二日目 2
ルイディエトの部屋は最上階の角にあった。
扉を叩くと、中から咳き込む声がして、それから返事が返ってきた。扉を開けようとドアノブに手をかけるが、動かない。鍵がかかっているのだ。
「おとうさま、鍵を開けてほしいわ」
声をかけると、軽い足音が近づいてきて、機構が動かされる音がする。扉が動く気配を察知して、エウラリカは一歩下がった。
「お待ちしておりました、エウラリカ様」と恭しく姿を現したのは執事のマーキスである。互いに思いがけない至近距離で対峙し、エウラリカは更に半歩後ろに退いた。相手に非があるわけではないが、驚いた拍子に顎を上げて目を細め、マーキスを睥睨してしまう。
真正面から睨まれたマーキスが、一瞬息を飲むような仕草をしたことを、彼女は見逃さなかった。
(何?)
しかしマーキスの表情から驚きの色はすぐに消え失せ、彼は第一印象通りの慇懃な態度でエウラリカを室内に通した。
「よく来たね、エウラリカ」
穏やかな日差しが差し込む室内で、声をかけられる。最上階は見晴らしが良いのだな、と取り留めのないことを考えながら、足音を立てずに歩み寄る。
「おとうさま」
呼びかけた声は掠れていた。寝台の上で、上体を起こして枕にもたれかかったまま、ルイディエトは目を細めた。
「お飲み物の用意をして参ります」とマーキスは部屋を辞し、背後で扉の閉まると同時に室内には静寂が落ちた。
「おいで」
柔らかい呼びかけに誘われるように、エウラリカは枕元に置かれていた椅子に腰を下ろした。
「最近、目が霞むようになってね。無事な顔を、おとうさまによく見せておくれ」
促されるがままに腰を浮かせて、体を寄せる。頬に乾いた指先が触れて、笑ってしまうほど似ていない顔を覗き込んだ。面影など、片鱗さえも見つけられない。
おとうさま。幼い頃から唇に乗せ続けてきた言葉が、舌に苦く感じられるようになったのはいつからか。
「まさか病死を偽って亡命するだなんて、すっかりしてやられたよ。僕のお姫様は一体どんな魔法を使ったんだい」
「仮死薬を使ったの。トルトセアから作られるもので……おとうさまは、ご存じない?」
「仮死薬。ああ……なるほど。いや、知らないね」
表情の読めない顔のまま頷き、ルイディエトはじっとこちらを見つめているようだった。
「秘密で帝都から姿を消すなんて、悪い子だね」
『エウラリカによろしく』。帝都陥落の際、彼はカナンに対してそう告げたのだという。エウラリカが何らかの手段で帝都を出たことを把握しておきながら、いざ対面してみればこのように白々しい問いかけである。
(恐ろしい人……)
頬に触れていた手が滑らされ、親指が目元を撫でるのを感じて、背筋がびくんと跳ねる。奥の奥までを見透かそうとする眼差しが、突き刺さるようだった。
「……惜しいなぁ」
それが心底の呟きだと、エウラリカは知っている。
母の瞳は金色だったという。光を受けると高貴に輝く、琥珀のような眼をしていたのだという。幾度となく母に似ていると言われ続けてきた顔かたちの中で、唯一、明確に異なる点である。
さりとて、その色彩を己が拠り所とすることもできぬ。だってこの瞳の色は、私の本当の父親の――。
目の前にいる『おとうさま』が、自分の碧色の瞳を瑕疵と思っていることは、随分前から察していた。
(先生の目は綺麗だったわ)
蜂蜜みたいに透明感があって、きらきらとしていて、輝いていた。いくら才女と言えども、権力者の口添えがなければ、あれほど若い女性が王女の教育係につけられるだろうか?
