二日目 1
湖城の住人たちが集合するまでの間、エウラリカは安楽椅子に腰かけて沈思していた。
(誰かが、この事態を意図して引き起こしたのだろうか?)
水位の上昇。湖への流入か流出のどちらかを弄れば、不可能ではないのかもしれない。現にナフト=アハールでは貯水池にあれだけ大がかりな仕掛けがあったのだ。この湖は確かに広いが、地図に大きく名前が載るほどの巨大さでもない。
そもそもこの城の構造が妙だ。玄関は城の横腹にあり、それより下の階には窓がなく、地下室と同等である。築城当初から下部が水に沈むことが想定されていたとしか考えられない。
それでいて、湖岸から城へ続く橋は玄関より下がっているときた。湖岸側も、崖を降りた先の窪みに橋が接続されている。したがって、湖岸に溢れ出すほどに水位が上がらずとも、橋は水の下になる。
(水嵩が増せば城の下部は沈み、橋も同時に水没する)
離宮に逗留するような地位にある人間のことだ。橋が沈んだからといって、すぐさま服を脱ぎ捨てて湖を泳いで出るという考えには至らないだろう。橋の途絶は、直感的には出入り口の消失を確信させた。
(城は閉ざされ、孤絶する。はなからそのつもりで作られた城なら、水位を思うままに操る術が併設されていたって不思議じゃないわ)
時間をかけて、全員が談話室に勢揃いした。その顔ぶれを眺めて、エウラリカは思わず渋い表情になる。
(誰も減っていない)
それなら自分は、何者かが入ってきて、ちょうど出て行くところを目撃したのだろうか? しかし、この離宮までの道のりは険しく、夜中に人が到達することは考えづらい。昼間から周辺に忍んでいた可能性も否定できないが、まず考えるべきではないだろう。
つまり、だ。エウラリカは鋭い眼光で八人を見回した。
(この中の誰かが、夜中に外へ出て、何か細工でもして、城と橋を水没させた)
最も近い位置に立っていた右方から順に、視線を動かす。
カナン、ノイルズ、ユイン、ウォルテール。
ルイディエト、マーキス、リェトナ、……ファリオン。
現在のエウラリカに分かることはただ一つ。
自分のあずかり知らぬ何かが、まさに今、この場所で、標的も分からぬまま進行しようとしている。
「い……一体、あれはどういうことなんです? 先程玄関まで行って見てきましたが……湖の水位が上がって、城が半ばまで沈んでいるのですか」
動揺を隠しきれない口調で、ウォルテールが口火を切る。肯定の返事とともに、カナンが腕を組む。
「この玄関のある階を便宜上一階と呼ぶとすると、地下階は二階分。外の水位よりは低いものの、地下一階が膝ほどの高さまで浸水している。最下層である地下二階は完全に水に浸っているとみて良さそうだ」
気の利くことである。後で様子を見ておこうと思いながら、エウラリカは再び面々を眺め回した。ウォルテールやユイン、リェトナのように動揺を色濃く見せている者もいる。予期せぬ事態に驚く様子を見せつつも冷静さを失わないのは、カナンやノイルズ、マーキスらである。
「も、もしもこれ以上水が上がってきたら、地下一階だけでなく、ここの階まで浸かってしまうんでしょうか……!?」
震え声で切り出したのはリェトナだった。「わたしの部屋は一階にあるんです」と不安げに肩を竦める様子を見て、エウラリカは首を傾げた。
「あなた、この城へは近くの村から通いで来ているって行ってなかった? 部屋があるの?」
「あ、あたし、じゃなくて、わたしは……その、昨夜は雨が降っていましたから、帰れなくて。ほら、危ないので。だから、玄関の脇にある物置部屋を、帰れない日に泊まるお部屋として頂いてるんです。そ、それだけです」
叱られるとでも思っているのか、リェトナはやけに恐縮して答えた。食いつくように質問してしまったせいで怯えさせてしまったかもしれない。顔が怖かったかしら、と頬に手を添えながら、エウラリカは「なるほど」と呟いた。
口ぶりからして、随分と頻繁に――障害がなければそれこそ毎日、近隣の村と行き来しているとみて良いだろう。つまり、道はあるのだ。
(昨日見た人影が外部の人間である可能性も、完全には否定できないわね)
黙り込むと、またリェトナがご機嫌を伺うようにちらちらと見てくる。エウラリカは咄嗟ににこりと微笑んだ。
「いつもは、毎日行き来しているの? どれくらいかかるのかしら」
「は、はい。時間ですと、大体、二刻半も歩けば村に着きます」
その言葉に、エウラリカは思わず目を丸くした。それでは、毎日大変な時間をかけて往復しているのか。言わずとも意外そうな反応が伝わったのだろう、リェトナは目を伏せて小さな声で付言した。
「ちっちゃな頃から、母さんの、容態がよくなくって。数年前に兄さんが帰ってきてくれたけど、母さんの看病はあたしがしなきゃだし、だってほら弟もまだ小さいし……。兄さんの仕事を手伝えれば良いんだけど、あたし料理できないし、力仕事も手伝えないし、」
