二日目 3
凍り付いたように、身じろぎひとつできなかった。その様子を見たファリオンは顔を歪め、大股で部屋に入ってくると、むんずとエウラリカの胸ぐらを掴み上げた。踵が浮くほどに強く引き寄せられ、顔を近づけて怒鳴りつける。
「俺を選ぶと、そう言っただろう! それなのにどうして、フェウラ、お前は俺を捨てるのか……」
胸元に抱き竦められて、置いていかないでくれ、と耳元に熱い息がかかる。爪先から脳天まで怖気が突き抜けるような嫌悪感であった。目を見開いたまま、エウラリカは唇を噛んだ。
「――なあ、どうしてお父さんの言うことを聞いてくれない?」
低い声が囁く。背に回されていた手が肩に触れ、腕を伝って指先が降りてくる。体が動かない。行き場のない無力感が、全身を覆ってのしかかるのだ。
(たすけて、)
ファリオンの肩越しに、寝台の上にいるその人の姿を見た。瞬間、冷たい手が心臓を一撫でしたような恐怖が走る。
彼は心底飽き飽きとしたような、軽蔑するような視線をこちらに注いでいたのだ。
(……どうして?)
水底に突き落とされたみたいに息ができなくなった。眼前にいるファリオンなど、視界から消え失せるほどの衝撃と恐怖が襲う。
「何してんだ、あんた」
すぐ背後で聞こえたのがカナンの声だと分かった瞬間、ようやく体が動いた。
上体を捻り、肘を思い切り鳩尾に叩き込めば、頭上で苦しげな声が漏れる。腕が緩んだ隙に大きく三歩ほど退いて、エウラリカは肩で息をした。
「私は、お前の妹ではないし、お前を血縁とも思わない。私に近づかないで」
思いがけず荒々しい声が出た。カナンが間に割って入ろうとするのを片手で制し、エウラリカは顔を歪めてファリオンを睨みつけた。
「この城を出たらもう二度と、私の前に顔を見せるな」
どんな罪状だってでっち上げてやる。終身刑や処刑の強行も辞さない。それでユレミアとの関係が悪化しようが、国が傾こうが知ったことではない。
(私には、それが可能な権力がある……!)
暴力的な衝動が思考を支配する、その寸前だった。
「姉上、大丈夫ですか」
視界の外からかけられた声は気遣わしげであった。肩越しに振り返れば、ユインが「こちらへ」と手招きしている。
ルイディエトの面影のある少年の立ち姿に、冷たい水を頭から浴びせかけられたような気分だった。本人は誇示せずとも、正真正銘、ここにいるのは『本物』の皇帝なのだ。自分の考えていたことの愚かさが胸に迫って、思わず凍り付く。
「あ……」
呆然と声を漏らし、エウラリカはその場でよろめいた。「危ない」と声を上げて、傾いた背に手が添えられる。そのままユインはほとんど引きずり出すように廊下まで下がった。部屋から出た途端、エウラリカは足から力が抜けてへたり込んでしまう。一緒に屈んだユインが、「一体何がどうなってんだよ」と俗っぽい口調で毒づくのがやけに印象的だった。
「な、何事ですか……?」
掃除用具が入った袋と箒を携えて、階段を上がってきたリェトナが恐る恐る顔を出す。それに答える余裕があるものはいなかった。
破壊された扉の惨状の向こうで、カナンがファリオンの腕を掴んで動きを制しているのが見えた。
「放してくれないか。君には関係のない話だろう」
「関係あるか否かは、俺が決めます」
お前には関係ないから首を突っ込まないで結構、と平静なら言い放てるところだったが、とてもではないが口を挟む気力もなかった。
どたどたと騒がしい足音がすると思って振り返ると、ウォルテールが渡り廊下を走ってくるところだった。彼を呼んできたと思しきマーキスが、その後ろをだいぶ遅れてついてくる。
「何があったんですか!?」
破壊された扉を目の当たりにして、ウォルテールが目を丸くして驚愕する。ユインが素早く立ち上がり、「ファリオンさんが」と部屋の中を指さした。扉の前に転がる燭台と力任せに打ち破られた扉を見比べて、ウォルテールの眉根がぐっと寄せられる。
「下がってください」
