一日目 1
急峻な山脈が幾重にも連なる山岳地帯に、その湖はひっそりと水を湛えていた。深い谷底に、まるで鏡面のように水が張っている。天気のよい日ならば青空を反射し、さぞ心癒やされる景色だろう。
しかし今、眼前に広がるのは、そうした穏やかな風情とは無縁の世界であった。暗い曇天が映り込んだ湖面の上に、白々とした霧が音もなく立ちこめ、微風を受けてゆっくりと渦を巻いている。
馬車を降りて湖の畔に降り立ると、エウラリカはゆっくりと周囲を見回した。どうにも陰鬱で打ち捨てられた場所であるという印象を受けた。息苦しいのは標高のせいか、それとも酷い湿気のせいか。
湿った空気は、じっとしているだけでも服が重くなるほどだ。足下の芝生は手入れが行き届いており、歩きやすいように短く刈り込まれている。そのせいで草の青臭さが空気へ濃密に溶け込み、彼女は今にもむせ込みそうであった。
湿り気を帯びて重くなった髪をかき上げ、エウラリカは始めて目の前にする湖上を振り仰いだ。
「ここが、北の離宮……」
その立地ゆえに、辿り着くには地図上の距離よりも時間がかかる。途中までは街道の整備されている帝都からの出発ではなく、東ユレミアという辺境から直行してきたのである。到着までは優に一月弱を要した。その間に季節は一段と冬へ近づき、気温も随分と下がった。もっとも、この場所の薄ら寒さは季節のせいだけではなさそうだが……。
城は湖岸から幾分か離れた地点に、浮島のように佇立している。現在はその足下まで水が来ており、波打ち際で不規則な飛沫が上がる。
湖岸から城にかけては長い石造りの橋がかけられているが、形が奇妙である。湖岸側をやや下った斜面の下から、古城の横腹に向けて繋がっているのだ。離宮の築かれた土台は、湖岸よりも優に一、二階分は低い位置にあるらしい。橋より低い位置に窓や扉は見つけられない。
(水位が上がることがあるのね。だから城の下方は水が入り込まないような構造になっているというわけ……)
目を眇めて湖城の足下を見やれば、橋が築かれた高さまで泥がついている。内心で納得して、エウラリカが小さく頷いた。
急坂を下りて橋を目の当たりにしたエウラリカは思わず眉根を寄せる。石は風化して苔むしており、随分と古びて見えた。今にもどこかの石がひとつ崩れて、橋ごと落ちるのではないかと気が気でない。水はとっぷりと暗く冷たく、落水はぜひとも避けたいところである。
「いやあ、かび臭くて気持ち悪くて、全くもって陰気な場所だ。二度と来たくないと思うだろ」
背後から気楽な口調で話しかけられるが、エウラリカはそれを黙殺した。頬に落ちてきた一房を耳にかけ、大股で古城へと歩を進める。
「つれないなぁ。フェウラはもっと可愛げがあったぞ」
ぴくりと眉を上げて僅かに振り返ると、吐き気がするほど面立ちの似た男がにやにやとしながら立っていた。こちらが苛立つのを誘っているのだ。明白な魂胆に、エウラリカは聞こえよがしに舌打ちをした。
こんなのと一月近くも行程を共にして、彼女の不快感は頂点に達しようとしていた。
野外はこの肌寒さだが、城内に入れば温かい飲み物くらいは出るだろう。苔むした橋に足を踏み入れると、足裏がぬるついて滑った。勝手に城に向かおうとするエウラリカに気づいて、まだ馬車のところにいたウォルテールが咎めるような声を出したが、それも無視する。
先代皇帝が危篤、と報せを受けてから時間が経っているが、以来、死去したという報は来ていない。最悪の事態には至っていないはずだ。胸の内で繰り返し唱えてきた言葉を、城門を前にして再度反芻する。
離宮は人里離れた僻地にあり、馬車を止めておく場所や、多くの人員を滞在させられるほどの余裕はないのだという。だから離宮に到着すれば馬車や護衛は近隣の村や街に待機させておく必要がある。聞いたときは冗談かと思ったが、なるほど本当に寂れた城であった。城という名から想像する華やかさはなく、むしろ要塞や牢獄じみた無骨さを放っている。