頬に当てられた手に、そっと己の手のひらを重ねる。頬ずりをするように顔を寄せて、甘えるように呟く。
「わたしは、エウラリカよ」
「知っている。見間違えたりなんてするものか」
するりと手を抜かれて、エウラリカは引き留めることなく椅子へと腰を戻した。
「帝国を離れていた間、どこでどんな風に過ごしていたんだい?」
「おとうさまに披露するほど面白い話なんてないわ」
脳裏によぎるのは、ラヴァラスタ宮殿の泉の底から現れた巨大なレリーフの姿である。帝国の紋章を象った宮殿の鳥瞰図。ルオニア・ドルテール。
いくつもの記憶が、次々と蘇っては明滅して沈んでゆく。エウラリカは微笑みを一瞬たりとも崩さなかった。
――エウラリカは歴史が好きである。きっかけは覚えていないが、連綿と続く人の営みの最前線に己がいて、己を追い越して進んでゆく文明というものを知るにつけ、自らの存在を強く感じるのだ。
初めて見つけた『手がかり』は、オルディウス・アルヴェールの訳した叙事詩であった。古帝国語。現代の帝国にて使われる言語とは異なる、しかし確かな繋がりを感じさせることばに魅せられた。
ものごとがどのようにして繋がるのか。人の意志が、言葉が、血脈がいかにして後世へ残されてゆくのか。
ものごとには必ず前後があるのだ。原因がある。理由がある。目的がある。そうして為されたものごとの後には、それに相応しい評価が、影響が、末路が、終焉がある。
新ドルト帝国には、それがない。
どのようにして、誰の手によって、どうして生まれたのか。それを記した書物も、口伝する者もない。調べるほどに違和感の増す事象は、歴史家たちの間でも様々な憶測の飛び交う不可解な問題のようだった。
しかし、過去に興味を示す普通の少女とエウラリカには、ひとつ大きく異なる点があった。エウラリカ・クウェールには、余人には立ち入ることのできない場所へ入る権利が公に認められていた。
確かあれは、十二の誕生日を迎えた頃だったように思う。
王族にのみ入ることの許された秘密の書庫に、全ての答えがあった。とはいえ、その書庫の文書を検めることができたのはほんの数度で、あるとき突然起こった『不慮の火災』によって、書庫を含む城の一角は既に焼失した。
誰が、皇帝が自らの城に火を放つなどと想像できるだろう。誰が、そんなことを――。
『頼むから、僕にこんなことをさせないでおくれ、エウラリカ』
焼け落ちる書庫を前に呆然と立ち尽くす。煙のにおい。視界を塞ぐように、片手で目を覆われる。――まさかこんな身近なところに見落としがあるとは、盲点だったよ。耳元で囁かれた言葉の意味が、しばらく分からなかった。
『お前は良い子だから、どうするべきか、分かってくれるね』
無知で、蒙昧で、純粋で、無垢な子どもでなければならない。
ルオニアが幼い頃に済んでいた離宮は、アドゥヴァによって燃やされたのだという。ナフタハル家虐殺を支持したのは、帝国の民であるエーレフだった。エーレフの背後にいたのはクウェール家で、根絶やしにされた血脈は、旧帝国に連なるものだった。
旧帝国の存在を葬るために大量虐殺を命じた前皇帝そのひとが、いま、穏やかな顔をして目の前にいる。
ルオニアのことを知ったら、この人はまた人を殺すのだろう。うんざりとした顔をしながら、こんなことはしたくないと言いながら、それでも迷いなく、脈々と継がれてきた使命を果たすために動くのだろう。
だから仕方ないのだ。おとうさまが、人殺しに手を染めたくてやっている訳じゃない。これは彼の咎ではない。そう信じてきた。そうであって欲しい。
エウラリカは微笑んだまま、抑揚のない声で告げた。
「おとうさまに聞かせられるような話なんて、ひとつもない」
もしも、この人がルオニアを殺そうとしたら、私はどちらを選ぶのだろう? 思い浮かべたくもない二択であった。
もしも自分が正統なるクウェール家の後継者だったら、迷うことなんてなかったのだろうか? 己が血脈の使命に従うだけで、何も思い悩むことなどなかったのだろうか。
(だって、私に、ルオニアを殺さなきゃいけない動機なんて、ひと欠片もない)
私には何もない。血統を理由に着せられなければならない使命などない。この国に対する責任なんてない。