唸るように言われて、エウラリカはほとんど膝で這うようにして扉から離れた。入れ違いに、ウォルテールが室内へと足を踏み入れる。
しばらく押し問答の気配が続いたあと、「何をする」とファリオンが声を上げるのが聞こえた。背後で腕を捻り上げられたファリオンが引っ立てられて出てくるまでには、大した時間を要しなかった。どだい体躯と鍛えられ方が違いすぎる。まるで子供を取り押さえるようだった。
「放せ! 貴様、私を誰だと思って……!」
暴れるファリオンを造作もなく押さえ込み、ウォルテールは常にない冷たい視線をしている。
「――ひとまず、本人の部屋に入れておいてくれるかな。扉の前に物でも置いておけば出られまい」
それまで、まるで置物のように言葉を発しなかったルイディエトが、ようやく口を開いた。ウォルテールはそれでようやく、この部屋がルイディエトの私室であることに気づいたらしい。見慣れた驚き顔ののち、すぐに浅く頷いて了承する。
ファリオンの部屋は件の部屋のちょうど真下である。カナンとウォルテールが、ファリオンを連行したまま通路を通って階段を降りてゆく。その後ろ姿を見送ってから、エウラリカは初めて息をついた。手すりに掴まりながら立ち上がると、「びっくりしましたね」とユインが顔を覗き込んでくる。
「……何があったの?」
「それはこっちが聞きたいくらいですよ」
唇を尖らせて、ユインは破られた扉を振り返った。未だに室内に取り残されているはずのルイディエトは、気配さえしない。
「僕と閣下でさっきまで談話室にいたんですけど、いきなりファリオンさんが怒鳴り込んできたんですよね。発端は知りませんけど、何か父上に用があるみたいだったので、父上なら部屋にいると思いますよって答えたんです。そしたらもう、凄い勢いで階段を上がって扉を壊し始めたので、僕たちも止められなくて……」
何というか、こう、様子がおかしかったじゃないですか。人目を憚るように声を潜め、口元を手で隠しながら囁いてきたユインの言葉に、小さく首肯する。
ファリオンの言動は、明らかに常軌を逸していた。元から胡散臭くていけすかないのは確かだが、先程のあれは……。
「何だか、狂気じみてましたよね」
ユインは顔を歪めて呟く。言う通り、本当に恐ろしい有様だった。もしも他に人の目がなかったらどうなっていたかと思うと、身の毛がよだつ。
(どうして、いきなり様子がおかしくなったのだろう)
酒でも飲んで泥酔したなら分かる。けれどファリオンから酒精のにおいなんてしなかった。不本意ながら全身を抱き込まれたのである。相手が泥酔していて気づかないはずがない。
(……におい?)
そこまで考えて、エウラリカは息を飲んだ。手すりに預けていた体を立て直す。
「姉上?」と怪訝そうに瞬きをしたユインに返事もせず、エウラリカは眉根を寄せて虚空を睨みつけた。
どこか煙たいような、不思議な香り。一瞬だけ鼻腔を掠めたのは残り香である。
(この香り、)
私は、これを知っている。そう直感した瞬間、まるで矢が放たれるように、いくつもの記憶を遡っていた。
ようやくその正体を突き止めた瞬間、頭を思い切り殴られたような心地がした。階下で人が暴れる物音を聞いて、弾かれたように走り出す。廊下を駆け抜け、手すりに掌を置いて一段飛ばしに階段を降りる。ひとつ下の階にまろび出ると、最も手前の扉からノイルズが顔を出して様子を窺っているところだった。その鼻先をすり抜け、エウラリカは「待って!」と叫ぶ。
息を切らして目的の場所で足を止めたとき、その扉は既に封鎖されていた。ファリオンを無理やりに部屋へ押し込んで、扉の前を横切るように大きな棚を置いた直後のことだった。全ての部屋に置かれている代物である。使われていない隣室から運び出したらしい。
「どうしたんですか」
内側から激しく叩かれる扉を尻目に、カナンが手を払いながら振り返る。よほど難儀したと見えて、その額には汗が浮かんでいる。手の甲にひっかき傷と思しき傷が一文字に血を滲ませているのを見つけて、彼女は密かに目を見開いた。