ちらと背後を振り返れば、馬車がゆっくりと森の中へと消えてゆくところであった。最低限の荷物を持ったウォルテールが橋を渡ってくる。近くの村へは歩いて向かうこともできる距離らしいが、閉ざされた空間であることに間違いはない。
(何だか嫌な感じ……)
手足が冷たくなるのを感じながら、ノッカーを手に取り、扉へ打ち付けようとした。
「エウラリカ!」
が、目の前の扉が勢いよく押し開けられ、エウラリカは慌てて一歩下がる。重い扉を開けて現れた顔に、彼女は数秒の間、完全に固まってしまった。
「カナン!? どうしてここに……」
「手紙が来たんですよ、俺のところにも」
東ユレミアまで手紙が来るのだから、帝都にも届いていないはずがない。考えてみれば当たり前である。エウラリカは密かに自らの動揺を恥じた。
「とりあえず、入ってください」
「ええ」
両開きの扉の片方を大きく開いて、カナンが一歩横にずれる。その体に肩が触れないように慎重に距離を取って、エウラリカは城内へと足を踏み入れた。
天井の高い吹き抜けの左右に扉が並んでいる。外から見た印象の通り、複数の棟や離れのない城である。城と呼ばれてはいるが、それほどの大きさでもない。随分と古びた建物は、水に囲まれた立地のせいか、いやに寒々しくてひんやりとしていた。
数秒の間、高さのある広間をきょろきょろと見回してから、エウラリカは隣のカナンに顔を寄せた。
「そ……それで、おとうさまは?」
声を潜めて囁くと、カナンの目に不思議な光が宿る。が、一瞬後には含みのある表情は消え失せ、彼は呆れたような苦笑で肩を竦めていた。
「無事ですよ。確かに病がちで絶好調という訳ではないですが、危篤ってのは正直言って誇張ですね」
「そうなの? それなら良かったけれど」
思わず胸を撫で下ろして、エウラリカは息を吐いた。安堵のせいか、どっと体が重くなる。
「ここは随分寒いですから、……疲れたでしょう」
言いながら、背に手を添えられた直後のことだった。背後で、先程閉じたばかりの扉が勢いよく開かれる。
「いやぁ、いくら退位して隠居の身とは言え、皇帝であった人間が住むようなところとは思えないなぁ」
「ファリオン殿、あまりそのような発言は……」
咄嗟に、カナンが振り返るのを阻むように手を伸ばしかけていた。駄目、と言おうとして、指先が触れるよりも前に、体が固くなる。全身に鳥肌が立つような、悪寒の走る拒否感、恐怖が襲う。はっと息を飲んで、手を引いた。宙ぶらりんになった片手が、やけに冷たい。
幸いにも、カナンはそうした数秒の葛藤に気づかなかったようだった。彼は体を反転させたまま、黙って唇を閉じていた。その表情を窺おうと顔を上げた直後、強引に肩を抱かれてつんのめる。そうされるとエウラリカはカナンの顎の先と口元しか見えず、その顔色は読めない。
「閣下!? どうしてここに」
エウラリカと全く同じ反応を示したウォルテールの隣で、ファリオンが目を丸くしているのが見えた。カナンの反応は依然として分からない。ほとんど縋るような心持ちで、エウラリカは体を固くして立ち竦んでいた。
その唇が、動く。
「……そちらの方は?」
しん、と辺りが静まりかえるような、抑揚のない声であった。しかし、元々カナンは感情的な話し方をする質ではない。ただ、知らない客人の正体を訊いただけだ。……何も身構える必要はない。
胸に手を当てて必死に言い聞かせるエウラリカをよそに、ファリオンは「初めまして」と口火を切ってしまう。
「そこにいるエウラリカの母親については、ご存知ですか?」
「ええ、話だけは。有名ですから」
カナンの声はわざとらしいほどに慇懃で、そこに含みがあるのかすらも分からない。何も分からない。なにも……。
「それなら話は早いです。私は、フェウランツィアの兄の、ファリオンと申します」