その出自が葬られ、実体を偽られ、行く先にろくな未来もない。今まさに傾きつつある帝国も、私も。
私たちは生まれるべきではなかった。
私たちは何かを残すべきではない。語り継がれるべきではない。
ルイディエトは億劫な動作で身じろぎをした。
「お前を呼んだのは、ひとつ、昔話をしようと思ったからなんだ」
「昔話?」
ふと脳裏をよぎったのは、かつて読み聞かせてもらった絵本のことである。しかし、どうやら話題は異なるようだった。
「今まで、お前の母さんについて、きちんと話したことはなかったね」
「っ、聞きたくないわ」
咄嗟に反駁するが、ルイディエトは目を細めただけで口を噤むことはなかった。
「フェウラが生きていたら、さぞかしお前を愛しただろう」
言いながら、ゆっくりと頭を撫でられる。ほんの小さな子どもにするみたいな仕草なのに、胸の奥から暖かいものが込み上げるのだ。
「フェウラが生きていれば……」
愛おしげにこちらを見つめる視線の、あまりの虚ろさに身震いする。
「フェウラがその生涯を通して、最も愛したものは何だったと思う?」
知るわけがない。しかしそう切り捨ててしまえば、目の前のこの人は失望したような顔をするのだろう。
「それは、形があるもの?」
慎重に問えば、ルイディエトが喉の奥で忍び笑った。
「形はあると言っていいだろう。質問は……そうだね、今のを含めて、五つまでにしようか」
試すような眼差しに、負けじと唇を引き結ぶ。
「それは、お金や宝石とか……そうした、金銭的価値のあるもの?」
「いや。値が付けられるようなものではないね」
「……人なのね?」
「その通りだ」
太陽は既に天高くまで昇り詰めていた。細く開かれた窓からは風がゆったりと出入りしており、瑞々しい森のにおいがしている。
白い敷布がぴんと張られた寝台に、明るい日差しと格子状の影が落ちていた。膝の上に重ねた手の甲に、あたたかな陽光が音もなく降り注ぐ。凜と背筋を伸ばしたまま、彼女はいつになく静謐な心持ちで、かつて無邪気に父と慕っていた男の顔を見据えていた。
『母上は初めから、俺のことなど一度だって愛したことはなかった』
泥の中で溺れるように、身動きの取れない絶望にがんじがらめになった声が思い出される。
(……お兄様、)
俺を見ろ。俺を顧みろ。こちらを振り返ってくれ。その全身から放たれる言外の切望は、ほとんど悲鳴のように感じられた。
既に兄の心は壊れていたのだと思う。幾多の国を落として武勲を上げても、どれだけの民の賞賛を一身に集めても、まるで底の抜けた器を運ぶようにすべてが流れ出るのだ。永遠に満たされることのない望みである。
民のため、帝国のためと謳って、旗頭を掲げ、数多の命を、歴史を刈り取って進み続ける。どこまで拡大すれども飽くことはない。
荷物を入れすぎた袋が弱いところから裂けるように、引き絞った弦が断ち切られて弾けるように、破滅はすぐ目の前まで迫っていた。それでも気づかない。気づけない。自分が足を置いている帝国が、今まさに土台から傾きつつあることを、あの頃の兄に認めることができようか?
全てを秘匿したまま突き進み続けるには、帝国は大きくなりすぎた。
「……その人のことを、おとうさまは愛している?」
「ああ」
皆、自分が愛されたいだけなのだ。いかに大きなうねりであっても、いかに崇高な大義を掲げたとしても、ひとつひとつを解きほぐして繋がりを正せば、根底にあるのは人間の人間じみた情動である。
「そのひとは、おとうさまを愛してくれた?」
囁くと、ルイディエトは初めて見るくらいに笑み崩れた。
フェウラはお前を寵愛しただろう。そう嘯く声に滲む羨望が、痛いほどに分かる。自分ではどうしても駄目なのだと悟った瞬間の虚しさが。
「いいや。ちっとも」
明瞭な声で断言する姿が、鮮烈に目に焼き付くのだ。微笑みを湛えて、この世の真理を説くみたいに迷いのない言葉が、木霊して離れない。
結局、フェウランツィアは誰のことさえも愛さなかったのだろう。どれだけ愛情を注いでも決して返ってくることのない献身である。疲れ果てたようなルイディエトの姿が痛々しく見えて、エウラリカは目を伏せた。
「私は、お母様を知らない」
呟く自分の声が、うんと遠くから聞こえる。