「そう……」
大変ね、と言いそうになったのを飲み込む。言っても嫌味に聞こえるだけだろう。リェトナの耳は真っ赤で、恥じるように顔を伏せていた。今にもここから消えてしまいたいと、限界まで縮めた全身から悲鳴が聞こえるようだ。
何も恥じることはないじゃない。あなたは立派よ――そんな言葉をかけてしまえば、それこそ何様だという高言である。
「大丈夫、恐らく水門の不具合だろう。湖に多く水が入りすぎたようだね。これ以上は上がらないはずだ」
気がかりな沈黙の中で口火を切ったのはルイディエトだった。今日は昨日より幾分か具合が良さそうで、のんびりと目を細めて一同を眺めている。警戒や猜疑心を露わに立ったままの面々の中で、唯一安楽椅子に腰を落ち着けて微笑んでいた。
「数日もすれば水も引くよ。山の上の方でも、もう雨は降っていないみたいだから」
「僭越な質問ではありますが、その間、ここの生活に支障はないのでしょうか?」
控えめながらも不安げなノイルズの言葉に頷いて、ルイディエトは鷹揚に目元を緩めて応じた。
「こんなこともあろうかと、食料は多く備蓄してあるんだ。それに、晩餐会の用意を命じてあるから、早くて二日……長くとも四日は待てば、人が来るはずだ。もしも水が引かなかったら、近くの村か町から舟を運んできてもらおう」
それくらいなら何とかなる、と安堵の空気が漂った室内で、ただ一人剣呑な顔になったのはファリオンだった。
「……こんなこともあろうかと?」
低い声で、唸るように吐き捨てる。その視線はルイディエトを厳しく睨みつけていた。
「全部、お前の差し金だろう。……そうだ、お前は水門を動かせるはずだ! それこそあのときのように――」
「――ファル?」
ルイディエトが首を傾げて発したのは、ごくごく穏やかな声であった。それなのに、びくりと肩を震わせて口を噤んだのはファリオンの方だった。
「言わずとも良いことを放言して、皆を不安にさせるのは良くないよ」
まるで年下の子どもを窘めるような口調で、ルイディエトがくすりと笑う。ファリオンはしばらく剣呑な表情で相手を睨みつけていたが、反駁はしなかった。
(……『あのときのように』?)
ちらりと疑念が鎌首をもたげる。
ルイディエトはこの湖城の周辺について訳知り顔である。数年前からここに住んでいるのだから当たり前だ。……本当に?
(ファリオンはこの離宮に来たことが、ある?)
いくつもの疑問が次々と連なるが、結論は出なかった。エウラリカは眉根を寄せて黙り込んだまま、胸元の毛先を指で弄ぶ。
手紙によって呼び出された面々。夜中に見た人影。水門によって操作されうる湖面と、足下が浸水して孤立した離宮。
(おとうさまが、何かを企んでいるというわけね)
顎を引いたまま、エウラリカは机の向こうで微笑んでいるルイディエトをこっそりと観察した。あの人が今更どんなことを仕組もうとしたって、驚くまい。
***
「それにしても、まさかこんなことになるとは」
呆れたような口調で呟いたカナンに頷いて、エウラリカは窓枠に腕を乗せた。窓の外には静かに広がる湖面が見えている。カナンの部屋はエウラリカの真下である。景色はさして変わらないが、三階に比べれば水は近い。
「この水に関しては、おとうさまの仕業ね?」
ファリオンの推察を肯定する意見を述べると、カナンは曖昧な返事をした。
「そもそも私たちを呼んだのはおとうさまだし、ここの城に関して一番詳しいのもおとうさまだわ。……何が目的なのか分からないことだけが、少し怖いけれど」
現状がルイディエトによる策だと分かれば、多少は不安も減った。本当の事故で孤立無援という訳ではないし、ルイディエトには自分を害する理由もない……はずだ。
「それにしても、その人影というのが気にかかりますね。先代は、危篤ではないとは言え随分と体が弱っているようです。心臓だったか肺だったかにも病があると医師が言っていましたし、時おり発作で体が利かなくなることもあるとか。城内を歩きこそすれ、悪天候の中、夜間に外に出て、どこかにある水門を操作しに行くというのは考えにくいのではないでしょうか」
詳しい病状は知らなかったが、ルイディエトの容態は十分に悪いらしい。今回は大げさだったにしても、危篤というのはあながち冗談ではないようだ。
確かに、そんな状態でルイディエトが自ら外出するとは思えない。
「誰か、おとうさまの協力者がいるのね?」
「少なくとも、ファリオン氏ではなさそうでしたが」
「ああ、まあ……そうね」
そもそも、ファリオンとウォルテールはずっと行動を共にしていたのである。昨日に到着したばかりで、そんな画策に加わるのは難しくはないか?