握手を求めて歩み出してきたファリオンに、カナンがにこりと微笑むのが見えた。
「なるほど、エウラリカの伯父上でしたか」
言いながら、彼はこちらを振り返る。エウラリカは息を詰めたまま、胸の前で両手を握り締めて視線を受け止めた。何を言われても否定してやる、と両目を見つめ返すが、カナンは特に感想を言うでもなく視線を戻した。
「初めまして、現皇帝陛下の側近として仕えさせて頂いている、ゼス=カナン・ジェスタと申します」
「ゼス閣下、でよろしいのかな?」
「ああ、そちらはオマケのようなもので……カナンで結構です」
握手を交わしながら、両者の視線が交わる。互いに薄気味悪い笑みを浮かべているのが、空恐ろしいような気がした。
***
「この離宮の管理を任されている、マーキスと申します」
恭しく頭を下げた執事に軽い会釈を返し、エウラリカは冷え切った指先を温めるように目の前のカップへ手を伸ばした。口元に近づけ、ふ、と息を吹くと、湯気が頬に当たる。熱くてまだ飲めなそうだ。唇をつけずにいると、マーキスがその様子を怪訝そうに眺めている。
「猫舌ですもんね、無理しない方が」とカナンが口を挟む。素直に頷いて、エウラリカはカップを机に戻した。後にしておいた方が良さそうだ。せっかく淹れてくれたのは有り難いが、熱すぎるのはあまり好みでない。
この寒さである。暖炉には火が入れられ、室内は外の冷気が嘘のように暖まっていた。
実際には二、三階程度の高さがあるが、湖城の玄関が設けられているこの階を、便宜上『一階』と呼んでいるらしい。吹き抜けのある広間から西側に入った部屋は談話室、あるいは居間、応接間として使われる大部屋であった。中央に置かれた机を囲んで席に着いている面々を見回す。
カナン、ウォルテール、ファリオン。そして今名乗ったばかりのマーキス。
「そこの二人は?」
部屋の隅に控えていた男女に声をかけると、先に口を開いたのは女の方であった。緊張の隠しきれない表情で、ぎこちなくぺこりとお辞儀をする。
「リェトナです。よろしくお願いします」
「リェトナはこの近くにある村から通いで来ている下働きです」
あまりにも素っ気ない挨拶に、マーキスが口を挟んだ。
「至らない点もあるかとは存じますが、働き者で気立ての良い娘ですので、どうぞ寛大なお心でお願いいたします」
十五、六だろうか。垢抜けない、田舎娘らしい素朴さのある少女だった。つい先程までどこかを拭いていたような黒ずんだ布巾に目を留めると、彼女はぱっと目元を赤くして手を背中に回した。
次いで、リェトナの横に立っていた青年がエウラリカに向き直る。
「ノイルズ・アロカテールと申します。閣下の護衛として同伴して参りました」
「ノイルズ?」
咄嗟にその名前を繰り返すと、エウラリカは目を丸くしてまじまじとその顔を注視した。不躾な観察に耐えかねたのか、ノイルズが居心地悪そうに「面識がありましたでしょうか」と問う。
「いえ、面識はないわ。ただ、その……」
カナンの友達だって、聞いたことがあったから。言おうとした言葉が、喉元で凍り付く。
『帝国人のあいつらと、俺が、こんな関係になって円満だと思いますか』
冷ややかな声が脳裏に蘇り、膝に置いたままの指先がぴくりと跳ねる。あのときの、剥き出しの刃のような恨み言を思い出す。
『何を悲しむことがありますか。全部あんたの筋書き通りにやったんですよ』
かつてのカナンの言葉が、芋づるを引くように次々と思い出される。ざぁっと血の気が引くのが分かった。
もしかして、彼がここにいるのには、何かのっぴきならない事情でもあるのだろうか? カナンとの確執が関係しているの? 離宮に来るだけなら、他にも護衛に選べる人員なんていくらでもいそうなものなのに……。
それらの思案を一息に飲み下して、エウラリカは顎をもたげる。
「名前を聞いたことがあったから、思い出しただけよ。カナンが世話になったわね」