少し躊躇ってから、エウラリカはファリオンが監禁されている部屋を指さす。
「……この部屋の中を、検めさせて」
カナンとウォルテールは同時に顔を見合わせた。戸惑っている様子を感じ取り、エウラリカは唇を引き結ぶ。自分でも厄介なことを要求している自覚はあった。暴れる男一人をようやく部屋に閉じ込めた矢先である。
「僭越ながら、ファリオン殿はまだ……その、気が昂ぶっておられる様子です。落ち着くまでしばらくの間、様子を見るのが適切ではないかと存じます」
躊躇いがちにウォルテールが応え、エウラリカは無言で目を伏せた。
「部屋の中になにか、確かめるべきと思うことがあるんですね?」
カナンが、慎重な声で問う。小さく頷くと、彼は「ふむ」と声を漏らして顎に手を当てた。
「物品ですか」
「そうかもしれない」
荒唐無稽な推測を、誰が聞いているかも分からない場で放言するのは憚られた。ただでさえこの城にいる人間は信用できない者が多い。
「とはいえ、何か物を処分しようにも、方法は窓から投げ捨てる程度しかないですよね」
「そうね、窓だけ……」
部屋に扉は一つしかなく、唯一の出入り口は目の前で封鎖されている。壁は容易に壊せるようには思えないし、たとえ試みれば物音で気づくだろう。外部と繋がるのは窓だけである。
「談話室のところから、外を見張っていましょうか。何かが落ちてくれば水音で気がつくはずです」
今いる西棟の一階は談話室である。それは案としてはありかもしれない、とエウラリカは腕を組んだ。もちろん、今すぐに疑念に関して確認したい気持ちはあるが、ようやく封じ込めたファリオンと顔を合わせたくないという意思も強かった。
「そうするわ」
不承不承頷いて、エウラリカはおずおずとカナンの顔を見上げた。
「手、痛い?」
小さな声で問えば、カナンは少しおかしそうに肩を竦めたようだった。「大した傷じゃないですよ」と、へらりと笑う。
「そう。それなら良いけど……」
こっそり嘆息して、エウラリカは視線を足下に落とした。
(……床が濡れている?)
そう気づいて振り返ってみれば、毛足の短い絨毯の上には、湿った靴で歩いたような形跡が一条、真っ直ぐに続いている。
次いで、カナンとウォルテールの両足を確認するが、二人とも足元が水に濡れた様子はない。つまり、
(ファリオンの靴が濡れていたということ?)
推測が頭をよぎるが、それだけでは何の証拠にもならなければ結論も出ない。疲労感もあり、エウラリカは促されるがままに踵を返した。
道すがら、「何があったんだ?」とノイルズがカナンの袖を捕まえて問う。
「ファリオンが、どうも……少々動揺しているらしい」
言いづらそうにカナンが答えた瞬間に、ノイルズの顔色が一変した。その表情に走った警戒はただ事ではなく、もはや恐怖の現れにも思えた。エウラリカはぴくりと眉を上げて、カナンの背に半ば隠れるようにしながらノイルズを注視する。
「大丈夫なのか」とノイルズが声を潜めた。
「ファリオンの部屋を見張っておいてくれるか。決して目を離さないように」
「分かった」
目配せをして頷く両者を見比べて、エウラリカは沈思する。
妙な違和感がずっと付きまとっていた。……カナンはどうして、前皇帝の危篤の報せを受けて、わざわざ友人を連れてきたのだろう? 普段から随行している訳でもない、さして縁のない部隊を用いたのか? だとしたら理由は何だ。何のためにノイルズを……。
窓の外は洗われたような快晴で、吹き抜けの高い位置にある窓からは燦々と陽射しが降り注いでいるのに、胸中はまるで暗雲が垂れ込めたようだった。押し黙って口を開かないエウラリカを振り返って、カナンが気遣わしげな表情になる。
「エウラリカ――」
何か言おうとしたようだが、やめたらしい。無言で階段を降り始めたエウラリカの後ろを、カナンは足音をさせずについてきた。