湖岸へ続く橋は水の下に隠れ、現在は黒くてぼんやりとした影にしか見えない。窓から見える景色を斜めに通るような形である。この部屋からなら、起きてさえいれば昨夜の人影ももっとはっきり見えただろうに……。
「そういえば、この部屋割りというのは一体誰が?」
「さあ……? マーキスでしょうか。元々俺たちが来たときにそれぞれ好きに部屋を取った訳ですし、空いていた部屋の中から適当に割り振ったんじゃないですかね」
「ふーん……」
頷いて、エウラリカは頬杖をついた。窓に体が近づくと、ひんやりとした冷気が頬に感じられる。
「あなたは、どうしてこの部屋を選んだの」
低い声で問う。カナンは虚を突かれたように目を瞬いてから、「それは」と頭を掻いた。エウラリカがいる窓の方を指さして答える。
「今は見えなくなってますが、橋が一番よく見える位置でしょう。人の出入りを監視するにはもってこいですし、それに」
と、そこまで言って、カナンは耳を赤くして、ばつが悪そうに目を伏せた。
「あなたが来たときに、真っ先に出迎えたかったですから」
思わず、「あら」と声が漏れていた。言われてみれば、誰よりも早く玄関に姿を現したのはカナンである。いま自分が腰かけている椅子も、わざわざ動かしたものではなく、エウラリカが来たときからここにあった。
カナンがここに座って、窓の外を窺っている様子が瞼の裏に浮かぶ。何故か、胸の奥が熱くなるような、妙な気恥ずかしさが押し寄せた。自然と頬に血が上りそうになるのを誤魔化して、「そういえば」とエウラリカは話題を逸らす。
「おとうさまのお部屋はどこに?」
「四階の西側の角部屋ですね。あそこが一番景色が良いんだとか」
湖に面した最上階の角部屋らしい。それは確かに見晴らしが良いことだろう。四階西側、と胸の内で唱えて、エウラリカはそのまま他の部屋割りに話題を移す。
「四階の東側がユインの部屋です。三つある部屋のうちどこだったかは定かではないですが……。それから、三階の西側で最も玄関から遠い部屋がファリオン殿で、玄関に近い側がノイルズ」
ノイルズ、と言葉に出したカナンの表情に特別な変化はなく、そのことに密かに安堵する。どうしてカナンがかつての友人を連れてここに来たのかは分からないが……。
「あと、三階の西側が私と……隣に誰かいなかったかしら? 気配がしたように思うのだけど」
「ウォルテールですね。夜中に高いびきをかいていなかったですか?」
「大丈夫だったわ。もしも騒音が聞こえてきたら壁を叩いてやるわよ」
本人がいないのを良いことに軽口を叩いて、エウラリカは小さく吹き出した。
「それで、二階は西側にマーキス。東側はこの部屋だけですね」
なるほど、と口の中で呟く。全ての廊下につき最低一部屋は使用されているらしい。
それにしても、随分と冷え込むのは季節のせいだろうか? ふるりと体を震わせると、寝台の端に腰かけていたカナンが苦笑するのが分かった。
「窓のそばは冷えるでしょう」と声をかけられて、エウラリカは素直に立ち上がった。椅子を動かすために身を屈めようとすると、手元に影が落ちる。
腰を浮かせたカナンが、腕を掴んでいた。驚いて振り返れば、予想外に近い距離で視線が重なる。
「エウラリカ」
小さな声で囁く表情がやけに切実で、エウラリカは咄嗟に振りほどくこともできずに立ち尽くした。緩く腕を取られて、引き寄せられる。促されるがままに膝の上に座り込んでしまうと、無言で両腕が腰に回る。
「ちょっと、いきなり何を……」
膝の上で拳を強く握りしめ、エウラリカは体を硬くした。肩口に額を寄せて、カナンは目を伏せたまましばらく何も言わなかった。まるで縋り付くように不安げな表情である。思わず、抵抗する腕から力が抜ける。
「すみません、随分と寒かったものですから」
言いながら、脇腹に触れた手のひらに力がこもるのだ。特に意図はない動作に思えた。それだけに、目的が分からずに不安になる。
悶々としながらカナンを見下ろしていると、顔を上げた彼が眉根を寄せた。
「顔色が悪いですね」
「気のせいよ」
「あまり寝れていないんじゃないですか? 昨晩も、夜中に目が覚めたんでしょう」