淀みなく告げ、微笑みかけると、ノイルズは目礼で応じた。特に感情の見られない、落ち着いた態度である。ノイルズに関しては、少し調べたことがあった。優秀な出世頭と評されるのも納得だ。
「それで? 私は危篤の報せを受けてここに来たのだけれど、随分と悠長ではないかしら」
一拍おいてから、つんとした口調で言い放つ。ウォルテールがはっとしたように頷くが、カナンとマーキスはやや苦笑交じりに顔を見合わせたようだった。
「申し訳ありません、ただ今――」
「いや、その必要はない」
部屋を出ようとマーキスが動いた直後、開いたままだった戸口の方向から声がした。「おとうさま」とか細い悲鳴が喉から飛び出していた。
随分と痩せた。一目見た印象は、体の弱った病人そのものである。だぶついた袖を揺らしながら、ルイディエトは片手を挙げて合図をする。その拍子に、体がふらりと横に傾いだ。「あっ」と声を上げて、エウラリカは腰を浮かせる。
が、その必要はなかった。
「ああっ、父上! まだ本調子じゃないんだから、勝手に出歩いては駄目だって先程も申し上げたじゃないですかぁ!」
少年の快活な声とともに、ルイディエトの背が支えられる。聞き覚えのある声に、エウラリカは目を瞬く。ルイディエトの背後から現れたのは、予想通りユインだった。
「姉上!」
目が合うと、ユインは眉を上げて笑顔を浮かべた。
「到着していたんですね! 事故などなくて良かったですよ、ここまでの道も結構な悪路ですし、」
父を支えながら部屋に入ってくると、ユインが小首を傾げて人差し指を立てる。
「ほら、馬車なんかが、崖や橋から落ちたら大変でしょう?」
カナンに手紙が行くのだから、同じく帝都にいたユインもいるのは当然である。カナンの顔を見たときから予想はついていたものの、実際に顔を合わせるとげんなりする気持ちは隠しきれなかった。
「お尻は痛くないですか? 帝都からここまで十日くらいかかったんですけど、その間大急ぎで馬車を飛ばしてきたので、到着した頃にはもう腰回りが痛いのなんのって」
嫌な顔をしたのを見つけて、更に明るい声で距離を詰めてくる。確かに疲労は溜まっているが、わざわざ宣言するほどでもない。面倒なので片手で追い払うと、ユインは不満げに唇を尖らせながら空席についた。
「随分と大騒ぎになってしまったようで、悪かったね」
億劫そうな足取りながら、口元に苦笑を浮かべて、ルイディエトは緩慢な仕草で椅子に腰を下ろした。
「おとうさま、容態は大丈夫なの?」
慎重に問うと、ルイディエトはこちらを見てにこりと微笑んだ。覚悟していたよりは元気そうな様子に、エウラリカは安堵のため息を漏らす。
「少し体調を崩してしまって、そのときにマーキスが慌てて手紙を出してしまったんだ。すぐに持ち直したものの、出してしまったものは仕方ないから、折角だから久しぶりに顔を合わせるのも悪くないと思って」
朗らかな調子で語るルイディエトを、エウラリカは無言のままじっと見つめていた。
(危篤が云々というのはただの方便で、何か目的があって呼び寄せたのだろうか)
確かに体調は優れないようだが、死にかけたばかりにしては活力があるように思える。となれば、別の理由や目的があると考えるのが妥当だ。
たとえば――と、エウラリカはそっと視線だけを動かして、はす向かいの席にいるファリオンを見やった。
東ユレミアにて手紙を受け取り、帝国側の宿泊棟はその内容に騒然とした。大騒ぎになったのだからどこから漏れても不思議ではないが、とにかくファリオンはどこからかその話を聞きつけ、自分も同行すると強固に言い張った。
自分はルイディエトの乳兄弟であり、幼馴染みで、義兄である。その話を聞かなかったことにはできない。自分には同行する権利がある。そう言って憚らないファリオンに押し切られ、結局この離宮まで道のりを共にしたのだ。
(もし、おとうさまが、この男がユレミアの使節団の一員であると把握していたら?)