「私を産んだ半月後に、お母様は何者かに殺害されたのでしょう? だから私には分からない。お母様がどんな女だったのか、私には知る術がない。……おとうさまがどんなに言葉を重ねたって、私はお母様と同じ生き物にはなれない」
こんなにそばにいる人に、手を伸ばしても届かない。エウラリカは項垂れるみたいにして自身の手を見下ろしていた。
「私には、おとうさまただ一人しかいない」
薄紅色の丸い爪が並んでいる。もうずっと前に汚れてしまった手である。
「私のことを受け入れてくれるのは、おとうさましかいない……」
『ねえ、エウラリカ様。どんなものも遅いということは決してないわ。本当のことを明かしましょう。偽称は誰も幸せにしない。真実なら、誰にも恥じることなんてない』
先生が優しい声で語る。『たとえエウラリカ様が王家の血を引いていないとしたって、何も変わらないわ。大した問題じゃないの』
ユレミア語の辞書をそっと傍らに置いて、そっと手を握られる。まるで絡みつくように柔らかい手の感触に、吐き気が込み上げる。
『心配しないで。先生が、あなたのお母さんになってあげますからね』
思い切り人を突き飛ばした瞬間の、凍り付いたような数秒のことを思い出す。大きく目を見開いて後ろ向きに倒れた先生の後ろ頭が、鈍い音を立てて机の角へと打ち付けられる。――あのときから、何かが決定的に狂い始めたのだ。
果物ナイフを一突き。崖際から轟音を立てる川へと、未だ熱の残る身体を突き落とす。水音。
(エーレフ、)
短剣を振り抜いた瞬間の、皮膚と肉を切り裂く感触が掌に蘇る。お兄様、と口の中で呻く。
足裏に伝わる、痛いほどの冷たさ。そうでもしないと、自分が生きてここに立っているという実感が湧かない。
それでもいい。それでいい。
「…………愛してるわ、お義父様」
けれど、返事はただの一言さえも跳ね返ってこないのだ。
――待ってください! 落ち着いて、どうしたんですか!
そのとき、動転したような声と慌ただしい足音が近づいてくるのを聞き留めて、エウラリカは目を丸くして振り返った。
「なに――」
誰何の声を上げようとした矢先、強く扉を叩かれて息を飲む。何度も殴りつけられて、扉が蝶番のところから危うく軋んだ。
「開けろ! 出てこい、貴様……何のつもりだ!」
ファリオンの声であった。日常でおよそ聞くことのないような、荒々しい怒声である。部屋に入ったとき、自分は鍵をかけたはずだ。僅かに安堵した瞬間、扉が再び大きく揺れた。
思わず立ち上がって壁際まで下がる。無意識のうちに腰元を手が探るが、指先は空を掻くばかりである。
「やめてください! 父上の部屋ですよ!?」
怯えたようなユインの悲鳴が、扉の向こうから甲高く響く。続けざまに、「ウォルテールを呼んでこい!」とカナンが怒鳴った。
断続的に衝撃が加えられた扉の中央に、亀裂が入った。目を見張ると、隙間から片目が覗く。鏡で見るものと全く同じ、陰鬱な色彩の……!
ファリオンが、部屋に入ろうとして何か重いもので扉を殴りつけているのだ。そうと悟るのに時間はかからなかった。ささくれ立った木っ端が室内にまで飛んでくる。木目に沿って扉がたわんだ。
見え隠れする男の姿が、何かを持ち上げるような仕草をする。通路の端に、背の高い燭台が置かれていたことを思い出した。亀裂はさらに大きくなり、今度こそはっきりと目が合う。
「ああ、フェウラ。もう少しだからな」
とろけるような笑みであった。背筋に悪寒が走る。戦慄するエウラリカをよそに、ファリオンは燭台を両手で振りかぶり、上体を捻った。
「おとうさま!」
逃げなきゃ、と言おうとして、言葉が詰まる。部屋を見渡しても、ここに逃げ場所なんてない。窓の外は凹凸のない壁が続くばかりである。
派手な音を立てて、扉が今度こそ中央から大破した。度重なる攻撃に耐えかねて、弾けた破片が飛んでくる。庇うようにルイディエトの前に手を出すと、「どうしてだ」とファリオンが吠えた。蝶番から外れた扉を脇に押しのけ、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「そいつからは離れて、こっちへ来い、フェウラ」
芯まで冷え切った、低く恐ろしい声音だった。横目でルイディエトを振り返れば、彼は正体の読めない微笑みで目を細めている。