全くの図星である。東ユレミアを出発してから、この湖城に着くまでの間、エウラリカの眠りはずっと浅かった。原因は薄々分かっている。
「まだ昼食までには時間がありますし、少し休んだ方が良い」
この体勢と、休んだ方が良いという提案には一体何の関係があるというのだ。じとりと睨むと、カナンは悪びれた様子もなく見つめ返してきた。エウラリカは眉を跳ね上げ、殊更に丁寧な口調で告げる。
「……今すぐ、放して下さる?」
「嫌ですね」
全くもって話にならない。カナンの膝の上に横座りになったまま、エウラリカは腕を振りほどこうと身じろぎした。放す気はないらしい。呆れ果てて深々と嘆息してから、彼女は体の力を抜く。諦めを示して肩に頭を預けると、ちらと視線を上げて顔色を窺った。
「何かあったの?」
せっかく優しい声で訊いてやったのに、「何もないですよ」とにべもない返事が返ってくる。その言葉が嘘であることはお互いに承知しているはずだ。
「いつ頃、こっちに到着したの?」
「そうですね、大体――」
そのとき、軽快なノックが五、六回ほど響いて、それに応答するより早く扉が勢いよく開け放たれた。
「姉上ー! ちょっと良いで、す……か……」
わあ、と声を漏らして、戸口のところに立ち尽くしているのはユインであった。しばらく引きつった笑みを浮かべていたユインが、気を取り直したようににこりと愛想の良い表情になる。
「なるほど、久しぶりに会えたから嬉しくなっちゃったんですね。もし良ければこんな寒々しい北の離宮じゃなくて、僕がいた南の離宮をおすすめしますよ。それで、二人揃ってとっとと退陣してほしいなぁ」
隙あらば中枢から放逐したがる義弟の言葉は無視して、エウラリカは素早く立ち上がってカナンから離れた。
ユインは腕を組み、芝居がかった仕草で首を傾げる。
「……姉上ったら、いやに落ち着いてますね?」
「別に、何も人に後ろめたいことはしていないもの」
毅然として言い放つと、ユインはこれ見よがしに肩を竦めるような仕草でカナンに目配せをした。
「ちなみに、話の内容も僕に言えるようなものですか?」
「いつ頃、ここに到着していたのかって訊いていただけよ」
言うと、カナンは手持ち無沙汰に枕元の机に触れながら「俺たちは一緒に来ましたから」と応じた。ユインもその言葉に首肯している。
確かに、二人とも帝都から来たのだから、同行してきたのは当たり前である。
「言われてみればそうよね。じゃあ五日前くらいに来たのね?」
ユインがそのようなことを言っていたはずである。合点がいって頷くと、カナンが一瞬だけ目を見張った気がした。
(……五日前?)
ん、と眉根を寄せて、エウラリカは静止した。
(いま、なにか引っかかったような……)
違和感の正体を突き止めようと唇を引き結ぶ。黙り込むと、カナンの視線が注がれる。
「それで、何の用なの?」と話を戻すと、ユインはようやく少しは神妙な顔になった。
「……父上が、お話をしたいと仰っています」
「すぐに行くわ」
首肯してから、エウラリカは一瞬だけ鏡を覗いて髪を整えた。いつも通りの顔がこちらを見つめている。
部屋を出る直前、エウラリカはふと眉を寄せた。
「そういえば、どうしてここに私がいると分かったの」
姉上、と騒々しく叫びながら部屋に入ってきた姿を思い出す。ここはカナンの部屋である。自分がこの部屋にいると確信していたことは間違いない。
(ユインの部屋はここと同じく東側。ここの扉は死角のはず……)
ユインは至極あっさりとした口調で答えた。
「ノイルズさんが見たって言ってました」
妙な勘ぐりをした自分が恥ずかしくなるほど単純な話である。耳朶を赤くしながら、ルイディエトの部屋があると聞いた方向に目を向ける。
「私が来るまでに……おとうさまは、私について何か言っていた?」
柄にもなくそんなことを聞いてしまったのは、腹の底でうずくまる怯えのせいだろうか。
ユインは一度だけ瞬きをして、淡い微笑みを浮かべた。
「いいえ、何も仰っていませんでしたよ」
(城内の見取り図は今後の話に添付します)