手紙が自分に宛てられていたのは、単にそれが自然だったからであり、目的はファリオンをここに呼び寄せることだったとすればどうだ。
まさか、と一つの可能性が脳裏をよぎると共に、身じろぎさえできないような恐怖が襲う。
(そんなはずない)
誰にも知られたくない秘密を、いくつも抱えて生きてきた。その中でも最も触れられたくない『それ』は、誰よりもルイディエトに知られてはならない一件であった。自然と足が震え始める。
「……大丈夫ですか」
気遣わしげな声とともに顔を覗き込まれて、エウラリカは辛うじて頷いた。こちらをじっと見据える瞳の鋭さに、思わず息を飲む。
咄嗟に顔を背けていた。それでも外れない視線を感じて、「こっち見ないで」と言い放つ。
「そんな言い方しなくたって良いじゃないですか」
カナンが目に見えて不満げな表情になるのを目の端で捉えつつ、エウラリカは頑として顔を向けようとはしなかった。何をそんなに警戒しているのだろうと自らに呆れてしまう。しかし同時に、いやに勘の鋭いカナンに対する警鐘が絶え間なく鳴らされてもいた。
そうした様子を、ルイディエトが微笑みながら眺めている。視線に気づいた瞬間、形容しがたい恥じらいが頬や耳に押し寄せて、エウラリカは目を見開いた。違う、と何を否定したいのか分からない言い訳が口をついて出そうになる。
何故かは全く分からないが口の中が乾いてしまったし、この沈黙も耐えがたい。誤魔化すように先程置いておいた紅茶のカップを探すが、見当たらない。人が増えたどさくさでどこかにやられてしまったらしい。逃げ場を失い、思わず目が泳いだ。手持ち無沙汰に身じろぎしていると、ルイディエトがまた小さく笑う。
経験したことのないいたたまれなさだった。
「エウラリカたちがいつ到着するのか分からなかったから、準備ができなかったんだ。これから手配をするから、ささやかながら会食でも催そう。……マーキス、いつ頃に準備ができそうかな」
「申し訳ありません、流石に今宵という訳には……料理人の手配や街との往復を考えると、早くても明後日でしょうか」
「そう。分かった」
一同を見回して、ルイディエトは実に楽しそうな顔で人差し指を立てた。
「予め言っておくと、実はこの離宮には料理人がいなくてね。自分の食事は自分で準備する決まりなんだ」
おお……とウォルテールが呆然と呟く。エウラリカも自然と顔が引きつってしまう。ちらとカナンを見やると、「俺も炊事の類はてんで駄目で」と耳打ちされる。
滞在期間は少なくとも三日。炊事は自分で行う。いるのは揃いも揃って曲者ばかり。
……なるほど、退屈しない滞在になりそうだ。
空き部屋をそれぞれに割り当てるために、新しく到着したエウラリカ、ファリオン、ウォルテールの三人は腰を浮かせた。マーキスが先導し、部屋を出ようとする。
「ああ、そういえば」
背後からかけられた声に、エウラリカは肩越しに振り返った。ルイディエトが朗らかに笑っている。
「久しぶりだね、ファル。元気そうで何よりだ」
「……。」
束の間、ぴりっとした緊張感がその場に走った気がした。親しげに声をかけられたファリオンが、即座に答えることなく目を眇めたからだった。
遠くで、雷が落ちた音がした。視線を動かして窓を見やれば、いつしか空は厚い雲に覆われている。遠雷は山々に木霊し、不気味な響きをして通り過ぎた。
「……ああ。久しぶりだな、ルイ」
ファリオンが、硬い声で応じる。一同の視線が集中しているのが分かった。
「また会えて嬉しいよ。ずっと、消息が気になっていたものだから」
ルイディエトの口調は何気なく、ふと気を抜いてしまえば意識が離れてしまうような、奇妙な遠隔の響きをしていた。だから、その言葉を聞き留めようとするとき、エウラリカはいつもじっと耳をそばだてねばならなかった。
「もう君は帝国には戻ってこないものだとばかり思っていた。何しろ、あのような事件を――」
「ルイ。申し訳ないが、少し疲れているんだ。部屋で休ませて頂いても良いかな」
「ああ、それは気がつかなくて悪かったね。まだ時間はあるから、ゆっくり休んで欲しい」
先を歩いていたエウラリカを追い越して、ファリオンは大股で廊下へと歩みだした。マーキスに声をかけ、部屋へ案内するように声をかけている。その後ろ姿を追って階段を上りながら、彼女は口を利くことなく考えこんでいた。
(……『あのような事件』?)
