強く抱き締められたときの暖かさと心強さが、今に至るまで決して手放せないのだ。
激しく脈打つ心臓の痛みと、足元がすっかり崩れて抜け落ちたような恐怖と、途方に暮れて動けない戸惑いとが一気に去来して全身を縛りつける。風に吹かれればたちまちに自分の輪郭が消えてしまいそうな空虚が、少しずつ胸を内側から蝕み続けていた。
もしも、あの男の言葉が本当で、そのことが人に知られてしまえば、自分はどうなるのだろう?
考えを及ばせることも、受け入れることもできないような絶望である。分別のつかない幼子のように、必死に父の首にかじりつきながら、しかしエウラリカの目は大きく見開かれていた。
『大好きよ、おとうさま』
もしも、わたしとこの人は血が繋がっていないんだとしたら、それでは、この想いは一体何なのだろう? 家族愛と呼ぶことのできない、これは一体……。
決して誰にも語るつもりのない記憶である。エウラリカは沈黙を誤魔化すように咳払いをした。
「少ししてから、ファリオンが逃亡したと聞いたわ。遠い国外に消えたから、もう二度と目の前に現れることはないと言われた。ユレミアに行ったんだって」
指先が氷のように冷え切っていた。そうと気づいたのは、温かい手で手首を緩く握られたからだった。
「ごめんなさい。思い出したくないことを言わせましたね」
俯いたままかぶりを振ると、視線を感じる。顔を覆っていた手を慎重に外されて、頬に手を添えられて顔を上向けられる。
何度か唇を開閉させるカナンの目に、躊躇いの色が浮かんでいた。その表情は緊張に張り詰め、怯えているようにさえ見えた。
「……俺じゃ、駄目ですか?」
目と目を合わせたまま、エウラリカは乾いた笑いを漏らした。
「助けてくれる相手が良いんなら、俺では駄目なんですか」
哀切な声音の裏に隠れた、身悶えするような苛立ちと恐慌が、手に取るように分かる。分かるから、可哀想なのだ。
「だめ」
囁いた声が、その場に木霊していた。カナンの目に諦念が浮かぶ。
「……じゃ、ないのかもしれない」
付言しながら、自嘲の笑みが口元に浮かぶのを堪えられないでいた。こんな言葉遊びで弄して、それで相手を支配した気になっている。心底惨めだった。
本当は、こんな地位や場所にいるべきではない。汚いまがい物が、まるで本物のような顔をして、図に乗って、馬鹿みたい。何も持たない人間が、あるべき形を歪め続けて、傲慢にも今までのうのうと生きてきたのだ。
何の権利もないのに多くの人生をほしいままにしてきた。もしも己の正体が知れてしまえば、一体どれだけ軽蔑されることか、想像することもできない。
全部自分の撒いた種なのに、それでも心のどこかで、我が身を可哀想がっている自分がいるのだ。自分が『こんな』になったのは生まれや環境のせいなのだと、誰かを大声で詰ってしまいたい。
……どうして、私はこんなに愚かなんだろう?
カナンが目を丸くしているのを見上げるうちに、大波が遠くから押し寄せるように、いきなり目頭が熱くなった。大粒の雫が、目の縁からぽろりと頬へ転げ落ちる。
悲しいわけでもないし、わざと涙を利用するような場面でもないはずだ。それなのに止められなくて焦った。
「違っ……」
顔を背け、腕で目元を隠す。腰を浮かせて逃げようとすると、強く腕を引かれてつんのめる。
背中に手を回して抱き竦められた瞬間、「やめて!」と甲高い悲鳴が飛び出した。必死に体をよじって逃げようとするのに、腕は緩まない。
「どうしましたか」
慌てたような声とともに扉が開く音がしたが、後頭部を押さえられて胸から顔が上げられない。ウォルテールの声だった。返事はできず、カナンもそちらを一瞥したのみで何も言わなかった。
少しの沈黙が落ちる。
「……あんまり可愛いことを言うと、期待しますよ」
低く掠れた声は苦笑を含んでいた。浅はかな考えを見透かされた気がして、痺れるように背筋が凍る。体が固くなったのを感じたのか、頭上で忍び笑いを漏らす。
「そんな風にわざとらしい餌を鼻先にぶら下げたり、遠ざけてみたり、迂遠な駆け引きをして俺を繋ぎ止めようとしなくても、俺は逃げないので、」
まるで小さな子どもにするみたいに、頭を撫でられる。声を殺そうとして、喉の奥で唸るような音が漏れた。顔を上げずとも、カナンがどんな顔をしているかは分かる気がした。
エウラリカを腕の中に抱き寄せて、カナンが囁く。
「だから、今のうちに、俺にしときましょうよ。ねえ、エウラリカ様……」
必死に奥歯を食いしばる、隙間から泣き声が零れ落ちた。
「……っ駄目なの!」
気づけば、癇癪を起こした子どものように叫んでいた。
「駄目なの、駄目……」
寄せては返す波のように息が詰まる。嗚咽し、胸を上下させて呼吸を繰り返す。自らの胸元を強く握り締めて、声を限りに絶叫する。
「――おとうさまじゃなきゃ、駄目なの!」
どれだけ残酷なことを言っているのか、自分でも分かっていた。目の前にいる人の心を抉るみたいな発言だと、自覚している。それでも止まらない口が、次々と言葉を投げつける。それらが全て、膜を一枚隔てた向こうの音のように遠く聞こえていた。
一歩退いたところに、様子を傍観している自分がいて、その自分は冷めた眼差しで侮蔑の表情を浮かべている。
「うん」とだけ応じた声は、疑いようもなく優しい響きをしていた。
「そうですよね」
この期に及んで、穏やかな声で肯定までするのだ。
「俺だって、そう言いますから」
端的な言葉の裏にどれだけの執念が宿っているのか、知っているはずなのに。