ファリオンが姿を消したのは、てっきり『かつての一件』があったからだと思っていた。しかし、あれは事件と呼ぶようなものではない。
手のひらに、いやにしっとりとして、生暖かく、絡みつくような感触が蘇る。呼吸が浅くなっていることに気づき、エウラリカは口を閉じて息を吸った。
「エウラリカ様は、こちらの部屋をお使いくださいませ」
「分かったわ。ありがとう」
マーキスに一室の前まで案内され、エウラリカは軽く頷いた。部屋に入る前に、ちらと周囲を見渡す。
中央に大きな吹き抜けのある一棟である。吹き抜けは四階分に渡っており、空間もそれなりに広い。その吹き抜けに面した左右に直線の廊下があり、壁側には扉が並んでいる。扉は各廊下に三つずつ等間隔に並んでおり、そのうちの一つが今案内された居室である。恐らくは、他の扉も各々の居室へ繋がっているのだろう。
一階の西側は言うまでもなく、先程まで一同が揃っていた談話室である。窓からは、一面に広がる湖面と山々の眺望が見渡せた。少し覗いた様子だと、反対の東側には厨房や食堂、物置が並んでいるようだった。
二階以上はいずれも居室らしい扉が並んでいる。先に到着していた面々の部屋がどのように割り振られているかは不明だが、すぐに分かるだろう。
エウラリカにあてがわれた部屋は三階東側の中央である。その隣がウォルテール。既に部屋に入って姿は見えない。
東側の部屋からは湖岸に繋がる橋を見下ろすことができ、ここに来る際に通ってきた深い森の姿も見える。
玄関側の廊下の端には、各階を上下に繋ぐ階段がある。東西の廊下を繋ぐ渡り廊下は吹き抜けの中央を横切るように作られているが、二階と四階のみである。三階では対岸の廊下へ直接移動できないらしい。
「こちらの部屋をお使いください。ああ、荷物なら隣の部屋が空いていますが……外から鍵がかけられませんので、貴重品を保管するには不向きかもしれません」
吹き抜け側に体を向けて佇んでいると、話し声が聞こえる。ん、と顔を向けると、ファリオンとマーキスが向かいの廊下を歩いていた。ファリオンの部屋は反対にある西側の三階、はす向かいにあたる角部屋のようだ。隣の部屋なんかじゃなくて安心した。
「分かった……ところで君、どこかで会ったことがあっただろうか?」
「私めが、でございますか? はて……」
(…………。)
そこで一旦観察を終え、エウラリカはくるりと体を反転させると部屋へと足を踏み入れた。扉を閉めないまま中まで入って、様子を窺う。机と椅子のセット、箪笥や寝台、その他大体のものが揃っている。
怪しい様子がないことを確認してから、エウラリカは廊下へ続く扉を閉めに戻った。鍵がかけられることに気づいて、内側から錠をかける。取っ手を掴み、動かないことを確認した。力を入れれば多少は軋むが、壊れそうな様子はない。
しんと静まりかえった部屋の中に一人立ち尽くして、エウラリカは深いため息をついた。
「何も起こらなければ良いけれど……」
呟いてから、それがまるで不幸の前触れのようだと気づいて、彼女はかぶりを振った。
遠雷は聞こえなくなっていたが、山々の頭上には黒々とした雨雲の影が急速に広がりつつある。
ご無沙汰しております。大変お待たせしました。
全21話予定です。よろしくお願いします。




